名前は稲川③
「泊めさせて」
「しつこい」
この高校に入学してから、同じ会話しかしていない気がする。茶トラ猫が可愛くて少し見直そうかと思ったけど、稲川は稲川のままだった。
「じゃあ、今日一緒に帰ろ」
私が拒否ばかりしていたら、稲川はどこか不服そうに普通の提案をしてきた。初対面で一緒に帰る提案をするのだって、そもそもそこまで難易度の低い話ではないとは思うけど、最初の打診があまりに突飛だったから感覚が麻痺してしまいそうだった。
でも、稲川がどうしてそこまで私に執着するのか、よく分からなかった。可愛いとは言ってくれたけど、どう見ても稲川のほうが美人だった。髪は綺麗だし、鼻も高い。無駄な肉も付いている感じはなかった。彼氏がいないと言われたら、逆に驚いてしまう。
それなら、私で遊んでいると考えるほうが腑に落ちた。たぶん、稲川にはもう友達がたくさんいて、余裕があるんだろう。私の中学校は高校から少し離れているから、学年に知り合いも殆どいない。本当に友達が欲しいなら、断られると分かりきっているあんな提案をするはずがなかった。きっと、稲川は私を揶揄っている。
「んー……」
「えっ、だめ?」
私が難色を示すと、稲川は目を丸くして拍子抜けといった感じだった。
「稲川は、他に友達いそうだし」
だから無理というわけでもないけど、稲川の意のままにされるのはなんだか気に食わなかった。意固地になっているのは分かっているけど、私にだって見栄くらい張らせてほしい。
そう思って、少し突っぱねるような口振りで稲川に当てつけを投げつけた。
稲川はそれを聞くと、眉を顰めながらゆっくりと私の耳元に顔を近づけてきた。
「いないよ。宇田しか」
「はぇ……?」
喧騒の絶えない教室で、稲川の囁きだけが鮮明に聞こえた。一体何を言っているのか、飲み込むにはあまりに時間が足りなかった。
稲川が、友達。
そんなに当然のように言われると、表情の居場所が迷子になってしまう。
姿勢を戻した稲川は、決まりが悪そうに手櫛で髪を梳いている。そっちが言ってきたくせに。
「……だからさ、どう?」
淀みとも揺らぎとも形容しがたい間が過ぎて、それに耐えかねたのか、今度はやけに上目遣いで打診をしてきた。
稲川は、狡い。
「絶対、泊めないよ」
「なら、いい?」
条件があまりにも不公平な気はしたけど、大して悪い気もしなかったから、今日のところは目を瞑ってあげようと思う。
「……まぁ」
でも、稲川の好きにはさせたくなかったから、少しだけ言葉を濁しておいた。
「わーい」
目の前で人目も気にせず無邪気に喜ぶ変な奴の名前は、稲川。私の最初の友達は、生憎だけど君になりそうだった。




