第十一話 昔なじみの救世主②
十年来に会った同郷の男から突然「死臭がする」と言われた。そして今、なぜか出店であんパンを買い、店の裏の軒下で二人並んで食べている。洋吉が気前よく奢ってくれたのだ。
「ねえ、死臭って何。死体のにおいってこと?」
「んー、そりゃ腐乱臭だな」
洋吉は大口を開けてあんパンをかじり、ものすごい早さで咀嚼して飲み込んだ。
「俺が言ってんのは、死んだ魂の発するにおい。おまえにはわかんないだろうが、生気を失ったり穢れちまったりした魂は、独特の嫌なにおいを放つもんなんだ」
「はあ」
「それがおまえからにおってくる。でもおまえ自身が発してるにしては弱いな……おまえなんか、変なのと同居してないか?」
「あんたが昔言ってた、邪霊っていうやつのせいかも」
さらりと言った茜に、洋吉は「おいおい」と呆れた目を向ける。
「おまえ、なんかまた酷ぇとこに住んでんじゃないだろうな」
「今住んでるところ、幽霊屋敷だから」
「……は?」
「結婚相手が見つかったんだけど、その相手の家に大量の幽霊がいて」
どこまで説明するか迷ったが、結局、事の初めから伝えることになった。
洋吉は尋常小学校時代、幽霊が視える苦しみを唯一共有し、たくさん助言をくれた人だ。「幽霊は寂しがりだから、視えていると悟られたら駄目」とか、「邪霊は不浄を好むからできるだけ掃除をしろ」などといった知識も彼が教えてくれた。放課後、霊を無視する練習に付き合ってくれたのも彼である。
寺の息子で、霊が視え、においも判別できるという彼だけが、当時、唯一の味方だったのだ。
茜の話を聞いた洋吉は、腕を組み、しばらく押し黙っていた。
「……まずさ。結婚活動ってなんだよ」
「何って――」
「雑誌に広告を載せてるだけの、どこの誰だかわかんねえような奴に会うとか、正気の沙汰じゃない」
「仕方ないでしょ。わたしみたいな何もない女が金持ちと結婚するには、相手も相当な訳ありじゃないと」
「ああ……おまえ昔から言ってたもんな。将来は絶対金持ちと結婚してやるって」
洋吉は大きくため息をついた。
「で、その相手の訳ありの理由がよりにもよって幽霊屋敷で、過去に妻が何人も発狂して出てったって……よくもまあそんな奴と結婚しようなんて思えたもんだ」
「それさえ目をつぶれば、とてもいい相手だから」
「どこがだよ。子どもがほしいからってそんな状況で未だに嫁探しをやめず、おまえに負担をかけても平気な顔してるような男だぞ。どうしようもない屑だろ」
「屑じゃない、そんなふうに言わないで」
洋吉の言葉を遮るように言ってしまい、自分でも驚いて口をつぐむ。
洋吉の言いたいことはわからないでもない。でも、寿郎が悪いわけじゃない……自分でも不思議に思うくらい、そう強く否定してしまう。
寿郎が時折見せる、申し訳なさそうな、憂いを帯びた顔。綺麗な微笑の奥に潜む陰……ひどい風邪を引いた茜を、部屋で仕事しながらつきっきりで看病してくれた……たった半月ほどの間に見たいろんなことが、走馬灯のように駆け巡って、意地でも寿郎を庇ってしまう。
「……はいはい、わかったよ。旦那とうまくいってるようでようござんした」
洋吉はため息まじりに手をひらひら振った。
「そんなら俺がチャチャッと行って、屋敷の霊どもを祓ってやろうか」
「えっ……そんなことができるの?」
「おう。自慢じゃないが、あれから修行したんだぜ、俺」
洋吉が自信ありげに胸を叩く。
「今はこれで食い扶持稼いでんだ」
「洋吉、確か、尋常小を卒業してすぐ実家の寺から追い出されてなかったっけ……」
「失礼な。追い出されたんじゃねえ、跡継ぎから外されただけだ」
「そうなの? 近所の女の子を片っ端から口説こうとして、素行不良で追い出されたと聞いたけど……」
「なんだその悪意満点の噂は。俺はただ女に優しいってだけで、誰彼構わず口説いたりしねえよ」
「ふうん、そうなんだ」
「おまえ、相変わらず無表情だから本気で言ってんのか茶化してんのかわかんねえな……」
「この顔のおかげで、今まで無事に生きてこれたんだけど」
本当に洋吉が祓ってくれるなら。今日、〝視えて〟いたことが霊たちにばれてしまったが、もうそんなことは関係なくなる。ようやく平穏な日々を過ごすことができるようになる。
