第十二話 小夜の仄語り
洋吉の護符は効果絶大だった。
宇木邸に戻ったとき、茜は未だ半信半疑で、玄関前で少しまごついていた。家に入ったら霊たちが一斉に襲ってきて、祟られ、取り憑かれ、呪われてしまうに違いない……そんな最悪の想像が頭を駆け巡る。
だがいつまでもこうしている訳にもいかないので、旧友の言葉を信じ、えいやっと引き戸を開けた。
たちまち霊たちが姿を現し、恐ろしい顔つきで茜を取り囲んだ。だが――ある一定の距離まで来ると、まるで見えない壁に阻まれるようにはじかれてしまったのだ。
邪気に歪んだ顔をさらに歪ませ、何事か叫んでいるようだが、その声もくぐもっていてよく聞こえなかった。
これは、すごい。
茜は思わず手首の組紐をぎゅっと握りしめる。
これがあれば、もう彼らの悪行に悩まされずに済む。
本来は大枚をはたかなければ手に入らない代物である。今こうして守られているのは洋吉の善意だ。本当にありがとう……と瞼に彼の顔を思い浮かべて感謝をのべる。
茜は悔しそうに歯がみする霊たちを尻目に、堂々と家の中を上がっていった。
護符を手に入れられただけでも町へ出た甲斐があったというものだが、本来の目的であった教本はあまり役には立たなかった。
ここ数日、家事の合間に直彦と茶室で向かい合い、卓上に教本を広げて読み書きをさせているのだが、
「あー、もう無理、頭いたい」
とすぐに畳の上で伸びてしまう。
「こら、まだカタカナの途中ですよ。はい、鉛筆を持って」
「無理、もう無理、文字見てるだけで頭痛がしてきた」
直彦は大の字になったまま動かない。どうやら勉強という行為に不慣れなせいで、集中力が続かないようだ。
困ったな……と茜は天井へ目をやる。不規則な木目模様の中に霊らしき顔がぼうっと浮かび上がり、苦々しげにこちらを見下ろしているが、茜は見なかったことにして目をそらした。
ばれてしまっている以上、もう視えないふりをする必要はないのだが、日常から彼らの存在を追いやりたいので、最近は〝視なかった〟ことにしている。
四月も半ばにさしかかり、縁側から入り込む風も軽やかで心地のいい昼下がりだった。開け放たれた障子の向こうに見える緑を眺めるうちに、ふと妙案を思いつく。
「直彦君。旦那様の本を読んでみませんか」
途端に直彦ががばりと上体を起こした。
「持ってるのか」
「さすがに持ってはいませんが、作者である旦那様なら持っていらっしゃるかと」
「た、確かに……」
そのとき、静かな足音と共に寿郎が茶室の前を通りかかった。途端に直彦はものすごい早さで鉛筆を持ち、神妙な顔で教本に向き直る。
「精が出ますね」寿郎が部屋をのぞき込んできた。
「寿郎さん」ちょうどよかったと、茜が切り出す。
「寿郎さんの書いた本は今、この家にありますでしょうか」
「――え? ええ」寿郎は少し驚いたようにうなずいた。「ありますよ。書斎に。あいにく一冊だけですが」
「貸していただけますか。その……読んでみたいので」
「俺も読みたいです、旦那様」
直彦がいつになくキラキラした目を寿郎に向ける。
「俺、頑張って文字を勉強しますから、読ませてください」
「それは、構いませんが……」
寿郎は戸惑い気味に頬を掻いた。
「……好きなお話だといいのですが」
その後すぐ、寿郎は本を持ってきてくれた。濃い藍色の表紙の真ん中に白い枠が配置され、清楚な筆字で〈夏雪草〉と題されていた。
寿郎が去り、茜はさっそく卓上で本の表紙をめくる。横から直彦が興味津々な目でのぞき込んできた。
「この題、なんて読むんだ」
「ナツユキソウ、だと思います、たぶん」
「なんだそりゃ」
「草花の名前じゃないでしょうか」
茜も植物の知識には疎い。
もう一つめくると、びっしりと小さく印字された文字が見え、直彦が一瞬「うっ」と声を詰まらせる。だが、尊敬する主人の書いた物語であるからか、頑張って目を凝らしている。
