狩り
呪いの話を聞いてから、数日が経った。
正直に言えば、まだ完全には受け入れられていない。ドルビニーの呪いによって心が変わっていくという話は、頭では理解した。しかし自分がそうなるという実感は、まだ殆どない。そんな風になってたまるか、という気持ちの方が強かった。
そうは言っても、いつまでも地下牢の毛皮の上で寝転がっているわけにもいかない。数日の間に倫太郎はアース旅団の一員として受け入れられ、砦の中での生活が始まっていた。
その日の朝、真っ黒い異形のモンスターに呼ばれた。黒の中に光る白い歯を見せて言った。
「そろそろ仕事の話をしようか、新入りくん」
「仕事ですか」
「仲間になる以上は、働いてもらう」
後ろにいたリザードマンが言った。細く裂けた舌が喋るたびにチロチロと出てくる。
「選択肢は色々ある。戦闘要員として人間と戦うか、狩りに出て獲物を獲ってくるか、砦の中の仕事をするか。大まかにはそんなものだが、役立てそうな事があればなんだって良い。もちろん今すぐ決めなくても良い。だが、ここでの食い扶持は自分で稼げ」
そりゃそうだよな、と倫太郎は納得したが、正直不安も多い。なにせ、高校生だった倫太郎は仕事なんてした事がなかった。
「外の仕事と砦の仕事、具体的には何が違うんですか」
聞くと、黒い異形が答えた。
「戦闘要員はハンターや人間の軍と戦う。狩りは獣を獲ってくる。砦の仕事は修繕、食料の管理、怪我人の世話など。お前の体格なら戦闘か狩りが向いているだろうが、得意分野を見つけ出して自分に合った仕事をすれば良い」
倫太郎はしばらく考えてから頷いた。
「分かりました。少し考えさせてください」
「ああ、好きにしろ」
二人は踵を返し、去った。
砦の中に戻り、倫太郎は手持ち無沙汰に外へ出た。廃墟のような砦の周辺を歩いていると、少しずつ自分の体が慣れてきているのを感じた。最初は足元すら覚束なかったのに、今では足場の悪い地面を歩いても躓かない。室内にいると天井に頭をぶつけそうになるが、身体の大きさには少しずつ慣れてきていた。
砦の外壁に沿って歩いていると、門の奥から人影が現れた。いや、人ではない。ウェアウルフだ。倫太郎と同じ灰色の毛に覆われた身体だが、体格はひと回り小さく、体のラインがしなやかで細く、胸に膨らみがある。それで女性だと分かった。倫太郎は腰巻きしか巻いていないが、彼女は腰巻きの他に胸も粗末な布で隠していた。帰還した遠征組が門の向こうに何人もいたので、彼女もその一人だと分かった。
倫太郎と目が合うと、相手は立ち止まった。
「あんた、新入りの」
「はい。倫太郎です」
「私はカルラ。よろしく」
短く答えて、また歩き出そうとした。倫太郎は少し迷ってから声をかけた。
「あの、同じウェアウルフって俺だけじゃないんですね」
カルラは足を止め、振り返った。灰色の毛に覆われた顔に、黄色がかった目が倫太郎をじっと見ている。
「私以外にももう一人いるよ。でもそっちはもうまともに喋れない。あんた、まだあまり呪われてないね。同族で同じ境遇の仲間がいるって知って少し安心したよ」
「そう……なんですか」
もう一人はどうなったのかを聞き出す事は怖くて出来なかった。
沈黙が落ちた。気まずくなりかけたところで、カルラが切り出す。
「仕事はもう決めたの?」
「まだです。戦闘か狩りが良いって言われましたけど、正直戦闘は嫌です。人殺しなんてやりたく無い……だからと言って狩りも経験はないし……」
「じゃあ練習してみる? 狩り」
「え?」
「教えてあげるよ。ウェアウルフの体の使い方、モンスターになりたての頃はさ、体の使い方なんて誰でも分からないからね」
カルラはおいでと言いながら森に向かう。それを倫太郎は追いかける。
「カルラさんはもうここは長いんですか?」
「いや、まだ一ヶ月くらい。でも、この体に慣れるのは早かったよ。少し動いてればすぐ馴染む。リンタロウもすぐ慣れるよ」
二人は並んで森へ向かった。木々の間に入ると、外よりずっと暗く、湿った土の匂いが広がっている。
しばらく歩いていると、カルラが口を開いた。
「ねえリンタロウ、出身はどこの国?」
「日本です。カルラさんは?」
「ドイツ」
「ドイツか……あまり詳しくないんですよね。何があるんですか?」
