魔王誕生
満月が真上に登る頃、悟とサイラは丘の高台に並んで立っていた。
眼下には小さな村が広がっている。寝静まった村の各所にポツポツと灯が見える。住宅地の隣には畑が広がり、家畜小屋がある。ごく普通の、どこにでもある村だ。
遠く、その向こうに砦が見えた。丘の上に築かれた石造りの要塞が、真夜中の空に黒くそびえている。
「今日で一線を越えますね」
サイラが静かに言った。白い肌が夜の闇に溶けそうだった。
「ああ」
「後戻りはできませんよ」
「分かってる」
悟は村を見下ろしたまま答えた。サイラはそれ以上何も言わなかった。二人はしばらく黙って、眼下の村と遠くの砦を交互に眺めた。
やがて悟は右手を上げた。
最初に火が上がったのは、村の北側の家屋だった。
続けて東、西と火の手が広がり、村人の悲鳴が夜明け前の空気を切り裂く。アース旅団の者達が一斉に動き出した。
ナターナエルは咆哮しながら村の中央へ突進した。白い巨体が家屋の壁を肩でなぎ倒し、逃げ出した村人の行く手を塞ぐ。悲鳴を上げて踵を返した男の背中に、ナターナエルの巨大な手が振り下ろされた。男は骨が砕ける音と共に地面に叩きつけられ、動かなくなった。ナターナエルは次の獲物に向かう。その顔は、無力な人間を蹂躙する高揚感を隠しもしていなかった。
コボルトの一団は村の出口を塞いだ。逃げ場を失った村人が一か所に追い込まれ、泣き叫ぶ子供、膝をついて命乞いをする老人、荷物を抱えて茫然と立ち尽くす女が混ざり合っていた。コボルト一人が命乞いをする老人の前で立ち止まった。老人は両手を合わせ、涙を流しながら何かを訴えた。言葉は分からなくとも何を訴えるかは分かる。そんな老人を前に、コボルトは頬を吊り上げ歯を剥き出し、錆びた剣で斬りかかった。
別の方角では、サイクロプスが家屋の屋根を素手で引き剥がしながら笑い声を上げていた。中から飛び出してきた家族を捕まえては放り投げる。それを繰り返しながら、腹の底から笑っていた。モンスターと成り果てた彼らにとって、これは娯楽だった。
サラマンダーやヘルハウンドが次々と火を放ち、村全体が赤く染まっていく。井戸に水を汲みに行こうとした男が、グリフィンに鷲掴みにされ、上空へ飛ばれてから地面に叩きつけられた。
悟とサイラは高台から動かなかった。
炎が村を赤く染めていく様を、悟は表情を変えずに見ていた。罪悪感はない。考える事は、ナターナエルの立案した計画が順調に進んでいるかどうかのみ。
そんな中、悟は娘の笑顔を一瞬だけ思い出した。そしてすぐに頭から押しのけた。
「村人の中に兵はいますか」
「自警団が少し。ほぼ民間人だ」
「そうですか」
サイラはそれだけ言った。悟も何も言わなかった。炎の音と悲鳴だけが続く。
およそ一時間後、コウモリのモンスターが悟の元へ飛んできた。
「ボス、砦に動きがありました。軍隊が編成され、こちらへ向かい始めています。数はおよそ二百です」
「来たか」
悟は短く答え、高台の端まで歩いた。眼下で村はまだ燃えている。悟は空を見上げ、深く息を吸った。
そして、体が膨張し始めた。
中世の戦場において、密集した陣形は最大の防御だった。兵士が肩を並べ、盾を重ね、槍を揃える。その密集こそが敵の突破を防ぎ、統率された集団としての力を生む。現代においてその陣形が消えたのは、一点に集中した兵力が現代兵器によって一網打尽にされるからだ。密集すればするほど、一発の砲弾や火炎放射器の前に壊滅する。
この世界の軍隊はまだそれを知らない。
二百の歩兵と騎兵が整然と隊列を組み、街道を進んでいた。先頭に騎馬の将校、その後ろに歩兵が縦列で続く。旗が風になびき、鎧の音が揃って響く。訓練された、立派な軍隊だった。
隊列の後方にいた男は隣の男に話しかける。
「モンスターの襲撃程度で二百人規模の軍って、少し大袈裟じゃないか?」
「報告ではモンスターが徒党を組んでいたらしい。こんな異常事態だ、確実に勝つ必要があるって事だろ」
「徒党を組んでたって、群れって事か?」
「群れじゃない。種類がごちゃ混ぜだったって話だ」
「奴らにそんな知能はあるのか?」
「さあな」
