第十五話 気づけば想う
寿郎が再び書斎にこもるようになった。書きたいものが早々に見つかったらしく、筆を進めたくて仕方がないらしい。
だが以前のように不健康なこもり方ではない。食事の席には顔を出すので、茜はその都度、こっそり顔色を確認していたが、一応眠れてはいるのか血色は戻りつつあった。長年染みついた隈は相変わらずであったが……。
「茜さん」
茜が納戸の掃除をしていると、寿郎がわざわざやってきて、戸口から声をかけてきた。
「お渡ししたいものがあるのですが」
なんでしょうか、と近寄ると、寿郎は平たい包みを渡してきた。ものすごく見たことがある包み方だ。
開けてみると、やはり紙幣だった。
「すみません。このあいだ、茜さんの叶えたいことを一緒に叶えましょうと言いましたが、原稿に取りかかっているのでしばらくは何もできそうにありません。このまま茜さんをお待たせしてしまうのも申し訳ないので、お暇なときはこれを使って過ごしていただけませんか」
十圓札が二枚、一圓札が五枚……茜は手が震えそうになるのを懸命に抑えた。とんでもない金額だ。
「こんなに、いただくわけには……」
「これで芝居小屋の上桟敷席も買えます。町に一つだけ、新しくできたところがあるので是非行ってみてください。他にも呉服屋や、パーラーもあります」
お金持ちと結婚できたら、してみたいことがいろいろあった。寿郎ならそれを叶えてくれそうだと期待して契約を結んだのは事実である。
だが悲しいことに、いざ大金をぽんと手渡されると途方に暮れてしまうのは、やはり長年染みついた貧乏性のせいなのだろう。
わざわざ寿郎自身から外出を促されて、行かない選択肢をとるのも違う気がする。少し気が引ける思いだったが、この際思いきって外出を楽しんでみようと茜は決意した。
直彦の料理の腕もそこそこよくなっているし、教本と寿郎の本をにらめっこして勝手に自主学習しているようだし、自分がついていなくても平気だろう。
こうして後日、茜は唯一持っている一張羅の着物を着て、宇木邸からの坂を下っていったのである。
昨晩のうちに雨が降っていたようで、町への道はまだ完全に乾ききっておらず、石畳は灰色のまだら模様になっていた。
前回は書店と、洋吉を伴ってのあんパン屋しか行っていない。少し足を伸ばして、芝居小屋を覗いてみた。
最近新しくできたと聞いていたとおり、芝居小屋は和洋を織り交ぜた近代的な真新しい建物で、正面の看板に大きく「南楽館」と書かれている。
中からガヤガヤと物音は聞こえるが、扉は封鎖されていた。どうやら来るのが遅かったらしい。看板をよく見ると、公演は朝の九時から夕方三時までとなっていた。こんなに長くやるものか。寿郎に前もって聞いておくべきだった……と肩を落とす。
仕方が無いので引き返すと、反対側の道沿いに、これまた和洋折衷の立派な建物が見えた。「活動写真館」と書かれている。――活動写真! 映画だ! 茜は胸をはやらせる。
「もうすぐ席がなくなるよ! さあ買った買った!」
木戸口で売り子が声を張り上げ客を呼び込んでいる。茜は慌てて駆けつけた。
「すみません、席を一つ……」
勝手がわからない茜はろくに席を見もせず、言われるがままに高いお金を払い、席へ通され、絶句した。二階の畳敷きの桟敷席、それも卓と座椅子付きの特等桟敷席だったのだ。
一階は土間の椅子席で、子連れだったり、麻や木綿の地味な着物客でごった返しているが、二階から上は明らかに客層が違う。特に特等席は洋服もちらほら混じっていて、茜は人間の中に一匹だけ放り込まれた珍獣のような気持ちを味わった。
横に寿郎がいれば、少しは気が楽だったのに。自分はお付きの女中に見間違われるかもしれないが……