「ありがとう、洋吉。すぐにでも祓って――」茜は言いかけ、すぐに「あ、やっぱりだめ」と思い直した。
「はあ? なんでだよ。金の心配か?」
「そうじゃない……ただ、家の人になんて言えばいいか……」
直彦は、茜が前の妻たちのような不吉な言葉を一切口にせず暮らしているから見直してくれた。
寿郎も然りだろう。この三ヶ月、少しでも異変があればこの結婚話は解消される。
「言ったでしょ。まだ試用期間だって……この三ヶ月は霊のれの字も出したくない。前の妻たちみたいにわたしの気が変になったなんて思われたくないもの」
「そんなの、実際に俺が祓っちまえば問題ないだろ」
「何をもって祓われたと証明するの? 何も視えない、感じない、家具が倒れようが物が吹っ飛ぼうが『家が古い、傾いてる』で済ますような鈍感な人たちに」
洋吉は「ふむ」と顎をさすった。それからおもむろに懐へ手を突っ込むと、何やら四角く折りたたまれた懐紙の包みを取り出した。
それを手のひらの上で解き、あらわれたのは、墨で面妖な模様が描かれた一枚の札。
「仕方ない。これをやるよ」
「……なに、これ」
「俺特製の護符だ。効果は保証する」
洋吉は護符を人差し指と中指で挟み、得意げな顔でひらりと振って見せる。
「これを肌身離さず身につけとけば、少なくともおまえに霊障は及ばない。邪霊どもが狙ってるのはおまえだけなんだろ?」
「……そう、だけど」茜はごくりと喉を鳴らす。その効果が本物なら、今すぐ欲しい代物だ。
「それ、いくらするの?」
「五十圓」
「高……」
「ちゃんと効くやつなんだから、そんだけ取ったっていいだろ。俺の貴重な食い扶持だぞ」
寿郎からもらったお金でもその額に到底及ばない。ため息をつきかけた茜の眼前に「しかしな」と洋吉が人差し指を立てる。
「今だけ、なんと、お客様だけに、特別に! ……只にしてやる」
「えっ?」
「あ、今うさんくさいって思っただろ。顔に出ずともわかるぞ。……あのな。おまえこれからもこの町で暮らすんだろ? この辺うろちょろすんだろ?」
「それは、まあ……」
「俺もなんだよ。当面この町を拠点に仕事することにしてたんだ。だから毎日あちこちで死臭を放たれたら迷惑なんだよ。言うなればこれは消臭剤だ」
「失礼な」
「いやほんとに、くせえんだって。だからこれ持っとけよ」
洋吉が護符をぐいと茜に押しつける。「帯にでも入れて携帯しとけ」
「……」
茜はむっとしつつも、「ありがとう」と素直に受け取ることにした。言われたとおり帯に挟もうとして、「あ」と気がつく。
「ねえ。これ、身につけてなかったら霊に狙われるってこと?」
「そりゃな」
「お風呂に入るときはどうするの?」
「そりゃ、おまえ……」
洋吉の言葉が途切れる。顎をさすり、「確かに」とつぶやいた。
「仕方ない。じゃあこっちもおまけでつけてやろう」
言うがはやいか、洋吉はまた懐をごそごそやり、何やら小汚い組紐を取り出した。元は綺麗な緑色だったのだろうが、ひどく色褪せ、もけもけと細かな繊維が飛び出している。
組紐の真ん中に、白く細長い形状の筒がついている。洋吉は茜の手から護符を抜き取ると、くるくると小さく細く丸め、その筒の中へと器用に入れ込んでしまった。
「はいよ。これ、俺が考案した携帯用の護符入れだ。手を貸してみな」
茜はいぶかしげに右手を差し出す。
「ああ、違う。聞き手は何かと入り用だろ。ちぎれたりしないようにもう片方の手につけとくほうがいい」
やけに指示が細かい。茜が左手を差し出すと、洋吉はその手首をぐいとつかみ、組紐を巻きつけるとぐぐっと強く結わえた。
「よし。これで風呂にも持ち込める。どうだ、すげえだろ」
「へえ……すごい。よく考えたね。これ、すごく助かる」
「いいってことよ。これでおまえはくっせえ死臭が取れて、俺も気持ちよくこの町で過ごせるってもんだ」
またしても失礼千万な言葉が飛び出すが、茜は苛立ちを感じるどころか、感謝と安堵で胸がいっぱいだった。
「よかった……本当に助かった。ありがとう。これで三ヶ月無事に過ごせる」
「……そりゃ何よりだ」
洋吉は軒下から天を仰ぎ、遠くを見るように目を細めていた。
「ところでこの組紐は、護符と抱き合わせで売ってるの? いくらするものなの?」