「では少し音読してみましょうか。ああほら、漢字に読み仮名がふってありますよ」
「俺はまだちょっと……あんたが読んでくれよ」
仕方がない。茜は小さく息をついて、初めの文章から読み上げた。
〈蝉の声がふりそそぐ。止め処なく暑い、夏。私はさる医者の家の書生だった。その古く陰気な屋敷の地下で、私は夏に降る雪を見た。〉
〈天井の割れ目から差す淡い光の中で、それは白く透き通るような輝きを帯びていた。すぐに消えてしまいそうに儚げながら、陽の光で溶けぬ、無数の小さな花の群れ。その中に、ぼうっと白い少女が佇んでいる。こちらを見はしているが、その双眸は私を通り越して別の何かを見ていた。〉
ここで一度、言葉を切る。ちらりと直彦を見ると、彼はひどく間抜けな顔でぽかんと口を開けていた。
「難しい言葉はありませんか?」
「んー……全体的に何言ってるかわかんねえ」
「そうですか……じゃあ、今後は教本で文字を勉強し、ある程度進んだらこの本を読んでみて、自分がどれくらい文章を理解できるか試してみましょう」
「あ、それいい、すげーやる気出る」
直彦はいつになく嬉しそうに顔をほころばせた。
「俺、ずっと読んでみたかったんだ、旦那様の本……まさかこうやって読める日が来るとは思わなかった……!」
こうして見ると、ただの無邪気な少年である。彼が昔の奉公先で虐待されていたなんて信じられない。寿郎の差し伸べた救いの手が彼をここまで癒やしたのだ。
あの人はやっぱり優しい。茜に向ける眼差しも、いつも穏やかで柔らかく、それでいて品がある。
そんな彼の書く物語だ、きっと優しいお話に違いない。
茜はその日から、〈夏雪草〉を寝る前に少しずつ読み進めていった。そしてすぐ、自分の予想が大きく外れていたことを思い知った。
この物語の主人公は医者の家に下宿している書生である。医者は古屋敷に住んでいて、妻と三人の子どもたち、住み込み女中と共に暮らしているのだが、彼らの関係性が非常に鬱々としていて、みんな刹那的で感情に左右されやすく、読んでいて気が滅入るほどだった。
そんな書生はある日の夜中、館の離れの蔵の地下に座敷牢を発見する。そこには、夏なのに雪が降り積もっていると錯覚するほど白い夏雪草の花々と、そのそばに立つ少女の姿があった。
少女は白い着物を着て、美しく長い黒髪を持つ幽霊だった。書生は屋敷内で起こる様々な悲劇から逃げるように、毎晩ここへ通い詰めては、少女の霊に入れ込むようになり……
ぱたん、と表紙を閉じる。読書用の石油洋燈がちらちらと炎を揺らしていた。ふう……と大きなため息が静かな部屋にこだまする。
とんでもなく陰鬱な物語だった……
急に喉の渇きをおぼえ、布団から腰を上げる。洋燈の火を手燭に移して、足音を忍ばせつつ廊下に出た。
真正面の障子は閉ざされ、その向こうは宵闇に沈んでいる。廊下の中程にかけられた時計は一時を指していた。そんなに夜更かししてしまったのかと改めて驚いてしまう。
はやく台所へ行って、麦茶を飲んで部屋に戻ろう……そう、足早に歩いていたが、途中で茜は思わず足を止めた。
食堂の向かいの障子が開いている。そこに、誰かが座っている。
手燭を掲げ、ゆっくりと近づくと、その人物は「おや」と小さく声をあげた。掲げた手燭のぼやけた光の中に、寿郎の微笑が見えた。
「茜さん、眠れないのですか?」
「ええ、まあ……」茜は寿郎のそばにある空の湯飲みをちらりと見下ろした。「本を読んでいたら、目が冴えてしまって。喉も渇いたので、起きてしまいました」
「本を……ああ。あれですか」
「はい、あの、〈夏雪草〉を」
「……」
寿郎は空の湯飲みを持つと、黙って腰を浮かせた。食堂の戸に手をかけつつ、振り返る。
「茜さん。目が冴えたのなら、少しだけ付き合ってくれませんか」
