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「あら、ちょうどいいですわ」

楽団の弓が、最後の三小節でひときわ強く弦を叩いた。


曲が終わる合図だった。蝋燭の熱気と香水の匂いが、百人を超える招待客の間にこもっている。マルグリット・アーデンヴァルドの耳は、それより先に隣の話し声を追っていた。


「――それで、伯爵夫人ったら扇を落とした殿方の顔をご覧になって」


マルグリットは扇の陰で、隣に立つ若い令嬢に小さく笑いかけていた。


「三日は笑いが止まらなかったんですのよ」


「まあ、恐ろしいこと」


「恐ろしいのは、笑いを堪えられなかったわたくしの方かしら」


令嬢がくすくすと肩を揺らす。


「マルグリット様といると、退屈しませんわ」


「あら、それは光栄ですこと」


令嬢はまだ社交界に出て間もない。悪女と名高い相手にこれほど懐くのは、世慣れない証でもあった。その無邪気さを、マルグリットは嫌いではない。


「今度は、どなたの扇が犠牲になりますの?」


「さあ、それは秘密ですわ」


「意地悪ですのね」


「ええ、よく言われますわ」


悪女、意地悪、我儘――まとわりつく言葉には、とうに慣れている。慣れたどころか、都合よく使わせてもらっていた。そのとき、片方の意識が別の音を捉えた。広間のどこかで、こちらを窺う気配がひとつ。衣擦れの間隔が、先ほどから乱れている。


「それでも、皆様に慕われていらっしゃる」


「さあ、それはどうでしょう」


上ずった声が、笑いの輪に割り込んだ。


「待ってくれ」


シャンデリアの下に集まっていた誰もが振り返った。マルグリットは扇を閉じ、声の主に耳を澄ませた。


震えている。


怒りの揺らぎではない。誰かの言葉をそのままなぞっているだけの震えだ。まるで、台本を渡されたばかりの役者のように。声の輪郭が、本人の重みを持っていない。


「僕は……もう、我慢の限界だ」


今宵は社交界の主だった顔ぶれがほぼ全員集まる、年に一度の夜会だった。けじめをつけるなら、これほど都合のいい舞台はない。


伯爵家嫡男のヴィクトール・ラングドンは襟元に手をやった。直しては、また同じところに触れる。声は少しずつ大きくなっていった。周囲に届けとばかりに。


「無能で我儘で、悪女だと社交界の誰もが噂している。先だっての夜会でも、令嬢方の輪に加わろうともしなかったそうじゃないか」


「まあ」


近くの夫人が短く息を漏らし、楽団すら弓を止めた。


その静けさを埋めるように、あちこちで囁きが起こる。扇の陰から、柱の影から、抑えたつもりの声が重なって流れてきた。


「やはり、あの噂は本当だったのね」


「まあ、可哀想に」


「ラングドン卿も、ようやく目が覚めたのでしょうよ」


どれも聞き慣れた調子だった。憐れみと好奇を半分ずつ混ぜた、社交界のいつもの合唱。


「あら、本当にそうかしら」


その一つだけ、色が違った。笑いを含んだ、面白がるような声。壁際では白髪の老伯爵が眉をひそめ、小さく舌打ちをしている。何か事情を知っているかのような、苦い顔だった。


「若いというのは、浅はかなことだ」


「僕は、そんな女性と婚約していたことを恥じている」


大広間の空気が一段冷えた。好奇と憐れみと、ほんの少しの興奮が混ざり合った、社交界特有の沈黙だとマルグリットにはわかる。


ヴィクトールは息を吸い込み、最後まで言い切った。


「――婚約は、破棄させてもらう」


一拍の間があった。


誰も動かなかった。マルグリットも、動かなかった。


頭の中では、すでに次の一手が冷たく並び終えていた。


閉じたままだった扇を、ゆっくりと開いた。乾いた音が、物音一つない広間に妙にはっきりと響いた。


「あら」


その一言で、空気がわずかに揺れた。


「あら、ちょうどいいですわ」


扇を持つ指先から、こわばりが抜けていくのがわかった。(――一つ、片づいた)


