第十話 昔なじみの救世主
台所を片付けたあと、茜は茶室の卓上で直彦と向かい合い、先ほどの献立本を音読させてみることにした。彼が文字をどの程度読めるのかを試したかったのだが、結果は散々であった。
まず漢字は基本的に壊滅状態、ひらがなカタカナに関しては、知ってはいるようだが読み間違えたり、迷ったりしている。普段、買い出しには行くらしいので、数字や単位は感覚で覚えているようだ。
「ううん、これは……献立を見るより先に、文字をきちんと覚えるのが先でしょうね……」
「それってどれくらいかかるんだ」
「わかりません。直彦君の頑張り次第です」
「じゃあ三日。三日で全部覚える」
「それはおそらく全国の学生みんな不可能では……」
「じゃあどうすりゃいいんだよ。俺は一刻もはやく旦那様にうまい飯を作りたいんだぞ」
「焦っても何もいいことはありませんよ。とにかく、教本を手に入れましょう。料理はわたしが日頃、台所で口伝しますから、実践しつつ覚えて、家事の合間に教本で勉強してください」
「はー……先が思いやられるなー」
あなたがそれを言いますか。
昼餉のあとすぐ、茜は寿郎に「お願いがあるのですが」と切り出した。
「お願い、ですか?」寿郎が驚いたように聞き返す。
「はい。実は、直彦君が文字を覚えたいそうなのです。献立本を読めるようになりたいとのことで……そのために教本を買いたいのですが、わたしには費用がなく……」
「そんなことですか」
寿郎は笑った。ため息のようにも聞こえる笑いだった。
「あとで費用を渡しますから、部屋で待っていてください」
「ありがとうございます」
「ありがとうございます旦那様っ」
直彦が深々と低頭する。「この恩は必ず、必ず返しますから!」
「恩なら茜さんに返しなさい」
寿郎はさらりと言って席を立った。
茜は後片付けを済ませて寝室へ向かう。その途中、廊下で霊とすれ違った。
『ハヤく 出てイケ……』
すれ違い様、ぼそりと嫌味を言われた。周囲から痛いほど視線を感じる。視界の外にもたくさん潜んでいるらしい。
しかし、ずいぶんとおとなしくなったものだ。あれから何度も機会はあったはずなのに、危険な霊障がまったく起こらない。寿郎がつきっきりで看病してくれたのがそれほど彼らにとってつらい光景だったのか。
寝室で身支度をして待っていると、
「茜さん」
と襖の向こうから声がした。はい、と返事をする。
だが、襖は開かない。
「……寿郎さん?」
くすくす。
くすくす。
くすくす……
部屋のあちこちから冷たい笑い声が響き、広がる波紋のように空気を揺さぶる。
背筋が凍りついた。
今のは、寿郎の声じゃない。
『オまエ 聞こエテる ナ?』
すぐ耳元でささやかれ、はっと息が止まった。
ぶらん、と眼前に女の首が逆さに垂れ、カッと目を見開く。
『視エてもいるダロウ』
動揺していたせいだろうか。
はっきり、目の前の女と視線がかち合ってしまった。
すぐに目をそらしたが、一瞬の動揺は隠しきれなかった。
「視エナいふりヲ してイたなアァッ!』
叫び声のような、赤子が泣きわめくような、けたたましい笑い声が部屋中に響き渡る。
茜はその場から一歩も動けなかった。
――お父ちゃん、お母ちゃん。
――この家、いやだよ、こわいよぅ……
幼い自分の声が頭の中に響く。
まだ霊に慣れず、視えてしまう霊にどう立ち回ればいいかもわからず、途方に暮れていたあの頃の気持ちごと、心によみがえってくる。
視えない。聞こえない。気にならない……頭の中でいくら念じても、霊たちの嗤い声にかき消されてしまう。
怖い。
怖い……
どうすれば……
わたしは……こんなとき、どうしていたっけ……
「茜さん」
部屋の外から呼び声がする。
寿郎の声だ。
返事をしなければ……そう思うのに、声が喉に絡まって出てこない。
もしも、また、霊の声だったら。
騙されて、返事をしてしまったら……
「茜さん?」
寿郎の声が、「失礼しますよ」と続ける。襖がそろそろと開く。
「おや……」
部屋の真ん中で突っ立っている茜を不思議そうに見やる。
「何かあったのですか」
「……い、え」