すると、後方から「私語を慎め」と怒鳴る声が聞こえ、背筋をピンと伸ばして歩調を合わせる事に集中した。
そんな時、前方がざわざわと騒ぎ出した。何事かと思うのも束の間、突然の風圧に顔を覆う。その時、確かに彼は見た。低空を滑空する巨大な赤い影を。
「ドラゴンだ!!」
誰かが叫んだ。兵士達がざわめきだし、隊列が乱れ始める。
「ドラゴンだと、そんなの聞いてないぞ!」
「モンスターの群れって話だろ!」
「あんなのと戦えるか! 逃げろ!」
すると、先頭から隊長が声を張り上げながら馬を走らせてくる。
「怯むな! 弓持隊全員構えろ!!」
弓隊が天に弓を向け、弦を引く。ドラゴンは旋回して戻ってくる。
「放て!!」
一斉に矢が飛んだ。だが、ドラゴンに命中したのはほんの数本だった。それも固い鱗に弾かれ、傷ひとつつかない。次の瞬間、空が赤く光った。熱風が顔を撫で、思わず目を閉じる。熱風が止んだ後に目を開くと、前方の兵士達が火だるまになって叫んでいた。
その瞬間、全員が思い知った。我々がどうにかできる相手ではないと。
皆一斉に走り出すが、逃げようとした矢先、ドラゴンの吐いた炎が逃げ道を塞ぐ。他の逃げ道を探そうとしてるうちに、ドラゴンは旋回しながら炎を吐く。そしてとうとう誰一人逃げる事もできず、炎の壁に全方位を塞がれた。
「なんなんだよ、これ」
男は剣も握らず、地面に膝をついた。正面の空にはドラゴンがいた。ドラゴンは大きな口を開き、そして視界が真っ赤になった。
二百の兵は、一人残らず灰となった。
双子が砦の屋上に降り立ったのは、ちょうど悟が兵士達を焼き尽くした頃だった。
コウモリのモンスターに空から運ばれたトニーとディーンは、足音もなく石の上に着地した。屋上には見張りが二人立っていたが、どちらも遠くに立ち上る炎の柱を見つめていた。砦から兵を大量に送り出したせいで、見張りに回せる兵がかなり少なく、誰も空など気にしていなかった。お陰で簡単に潜入できた。
双子は目を合わせ、頷いた。
トニーが左の見張りの後ろに忍び寄り、ディーンが右の見張りへ回り込む。二人同時に動いた。鋭いナイフが喉を裂き声を上げる間もなく二人の見張りは静かに倒れた。双子は死体を壁際に引き寄せ、すぐに屋上の扉を開けた。
「楽勝」
「チョロいな」
囁き声で言い合い、石段を降り始めた。砦の最上階から始まるこの侵入は、双子にとってこの上なく都合が良かった。大将の部屋というのは、大抵の砦で最上階に位置する。つまり屋上から降りてすぐの場所にある。
廊下に出ると、守りの薄さが一目で分かった。村を守るために兵を出し切った砦の内部は、平時の半分以下の人員しか残っていない。廊下の見張りが通る間隔も長く、角を曲がるたびに双子は余裕を持って身を隠せた。
最上階の廊下を進みながら、双子はすれ違う見張りを一人ずつ処理していった。角を曲がる直前で足を止め、気配を殺し、相手が通り過ぎる瞬間に後ろから仕留める。体が小さい分、物陰に溶け込みやすかった。しかも残っている兵の数が少ないせいで、死体を発見される前に次へ進む余裕すらあった。
大将の部屋は廊下の突き当たりにあった。扉の前に護衛が二人立っている。通常であればここにはもっと多くの護衛がいるのだろうが、今は二人だけだ。双子は天井の梁に目をやった。梁から扉の上まで、ほんの少しの距離だ。
二人は音もなく梁に飛び上がり、扉の真上に張り付いた。そのまま静止し、護衛の動きを観察する。護衛の二人は定期的に互いの顔を見て言葉を交わし、廊下の両端を確認する。そのパターンを掴むのに、一分もかからなかった。
次に二人が互いの顔を見た瞬間、双子は天井から落下した。護衛二人の喉にナイフが刺さり、倒れる体を支えて音を殺す。扉を静かに開け、中に入った。
大将らしき初老の男は机に向かって書き物をしていた。村からの炎の報告を受け取ったところらしく、羊皮紙に何かを書きつけていた。
振り返る暇もなかった。
「ノルマ達成だ、兄弟」
「俺らにかかればこんなもんよ」
双子は囁き合い、来た道を戻り始めた。しばらくして、廊下の奥で誰かが死体を発見し、鐘がなった。砦内に緊迫した怒鳴り声が広がり、足音が駆け回る音が響いてくる。しかし双子の姿を見つけた者は一人もいなかった。
