意思疎通
日が完全に沈んだ森の中に、小さなキャラバン隊がキャンプを張っていた。
オレリア・メルローは父親のアルベールと並んで、荷物運びのラバ六頭にブラシをかけていた。十五歳の少女で、ゆるいウェーブのかかった赤い髪が揺れ、意志の強そうな目が光っている。体つきはまだ少女らしく細いが、長旅で鍛えられた足腰はしっかりしていた。その隣のアルベールは四十代半ば、白髪混じりのくしゃくしゃの赤毛に人の良さそうな笑顔が特徴だ。少し離れた焚き火の前では、母親のコレットがジャガイモのスープを煮込んでいた。茶髪のストレートヘアを全て後ろでひとつに束ねた、痩せて背の高い四十代前半の女性で、仕事中は常に表情が引き締まっている。
六頭のラバが運ぶのは、南方から仕入れた香辛料と薬草、それに数反の染め布だ。どれも軽くて単価が高く、小所帯の行商には向いている。荷が少ない分、二頭には食料と野営道具を積んでいる。
「オレリア、今日は足場の悪い道が続いたんだ。疲れたなら休んで良いんだぞ」
アルベールが柔らかく微笑んだ。
「アル、甘やかしてはいけませんよ」
コレットが低い声で遮った。
「オレリアは小さい頃からずっと私達と旅をしているのです。この程度で音を上げるような子なら、そもそも連れて来てなどいません」
「パパ、私は全然平気よ。夜明けまでだって歩けるわ」
「ははは! 流石パパの娘だ。キスしてあげよう」
「ちょっと! やめて!!」
全力で嫌がるオレリアの頬に、アルベールは無理矢理キスをした。オレリアは「最低」と言うが、満更でも無さそうだ。少し離れたところでそれを見ていたコレットの口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。
焚き火を囲んでスープを飲む間、三人の会話は仕事の話が中心だった。
「天気が続けば、明日の夕方にはモレストに着く。そこで食料を補充して、明後日の朝にネリューズへ向けて出発だ。何か質問は?」
「モレストで食料が手に入らなかった場合は? あそこは小さな村だし、今年は冷夏で作物の出来が悪かったと聞いたわ。余所者に売ってくれるかどうか分からない」
アルベールは少し眉を寄せた。
「それは俺も懸念していた。今回は出発前に食料を多めに積んだつもりだったが、ウトラムの宿場で足止めを食らった分で予想より消費してしまったからな。もしモレストで補充できなかった場合は、進路を変えざるを得ない。メリューズまでは食料が持たないから、代わりに西のドール=ベニアへ向かう事になる」
「ドール=ベニアへのルートは最近、商人の失踪が相次いでいます」
コレットが低い声で続けた。
「発見された荷物に金目の物が残されている事が多いとなれば、モンスターの仕業に間違いない。このルートは出来るだけ避けたい。だからこそモレストでの補充に賭けるしかないのですが……どちらのルートを行くにせよ、常に周囲を警戒する事を忘れてはなりません。モンスターと出くわしたなら、荷物を捨てて迷わず逃げる。いいですね」
オレリアは頷き、スープに集中した。
食事を終えて荷物の整理をしていた時、ふと夜空を見上げたオレリアの目に、巨大な何かが映った。
「うわ、ドラゴン!?」
アルベールとコレットが空を見た。紛れもなくドラゴンだった。
「アル、火を消して!」
「分かってる!!」
アルベールはラバの飲み水のバケツを掴んで焚き火にかけた。あたりが一気に暗闇に沈む。
「もうとっくに通り過ぎてるわよ。せっかくの火が……」
「用心に越したことはない。よく気づいたなオレリア」
アルベールは胸を撫で下ろした。
「火はまた私達が起こしておきます。オレリア、明日は早いから寝なさい」
「うん。でもその前にラバの水を汲んでくる。川がすぐそこにあるから」
「足元に気をつけるんだぞ」
「ええ」
オレリアは暗闇の中を手探りでバケツを見つけ、川へと向かった。足元は見えないに等しく、木の根に何度もつまずきながらも何とか川に辿り着き、バケツいっぱいに水を汲んだ。帰り道、重いバケツを両手で抱えながら慎重に歩いていると、枝を踏む音が聞こえた。心配したアルベールが来たのだろうと思い、オレリアは振り返った。
「もうパパ、これくらい一人でーー」
視線の先には、月明かりに照らされた小さな影があった。黒い身体にぽっこりと出た腹、尖った耳に鉤のある長い尻尾。その小さなモンスターと、目が合った。