「ドイツと言えばビールだよ。実は私ビールの味が苦手だったんだけど、最近やっと良さが分かってきたんだ。でも、もうビールは飲めそうにないね……」
カルラは少しだけ遠い目をした。そしてハッとする。
「ごめん、気にしないで。私、日本なら詳しいよ。ドラゴンボーイもノルトもスリーピースも漫画を全部持ってたんだ」
「全部ですか、そりゃ凄いですね」
「それだけで本棚が埋まっちゃって困ったもんだよ」
倫太郎は笑った。カルラも口角が上がったように見えた。狼の顔では表情が読みにくいが、目元は正直だと分かってきた。
「カルラさんは何歳ですか?」
「十八。倫太郎は?」
「十七です。もうすぐ十八になるはずだったんですけど」
「はずだった、か」
カルラは短く繰り返した。その言葉の重さを、二人とも同じように感じているはずだった。
「学生だったの?」
「高校生でした」
「私は大学一年。入学して四ヶ月で……死んだ」
倫太郎は何も返せなかった。四ヶ月。やっと始まった大学生活が、それだけで終わったという事だ。
倫太郎は何と言えばいいか分からなかった。ただ、その言葉の奥にある感情は、何となく分かった。
「そういえば、不思議に思ってたんですよ。俺は日本人でカルラさんはドイツ人、多分双子の人はアメリカ人ですよね。こんなバラバラなのになんで言葉が通じてるんですかね」
カルラは少し考えた。
「リンタロウ、日本にはどんなダジャレがある? なんでも良いから言ってみなよ」
倫太郎は首を傾げた。
「面白くは無いですよ」
「大丈夫」
「じゃあ有名どころで。アルミ缶の上に……」
倫太郎は言葉に詰まった。
「あれっ、おかしいな。なんでだ、ダジャレとして成立しない」
「それは今喋ってるのが全く別の言語だからだよ」
倫太郎は言葉に詰まった。
「多分モンスターの言語を強制的に喋らされてる。多言語を喋れた筈のモンスターも、その言語全てを忘れてしまったらしいね」
「全く違和感も無かったのに……変な感覚ですよ」
「不思議だよね」
そして倫太郎はカルラと森を進み続ける。小川を飛び越え、切り立った斜面をよじ登る。
他にも二人は、死んだ時の事や、残してきた家族の話などをした。そんな話をすると、自分の家が恋しくなってくる。
二人はしばらく無言で歩いた。倫太郎は自分の足元を見ながら思った。日本とドイツ、全く違う場所で生まれて、全く違う死に方をして、同じ世界の同じ砦にいる。そういうものなのだろうと、不思議な気持ちになった。
ふと、カルラが立ち止まった。
「ここから先は静かにね。獲物に近付いてる」
雑談の時間は終わった。カルラの目が、さっきまでとは別の光を帯びていた。
まず最初にカルラが教えたのは、歩き方だった。
「音は立てないで。踵と膝のクッションをうまく利用してゆっくりと」
倫太郎は言われた通りに試してみた。確かに、獣の脚は意識して歩くと足音が格段に小さくなる。ウェアウルフの獣のような脚は常に爪先立ちの構造になってるので、隠密に向いているのは新しい発見だった。
「それと、耳と鼻を使って。目より先に気配を掴む練習をしておくように。風向きを常に意識して、獲物の匂いが流れてくる方向を探して」
言われてみれば、転生してからというもの、耳と鼻の情報量が多すぎて持て余していた。不快なものとして遮断しようとしていたが、カルラの言う通り、それを逆に使えばいいのだと気づいた。
そして倫太郎はふと気づく。弓や槍などの狩に使う武器は何も持ってきていなかった。
「武器は使わないんですか」
「ウェアウルフの私達に馴染む武器は無いよ。人間用に作られた武器は私たちの手に合わない。だから、爪や牙を使うの」
カルラは自分の手を広げて見せた。鋭く湾曲した爪が、木漏れ日を受けて光っている。倫太郎も自分の手を見た。同じ形の爪が並んでいる。
「どう使えば?」
「やたらと振り回さない。引き裂くよりも、引っ掛けるように使って。そして動きを封じて、獲物の喉か、腹の柔らかい部分に牙を立てる。もしくは首の骨を折る。私達の腕力があれば簡単に折れるからね。一撃で仕留めるのが理想だけど、最初は無理だね。失敗して良いから、見つけたらやってみなよ」
「俺に出来ますかね……」
「慣れだよ、慣れ」
それから二人はしばらく森の中を歩き回った。カルラは風の読み方、足跡の見方、動物の行動パターンを丁寧に説明した。倫太郎は無我夢中でついていきながら、一つ一つを頭に叩き込んだ。
