進行する呪い
夜明け前の森は暗く、湿った空気が漂っていた。
倫太郎は木の根を踏まないよう爪先を意識しながら、カルラの後ろをついて歩いた。最初の頃と比べれば、ずいぶん静かに動けるようになってきた。肉球を地面にそっと置く感覚も、風の読み方も、少しずつ身に馴染んできている。
カルラが右手を上げた。止まれの合図だ。倫太郎は即座に足を止め、息を殺した。
耳をそばだてると、前方三十メートルほどの茂みで何かが草を踏む音が聞こえた。鼻が風に乗った匂いを拾う。
そこには鹿がいた。
カルラが顎で前を示した。お前が行けという意味だ。
倫太郎は深く息を吸い、ゆっくりと前へ進み始めた。爪先、肉球、重心。一歩一歩を丁寧に置いていく。木漏れ日が少しずつ増え始め、茂みの輪郭がはっきりしてきた。その向こうに、若い雄鹿が草を食んでいるのが見えた。
二十メートル。十五メートル。風向きは問題ない。鹿はまだ気づいていない。
十メートル。
倫太郎は構えを低くした。前回は枯れ葉を踏んで逃げられた。今日は違う。じっくり確かめながら、一歩ずつ。
八メートル。
鹿の首が僅かに持ち上がった。何かを感じ取ったのかもしれない。倫太郎は完全に動きを止めた。数秒の静寂。鹿の首がまた下がる。
今だ。
地面を蹴った。速すぎないように、しかし確実に。鹿が顔を上げる暇もなく、倫太郎は鹿の側面に飛びつき、その首に腕を回し、肉に爪を食い込ませ、体重を乗せて押さえ込む。鹿は激しく暴れ、蹄が倫太郎の脚を何度も叩いたが、離さなかった。
首を腕に抱え込み、力を込める。
カルラの声が遠くから届いた。
「止めを」
倫太郎は目を閉じた。そして、力を込めた。
バキッと音がして、鹿の首がぐらりと垂れ、体から力が抜けた。
しばらく、倫太郎はそのまま動けなかった。手の中で温かい体が完全に静止するのを感じながら、ゆっくりと息を吐いた。
やった。確かに、やった。
嬉しいとは思った。努力が報われたという感覚も、確かにあった。しかしそれと同時に、手の中にある重みが妙に重く感じた。さっきまで生きていた。草を食んでいた。それが今、動かなくなっている。首を折った感触と音が耳から離れない。
倫太郎は鹿から手を離した。地面に横たわる体を見下ろしながら、何かを言おうとしたが、言葉が出てこなかった。
「初めてだと、そんな顔になる」
カルラが隣に立っていた。
「慣れるのか」
「慣れるよ。良い事かどうかは分からないけど」
倫太郎は鹿を担ぐ。見た目よりもずっと軽い。人間の数倍のパワーがあるので当然の事だった。
帰り道の森は、朝の光に満ちていた。
倫太郎は鹿を担ぎながら、さっきの感触を頭から追い出そうとしていた。うまくいかなかった。
「カルラ、一つ聞いていいか」
「何?」
「人を……殺した事はある?」
カルラはしばらく黙った。足音だけが続く。
「あるよ。十三人」
倫太郎は返す言葉を失った。カルラは少し黙った後、続けた。
「殺したのは全員旅団の敵だよ。誰かがやらないと、奴らはモンスターを虐殺する。そこに悪意はないんだろうけど、私らからすればそんなことは関係ない」
「それは……」
「呪いで感覚が麻痺したわけじゃない」
カルラは倫太郎を見ずに前を向いたまま言った。
「ちゃんと覚えてる。全員の顔を。最初は手が震えた。今でも夢に見る時がある。でも、仲間が死ぬのを黙って見るのは嫌だと思った。だから後悔はないよ」
倫太郎は鹿の重みを感じながら歩いた。十三人。動物を一頭仕留めただけで押しつぶされそうな自分には、その重さが想像できなかった。
「リンタロウは今日、鹿を殺した。命を奪う事がどういう事か、体で分かったよね」
「ああ」
「その感覚を忘れないで。それがあるうちは、まだ人間に近いから」
カルラの声は静かだった。倫太郎は何も答えなかったが、その言葉を胸の中に落とした。
翌日の朝、倫太郎は一人で森へ出た。
狩りではなく、走る練習だ。この体の動かし方はまだ完全には掴めていない。特に急加速の後の方向転換が難しく、木にぶつかったり転んだりする事が多い。
木々の間を駆けながら、速度を上げ、下げ、曲がる。じわじわと感覚が掴めてきた頃、前方の茂みで何かが動くのが見えた。
モンスターだ。倫太郎は速度を落とし、慎重に近づいた。
茂みの向こうを見て、足が止まった。
ウェアウルフだった。倫太郎と同じ灰色の毛、同じ体格。しかし倫太郎とは何かが根本的に違った。彼は服を着ていない。四足歩行で地面を歩いている。鼻を地面に近づけて何かの匂いを嗅ぎ、時折低く唸っている。
