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十年前の教訓

あの朝から数日、同じ帳簿と向き合う夜が続いている。


ペン先が、紙の上でぴたりと止まった。残る二人の名義人の欄は、まだ空白のままだ。書き込むべき名を持たないもどかしさに、羽根の軸を指先で弄ぶ。


乾いた軸の軋みが、静かな書斎に小さく響いた。その音に、ふと遠い記憶が疼く。父の書斎で、同じような軋みを聞いたことがあった気がする。


まだ手も足も小さかった頃、こうして誰かの背中を、扉の隙間からじっと見つめていた記憶が。あの時も、埋まらない名義人の欄があった。


――あれは、八歳の冬のことだった。


「お父様」


幼いマルグリットは、書斎の扉の隙間からそっと中を覗いた。灯りは一つだけ。父は帳簿の山に埋もれるようにして、同じ紙を何度も読み返していた。


窓の外では、初雪が音もなく降り積もっていた。屋敷の中は、いつもより静かだった。


「入ってはいけないよ、マルグリット」


いつもより低い声だった。優しさの下に、隠しきれない疲れがにじんでいる。


「お母様が心配しています。夕餉にも、いらっしゃらないから」


「もう少しだけだ」


そう言った父の手元で、羽根ペンの先がかすかに震えていた。声にも、同じ震えがあった。


「今日で、もう三日も同じことを仰っていますわ」


「そうだったか」


「お顔の色も、よくありません」


父の目の下には、隠しきれない隈が滲んでいた。


「お前が気にすることではないよ」


「お母様も、同じことを仰っていました」


「――そうか」


父は小さくため息をつき、それから娘の頭をそっと撫でた。父は顔を上げ、初めて娘の方をきちんと見た。困ったような、それでいてどこか嬉しそうな笑みだった。


「本当に、少しだけですの?」


「――ああ」


嘘だ、とその時のマルグリットにはまだわからなかった。ただ、いつもと違う父の声の輪郭だけを、耳の奥に刻んだ。


あの震えを言葉にできるようになるまで、それから十二年近くかかることになる。


* * *


三日後、来客があった。


隣の子爵領を治めるボードワン子爵。愛想のいい笑顔で応接間に通されたその人は、分厚い契約書の束を父の前に置いた。


「先代からの取り決めですよ、公爵。灌漑用水の使用料を、この機に見直させていただきたい」


「見直すというのは、値上げのことかな」


「人聞きの悪い。時勢に見合った、適正な調整です」


「その適正さは、誰が決めたのだろう」


子爵の笑みは崩れない。だが父の問いは、柔らかな声のまま、逃げ場を一つずつ塞いでいく。


「無論、双方が納得の上でのことです」


「まだ、私は何も聞いていないが」


「これから、ゆっくりとご説明差し上げますとも」


マルグリットは扉の陰から、その様子をじっと見ていた。ボードワン子爵の声は終始滑らかで、笑みを絶やさない。だが都合の悪い数字に触れるたび、言葉の合間にほんの一拍、声の芯が細くなる。


「先代の署名がある以上、拒む理由はございませんでしょう?」


差し出された契約書を、父は黙って受け取った。ページをめくる音だけが、しばらく応接間に続いた。


「この条項は、覚えがないのだが」


「お忘れかもしれませんが、確かに先代様の御手によるものです」


子爵の声が、また細くなった。


「記憶違いということも、あるでしょう」


「ございませんね。私の記憶に、間違いはございません」


言い切る声だけは、やけに力強かった。他の箇所より、少しだけ速い。


「では、この場でお認めいただけますか」


「もちろんです。……ただ、正式な捺印にはいましばらく、お時間を頂戴したく」


その一言に、また声の芯が細くなった。


「時間が必要な理由を、聞いてもよいだろうか」


「先代様のご遺族への確認が、まだ済んでおりませんもので」


「確認すべき先代は、もう亡いはずだが」


「――ご遺族への、確認でございます」


同じ言葉を繰り返すとき、子爵の声はいつもより一段低くなった。マルグリットにはまだ、その意味まではわからなかった。だが何かを取り繕っていることだけは、はっきりと感じ取れた。


父の表情は変わらなかった。だが、マルグリットにはわかった。あの声の震えが嘘の合図だと、まだ子供の耳が正しく聞き分けていたのだ。


* * *


「――お父様、あの方の声が変でした」


子爵が帰った後、マルグリットは思わず口にした。父は驚いた顔でこちらを見た。


「変、とは」


「大事なところで、いつも少しだけ震えていました。他のところは、平気なのに」


父はしばらく黙り、それから静かに笑った。


「よく聞いている。……お前は、思ったより耳がいいのかもしれないな」


「お父様は、気づいていらっしゃいましたの?」


「気づいてはいたが、証拠がなければ何も言えない」


父はそう言って、マルグリットの頭を軽く撫でた。


「証拠、というのはどこにあるのですか」


「――紙の中だ。あの男が誤魔化した数字の中に、必ず残っている」


「見つけられなかったら、どうなるのですか」


「そのときは、言われるがまま値上げを飲むしかない。うちの領民たちが、その分だけ苦しむことになる」


父の声は静かだったが、その静けさの奥に、初めて聞く緊張があった。マルグリットは、その夜初めて、父が何かと戦っているのだと理解した。


その夜、父は蔵から古い台帳を引っ張り出し、ボードワン家との取引記録を一枚ずつ照らし合わせ始めた。マルグリットも隣に座り、意味もわからないまま数字の並びを眺めていた。


