第十四話 時には優しい世界を
白い花びらが舞い、降りしきる雪のように視界を覆う。足を取られ、一歩も動けないまま、その場に膝をついてしまう。
なぜ、書けない。
書かなければならないのに。
『私をわすれないで』
小さく囁くような声がこだまして、はっと顔を上げる。
いつしか周囲は、暗く陰鬱な地下の景色に変わっていた。岩を削っただけの荒々しい壁に古びた松明の炎が揺れる。
真正面に、座敷牢の囲いが見える。
錆びた鉄のにおい。じっとりと湿った空気が肌にまとわりつく。
『としろう』
あどけない声がその奥から呼びかける。
『私をわすれないで』
忘れない。忘れたことなどないよ。
その証拠にほら、君をたくさん書いたんだ。
この幽霊も、この妹も、この令嬢も……みんな君だ。君と僕なんだ。
『ちがう』
その声は悲痛で、ひどく張り詰めていた。
『ちがう……ぜんぜん、ちがう……!』
びりびりと鼓膜が震える。
『そんなの、私じゃない……っ!』
「君だよ。君を想って、僕はずっと」
言いかけて、はたと口をつぐむ。
そうだ。最初に書いた幽霊の少女は、紛れもなく彼女だった。
彼女を忘れないために、一生心に抱えて生きていくために、誓いを立てるつもりで物語を書いた。そうしたらたまたま、出版社の目に留まった。
それからは次々と作品を求められた。
求められるまま、彼女と自分の物語を書き続けた。
彼女を書けるのが、嬉しかった。
そうすることでしか償えない気がしていた。
なのに……どうしてだろう。いつからか、書き上げる物語がひどく色あせて見えるようになったのは。
時の流れは、残酷だ。
指の間からこぼれ落ちていく砂粒のように、思い出の色が失せていく。
忘れるわけにはいかない。いかないのに。いつしか自分の中でなんでもないことになってしまったら。この感情の温度も湿度もすべてが乾ききってしまったら……
それが恐ろしくて、急き立てられるようにペンを走らせる。だが浮き上がるものすべてが、ただ悲劇をなぞっただけの薄っぺらい物語に見えてしまう。
どうして。どうして。
『わすれないで』
わかってる。忘れたりなんかしない。
『私をかいて……かいてよおおっ!』
書きたい。書きたいんだ。
なのに、どうしても……色が、褪せて……
君が薄れていく。
――寿郎さん。
ふと、耳元で声がした。
無機質で、だけどどこか必死な呼び声。
――寿郎さん。戻ってきて。
どこに?
自分は、どこから来たんだったか……
ひどい耳鳴りがして、頭がぎりぎりと締めつけられるように痛む。あまりの痛みにその場で這いつくばってしまう。
地下牢の空気がかつてないほどびりびりと震え、部屋全体が地響きのように揺れる。
『かいて! かいてよ!』
そうだ。書かなくては。
作品を生み出せなくては、作家でなくなる。
作家でなくなったら、稼げなくなったら、彼女を養えない。
彼女に、去ってほしくない……
――寿郎さん!
はっと目を開けた。
塞がっていた気道が今し方開いたみたいに、喉から肺へ、一気に空気が流れ込む。げほげほと激しく咳き込みながら、溺れるように必死に息を吸い込む。
「大丈夫です。落ち着いて……大丈夫ですから」
優しい声が降ってくる。温かな手が、背を撫でる。
畳に這いつくばり、なんとか息を整えると、ようやく眼前に茜の姿がはっきり見えた。
「茜、さん……」
「よかった。戻ってきて……」
彼女の無機質な声に、ほんのりと安堵が混じっている。寿郎はまだ肩で息をしながら周囲を見回した。
「私は、いったい……」
「ええと……気を、失われていました」
「え?」
もう一度見回す。文机の上がひどく荒れていた。真っ黒に塗り固められた原稿用紙に目を瞠る。
「きっと寝ぼけていたんだと思います。ずっと寝てなかったんですよね」
「……はい」
「一度寝ましょう。寝ないとまた、原稿が真っ黒になりますよ。一度寝て、すっきりしてから書いたほうが効率がいいと思います」
「そう……ですね」
瞼が重い。茜の声がまるで子守歌のように、耳に心地よく響く。
「でも……書かなくては」
「起きてから書きましょう」
「書かないと……」
「起きたら存分に書けますから」
瞼が閉じられ、心地よい暗闇の中に揺蕩う。
背や肩を撫でる茜の手のぬくもりにあらがえない……
茜の膝の上に頭を載せたまま、寿郎が寝息を立てている。ちらりと中庭のほうを見ると、母屋の縁側からオロオロとこちらを覗いている直彦の姿があった。
ふ、と、ん。
ふ、と、ん。持ってきてください。
茜は身振り手振り、両手を枕にしてみせ、何度も口をぱくぱくさせる。直彦はしばらく目をすがめて首をひねっていたが、ようやくぴんときたようで、慌てたように走っていった。
ほう、と息をつく。眠る寿郎の上下する胸を見下ろして、ようやく安堵感に包まれた。
ひゅう、と風が吹き抜けて、文机の上からはらりと何かが落ちた。
手を伸ばして拾い上げる。小さな四角い紙片に、白い花弁が貼り付けられている。押し花の栞だ。
古いものなのか、紙片の四隅がよれている。だが花弁だけは、まるで貼りたてのように真新しい白さを誇っていた。
――白い花弁。
「夏雪草……?」
口に出した言葉は、どうしてか少し震えていた。
***
寿郎が再び目を開けたとき、部屋は薄闇に満ちていた。
布団の中で体を伸ばし、ぼんやりと瞼を閉じたり開いたりを繰り返す。
「起きられましたか」
枕元に、茜が座していた。
「私は……」
「あれからずっと眠られていました。かれこれもう五時半です」
「五時半……?」
