第九話 あんたにしか頼めない
『むかツく。むかツく』
『ナんデ、アノ女
何ヲやっても コタエない……』
枕元で霊の嘆きを聞きながら、茜は黙って目をつむっていた。
そういえば、今日は二度も寿郎のいない台所で料理をしていたが、特に霊障らしい霊障は起きなかった。ブツブツとお決まりの呪詛が聞こえるだけで、物理的な攻撃はない。
てっきり包丁が飛んでくるとか火が不自然に燃え上がって火傷させてくるとか、そのくらいの現象は覚悟していたのだが。
どうしてだろう。
もしかして、風呂場で直接的な攻撃をしたことで、茜を追い出すどころか寿郎が茜をつきっきりで看病する結果になってしまい、完全に逆効果だったので霊も打つ手がなくなってしまったのだろうか。
いやまさか。いくらなんでも馬鹿げている。
そういえば、風呂場で聞いた、女の声……あれも霊だったのだろうか。普段聞こえる霊の呪詛は、いろんな霊の言葉が幾重にも重なったように輪郭のはっきりしない声なのだが、あのとき水の中で聞いた声は、明確に一人の女の声だったように思う。
何はともあれ、このまま霊がおとなしくなってくれれば言うことはないのだが、そう都合よくはいかないだろうな……
などと考えながら、茜は眠りに落ちていった。
翌朝、茜が朝餉の準備のために早起きして台所へ向かうと、すでに直彦がいた。
「おはようございます。……あの、具合はもういいのですか」
直彦は一瞬ちらりと茜を見、ふいと視線をそむけてしまう。
「いい。熱もないし咳もない。完全に治った。……ました」
「そうですか。それはよかったです」
治ったのなら、またいつも通り直彦が台所に立つのだろう。茜はそのまま戸を閉めようとした。
「待てよ」
閉じかけた戸をガッと掴まれ、強引に開けられる。怒った子犬のような目が、茜を睨むように見上げてくる。
「……」
直彦は口を開き、だが言葉が出ず、しばらく目だけが右往左往していた。が、やがて決意したようにもう一度茜を見据えると、
「えっと……オクサマは料理、好きなんですか」
とつっけんどんに聞いてきた。
「え?」
「だから。料理。好きなんですか。掃除みたいに」
「え、……ええ、まあ」
「仕方ない、そんなに言うなら台所ゆずってあげますよ」
「え」
「仕方なしだからな。あんたはオクサマですし、命令されたら言うこと聞くしかないですし」
「別に命令はしていませんが……」
「そんなに言うなら仕方ないから譲ってあげます。その代わり料理を教えてください」
茜は一瞬、言葉を失った。
直彦の姿勢は、微妙に前のめりになっている。彼なりに頭を下げているつもりらしい。
「……ふ」
茜の頬がわずかに引きつった。真顔のまま、唇の端から声が漏れかける。直彦は驚いたように顔を上げた。
「……あんた、今」
「わかりました。そんなに言うなら仕方ないので教えてさしあげます」
「待てよ、あんた今もしかして笑ったか? すげー不気味だったぞ……っていうかそれ俺の台詞! 真似すんなよ!」
「はい、まずはお米を炊きましょう。お米の洗い方はご存知ですか?」
「馬鹿にすんなし、それくらい知ってるし、ていうか教えてもらいたいのはそういうんじゃなくて、なんかこうすごい洋食とかハイカラなやつを」
「そういうのは基礎ができてからやるものです」
茜は問答無用で桶とざるを直彦に押しつける。直彦は「くそ……」と悔しそうに米を洗いはじめたのだった。
「……そうですか。茜さんが、直彦と」
寿郎は目の前の食卓を見下ろした。ありあわせなのでまたしても干し魚に吸い物和え物と、前日と丸被りであるが、立派な定食である。
「直彦さんがお米を炊きました。少し柔らかめではありますが……」
「おい、さん付けはいいって言――」直彦が小声で口をはさみかけ、寿郎の顔を見て慌てて「――いましたよね、なんか気持ちが悪いので」と訂正した。
「じゃあ、直彦君でいいですか」
「君? まあ君でもいいですけど……」
言い合う二人を、寿郎は戸惑うように交互に見やる。
「……二人とも、ずいぶん仲良くなりましたね」
「別にそんなんじゃないです」食い込むように否定する直彦。
「では、さっそくいただきましょう」
寿郎が手を合わせ、箸を取る。まずは吸い物に口をつけ、美味しそうに目を細める。次に焼いた干し魚を口へ運び、これもまたじっくりと味わうように咀嚼した。