砦の鐘が聞こえてきた頃、悟は迷わず砦へと飛んだ。そして、砦の周りを旋回し、注目を集めた。見張の青ざめた顔が遠くからでもよく見える。
悟は砦の屋上に向けて飛ぶ。巨大なドラゴンの体が石造りの屋上に降り立つ衝撃で、砦全体が揺れた。下から怒号と悲鳴が上がる。悟は翼を大きく広げ、砦全体を見渡した。城壁の上、中庭、廊下から飛び出してきた兵士達が口を開きながら上を向く。
悟は空に向かって炎を吐いた。
夜明けの空に火柱が立ち上り、熱風が城壁を舐める。砦の上空が火に染まり、兵士達の顔が赤く照らされた。
もし大将がいれば、彼らを鼓舞したかもしれない。だが、大将は死んだ。もし兵力が万全なら、数で押し切ろうとしたかもしれない。だが、砦には最低限の兵しか残っていない。でなければ、この作戦に成功は無い。
どちらも残されていない砦の兵士は、誰一人戦う道を選ばなかった。
最初に逃げたのは城壁の上の兵士だった。一人が走り出すと、連鎖するように周囲が崩れた。中庭の者が門へ向かい、廊下から出てきた者が仲間を押しのけて走る。命令する者がいない集団は、あっという間に統制を失った。
悟は咆哮しながら、内心安堵した。砦を破壊してしまっては意味がない為、このドラゴンの姿で戦う事は出来なかった。この姿で現れたのも、空に向かって火を吹いたのも、兵の戦意を折るためのブラフだった。作戦は見事的中した。
悟は翼を畳み、砦を見下ろした。城門が開き、兵士達が蜘蛛の子を散らすように街道へと逃げていく。その様を見ながら、悟は静かに人型に戻った。
砦は、落ちた。
その後の数日は、悟が予想していた以上の速さで事が動いた。
噂というのは足が早い。村を焼き、二百の兵を焼き殺し、砦を奪ったドラゴンの話は、あっという間に森のモンスター達の間に広まった。翌日には見知らぬモンスターが砦の門に現れ、次の日にはさらに多くが来た。野良のモンスター、ハンターに追われていたモンスター、仲間を失って一人でいたモンスター。種族も来歴もバラバラな者達が、口々に言った。
「一緒に戦わせてくれ」
「ここに置いてくれ」
「お前についていく」
一週間も経たないうちに、砦はかつてないほどの数のモンスターで満たされた。アース旅団は、今や立派な軍団になっていた。
夕暮れ時、悟は砦の中庭に立った。
周囲を取り囲むように、旅団の者達が集まっていた。古株も新入りも、四足歩行の者も直立する者も、翼を持つ者も持たない者も、全員がそこにいた。砦の壁の上にも、屋根の上にも、鈴なりになって悟を見ている。
悟はしばらく、その光景を眺めた。
かつて一人で廃墟の中に立っていた。弁護士として平和に暮らしていた日々を失い、娘を失い、何日も何日も歩き続けた。言葉も通じない世界で、ただ生き延びるだけだった。
今、目の前に百を超える者達がいる。
悟は口を開いた。
「俺はお前達に一つの事を約束したくてここに立った」
中庭が静まり返った。
「人間に脅かされない場所を作る。ハンターに追われず、毎日命を賭けなくても生きていける場所を。お前達が安心して眠れる場所を、この手で作る」
誰も声を上げなかった。ただ、じっと聞いている。
「俺はこの世界でモンスターとして生き、人間と戦い、仲間の死を見てきた。そしてようやく分かった事がある。誰かが上に立たなければ、俺達はいつまでも散り散りに死んでいく。我々はまとまる必要がある。目的を持つ必要がある。その為に、俺が先頭に立つ」
悟は一度言葉を切った。集まった者達の顔を、ゆっくりと見渡した。
「今この時より、俺は魔王を名乗る。数多の人間から我々は恐れられる存在となる。それでも俺はここに宣言する。全員俺に続け! 我々がモンスターである事に誇りを持て! 自由は我々こそが手にする!!」
悟は背中の翼を広げ、握り拳を高く掲げた。その瞬間、どっと地面が揺れるほどのモンスターたちの咆哮が立ち上った。耳をつんざく声は何分も絶えず響き渡る。
サイラは叫ばなかった。ただ悟の隣に立ち、その光景を静かに見ていた。悟もまた、叫ばなかった。ただ、集まった者達を見ていた。
炎の色に染まった夕暮れの空の下、この理不尽な世界に魔王が誕生した。