燭台の灯りが、紙をめくる父の指先を淡く照らしていた。夜が更けるほどに、父の手が止まる回数が増えていく。


「見つけた」


ぽつりと、そう呟いた。


「先代の署名がある契約書は、確かに存在する。だが、この使用料の条項だけは――筆跡も、インクの色も違う」


マルグリットは覗き込んだ。父の指先が示す箇所を、何度も見比べた。字の傾き、インクの濃さ。素人目にはほとんど区別がつかない。


「本当に、違うのですか」


「見た目だけでは、ほとんど誰にもわからないだろう。私も、三日かけてようやく気づいた」


「後から書き足したのですか」


「ああ。誰にも気づかれないよう、静かに丁寧にな」


父の声には、怒りより先に、乾いた諦めに似た響きがあった。


「では、あの方は嘘をついたのですね」


「嘘、というより――賭けをしたのだろう。誰も気づかないだろう、という賭けだ」


「その賭けに、お父様が勝ったのですね」


「ああ。今回だけは」


その一言の重さを、幼い彼女はまだ量りかねていた。


「次があるのですか」


「いつでも、誰かがまた同じ賭けをするだろう」


父は静かに笑い、それから娘の顔を見た。


「数字は嘘をつかない。だが、数字を読む者がいなければ、嘘はいくらでも紛れ込む」


その言葉が、幼いマルグリットの中に、静かに根を下ろした。


* * *


二年が経った。十歳になったマルグリットは、家庭教師も付けずに、屋敷の書庫で古い帳簿を独学で読み解いていた。


「お嬢様、また帳簿でございますか」


乳母がそっと顔を覗かせる。


「ええ。数字は、嘘をつきませんもの」


「殿方向けの学問ですのに」


「わたくしが読めれば、それで十分でしょう」


「刺繍やお茶会の作法は、いつになったら覚えていただけるのやら」


「そちらは、いつでも覚えられますわ」


乳母は呆れたように笑い、それ以上は何も言わずに部屋を出ていった。


一人になった書庫で、マルグリットは古い取引記録の写しを膝に広げた。誰に頼まれたわけでもない。ただ、数字の並びを目で追っているときだけ、あの夜の父の背中が少しだけ近くなる気がした。


ページをめくるたび、蝋燭の炎が小さく揺れる。その音のない揺らぎさえも、彼女はいつしか耳で聞き分けるようになっていた。


ボードワン子爵の一件は、父が水面下で証拠を揃え、静かに取り決めを撤回させて終わった。素人目には見分けのつかない偽造を、法廷で立証しきるのは難しい。証拠を突きつけて退かせる方が確実で、隣領との水利の縁も断たずに済む――父が選んだのは、そういう道だった。


表沙汰にはならず、社交界の誰もその顛末を知らない。父の名誉も家の財産も、静かなまま守られた。


だが幼いマルグリットだけは、あの夜の父の背中を覚えていた。灯りの下で紙をめくり続けた指先と、震える声の中に嘘を聞き分けたあの一晩を。


数字と契約こそが、弱い者を守る武器になる。


誰に教わったわけでもない確信が、その日から彼女の芯に据わった。


* * *


ペン先の震えが止まる。


窓の外で、夜番の足音が遠く過ぎていく。残る二人の名義人の欄は、まだ空白のままだ。


だが、いつか必ず埋まる。あの夜の父がそうしたように。


あれから父と、あの夜のことを話したことは一度もない。だが彼が遺した教えだけは、娘の中で今も色褪せずに生き続けている。


「――さて」


マルグリットは呟き、新しい帳簿を引き寄せた。


声の震えを聞き分ける耳は、あの晩から十二年をかけて育てられたものだった。あの子爵の細い声も、モローという名の裏に潜む震えも、根っこは同じだ。


誰かが嘘をつくたび、数字のどこかに、必ず綻びが残る。


あの日の父がそうしたように。綻びを見つけ出すまで、彼女は今夜も帳簿から目を離すつもりはなかった。


それが十歳の自分に立てた誓いだった。

今回はマルグリットの子ども時代の話です。


なぜ彼女がここまで数字にこだわるのか。その理由が、少しだけ見えたかと思います。「数字は嘘をつかない」というお父さんの一言を、彼女はずっと胸に置いてきました。


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