第十三話 憑りつくもの
寿郎と話した夜から数日。
彼の顔色がどんどん悪くなっている気がする。
日がな書斎にこもりきりで、ほとんど姿を見かけることがなくなった。茶室で直彦の読み書きに付き合っていても、以前のように顔を覗かせたり、声をかけたりしてこない。
食事の席には現れるが、ぼんやりしていて、あまり箸が進んでいる様子がない。目元の隈も日に日に濃くなっていて、「陰があるのもまた美しい」などと言っていられる程度ではなくなった。
もしかして、ほとんど一睡もせずに書いているのではないか……
あの夜、書斎へまっすぐ帰っていった寿郎の背中を思い出す。
茜は朝餉のあと、廊下へ出る寿郎を追いかけた。
「寿郎さん」
寿郎が立ち止まって、振り返る。その顔に一瞬、濃い陰が落ちていたのを茜は見逃さなかった。
「大丈夫ですか?」
「……何がですか?」
「あまり、寝てらっしゃらないでしょう」
ああ、と寿郎が微笑む。明らかに無理をしているはずなのに、綺麗に笑うのだけはとても上手だ。
「心配をかけてすみません。私は大丈夫ですよ」
そう言って、彼は背を向けてしまう。
***
「〈うっそう……と、おいしげる もりの そばに ふるびた まき……ごやが あり……〉」
茶室で直彦が寿郎の本を読んでいる。まだつっかえ気味ではあるが、教本を見なくてもなんとか読めるようになっている。漢字にふられた小さな読み仮名を拾いながら、懸命に物語を追っていた。
寿郎の本が、勉強嫌いの少年を突き動かしている。ものすごい情熱である。
茜は直彦の声を聞きながら、頭の中では寿郎のことを考えていた。
「直彦君」
音読の声が途切れた隙に、話しかけてみる。
「寿郎さん、締め切りが近くなるたびにあんなふうになるの?」
「……いや」
途端に直彦の表情が萎んでいった。
「時々、『昨晩は寝ずに書いた』とか言って笑ってる日はあったけど。今回はさすがに俺も心配になって……でも、旦那様は『作家なんてこんなもの』って言うんだ」
「あ、同じ……」
「やっぱあんたもそう言われたのか」
直彦が頬杖をつく。その目は茶室の襖を通り越し、寿郎のいる書斎へ向けられている。
「今回はどうしちゃったんだろうな……旦那様」
そのとき、リィン、と呼び鈴の音が鳴り響いた。「誰だよ……」と直彦が怠そうに立ち上がり、玄関へ急ぐ。
郵便かな、とぼんやり思っていると、玄関のほうから足音がして、
「こんにちは」
と中川富美子が姿を現した。相変わらずお手本のようなモガスタイルである。手には何やら分厚い封筒を持っていた。
「こんにちは」茜も立ち上がり、会釈を返す。「原稿を見にいらしたのですか。今お呼びして……」
「ああ、直彦君から聞いてるわ。今書いてらっしゃるんでしょ。呼んでいただかなくて結構よ」
以前と打って変わって口調が少し砕けているのは、寿郎がいないせいだろうか。
富美子は手にしていた封筒を卓上にどんと置いた。
「今日はこれを先生にお届けしたかっただけですもの」
「あの、こちらは……?」
「ファン・レタアよ。全国から先生のファンが、編集部に先生宛のお手紙をくれるの。先生は著作に住所を載せたくない方だから、こうして定期的にお届けしているのよ」
「ファン・レタアですか……」
改めて見るとものすごく厚い封筒である。
「先生は本当に、とんでもない才能の持ち主よ。人間の重苦しい情緒と愛憎を絡めた悲劇を書くのが本当にお上手なの……」
悲劇。
茜は無意識のうちに直彦が置いていった〈夏雪草〉の本を見ていた。富美子もその視線を追い、「あら」と本へ手を伸ばす。
「これ、読んでらしたの?」
「はい。直彦君と」
「ふうん。これが初めて読む先生の作品?」
「そうですね」
見栄を張っても仕方がないので正直に答える。
「そう。これね、先生のデビュー作よ、存じていらして?」
「そうなのですか」
「そうなのですよ、ほほ……やっぱり奥様、先生のことをあまり存じていらっしゃらないのね」
何がおもしろいのか、富美子は愉快そうに笑った。
「先生はね、愛することの痛みをとっても上手にお書きになるの……その甘美な筆致と、陰鬱な美しさが芸術的に調和して、唯一無二の悲劇を生み出す……でもね、ただの悲劇じゃないの。物語の主役たちにとっては幸福な結末なのよ。周囲の誰が見ても不幸な悲劇なのに、彼らだけが幸せだと読者だけが知っている……それがたまらなく素敵なのよ」
