犬猿の仲
太陽が昇る一時間前、メルロー一家の朝は始まる。
オレリアはいつも一番最初に目を覚ます。まず六頭のラバに餌を与え、皆が夢中になって食べている間に健康チェックを済ませる。蛇の咬み傷がないか、呼吸は正常か、目元に腫れや異常な目ヤニはないか。一頭一頭、丁寧に確かめていく。その間に両親が起き出し、積み荷の状態確認を始める。香辛料の袋に湿気が入っていないか、薬草の束が崩れていないか、染め布に汚れがついていないか。こちらも事細かに確かめていく。三人は一息つく間もなく乾燥させた硬いパンを軽く食べ、荷物をまとめてキャンプ地を発った。
日が昇り始めた森の中を、メルロー一家とラバ六頭が一列になって進んでいく。先頭でアルベールが先導し、最後尾のラバの後ろでコレットが列全体を見守っている。オレリアはその間を行き来しながら、ラバの一頭一頭に声をかけ続けた。
「昨日はよく眠れた? 今日も一緒に頑張ろうね!」
「テムったら眠そうにして、夜更かしでもしたんじゃないの?」
「お腹掻いて欲しいの? この辺? 違う? もっと右? ここか! 気持ちいい? そうかそうか!」
オレリアにとって、六頭のラバは家族同然だった。言葉の通じない相手に毎日語りかけ、返事のない会話を続ける。それでも彼らの気持ちを汲み取り、適切に動く。この才能をアルベールもコレットも高く評価していた。どんな魔法でも代替できない、どれだけ勉強しても身につかない種類の才能だ。
そんなオレリアは、歩きながらずっと昨晩の事を考えていた。マークの小さな手の感触が、まだ残っているような気がする。言葉の通じない相手と心を通わせるのが得意なのは自分の強みだと思っていたが、まさかモンスターにまで通用するとは思っていなかった。あの子はいったい何者だったのか。なぜ人間の名前を持っていたのか。なぜ飛びかかっておきながら、踏みとどまれたのか。考えれば考えるほど頭の中がぐるぐるする。
気がつくと、いつの間にか列の先頭のアルベールの隣を歩いていた。
「パパ、この森はあとどれくらいで抜けるの?」
森をいつ抜けるかなんてどうでも良かった。ただ話しかけるきっかけが欲しかっただけだ。
「昼前には抜けられるだろう。その後は丘陵地に入るが、すぐに舗装された街道に出る」
アルベールが答え、それからちらりとオレリアを見た。
「どうした、急にそんな事聞いて」
「いや、何でも」
誤魔化したが、一呼吸置いてから続けた。
「街道に入ったら……モンスターはあんまり出なくなるんだよね」
沈黙が落ちた。アルベールはしばらく前を向いたまま歩き、それからため息をついた。
「まったく、昨日の事をまだ考えておったのか」
オレリアは黙って俯いたが、やがてふうっと息を吐いて顔を上げた。
「私思うの。あの子は人間と変わらない。殺すべきじゃなかったのよ」
「言葉を理解し、名前を言っただけでか?」
アルベールは静かに答えた。
「賢い犬は人間の言葉を理解するし、言葉を教えたオウムは自分の名を言える。でも、どちらも人間じゃない。それに、昨日のあの子はインプだ。インプは食べる目的も無しに、遊びで人間を殺す事がある。もしかしたらオレリアの言う通り、あの子は優しいインプだったのかも知れない。でも、そうじゃなかったかも知れない。オレリアを騙して連れ去るつもりだったかも知れない。そうなったら、死ぬより恐ろしい目に遭っていたかも知れない。可能性の話ばかりで悪いが、わずかな可能性であっても、オレリアを危険に晒すつもりはない」
「私は十五歳よ。危ないかどうか、自分で判断できるわ」
「オレリア」
「確かに私は、モンスターと意思の疎通に成功した。みんなは人間とモンスターは全く別の存在だと言うけれど、私はそうは思わない。彼らには私達の知らない何かがある。だから、もっと知りたいの」
私の意思は誰が何と言おうと揺らがない、そう訴えるような目でアルベールを見た。アルベールはしばらくオレリアを見て、それから困ったようにため息を吐いた。
「そうは言うがな……同じ事をコレットの前で言えるか?」
痛いところを突かれた。思わず視線を外してしまう。