寿郎は慌てて布団から起き上がった。障子の外はまだぼんやりと薄明るい。だが壁掛け時計は確かに五時半を指していた。
「私はそんなに……長い間……」
「それだけ体が眠りを欲していたのだと思います」
信じがたかった。締め切りまであと二週間もないのに、原稿を放って眠りこけてしまった己が。
「体調はいかがですか。頭が痛いとか、しんどいとか……」
「いや……むしろ、肩が少し軽いような気がします」
この部屋にこもり、ひたすら原稿に頭を悩ませていたときは、肩に岩でも乗っているのかと思うほど重々しく感じていた気がする。それが不思議とすっかり消えてしまっているのだ。
茜の言うとおり、すべて不眠が招いた不調だったのだろうか。
「起きられますか」
「……ええ」
ゆっくり、腰を浮かせてみる。体が少しふらついた。
「お腹、すいているんじゃありませんか」
「……そういえば、全然食べていませんでした」
「直彦君が今、食事を用意しています。それまでのあいだ、少し縁側に出てみませんか。外の空気を吸いましょう」
茜に言われるがまま、部屋の敷居をまたいで一歩、外に出た。
涼しい風が頬をかすめるように吹き抜けていく。ゆるやかで軽やかな、優しい春の風。その向こうの空に、沈みかけの黄昏の光がまぶしく輝いていた。
茜と並んで、縁側に腰を下ろす。
ただ黙って、空を、庭を、ぼうっと眺める。
胸の中が空虚だった。火がうち消えたあとの囲炉裏のようなわびしさが、胸の中を支配していた。
「寿郎さん」
凪いだ空気をかき分けるような、遠慮がちな茜の声。
「すみません。勝手に書斎へ入ってしまって」
「……いえ。おかげで助かりました。こちらこそ、迷惑をかけてしまって……」
「迷惑なんかじゃありません」
茜はきっぱりと言い切った。
少しの間を置いて、
「一応……妻ですから」
とつぶやくように付け加える。
一応なんかじゃないのに、と言いかけたが、それより早く茜が言葉をかぶせた。
「その、今、スランプ状態……なんですよね」
「どなたかから聞いたのですか」
「先日、中川さんがいらっしゃったので」
「ああ……」
彼女が来ていたのか。まったく気がつかなかった。
「わたしは、スランプという状態を体験したことがなくて、よくわからないのですが。作品が思いつかなくなってしまったのですか」
「……いえ。思いつきはします。ただ、形にならないのです」
この手で数多の悲劇を書き上げてきた。今回も同じようにすればいいだけなのに。
どうしても、色褪せる。読んでいて虚しさがこみ上げる。
そんな自分の変化を直視したくなくて、焦ったようにペンを走らせれば走らせるほど、空虚な文章が積み重なっていく……
「形にならない……」
茜が小さく反芻する。
しばし、彼女は膝頭を見つめたまま黙りこくっていた。
やがて、すっと顔を上げる。
「素人の思いつきで、とても恐縮なのですが……いっそ、まったく別のお話を書かれてはいかがですか?」
「……え?」
「藤島喜壱という作家は、悲劇の中の閉じられた世界で、主役たちだけが幸福を感じている……そういう作風ですよね。それが人気を博しているのだと理解はしています。でも、それが書けなくて苦しんでいるのなら、いっそその型を外して、別のものを書いてもいいような気がするんです」
悲劇の型を外す?
そんなことをして……いいのだろうか?
「もうじゅうぶん名前が売れているんですから、自分が出版社の人間を食わせてやってるんだくらいの気持ちで、全然別のものを書いてもいいと思います」
「ですが……」
「今取りかかっているものは、長編ですか? 短編ですか?」
「中編です。雑誌に掲載されるもので」
「なら、なんとか間に合わないでしょうか。中川さんは先生の熱烈なファンでもあるようですし、町の郵便局で電話をかけて企画を変更しますとでも伝えれば、掛け合ってくれないでしょうか」
とても真剣で、力のこもった目つきだった。
頬に黄昏の光が差して、いつも通りの無表情なのに、神秘的で眩しく見えた。
「今さら、私に……悲劇以外が書けるでしょうか」
「書けると思います」茜はうなずいた。「寿郎さんは、とてもお優しいので。優しい物語も書けると思います」
「……買いかぶりすぎですよ」
戸惑う寿郎の目の前で、茜は「あ、でも」と続ける。
「悲劇は、あってもいいと思います。それこそ、寿郎さんのウリでしょうから……悲劇を乗り越えた先で主人公が幸福をつかむ、とか……」
「夢物語ですね」
「小説はすべて、夢物語じゃないのですか?」
言ってから、茜は「すみません、ろくに本を読んだこともない人間が、偉そうなことを」と口ごもる。
いや、そんなことはない。
普段読まないからこそ、茜は物語に対する固定観念がない。
ひたすら〝彼女〟を書くことだけに囚われて、己には悲劇しか生み出せないと思い込んでいる自分より、茜の意見はよほど建設的だった。
自分は作家なのだから。会社と契約を結び、信頼されている立場なのだから。〝彼女〟が書けなくなっても、自分は物語を産み出し続けなければならない。
「茜さん。ありがとうございます」
茜が無表情のまま、微かに息を呑んだのが気配でわかった。
彼女の眼差しをまっすぐに見つめ返しながら、静かに続ける。
「書いてみます。誰が見ても手を叩いて祝福したくなるような結末を」
黄昏の陽はほとんど沈みかけていて、最後の輝きを空に焼きつけんとばかりに赤々と燃え上がっている。
赤と金の溶け込んだ光が中庭を照らし、木々も、池も、茜色に輝いていた。




