第19話 あなたとふたりで、人でありたい
そこは六本木の西にある人気のない公園だった。
夜も更けて、夜風に揺れる木々の音、そしてそれを照らす外灯の光だけがここにあった。
コンクリートに覆われた道路側と違い、夜風に乗って土の匂いが鼻を掠めてくる。
まるでこの場所は街ではない。と主張するように。
あまりこの辺りをうろつかないから、この六本木に人が少ない場所があるなんて想像していなかった。
調べてみると元官舎跡地だという。なんだか雅な雰囲気があるのは、それが理由なんだろうか。
六本木。
この場所を指定したのは鶴山さんだ。
俺と鶴山さんの始まりの場所でもある。
ここを指定した理由なんて考えるまでもない。
公園なのは、突然であることもそうだが、ご飯を食べながら話すことでもないからだろう。
「まったく……フラれる好条件がこれでもかってくらい揃ってやがるなあ」
予感ではなく確信。
鶴山さんは今日必ず言うだろう。
交際関係を解消したい。
と。
鶴山さんは、その理由を言えないだろう。
だけど俺はわかってる。
だから理由にならない。
頭の中で何度もシミュレーションして、何を伝えるか整理した。
——準備はできたか?
オーライ。
じゃあ行こう。
俺は公園の中に入り……指定された場所へと歩き始めた。
✳︎
入り口に入り、曲がってすぐのところ。
鶴山さんは二つ並んだベンチの、どちらにも座っていなかった。
ただ、立って。
電灯に照らされた木をじっと見つめていた。
「何か……いますか?」
声をかけると、鶴山さんは静かに首を振って否定する。
「いえ、ただ考えてただけです」
「立っていたら疲れませんか?」
「大倉さんは私が会った時、立っていました」
「あれは直前まで座っていたんですよ」
顔合わせの時のことだ。
あの時、俺は反射的に立っていただけなんだよな。
「お待たせしてしまってすみません。じゃあ、座りましょうか」
「はい」
そう言って、俺たちはともにベンチに座る。
同じベンチに座っているのに、なんだかとても遠く感じる。
「思えば、最初の時から私は迷惑をかけていましたね」
鶴山さんはぽつりと言葉をこぼし始める。
「初めてのデートで遅刻してしまって。居酒屋の時は青魚が食べられないことを伝え忘れて、遊園地の時は迷子になって、最近は大倉さんを振り回してしまったように思います」
振り回した……というのは、コラボカフェのことだろうか。そんなふうに思っていたか。
「別に振り回されたとは思ってませんよ。樹君を呼んだのは私ですから」
今の鶴山さんは、これまでの後ろめたさが一気に押し寄せて来ているのだろう。ならまずはそれを解消しなければ。
「それを言うなら私も。婚活を続けたいと言ったのは私なのに、空回りばかりし続けていました。居酒屋に関しては事前に確認しておけば良かった話だし、酔っ払って家に送ってもらったのだって情けない話です」
自分で言ってて苦笑してしまう。本当に……なんて経験が浅くて頼りない奴なんだ。
「遊園地の迷子は私が蒔いた種です。合流場所を指定しておけばよかっただけの話だし、連絡が繋がらない可能性も考えれば分かることでした。コラボカフェの時だって、私はよく考えたら樹君を呼ぶ必要なんかなかったんです」
独りよがりではいけない。と誓ったのはいつだったか。
振り返れば何一つ改善していなかったな。
「だからお互い様なんですよ。私たちは二人とも、経験不足だったんです」
いつもどこかぎこちなかった。
それは秘密を抱えているせいだと思っていた。
だけど本当は違う。
俺たちはただ単純に、どう接したらいいのかわかっていなかっただけだ。
恋愛なんてやったことがなかったから。
どこまで踏み込んだらいいのかわからなかった。
「そう……ですね。だから、私には……まだ早かったのかもしれません」
鶴山さんが俺の言葉を引き継ごうとする。
もはやその言葉で、鶴山さんの決意は感じられた。
「今日、来ていただいたのは。もうお分かりだとは思うんですけど、私たちの交際についてで」
「——その前に。私の話を聞いてもらえませんか」
それを遮る準備はできていた。
鶴山さんが考えそうなことを、昨日からずっと考え続けていたからだ。
「さっきね、私達は経験不足だったって言ったじゃないですか」
鶴山さんはこくりと頷く。
「それって、とても新鮮な経験をしていたということだと思うんです」
例えば婚活をしたこと。
おしゃれな高級料理店で女性と二人きりでご飯を食べるなんて、滅多にすることじゃない。
エスコートの勉強もしたし、テーブルマナーも勉強した。大して活かせなかった。
妹以外の女性とサシ飲みして、会話が弾む経験も、大人なのに遊園地のアトラクションで遊ぶ経験も。
鶴山さんと交際を始めたからできた経験なんだ。
「私たちは知ることすらできないかもしれなかったことをしたんです。ナイトパレードは、私にとっても初めてだったんですよ」
鶴山さんが息を飲んだのを感じた。あの夜のことが特別な経験だったと言ってくれたのは、鶴山さん自身だ。