全身の血が引いていくのが分かった。バケツを取り落とすまいと必死に指に力を込め、刺激を与えないようにゆっくりと後ずさりした。しかし足が木の根に引っかかり、そのまま尻餅をついた。バケツが大きな音を立てて水をぶちまけ、驚いたモンスターがギャッと叫んで飛びかかってきた。
終わった。そう思って目をつむった。しかし、数秒経っても何も起きない。恐る恐る目を開くと、モンスターはオレリアの喉元へ噛み付こうとした姿勢のまま、止まっていた。少し身を引いたかと思えばまた近づき、しかしまた引く。
葛藤している。オレリアにはそう見えた。何故、モンスターが人を食らうことに迷っているのかが分からない。
「×××××××××! ××××……×××××××!!」
モンスターはオレリアの目を見ながら、何かを訴えるように声を荒げた。最初は意味のない唸り声だと思った。しかし違う。よく声を聞くと、これは言語だと分かった。意味は分からないが、確かに言葉だった。
「キミ……私に何かを伝えたいの?」
「×××××! ×××!」
モンスターはオレリアから少し距離を取り、真っ直ぐに目を見てきた。オレリアは考えた。言葉が通じないなら、別の方法があるはずだ。思いついたことがひとつあった。自分の胸に手を当て、ゆっくりと言う。
「オレリア。オ、レ、リ、ア」
そして手をモンスターの方へ向けた。モンスターは少し首を傾げ、それから口を開いた。
「オレ……リア?」
聞き取れた。オウム返しかもしれない。でも次の瞬間、その可能性は消えた。モンスターが自分の胸に手を当て、口を開いたのだ。
「マーク」
そしてオレリアに手を向けて、「オレ……リア」と言った。オレリアは目を見開いた。目の前のモンスターは、自分の名前を持っていた。そしてオレリアの名前を理解していた。
「マーク……あなた、マークっていうのね!」
半泣きになりながら、オレリアはマークの前に両手を差し出した。マークはゆっくりと近づいてきて、小さな手をオレリアの両手の上に乗せた。
「オレリア」
笑みが浮かんでいた。その小さなモンスターの顔に、確かに笑みが浮かんでいた。
事は一瞬だった。破裂音と共に青い光が夜を裂き、マークの小さな身体が宙を舞った。
「逃げなさい、オレリア!!」
「走りなさい、早く!!」
アルベールとコレットだった。オレリアがマークに襲われていると思い込み、杖から閃光を放ち続けている。
「パパ! ママ! やめて!!」
止める間もなかった。二人は宝石をはめ込んだ杖から青い閃光を何度も何度も打ち込み、動かなくなったマークにも追撃を続けた。やがて攻撃が止んだ時、そこにマークの原型はなかった。オレリアだけが、呆然と立ち尽くしていた。
コレットが足早に寄ってきて、オレリアの頬を思いっきり叩いた。
「いったい何をしてたの! モンスターと面と向かって! あなたが生きているのは奇跡なのよ!」
「違う……」
「何が違うって言うの! モンスターは残虐な生き物です! 一瞬無害に見えたとしても、必ず牙を剥く! 人間とモンスターは全く別の生き物なのです!」
「違うの! マークには理性があった! ちゃんと心を通わせられたのに! なのに!!」
アルベールがオレリアの肩に手を置いた。
「オレリア。もしかしたら本当に、その子には理性があったのかもしれない。でも、だからといって安全だとは言えないんだ」
アルベールは静かに続けた。
「パパの昔の友達がいてね。子熊を赤ちゃんの頃から育てたんだ。二人は本当に仲良くて、熊が大人になっても変わらなかった。でもある日、友達は庭で骨になって発見された。近くで見つかった熊の糞から、友達の髪の毛が出てきたんだ。どれだけ心を通わせたつもりでいても、人間とモンスターの間には、越えられない壁がある。それだけのことなんだ」
オレリアは俯いたまま、黙って聞いていた。
「ごめんなさい。もう二度としない」
コレットはオレリアを強く抱きしめた。アルベールも後ろから二人を包むように抱いた。
しかしオレリアは、胸の中でひとつの決意を固めていた。モンスターとはいったい何なのか。モンスターと人間はひょっとしたら分かり合えるのではないか。それを必ず自分の目で確かめる。その思いだけは、誰にも消させない。