「はい、いいですよ」
「よかった。ありがとうございます」
寿郎はそう言って、奥の台所へ入っていく。茜は慌てて先を行き、水場で冷やしていた麦茶を二つの湯飲みへ注いだ。
縁側に、寿郎と並んで腰を下ろす。茜の左手に座る寿郎との間には二人分の湯飲みが並んでいるが、なんだかいつもより距離が近い気がして、ちょっと緊張してしまう。
「〈夏雪草〉はどれくらいまで読みましたか」
最初に口火を切ったのは寿郎だった。
「最後まで読み終わりました」
「はやいですね」
「最終場面はもう一気に読んでしまって……それでこんな時間に……」
「なるほど。どうでしたか、読んでみて」
まるで茶菓子の感想でも聞くような軽い口調である。しかし、物語を書いた本人にその感想を伝えるのはちょっと勇気が要る。
無難に言うべきか。手放しで褒めるべきか。どうすれば失礼がないだろう。自分はまだ試用期間中の身である。……
「面白かったです」
口から出たのは悲しいほど単調な台詞だった。
「本当に?」寿郎も軽く吹き出すように問う。
「本当です。でなければこんな時間まで一気に読んだりしません」
そう、面白かったのだ。本を読むのは実に十年以上ぶりと言っても過言ではないが、久々に物語に没頭するという体験をした。
「主人公の下宿先がとんでもなく呪われた屋敷で、殺人事件やら心中事件やら次々にこれでもかというほど悲劇が起こって、主人公自身も医者の娘に好かれて無理心中を謀られたりなど、本当にハラハラしたんですが……まさかすべての悲劇の黒幕がたった一人の女中だったとは思いもせず……」
寿郎は茜の顔をまっすぐに見つめながら、黙って聞いている。この続きを言うべきかどうか、ひどく迷った。
「……まだ、言いたいことがあるのでは?」
茜の心中を見透かすように、寿郎がつぶやく。
「全部、隠さず教えてください。何を言っても怒りませんから」
茜は躊躇いつつも、唇を軽く湿し、息を吸った。
「その……結局、作中に出てきた座敷牢の幽霊が、事件となんの関わりもなく……本当に存在していたのか、主人公の幻覚だったのかさえ曖昧で……」
「……」
「最後、黒幕の女中が自ら油を被って屋敷に火をつけたあと、主人公は逃げずに座敷牢へ行って、少女の霊と添い遂げて……その結末がどうしても、理解できませんでした」
言ってしまってから、「いえ、理解はしているんです」と言い直す。
「わかります。陰鬱で狂った毎日の中で、彼女の存在が主人公の唯一の癒やしであり、精神的な拠り所であったのだろうことは。でも、本当にいるのかもわからない存在のために、わざわざ燃えさかる屋敷に舞い戻って、地下で蒸し焼きになるなんて……わたしには、とても……それに、もし少女が実在する幽霊で、主人公のことが好きなのなら、彼のためにも最後は姿を見せず、正気に返らせるべきでした。そんなことすらできない存在に、命をなげうつ価値が本当にあったのかと……」
我に返り、口をつぐむ。
言い過ぎた。作者の目の前で本の筋書きを評するなんて。それもろくに読書経験のない、ずぶの素人が……さすがに怒らせたのではないか……
心臓が嫌な音を立てる。顔を上げられない。
「茜さんは、とても丁寧に本を読む人なんですね」
びっくりするほど穏やかな声が降ってきて、茜はおそるおそる顔を上げた。
寿郎は最初とまったく同じ微笑を浮かべていた。
「そんなに主人公へ感情移入してくださっていたとは」
「……いえ、そういうわけでは……ただ、主人公には幸せになってほしかったなと……思っただけで」
「安心してください。この主人公は幸せでしたよ」
寿郎は暗い夜空を見上げた。朧に広がる雲の裏に白い月の光がぼんやりと浮かんでいる。
「愛する人と添い遂げること以上に幸せなことなどないでしょう。……たとえ、外の人間からどう見えていようとも」