以前、カルラが言っていた。仲間にもう一人ウェアウルフがいると。
倫太郎は声をかけた。
「やあ」
ウェアウルフは顔を上げ、倫太郎を見た。片方の目は見えていないのか、白く濁っている。倫太郎を見る目は動物のそれに近く、感情を読み取りにくかった。しばらくこちらを見てから、また地面に顔を向けた。
「俺は倫太郎。お前も最近ここに来たのか」
反応がない。唸り声だけが低く返ってくる。
「同じウェアウルフだよな。話せるか」
「……ニオイ」
突然、かすれた声が出た。倫太郎は少し驚いた。
「匂い? 何の匂いだ」
「……ウサギ」
それだけ言って、また唸り声に戻った。会話にはならない。こちらの言っている事はどうやら理解しているようで、倫太郎が動けば目で追い、近づけば身を少し引く。しかし向こうから何かを伝えようとはしない。
しばらく試みを続けていると、突然ウェアウルフが耳を立て、遠くを見た。次の瞬間、四肢で地面を蹴り、猛烈な速さで茂みへと駆け込んだ。倫太郎が驚いて後を追いかけると、ウェアウルフは木の根元でうずくまる兎を捕まえていた。そのまま頭から噛み砕き、骨ごとバリバリと食べ始めた。
倫太郎は立ち尽くした。
食べる事自体を責める気にはなれなかった。ただ、その光景を見ながら、自分の手を見た。灰色の毛に覆われた、大きな手。同じ手だ。
砦へ戻りながら、倫太郎はずっとその光景を頭の中で繰り返していた。
カルラにその事を話すと、特に驚いた様子もなかった。
「あいつ、名前はギュンターって言うの。来てから半年くらいかな」
「半年で、あそこまで……」
「ウェアウルフだからね。狼寄りの種族は呪いが進むと狼らしさが前に出てくる。言葉より匂いと感覚で動くようになる。私達って骨格がどっちかと言うと狼に近いでしょ。それが獣寄りって事だよ」
「でもカルラはまだちゃんと喋れてる」
「個人差はあるよ。それに私はまだ一ヶ月だし」
カルラは淡々と言った。
「ギュンターはもう仕事はできないのか」
「できるよ。見張りも、狩りも、遠征も。仲間の匂いは覚えてるから、敵と区別できる。言葉は理解してるから命令も聞く。ただ……」
カルラは少し間を置いた。
「仕事をこなしてるのが、本当に意志なのか、それとも習慣や本能なのか、もう分からない」
倫太郎は黙った。
「モンスターによっては、呪いが進んでも流暢に喋り続ける種類も多いよ。姿形や骨格が人間に近いほど、人間っぽい振る舞いが続く。でも中身は変わっていく。同じ獣系でも、背骨が真っ直ぐで直立してるモンスターはずっと人間みたいに喋ってる。不公平だよね」
「じゃあ最終的に、俺も」
「分からない。でも可能性はある」
倫太郎はそれ以上何も言わなかった。
砦に戻った倫太郎は、すぐには部屋に戻らず、砦の中をぶらついた。
ギュンターの話を聞いた後、他の団員達がどう見えるかを確かめたかった。あるいは確かめたくなかったのかもしれないが、足が勝手に動いた。
外の訓練場として使っている砦の裏の広場では、四足歩行の骨格を持つモンスター達が動き回っていた。熊に似た体格の個体が地面を転がりながら別の個体と組み合い、ワニを思わせる横長の顔を持つ者が低い姿勢で素早く動く組み付く練習をしている。四足の体は人間のそれとは全く異なる動き方で、しかし確かに戦闘の型を持っていた。少し歩くと、キメラのような個体が狩ってきたらしい大きな猪の首を咥えたまま引きずり、食料庫の方へと運んでいる。倫太郎と目が合うと、低く唸って頭を下げた。挨拶のつもりなのだろうと解釈した。
砦の内部へ入ると、雰囲気が変わった。
廊下を歩く背骨のまっすぐな者達は、倫太郎が見慣れた人間の歩き方とほぼ同じように動いていた。オーガの一人が別の個体に今日の哨戒の報告をし、小柄なコボルトが二体、何かを相談するように頭を突き合わせている。その会話の内容は普通の言語で、聞いていると食料の在庫管理の話だった。一見すると、外と中では別の場所のようだ。
そんな中で、階段の途中に腰掛けている者が目に入った。人型に近く、背中から翼が生えたインキュバスだ。その手には何かを握っているのに気付く。人間の脚だった。切り取られた、素のままの人間の脚を、おやつでも齧るように生のまま食べている。その表情は穏やかで、壁に背をもたれながら、まるで休憩中に干し肉を食べているかのような自然さだった。
目が合うと、彼は「僕のだよ」と言った。倫太郎は目を逸らした。