――愛する人と添い遂げること以上に幸せなことなどないでしょう。
――たとえ、外の人間からどう見えていようとも……
寿郎の寂しげな横顔が脳裏に浮かんだ。
「この他にも、そういった作品はあるのですか」
「他も何も、全部よ。これが藤島喜壱の作風なの」
そんなことも知らないの、とでも言いたげに富美子が鼻を鳴らす。
「こういった愛憎劇や情緒の機微は女性に好まれやすいのか、女性ファンが多いのよ。顔出しなんてしていないのだけれどね……ファン・レタアの差出人もほとんど女性だし。新装改訂のたびに何度も購入してくれる、パトロンみたいな金満家の女性読者もいるのよ」
「……そうですか」
愛憎絡む悲劇。主人公たちだけは幸せだったと読者だけが知っている。
寿郎は、ああいう作品ばかり書いているのか。 書斎にこもっている今も……
「でもねえ。最近ちょっと心配になってきて」富美子はため息をついた。「先生、スランプみたいなのよねえ。大丈夫かしら」
「スランプ?」
「ええ。先月……いえ先々月あたりからかしら。あんまり筆がのってらっしゃらないみたいで。締め切りまでそんなに日がないのだけど……」
直彦が茶器の載った盆をもってやってきた。ありがとう、と富美子が湯飲みを受け取る。
「あたくしも原稿を見せていただいたけれど、確かにイマイチなのよねえ。なんというか、こう、毒気が薄いというか……文章はいつも通り美しくて、世界観も鬱々としていてたまらないのだけど、読んでいて思わずため息をついてしまうような絶妙な愛憎が足りないの。まあ、スランプなんて誰にでもあるものだし、乗り越えていただくしかないのだけれど……」
そういうことだったのか。茜は一気に腑に落ちた。
一日中書斎にこもりっきりで、夜も眠らず、明らかに無理をして書き続けている理由がはっきりした。
先々月からということは、つまり、茜が宇木邸に来る前から寿郎はスランプに陥っているということになる。
気づかなかった。霊たちとの根比べに必死だったせいもあるが、それ以上に、寿郎は苦労をおくびにも出さなかった。今になって彼の様子がおかしくなっているのは、それだけ彼が限界を迎えているということで――
「とにかくこれ。先生にお渡ししてくださいね。ファンの応援の声を見れば、先生もぐっとやる気が出るでしょう」富美子が封筒をぽんと叩く。
「今日のところはこれでお暇しますわ。先生にもよろしくお伝えくださいな」
そう言って、富美子は屋敷を去っていった。
「直彦君」
台所で茶器を洗う直彦の背中に向かって呼びかける。
「なんだよ」
「寿郎さんがスランプだって、知ってた……?」
ぴたりと、直彦の手が止まる。
「すらんぷってなんだ?」
「ああ、ええと、なんと言えばいいか……一時的に調子が悪くなる、みたいな状態のこと」
「調子が悪く……」
口の中で反芻するようにつぶやいて、直彦はばっと顔を上げた。
「ってことは旦那様、本を書く調子が悪いってことか?」
「そうみたい……中川さんが言うには、だけど」
「うわ、そうなのか。どーりで寝てなさそうなわけだ。それ、いつからだって?」
「中川さんの見立てでは、先々月あたりから……らしい、けど」
「全然知らなかった……」
直彦はみるみる青ざめ、その場で宛もなくうろうろとしだした。
「今朝も死人みたいな顔だったし……大丈夫なのか……?」
「わからない」
彼は今も、筆の載らない手を無理に突き動かして原稿を書こうとしているのだろうか。そしてそれが気に入らず、破り捨てて、また書いて……その悪循環に陥っているのだとしたら。
「とにかく、わたしたちで注意深く様子を見ておきましょう。食事もできるだけ滋養のあるものを用意しないと」
「そ、そうだな。うん。俺にもできることあるよな……」
家の大黒柱の不調というのは、それだけで不穏と不安を家人たちにもたらすものである。
二人の心配もむなしく、寿郎はついに書斎から出てこなくなった。直彦が部屋の前まで運んだ食事にはかろうじて手をつけていたのが、その翌週にはとうとう、一切見向きもしなくなった。