本物だ……茜は咄嗟に首を横に振った。
「少し、ぼうっとしていただけです」
「そうですか」
寿郎はまだ少し怪訝そうにしながらも、手にしていた懐紙を差し出した。
「教本の費用です。こちらを使ってください」
「ありがとうございます」
茜は両手で丁重に受け取った。が、手に持ってすぐ、その奇妙な軽さに気づいた。
本代と言われ、てっきり貨幣を想像していたのだが……
「あの……これ、紙幣ですか?」
「はい、そうですが」
「本代にしては多いような……」
「ああ、遅くなりましたが、茜さんの分のお金も一緒に入れてあります。本を買った残りは好きなように使ってください」
「えっ」
茜はおそるおそる懐紙を広げた。現れたのは十枚の一圓紙幣である。
「喫茶店で言っていましたね。生活が安定したらやりたいことがあると。そのお金を役立ててください」
「ですが、もらいすぎです、とんでもない大金です」
ミルクホールの給金さえ、一圓でももらえたらいい方だったのに。女中奉公時代なんて金銭すらほとんどもらえなかった。
十圓もあったら何ができるだろう。映画も、芝居も、綺麗な銘仙の反物だって手に入る。もっと貯めたら絹織物だって……
「無理にこの範囲に収める必要もありません。必要なだけ、言ってくだされば追加でお渡ししますよ」
「いえ、あの、本当にじゅうぶんすぎますから」
夢は夢。魂にしみついた貧乏根性が地に足をつけて離さない。
茜は紙幣を数枚返そうとしたが、その手を寿郎に取られた。
「無理して使わなくてもいいですから。夫としてこれくらいはさせてください」
優しく手を握りこまれる。綺麗な顔が近づき、茜は咄嗟に目をそらす。
「はい、わかりました」
「本当はこの機会に町を案内したかったのですが。何ぶん、仕事が詰まっていまして」
「お気になさらないでください。お仕事優先でお願いします」
茜はお金の包みを掲げ、丁重に頭を下げた。
「このお金は大切に使わせていただきます」
「気軽に使っていいんですよ」
寿郎に再三言われたが、気軽になんて使えるわけがない。
茜は一圓札を一枚だけ抜き取って巾着に入れると、さっそく町へ向かうことにしたのだった。
宇木邸のある丘をくだり、住宅街を抜けて町へ出る。
この辺りは開発されたばかりであるらしく、大通りは行き交う人で賑わっていた。通りの両端に建ち並ぶ店並みや、飾られた幟や幡の鮮やかな色……その中を路電や円タクが走り、町の活気に拍車をかけている。
寿郎からもらった手書きの簡単な地図を頼りに歩く。目的の書店は街角にあった。創業者が今や出版社まで手掛けているという大きな本屋の、出張書店である。
中に入ると、四方の壁が本で埋め尽くされていた。ひやかしている人の姿もちらほら見える。本棚の端に梯子があるが、あれは高いところの本を取るためのものだろうか。
本とは高価で貴重なもの。こんなところに入るのは生まれて初めてなので、少々まごついてしまう。ぎっしりと並ぶ本の背に目をこらしつつ、ひたすら物色していた。
「――おい」
急に後ろから声をかけられ、茜はばっと首を振り向けた。
見れば着流し姿の若い男が立って、こちらを見下ろしている。彼は茜の顔を見ると、驚いたように「やっぱり」とつぶやいた。
「おまえ、茜だろ」
「……えっと」
名前を呼ばれ、もう一度改めて男の顔を見る。
「――あ」
もしかして。
「洋、吉……?」
「ひどいな、一瞬忘れてただろ、俺のこと」
男は背まで垂れた長髪を揺らして笑った。
「けど、尋常小以来だな。すげえ偶然だ。まさかこんなとこで出会うなんて」
洋吉。坂井洋吉。
尋常小学校時代、一つ上の学年にいた。寺の息子。
昔からちょっと軟派な性格ではあったが、着崩れた着流しや毛先だけを適当に結んだ長髪を見るに、今もそう変わりないことが窺える。
彼はすんと鼻を鳴らし、すぐに顔をしかめた。
「やっぱりか。おまえからにおってたんだな」
「……におう? 何が?」
「そっか。おまえ、〝視える〟けどにおいはわからないんだっけか」
洋吉は顔をしかめたまま鼻をおさえた。
「すっげえ死臭がするんだよ。おまえから」