獲物を見つけたのは、日が傾き始めた頃だった。茂みの向こうに、鹿が草を食んでいる。カルラが手で合図をして、倫太郎に先に行けと促した。
倫太郎は息を止め、爪先で一歩ずつ近づいた。風向きは悪くない。鹿はまだ気づいていない。あと五メートル、四メートル。
しかし三メートルのところで、枯れ葉を踏んだ。乾いた音が森に響き、鹿は一瞬で弾かれたように駆け出した。倫太郎も反射的に地を蹴ったが、スピードが制御できずに重心が傾き、体勢を崩して地面に転がった。
鹿の蹄の音が遠ざかっていく。
「……すみません」
起き上がりながら言うと、カルラは特に怒った様子もなく「最初はそんなもんだよ」と短く言った。
その後もう一度チャンスがあったが、今度は距離を詰めすぎて気配を悟られ、またしても逃げられた。
日が沈みかけた頃、カルラが自分で鹿を仕留めた。茂みから飛び出したかと思うと、鹿の体に爪を当てて引き倒し、首に噛みついて一瞬で動きを止めた。倫太郎が目を見張るほど素早く、無駄のない動きだった。
「凄い……こんな簡単に」
「必死に練習したからね。なんせ食べるものがないと飢えるから」
カルラは仕留めた鹿を担ぎ上げ、歩き始めた。倫太郎もその隣に並ぶ。砦への帰り道、しばらく二人は無言で歩いた。森は暗くなりかけていて、虫の声が大きくなってきている。
ふと、カルラが口を開いた。
「ねえ、倫太郎」
「はい」
「呪いの話、聞いたよね?」
「ええ、聞きました」
カルラはしばらく黙った。担いだ鹿の重さを調整するように、肩の位置を変える。
「私、まだ一ヶ月だけどさ。でも、来た時の自分と今の自分が同じだって自信がもう持てない」
倫太郎は何も言わずに続きを待った。
「狩りをしている時の獲物を仕留めた瞬間に、嬉しいって感じる。最初はそんな感覚なかったのに。これが呪いなのか、単に慣れただけなのか、自分じゃ分からない」
「獲物が獲れた時に嬉しいって思うのは、多分普通ですよ」
倫太郎はフォローした。
「自分が変わり始めてるかどうか、自分では気づけないって話でしたね」
「そう。それが一番怖い。知らないうちに変わっていて、気づいた時にはもう手遅れかもしれない。一ヶ月経った今、どんな変化が起きたかも分からないってのに、半年後の自分がどうなってるか……」
倫太郎は足元の枯れ葉を踏みながら考えた。確かに、それは自分一人ではどうしようもない問題だった。自分の変化を自分で観察しようとしても、呪いはそれを許さない。
「一つ、提案があるんですけど」
「何?」
「お互いを見ていませんか。俺がカルラさんを観察して、カルラさんが俺を観察する。変化に気づいたら指摘し合う。一人じゃ無理でも、二人なら気づけるかもしれない」
カルラは足を止めた。倫太郎も立ち止まり、カルラの顔を見た。黄色がかった目が、じっとこちらを見ている。
「変化を指摘されたところで、呪いに勝てる保証はないよ」
「保証はないです。でも、知らないうちに変わっていくよりは、気づいて抗う方がましじゃないですか。少なくとも、俺はそう思います」
カルラはしばらく考えるように視線を落とし、それからまた歩き出した。
「……分かった。乗るよ」
「ありがとうございます」
「ただし」
カルラは前を向いたまま言った。
「変化を指摘する時は、はっきり言って。遠回しに言われても困る」
「俺もそうしてください」
「分かった」
カルラは手を差し出す。俺は少しドキッとしながらも、その手を握り返した。
「じゃあ今から私達は対等なバディだね。その堅苦しい言葉遣いももう必要ない」
「はい……いや、うん。よろしく、カルラ」
握手を終え、先に歩くカルラの背を見ながら、握手した自分の手を見る。ずっと孤独だった異世界生活の中で、やっと見つけた仲間の温もりが手に残る。呪いという闇で一寸先も見えなかった中で、ほんの小さな希望の光を見つけ出した。彼はそう感じた。
二人は並んで砦への道を歩いた。カルラが担ぐ鹿の血の匂いが、夜の風に乗って漂っている。
砦の灯りが見えてきた頃、カルラが短く言った。
「明日も狩り、一緒に行こう」
「もちろん」
「じゃあ夜明け前に砦の裏口に来て。風向きがいい時間があるから」
倫太郎は頷いた。獣の姿をした身体が少しだけ自分のものとして馴染んできたような気がした。