その様を、直彦は自分の皿には手をつけず、じっと見つめている。やがて寿郎が茶碗を取ると、一気にハラハラした顔になって、ごくりと唾を飲んだ。
「……うん、確かに、少し柔らかめですが。今までで一番美味しく炊けていますよ」
直彦の顔が、一気に芽吹いたようにほころんでいく。
「これからも茜さんによく教えてもらいなさい。……茜さんさえよければですが」
「ええ。わたしでよければいつでも」
「……っ……っ」
直彦は感極まったように唇をふるわせて、こくこくとうなずいている。彼は感情が高ぶると言葉がどこかへいってしまうらしい。
台所で、直彦と食器を洗う。茜は「寿郎さんに褒めていただけて、良かったですね」と声をかけたが、直彦はずっと無言だった。
やがて洗い物がなくなり、洗い桶を綺麗に拭き上げてから、彼はようやく口を開いた。
「……旦那様の『うまい』って顔、初めて見た」
言葉がぽつんと雫のように落ちて、土間の床に跳ねる。
「俺の米、そんなにまずかったんだ。俺、知らなかった。白米なんか食ったことなかったし、炊いたらあんなもんなんだってずっと……」
「寿郎さんも何もおっしゃらなかったのですから、仕方ありませんよ」
「……」
「直彦君自身は、どうでしたか。食べてみて、美味しいと思いましたか」
「……まあ、うん、うまかった」
「じゃあこれからも美味しいものを作りましょうよ。あなたはまだ若いのだし、これからいくらでも学べますから」
「……うん」
初対面の頃の態度からは考えられないほど、彼は素直だった。料理に対する寿郎の反応がそれほどまでに衝撃的だったのだろうか。
「ではしばらくは、米はあなたにお任せします。何度も炊いて練習しましょう。あとは基本的な切り物と……焼く、煮る、炒めるの加減の練習もして……」
「あのさ。料理ってどうやって覚えるんだ」
「どうやって……」茜はミルクホールで働いていた頃を思い出す。「わたしの場合は、勤め先で嫌と言うほど何度も同じ献立を作らされたので、体で覚えてしまったというか」
「献立の本を見たとかじゃないのか」
「あまり見てはいませんね。厨房長の口伝や走り書きを見ていましたから」
「俺、一冊持ってんだよ」言いながら、直彦は台所の引き戸を開けていた。「取ってくるから待っててくれ」
それからすぐ駆け戻ってきて、一冊の本を茜に差し出した。何やらとても分厚い。
「これ。旦那様がくれた小遣いで買ったんだ。絵もついてて、わかりやすいかと思って。でも、その……」
だんだん声が小さくなってくる。
「俺、その、学校……出てないから。字があんまり……」
茜は本を手に取り、ぱらぱらとめくってみた。「家庭の献立」という題で、その名の通り、いろいろな献立とその調理法が絵と共に詳しく書かれている。出汁の取り方や米の炊き方など、基礎的な内容も網羅されていた。
「これ、とてもいい本ですね。料理を始めたばかりの人が読むにはちょうどいい内容ですよ」
「そうなのか」
「はい。ですから暇なときに目を通し、台所で実践するのがいいと思います」
「じゃあ字を教えてくれ――ください」直彦は微妙に体を前に傾けた。「こんなこと頼めるの、オクサマしかいなくて」
「……わたしでいいんですか?」
なぜだろう。いやに素直な彼を見ていると少しだけ意地悪な気持ちが顔を出してしまう。
「てっきり、あなたはわたしを嫌っていると思っていました」
「……それは」直彦はばつが悪そうに下を向いた。
「その……そりゃ、最初はほら……あんたがどんな人間かわからなくて」
「今はわかっていただけたんですか?」
「今だってわかんねえよ。でも……っ」彼は苛立ちながらも懸命に言葉を探している。「あんたはたぶん、今までのオクサマたちとは違う気がするから」
「違う……?」
「たぶんだけど。少なくとも気が狂って家を飛び出したり、霊だのなんだの意味わかんねえこと言って旦那様を困らせたりしなさそうだし。あと……」
「あと?」
「なんでもない」直彦は怒ったように話を断ち切った。
「とにかく、俺はあんたがもうずっとここにいるもんだと思ってるから。そういうわけだから。オクサマとして、使用人の俺を責任持って面倒見てくれよ」
なんだか勢い半分で無茶苦茶なことを言われている気がするが、茜は彼の先生役となることを受け入れた。
なんだか、弟ができたような感覚で、嬉しかったのだ。