気分が悪くなりかけたところで、聞き慣れた声が飛んできた。
「おっ、リンタロじゃないか」
「珍しいな、こっちにいるの」
トニーとディーンだった。二人は並んで壁に寄りかかり、何か食べながらこちらを見ていた。倫太郎はとりあえず近づいた。
「少し砦の中を見て回ってた」
「観察か、感心だな」
「色々考えてそうな顔してるぜ」
倫太郎は少し迷ってから聞いた。
「二人は……呪いはどの程度進行してるんだ」
トニーとディーンは顔を見合わせた。それから同時に笑った。
「とっくに進行し切ってるよ」
「完全に完了してる」
あまりに明るく言い切るので、倫太郎は返す言葉を失った。
「でも普通に喋れるし、普通に考えてるし、普通に動いてる。どこが変わったのか、正直自分じゃよく分からん」
「ゴブリンは元々こんなもんなのか、呪いでこうなったのか、もう区別がつかないな」
「怖くないのか」
二人はまた顔を見合わせた。
「怖いとか怖くないとか、そういう感覚がもうないのかもな」
「それが呪いなのか、それとも単に慣れたのか」
「……そういう事を気にしなくなった事自体が、変化なのかもな」
最後の一言だけ、少しだけ真剣な声色だった。倫太郎はそれ以上何も聞けなかった。怖い、という感情が喉元まで来ていたが、口には出さなかった。
「まあ、飯でも食えよ。考えすぎは良くない」
「美味いもんでも食えば少しはましになる」
「コーラがあれば完璧なんだけどな」
「あとハンバーガー」
二人はガハハと笑った。
「にしてもリンタロってそんな喋り方だったか?」
「もっと丁寧な言葉遣いだったような……」
倫太郎は首を傾げた。
「俺はずっとこうだ」
すると、二人は何かを察した表情をした。
「まあ良い、気にすんな」
「じゃあまたな」
倫太郎は「じゃあな」と手を上げ、二人から離れた。廊下を歩きながら、さっきインキュバスが人間の脚を食べていた階段を降りた。もうその個体はいなかった。床に僅かな染みだけが残っていた。
外の空気が吸いたくて、倫太郎は裏口から砦の外へ出た。
翌朝、倫太郎は砦の外の焚き火で肉を炙っていた。昨日仕留めた鹿の残りだ。脂が落ちて炎が揺れる音を聞きながら、棒で肉を回していると、隣にカルラが座った。
「おはよう」
「ん」
カルラは焚き火の脇に腰を下ろし、傍らに置いていた布包みを開いた。中から取り出したのは、生の肉の塊だった。
倫太郎は棒を持ったまま固まった。
カルラは何の気なしに生肉に齧り付いた。赤い肉を口の中で噛み、飲み込む。火を通す気が全くないその様子は、まるでギュンターを見ている時のようだった。
「カルラ」
「何?」
「その肉、生だぞ」
「分かってる」
「火を通せ」
「いい。慣れてるから」
倫太郎は棒を地面に刺し、カルラの方を向いた。
「カルラ、お前は昨日まで火を通した肉を食べてたぞ」
カルラの手が止まった。
「そうだっけ」
「そうだ。俺と一緒に炙って食べてた」
しばらく沈黙が落ちた。カルラは手の中の生肉を見た。それからゆっくりと、焚き火を見た。
「……気づかなかった」
その声は少し低かった。
「俺達、お互いを見るって約束したよな」
「……うん」
「だから言う。これは変化だと思う」
カルラはしばらく生肉を持ったまま動かなかった。倫太郎は何も急かさずに待った。やがてカルラは生肉を地面に置き、倫太郎が炙っていた肉を受け取った。口に運び、一口食べる。
「……美味しい」
「そうだろ」
「でも、さっきまで生でも良いと思ってた」
「分かってる」
カルラは炙った肉を静かに食べ続けた。倫太郎も自分の肉を棒から外して食べた。焚き火が静かに燃えている。
カルラが指摘を受け入れてくれた事に、倫太郎は安堵した。しかし同時に、それが少しも楽観できる材料にはならないとも分かっていた。カルラが昨日まで普通に食べていた火を通した肉を、今日は当たり前のように生で食べようとしていた。しかも本人は全く気づいていなかった。
一ヶ月で、これだ。
昨日のトニーとディーンの言葉が頭に戻ってきた。とっくに進行し切ってる。それをあの二人は笑いながら言った。笑える事自体が、もう変わっている証拠かもしれない。
倫太郎は自分の手を見た。灰色の毛。黒い肉球。この手がいつかギュンターのように地面を四本足で歩くようになる日が来るのか。
絶対にならない、と思いたかった。しかし今日のカルラを見て、その確信は少し揺らいでいた。恐怖は音もなく積もっていく。昨日より今日の方が、心に重くのしかかっていた。