微笑んだまま、一歩も動かずに言った。声に苛立ちも悲しみもない。むしろ長く待っていた知らせを受け取ったような、深い満足があった。


ヴィクトールの目が泳いだ。彼の想定していた反応とは、明らかに違って見えた。


「……ちょうどいい、とは」


「あなたのおっしゃる通り、わたくしは無能で我儘な悪女ですもの」


マルグリットは扇の先を、自分の顎にそっと当てた。


「婚約者として不足がおありなら、手放していただくのが道理でしょう」


淡々とした声だった。責める色は滲んでいなかった。


「君は、悔しくないのか」


ヴィクトールが食い下がる。


「悔しい、と」


「僕は、君の悪評をこの場で並べたんだぞ」


「ええ、聞いておりましたわ」


「それでも、そんな……」


「そんな、涼しい顔をしているのが不満ですの?」


マルグリットはわずかに首を傾げた。


「泣いてご覧に入れた方が、あなたも収まりがよろしかったかしら」


「そんなつもりじゃ」


「あら、違いますの?」


「僕だって、これくらいのことで」


「想定より、効いていらっしゃるようですけれど」


「――君は――」


ヴィクトールが何か言いかけて、喉の奥で言葉を詰まらせた。何かに、初めて気づきかけているような目だった。


周囲でひそひそと交わされる声が耳に流れ込む。


「怖いお方ね」


「いいえ、あれは強がりですわ」


「どちらにしても、今夜のことは明日には社交界中に広まりますわよ。一番にお手紙を書かなくては」


どの声も、しっかりと耳に届いていた。


「悪女で結構ですわ」


マルグリットは、囁きの主たちに向けて微笑みかけた。その一言で、周囲のひそひそ話がぴたりと止んだ。


どちらの見立ても、当たっていない。マルグリットはその沈黙を、少しだけ楽しみながら見つめた。


彼が今欲しがっているのは、おそらく反論だ。せめて涙の一粒でもあれば。


だが、そのどちらも与えるつもりはなかった。


「どうぞ、お気になさらず」


一礼する。


「婚約破棄の手続きは、後日わたくしの家の者が承ります」


踵を返した。


背中に、無数の視線が突き刺さるのがわかる。値踏みする視線。憐れむ視線。そして――ほんの数人だけ、噂話とは違う温度で見極めようとする探る視線。


マルグリットは、そのどれにも振り返らなかった。


* * *


薔薇園に面した回廊に一人になったところで、マルグリットはようやく足を止めた。あの熱気に満ちた広間を、これで抜けたことになる。


開け放たれた窓から、冷たい夜風が流れ込んでくる。月明かりが石畳に長い影を落としていた。遠くで、楽団がまた次の曲を探るように弦を鳴らしていた。


「お嬢様」


控えていた侍女のアネットが、小走りに近づいてくる。


「お顔の色が――」


「悪いですって?」


マルグリットは軽く笑った。


「安心なさい。今夜ほど気分のいい夜はありませんわ」


「……はい」


アネットは瞬きを一つしてから戸惑いながらも、それ以上は聞かなかった。長く仕えている侍女の目には、今の顔が普段とは違う何かに見えているようだった。


「馬車を回してちょうだい。今夜のうちに、屋敷へ戻ります」


「かしこまりました」


アネットが恭しく一礼して、先に駆けていく。


マルグリットは扇の骨を指先でなぞった。


息を一つ吐くと、強張っていた肩から力が抜けた。ただ一つの仕事が片づいたときの、澄んだ満足だった。


婚約破棄。


それは彼女にとって、悲劇でも屈辱でもない。むしろ、都合のいい一手だった。


――噂は、これでまた一つ育つ。誰に聞かせるつもりもない呟きを、夜の回廊に置いていく。


* * *


馬車の中は、外の喧騒が嘘のように静かだった。屋敷までは、小一時間の道のりになる。


向かいの座席で、アネットが心配そうな顔を隠しきれずにいる。


「本当に、お辛くはないのですか」


「辛い、というのとは違うわね」


「では、何が」


「せいせいしていますの」


「まあ」


「あなたも、少しは笑いなさいな」


マルグリットは窓の外へ目をやった。夜会の明かりが、少しずつ遠ざかっていく。


「ヴィクトール様は、噂を信じただけですもの。噂を信じる人は、いくらでもいますわ」


窓の外を王都ヴェルダンの商家の並びが流れていった。灯りの落ちた店先に明日の仕入れを待つ荷馬車が並んでいる。遠く財務省の尖塔が夜空に黒く沈んでいた。


「明日の朝は、いつもより早く起こしてちょうだい」


「……夜会の後だというのに、ですか」


「ええ」


「お休みになった方がよろしいのでは」


「休みは、片づいてからいただくものですわ」


マルグリットは扇を膝の上に置き、外を見つめたまま答えた。


「片づけなければならない書類が、山ほどありますの」


アネットは、それ以上は問わなかった。


マルグリットは膝の上の扇をひらりと閉じた。乾いた音が、狭い車内に低く響く。


屋敷に着けば、書斎の机には帳簿の束が待っているはずだった。財務省の誰もその存在にはまだ気づいていない。インクと紙の匂いを放つだけの、ひっそりとした書類の山だ。


マルグリットは前髪を一筋、耳にかけた。涼しい顔のまま、馬車は闇の中を走り続けた。


――今夜の茶番は、まだ第一歩に過ぎない。


そのことを、この場にいる誰も知らない。

第一話を読んでいただき、ありがとうございます。


婚約破棄なんて、普通なら泣くか怒るかの場面ですよね。でもマルグリットには、扇の音ひとつで受け流してもらいました。この人の涼しさを気に入ってもらえたら嬉しいです。


タイトルの「あら、ちょうどいいですわ」が何のことなのかは、これから少しずつ。よければお付き合いください。


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