「マ、ママに言ったら絶対ぶつもん」
「もう一度ぶたれなさい、いい薬になる」
「いーやだっ! ねえ、今のこと絶対ママに言わないでよ! 絶対ダメだからね!」
オレリアが声を張り上げた直後、はるか後方から「どうかしましたか」とコレットの声が届いた。心臓が跳び上がるほど驚き、「なんでもない! 気にしないで!」と叫び返す。アルベールはやれやれとため息を吐き、それからほんの少しだけ笑った。
予定通り夕方にモレストへ到着した。十字路に沿ってできた農村で、規模は小さく、収穫の終わった畑は手入れを怠り気味だった。街道沿いの宿に荷物を預け、アルベールが食料調達の交渉に向かっている間、オレリアはラバ達に水をやりながら手持ち無沙汰に村の様子を眺めていた。
民家の窓から顔を出している犬と目が合った。犬は舌をだらりと垂らして嬉しそうに跳ね回る。オレリアが笑って手を振ると、すぐ後ろのラバがブルルッと鼻を鳴らした。思わず吹き出してしまう。
「こらこら拗ねないの。浮気なんてするわけないじゃん。私は常にキミたち一筋よ! ヤキモチなんて焼かないで胸を張りなさいよ! こんな可愛い女の子と相思相愛なんてむしろ世界中が嫉妬するわよ!」
ラバの顔をワシャワシャと撫でながら言い切ったその瞬間。
「世界中が嫉妬? お前の世界の住人はラバだけか?」
聞き覚えのある声に、オレリアの全身がびくりと固まった。変な声が漏れた。撫でていた手が宙で止まる。オレリアは聞こえてきた声の主を頭の中で照合し、そしてたった今の会話を思い返し、茹だったように顔を真っ赤に染めた。
全力で顔をしかめて振り返ると、五歩ほど離れた軒の柱に寄りかかっている少年が目に入った。短い黒髪を後ろになでつけ、整った目鼻立ちが際立っている。鼻の周りにそばかすが散っていて、薄く笑った口元がひどく嫌味ったらしい。トマ・グランジュ。オレリアと同じくキャラバンで旅をして暮らす、一歳年上の少年だ。
「前々から変わった奴だとは思ってたけど、ラバと恋人関係にあったとは知らなかったな。祝福してやるべきか?」
オレリアの顔に火がついたように赤くなる。
「こっ、この変態!! いたいけな少女の独り言を盗み聞きするとか有り得ない! 死ね! 死ね!! だいたい何であんたがここにいんのよ! 気持ち悪い! 変態! 死ね!」
オレリアを知る者は皆、彼女を心優しくて明るい子だと言う。そんな彼女が面と向かって「死ね」を三回繰り出してしまう相手は、この世にただ一人しか存在しないと断言できる。
「変態とはとんだ言いがかりだな。にしても相変わらず口が悪いな。美少女を自称するなら、言葉遣いも美しくあれよ」
「いやあ! そのねっとりした喋り方が本当に気持ち悪いのよ! 近寄らないで! あっち行け!」
オレリアがラバの首に抱きついて助けを求め始めると、ラバはひどく迷惑そうに耳を倒した。さらに不運な事に、ちょうどその瞬間にアルベールとコレット、そしてくしゃくしゃの赤毛の男が建物の陰から歩いてきた。その顔を見た瞬間、オレリアはラバにしがみついていた事も、トマへの怒りも全部どこかへ吹き飛んで、目を輝かせて駆け出した。
ガストン・メルロー。アルベールの兄で、オレリア達と同じくキャラバンで生計を立てている。十年前に孤児だったトマを引き取り、父親のように育てている。
「ガストン伯父さん! 会いたかったわ!」
オレリアは飛びつくように抱きついた。
「おお、オレリア! また背が伸びたんじゃないか?」
「まさかこんな所で会えるとは思ってなかった。本当にびっくりしたわ」
「偶然じゃないさ。神様はいつも私達を見守ってくださっている。きっとオレリアの日頃の行いが良かったんだろう」
「ええ……きっとそうね」
オレリアは宗教の話題には無難に合わせる主義だった。
「そう言えばパパ、食料の補充は上手くいったの?」
「やはり難しかったよ。冷夏の影響で村の備蓄が少ないらしくてな。だが兄さんが干し肉とジャガイモを分けてくれるそうだ。これならメリューズまで十分持つだろう」
「ガストンさん、本当に助かりました。オレリアもきちんとお礼を」