二人の間をぬるい風が吹き抜ける。茜は一瞬、寿郎がものすごく遠くにいるような錯覚をおぼえた。
「そういえば」
ふと、寿郎が何気ない調子で尋ねた。
「その腕飾り、どうしたのですか?」
「……え」
「この頃ずっとつけていますよね」
寿郎が指し示しているのは洋吉の組紐だ。茜は無意識に組紐を手のひらで押さえていた。
「これは……知人からのいただきもので」
「そうでしたか。寝るときもつけているのですね」
「え、ええ……」
一瞬でも外してしまったら大変なことになる。
「大切なものなのですね」
「そうですね……」
いろんな意味で失くしたくない代物ではある。
「装飾品は、他にどんな物がお好きですか」
こんな色褪せた使い古しの紐を装飾品とは呼びたくないが、かといって生命線ですなどと言えるわけもなく。
「他には何も……そんなに好きではありませんから」
「好きではない?」
まじまじと聞き返されてしまい、ますます妙な空気になってしまった。
「あの、これはなんというか、願掛けといいますか……縁起物といいますか……」
「……」
気のせいだろうか。寿郎の瞳の奥にほんの少しだけ、妙な圧が見え隠れしているのは。
「なるほど。縁起物ですか……」
寿郎はつぶやきながら湯飲みに口をつける。茜もようやく麦茶の存在を思い出し、冷えた茶を一口飲んだ。
しばし、どちらも何も言わないまま、湯飲みの茶だけが減っていく。彼は今、何を考えているのだろう――茜はひっそりと寿郎の横顔を盗み見た。
目と目が、合った。
「あっ……」茜は小さく声を上げる。そのまま黙り込むのも気まずくて、勢いに任せて「寿郎さんは……」と、誤魔化すように口にする。「もしかして、この時間までお仕事をされていたのですか」
「ええ。原稿を書いていました」
「締め切りが近いとおっしゃっていましたね。……大変ですね」
「まあ、作家とはこういうものです」
寿郎の顔にいつも刻まれる、美しい微笑。だが暗がりであるせいか、どこか疲れ切ったような気配が滲んでいる。
「あまり無理をなさらないでください」
「無理などしていませんよ」
さらりと返してから、「そうだ。一つ尋ねたいことがありました」と、思い出したように口にした。
「初めて会った日、茜さん、喫茶店で言っていましたね……『生活が安定したらやりたいことがある』と」
「はい」
「それは具体的になんですか?」
「……それは……」
茜は言い澱んだ。寿郎にまっすぐな目で見つめられると、心の浅ましい部分が照らされるようで、余計に言いづらい。
「言いにくいことなんですか?」
「いえ、そういうわけではないんですが……」茜は珍しくごにょごにょと口を動かした。
「たとえばお芝居を観たり、美味しいものを食べたり……呉服屋で着物を仕立ててみたりなど……」声がどんどん小さくなっていく。「そういった……贅沢なことを……してみたいと……」
「ふふ」
たまらず、と言った調子で笑われ、茜は全身が熱くなるのを感じた。
「笑わないでください」
「すみません。つい」謝る寿郎の口角はまだ上がったままだ。
「わかりました。それも一緒に叶えましょう」
そう言って、彼は湯飲みを手に立ち上がる。
「そろそろ休んでください。夜風で体を冷やしてはいけませんから」
「……はい」
茜も空の湯飲みを手にした。だが、胸の内には未だに、最後の寿郎の言葉がうずまいていた。
――一緒に叶えましょう。
一緒に……
この人の、こういうところがずるいと思う。
たかだか契約で結婚した妻にも、こんな言葉をさらりと言えてしまうところが。
台所に湯飲みを戻す。「おやすみなさい」――そう言い合って、寿郎は縁側を降り、下駄をつっかけて向かいへ歩いていく。
その先は、書斎の庵だ。
まだ仕事をするのだろうか。作家とは本当に大変な仕事だな……と思いながら、その背が消えるまでこっそり見守った。