「だから。とても楽しかったんですよ」
俺は立ち上がり、鶴山さんの正面へ。
「——あなたとのデートが」
さあ。
ここから先。
もう何もシミュレーションしていない。
恥ずかしいし、怖い。
だけどやらなきゃいけない。
そうだろ、俺。
深呼吸。
吸ったなら、吐け。
吐いたなら、吸え。
そしたら、喉を震わせて声にするのだ。
「《《俺》》はオタクです!!!!」
ビルの隙間を縫ってやってくる夜風に負けない声で、俺は鶴山さんに宣言した。
「今までずっと言えませんでした! エロゲのことも知ってます! プレイだってしてます! つるきちと連んでるのも、その繋がりです! だけどどうしても言えなくて! だからアキバで鉢合わせた時は、肝があり得ないくらい冷えました!」
そのカミングアウトは、鶴山さんにどう映っているのか分からない。だけど大事なのは……これじゃない。
「そんな感じで、俺は秘密を抱えてました。俺がずっと踏み込めなかったのは、この事を言えなかったからだと思いました」
隠し事は後ろめたさ。
それを持っている限り関係を進められない。
俺はそう思っていた。
「でも、違いました。秘密も、二面性も、誰でも持っているものなんですよ。肝心なのは……まったく別のことだったんです」
鶴山さんは俺をじっと見つめている。
俺の長い話を聞いてくれている。
それだけでありがたい。
「大事なのは……秘密があることを受け入れることだと気付きました」
人間、誰にでも秘密があるものだ。
だけど、それがあるから距離を取らなきゃいけないなんてことはない。
みんなどこかに何かを抱えて生きている。
違うのは大きさだけなのだと。
ずいぶん抽象的だけど、そう感じている。
「秘密があることに、後ろめたさを感じなくていいんです。共有できることは共有して、共有できないことは共有しなくていいんです。俺がオタクであることは、鶴山さんと共有できることだと思った。だから言いました。でも、それ以上の秘密があります。言えない秘密が」
喉がカラカラだ。喋りすぎだろう。
だけどもう一息。大事なことを言うまで。
「だから……俺は貴方に秘密があったっていいです。言えないことがあったっていいです。俺はそれを受け入れます。迷惑だなんて思いません。後ろめたさなんて感じなくたっていいです。そんなのお互い様なんです」
鶴山さんの瞳が揺れる。
俺はそれをじっと見つめた。
逸らさずに。
「俺はその上で……鶴山さんと——美鳥さんと、交際を続けたいです!」
負けてたまるか。
臆病な俺に負けてたまるか。
美鳥さんの申し訳ない気持ちに、負けてたまるかよ!
「きっといつかは話さないといけない日が来るかもしれません。それで傷つく日が、傷つける日がくるのかもしれません。でも俺は、それから逃げません。だから、顔合わせの時に言ったことを撤回します。俺は貴方を通して結婚を考えるのをやめます」
あの日と違う、けれど確かな勇気を胸に宿して。
「俺は、《《貴方との結婚を考えるために》》……交際を続けたいです!!」
夜風が木々を揺らす音と、さほど遠くない場所で走る車の音。
そんな鼓膜を震わす音の重なりに、やがて鈴のように転がる可憐な声が加わった。
「困って、しまいました……」
ぽつり、と。
「私は……今後、貴方に迷惑がかかるかもしれないから。貴方にどうしても言えない秘密があるから。それがどうしても後ろめたいから」
「…………」
「全部、先回りされてしまいました、私が言おうと思っていたこと。全部受け入れると言われてしまいました。それでは、何も言えることがありません」
俺は鶴山さんが何を考えるか考えてきた。
適当な偏見や推測じゃなくて、これまでのデートで知ってきたことから。
雛坂日奈子の時の気持ちから。
だから前よりは間違えていなかったのだろう。
「その上で……私と交際したいと言われて……そんなの……」
鶴山さんの瞳に——水晶のような輝きが滲んだ。
「そんなの……断れるわけがありませんっ……!」
ああ。
今やっと、心臓の音を自覚した。
夜風と車の音だけじゃなかったのか。
ずっとバクバク鳴ってんじゃん。
なんだよ、俺の耳は悪いなあ。
「断ろうとしなくて、いいんです。美鳥さん」
「でも……本当に迷惑かけてしまうかもしれないですよ」
「いいです。そんなの、誰だってそうなんです。自分が迷惑かけるかもしれないから、相手からの迷惑を受け入れるんですよ」
それが共存というものだと、何かで読んだことがある。
多分その果てにあるのが……結婚なんだと思う。
「ふふ……なんかキザっぽいです」
「そうですかねー?」
「そうですよ……ふふ」
そうして、お互いにひとしきり笑い合って。
「それでは……今後ともよろしくお願いします、美鳥さん」
「はい……迷惑も含めて、こちらこそよろしくお願いします——」
俺はいずれ来るであろう未来に、この時のことを語るだろう。
「――陽彦さんっ!」
この時の美鳥さんの笑顔と声は、とても可愛かったと。