「護符と抱き合わせで、〆て九十圓」
「高……」
「俺もいっぱしの金が稼げるようになったってことよ」
洋吉はニッと歯を見せて笑った。尋常小時代と変わらない、やんちゃな笑顔だった。
「そうだ。俺、しばらく芦谷荘って宿にいるから。もし気が変わったら気いつでも依頼を受けてやるぜ」
「ありがとう」
気が変わることなど無いだろうが、彼の拠点の名は一応、頭の片隅に留めておくことにした。
***
時間は少しだけ遡る。
教本を買うと言って町へ出た茜を見送り、寿郎は書斎にこもって原稿用紙を睨んでいた。
自分の書いた文字に視線を這わせる。だんだん眉間へ皺が寄ってきて、無意識に手で目頭を押さえてしまう。
陳腐だ。
登場人物も、展開も、何もかも。
この物語に、心が震えない。ただ綺麗なだけの悲劇が整然と並んでいるだけ……
顔を上げると、開け放たれた窓の向こうに濃い緑の木々が風に揺れているのが見えた。部屋の中に差し込む光さえ薄緑に染まり、文机の上を柔らかく照らし出している。
――外に、出てみよう。
唐突にそんなことを考えて、寿郎は腰を浮かせた。
廊下で直彦とすれ違った。「あ、旦那様っ」と無邪気な表情を向けてくる。
「喉が渇いたんですか? お茶をお持ちしましょうか?」
「いや。少し、町へ出ようと思ってね」
「じゃあ俺もお供します! 荷物持ちとかっ」
「いや、すぐに戻る。おまえはおまえの仕事をしていなさい。勉強もあるだろう?」
直彦は「はーい」と力ない返事をした。
適当な羽織を着て、帽子をかぶり、下駄をつっかける。宇木邸の建つ丘を背に、坂をくだっていく。頭上で風に揺れる緑の屋根を見上げ、葉擦れの音に耳を澄ませながら、のんびりと足を動かした。
作品に煮詰まったときは、外を歩くに限る。今までもそうしてうまくやってきた。今回もきっと、屋敷に帰ったころには頭の靄も晴れているに違いない。
いつしか坂を下りてしまっていた。周辺には背の低い住宅が建ち並び、赤子を負ぶった女中や、道端で立ち話に興じる女の姿が見える。
そろそろ引き返そうか。そう思った矢先、唐突に、茜の顔が頭に浮かんだ。
彼女は今、町へ出ている。書店で買い物は済んだだろうか。もしかして、ついでに呉服屋なんかを覗いたりしていないだろうか。
なんとなく、ばったり遭遇できるような気がして、寿郎はそのまま住宅街を突っ切っていった。
もしも会えたら、街角のパーラーでも一緒に入ってみようか。
そのまま少し町の案内をして、俥を拾って帰ればいい。妙案だ、と思った。会えるなんて根拠はないのに、どうしてか、そう思った。
実際、寿郎は本当に茜の姿を見つけた。
書店から少し離れた角にある、あんパンの出店。その脇の軒下に茜はいた。
隣に立つ、見知らぬ男と話している。
思わず、近くの幟の陰に身を潜めてしまった。なぜコソコソと隠れなければならないのか。自分は茜の夫なのだから、別に見られたって構わないはずなのに。
男は若く、茜と同世代のようである。痩せ型で長髪と、見るからに軟派な雰囲気だった。生真面目な茜とは対照的である。
まさか、町中で声をかけられ連れ込まれたのか? ……いや、それならどうして一緒にあんパンなぞ食べているのか。
男のほうはころころと表情を変えるが、茜は人形のように無表情だ。だが、よく口を動かして話している。それだけで、なんだか親しげな空気を感じた。
自分とは、ぽつぽつとしか話さないのに。
もしかして男は知り合いなのか?
同郷の間柄であるとか? それとも前の職場の仲間か?
自分は、まだ彼女のことを何も知らない……その事実に気づいた瞬間、胸の中に空虚な風が吹く。
そのとき、唐突に男が茜の手を取った。
茜の細い手首に、何かを巻き付けている。茜はそれを無表情でただ受け入れている。
何を、しているのだろう。
茜は巻き付けられたものをしばし眺め、また何か話している。彼女はあんなによく喋るのか。そういえば、直彦ともまるで寄席の万才のような掛け合いをしていた。
直彦とはきっと、料理を通じて仲良くなったのだろう。
仲良くなれば、彼女はあんなふうによく喋る。
大きな発見だった。それは同時に、寿郎の中に冷たい日陰のような寂しさを生んだ。
自分には、それを望む資格はない。……それは重々、わかっていることなのに。