コレットが背を軽く押した。
「おじさん、ありがとう!」
「礼には及ばないさ。代金はちゃんと頂いてる、商人として当然の取引だよ」
ガストンは照れ臭そうに笑った。その右手の薬指と小指がないのが、オレリアの視界に入った。二年前にモンスターに襲われた時の傷跡だ。その時に妻も失っている。ガストンは魔法を使えないし、武器もろくに扱えない。だからいつも護衛を雇っている。アーベルとコレットが特殊なだけで、普通の商人なら当たり前の事だ。今日も鎖帷子の男が二人、少し離れた場所に立っている。
「そう言えば、伯父さん達はどこへ向かってるの?」
ガストンが答えようとすると、背後から声が聞こえた。
「メリューズだよ」
答えてくれたのは嫌いな声だった。振り返る前から顔がしかめっ面になる。
「君達と同じだ」
「あんたにっ! 聞いてないしっ!」
「どうしてそんなにトマを嫌がるんだ。歳も一つしか違わないんだし、仲良くすればいいだろう」
アルベールが溜息をついた。
「あいつはいつも私の揚げ足ばかり取って失礼な事ばかり言う! あんな奴と仲良くするなんて絶対嫌よ! ……待って。メリューズが目的地って事は……」
「せっかくの機会だし、メリューズまで一緒に行く事にしたよ」
オレリアは青ざめた。チラリとトマを見ると、鼻を鳴らして目を逸らした。その顔が微妙に笑っているように見えたのは気のせいではないと思う。
「トマくんと仲良くなる絶好のチャンスですよ」
コレットがわずかに楽しそうに耳打ちした。
「私達は邪魔しませんから」
「その可能性だけは万に一つもないから安心して」
オレリアは深くため息を吐いた。
そして翌朝。オレリアはいつものように日の出前にラバ達の世話をしながら準備を進める。その間、オレリアの頭の中には、少しだけ心を通わせることのできたインプのマークの事が引っ掛かっていた。
ラバの一頭にブラシをかけながら話しかける。
「ねえ……私って間違ってるのかな。確かにモンスターって人を襲うけど、必ずしもみんながそうとは限らないよね。私、モンスターとお話しできたんだよ。お互い名乗っただけだけど……でもマークは笑ってくれた。なのに……」
続きは言えなかった。オレリアの目にうっすらと涙が浮かび、袖で拭って鼻を啜った。ラバは慰めるように額を擦り付けた。そんな時に後ろから不意に声をかけられた。
「モンスターと話したって?」
オレリアはギョッとして振り返る。そこにはトマが立っていた。
「はあ!? 盗み聞きなんて最低!」
そしてオレリアは顔を赤くしながらも、自分の言っていた事を思い出し、それを聞かれてしまったのだと目を伏せた。
「どうせ馬鹿にするんでしょ」
半分は諦めだった。だが、彼の返答は予想とは違った。
「いや、馬鹿になんかしねえよ。正直半信半疑ではあるが、ラバに嘘ついても仕方ねえしな」
オレリアは目を開き、ポカンと口が開く。そして何かを言おうとするが、言葉がうまく出ない。
「聞かせてみろよ、何があったか」
言いたくなんて無かった。トマはオレリアが最も嫌う人物だ。それなのに、口が勝手に動き出した。マークとの出来事を口からポロポロとこぼしてゆく。そして、それをトマは頷きながら聞いた。言い終わった後、きっとモンスターと友達になろうと思う思考が馬鹿丸出しだと言われると思い、言い返す準備をした。しかし、そうはならなかった。
「それ……すげえじゃん」
再びオレリアはキョトンとする。
「モンスターとの意思疎通なんて聞いた事無い……誰もそんな発想なんてしなかったんだ。もし意思疎通が可能って分かれば、モンスターの常識が変わるぞ!」
オレリアは唇を噛み、彼が自分と同じ考えに至ったと言う事実を理解するごとに、顔が熱くなり、少しずつ涙が溢れ出てくるのを止められなかった。
「あんたに理解してもらえても……嬉しく無いよ」
「お、おいっ、なんで泣くんだよっ! 勘弁してくれよっ」
トマは頭を抱え、逃げるように自分のラバ達の元へ走った。
それからオレリアは涙を拭い、鼻を啜りながら準備を再開する。その時も、胸の中の温かいものと、ほんの少しの高揚感は薄れなかった。