「さすがにおかしい、おかしいって」
朝、廊下で手つかずの盆を手に直彦がすっ飛んできて、さすがの茜も言葉を失った。さっと顔を上げ、中庭の向こうの書斎を見やる。
小さな庵の障子は完全に閉め切られていて、中の様子はわからない。
ふと、障子の隙間からどす黒い靄のようなものがはみ出ているのが見えた。それは瞬きひとつする間に消えたが、茜は確かにそれを視認した。
ひどい胸騒ぎが体中を駆け巡る。縁側を降り、置きっぱなしの下駄に足をつっこむ。
「おい、どこ行くんだよ」
「書斎に行く」
「いや、それは」直彦は不安げに庵のほうを見た。「だめだって……旦那様が絶対入るなって……」
「そんなこと言ってる場合じゃない」
その一言だけぶん投げて、着物裾をからげながら走る。中庭を一直線に横切り、小さな庵へたどり着いた。
何度目をこらしても、もうあの黒い靄は見えない。どこまでも静かで、風の音すら凪いでいる。なのになぜか、締め切られた障子からものすごい圧を感じた。触れるのも躊躇われるような、指先がはじき返されそうなほどの強い圧。
「寿郎さん」
声をかけたが、返事はない。
茜は左手首に巻いた組紐を、右手でぐっと押さえるように握り混んだ。
「寿郎さん。開けますよ」
そう呼びかけてから、障子を思いっきり開け放った。
六畳間の四角い部屋。その壁の一つに背の高い本棚があり、ぎっしりと本や書類で埋め尽くされている。畳の上も同様に、資料や本がうずたかく積まれ、その中に埋もれるようにして、文机に向かって座る寿郎の背中が見えた。
「寿郎さん!」
彼の背に覆い被さるように、黒い靄が広がっている。それは絶え間なく蠢いているが、よく見ると人の形を成しているようにも見える。
何かが彼にまとわりついている。寿郎は背を向けているのでその顔は見えないが、正気でも失ったのかというほど、ガリガリとペンだけが動いている。
意識はあるのか? でも呼びかけに応じない。茜は少し迷ったが、手首の紐を握り直し、思い切って部屋へ上がり込んだ。
「寿郎さん」
もう一度呼びかけるが、返事はない。おそるおそる正面へ回って彼の顔をのぞき込む。
その目は開かれていたが、瞳は虚ろで何も映していない。ただ手だけが意思を持つように動いている。原稿用紙の上に文字が幾重にも重ねられ、真っ黒に塗りつぶされていた。
この、背中に貼りついている黒い何かが意識を乗っ取っているのか。
茜に取り憑けず、嫌がらせもできなくなり、行き場を失った哀れな邪霊どもが、ついに寿郎へ手を出したというのか。
「寿郎さんから離れて」
黒い靄は動かない。しゅるしゅると寿郎の腹に手を回し、より一層強く抱きしめようとする。
「やめなさい! この……迷惑厄介追っかけ女!」
思えば、今まで屋敷で見かけた霊はみんな女だった。ただそれだけの理由で言ったのだが、霊には図星だったらしい。黒い靄が怒ったようにいきり立ち、寿郎の背からぐわりと離れ、茜に飛びかかろうとした。
とっさに左手首を盾のように構える。ギャ、と小さなうめき声が聞こえた。
でも、こんなことでは埒があかない。
どうすれば、この黒いものを寿郎から引き剥がせるだろう。
そのとき、組紐をもらった日の出来事が脳裏をよぎった。茜に襲いかかろうとした霊たちがみんな、見えない壁に阻まれ近づけなかったことを。
ごくりと喉を鳴らした。うまくいくかわからない。なるようになれ……!
茜は思い切って寿郎の背に覆い被さった。彼の腹に手を回し、組紐をぎゅっと握り混むようにしてぴたりと抱きしめる。
たちまちおぞましい怨嗟の声が黒い靄から噴出し、部屋中の空気をびりびりと震わせた。
鼓膜が痛い。涙が出そうなほど気分が悪い。
だけど、効いている。黒い靄は寿郎に近づけないでいる。
「あなたに居場所はないの」
茜は完璧なまでの真顔で言い放った。
「この人のことが好きなら、取り憑くとかまとわりつくとか、粘着質なことをして苦しめないで。好きなら幸せを願いなさいよ」
怨嗟の声はもはや地響きのようにぐらぐらと部屋中を暴れ回っている。だが茜はてこでも離さなかった。
「寿郎さん……寿郎さん」
何度も、何度も、囁いてみる。
「お願い、戻ってきてください」
懇願するように、祈るように。