上映開始のベルが鳴り、館内がフッと暗くなる。前方左右に控えた楽士たちが一斉に三味線をかき鳴らし、向かいの壁にかけられた幕に白い光の筋が差す。
「これより語られますのは四方山村一番の暴れん坊、百鬼眞之介の起こしたとある事件――」
舞台横の縁台に立つ弁士が朗々と語りはじめ、ざわついていた観客たちも静まりかえる。
茜は生まれて初めて観る活動写真に夢中で見入った。
映画は五〇分前後であったらしいが、体感はあっという間だった。山間の小さな村の暴れん坊が、村で秘密裏に行われていた降霊の儀式をぶち壊し、迫り来る怪異や怪奇現象を己の豪腕で真正面から突破していくというとんでもない内容だった。
見終わった観客たちが口々に「ちょっと内容が突拍子すぎない?」「子供だましな内容だったわ」「僕ぁ、前やってたみたいに美しい恋愛物語が見たかったのだがね……」などと不満をあらわにしていたが、茜はたいそう愉しくて、なんだかすがすがしい気分だった。
寿郎がいたら、なんて言っていただろう。
媒体は違えど、同じく物語を生み出す立場として、どんな感想を抱くだろう……
建物を出たところで、はたと立ち止まる。
「寿郎がいたら」――今日、何度もそう考えている。無意識のうちに。
せっかく、活動写真を観るという夢を一つ叶えたのに。この後ものんびり町を散策して、パーラーへ行ったりしてみたいのに。
一人で自由に、いろんな贅沢ができるのに。
気がつけば、いちいち寿郎の反応を想像している自分がいる。
これでは、まるで――
「まさか」
思わず、言葉が口から漏れてしまった。彼の見目がとんでもなく麗しいから、話しかけられると緊張するし、目のやり場に困ることもある。でもそれだけだ。契約で夫婦になっているだけの相手を、そんな風に思うわけがない。
それに……寿郎は存在自体が雲の上の人だ。自分なんかが好きになったところで、何もいいことはない。
ぶんぶん首を振って歩き出す。次はどこへ行こう。ひとまず、この辺りをのんびり散策してみようか……
「ねえ」
つんとした女の声がした。人通りの多い道なので、茜は特に気にせず先を歩く。
「ねえ、ちょっと」
同じ女の声が響く。すぐ後ろから聞こえてくる。
なんだろう。何気なく振り返って、茜は凍りついた。
「やっぱり」
声の主である女は、何やら確信めいた顔でこちらをまっすぐ見据えていた。踵のある真っ赤な西洋靴に、派手な紅色のワンピース。ぐるぐるとパーマネントをかけた頭に丸いフェルト帽子を載せている。
「あんた名前、なんていったかしら。ねえ、あたしのこと、覚えてる?」
――覚えている。
顔を見た瞬間、雷に打たれたように、はっきりと思い出した。
この女の名前は、蓮見咲子。
尋常小学校時代の同学年。繁盛していた洋食屋の一人娘。
何度、学年が変わっても、毎回同じ学級になってしまった相手。彼女は友達だった。――茜が十歳になるころまでは。
「もちろん、忘れるわけないわよねえ。昔、散々遊んであげたんだもの」
「……」
「そうそう、思い出した、あんた、茜って名前だったわねえ」
「……」
「あたし、さっき映画館にいたの」咲子はばさりと扇子を広げた。「二階の特等席にね。ねえ、見間違いかしら。視界の端に場違いな安っぽい着物の女が座っていたのだけど……あんたのその着物とそっくりだったのよねえ」
「……」
「まさかと思うけど、あれ、あんた? どうやってあんな席を買ったの? 貧民窟で泥水すすって生きてるあんたが、どうやって?」
密かに奥歯を食いしばった。
咲子こそ、尋常小学校で茜を苛めていた女だった。
途中までは仲良く遊んでいた記憶がある。だが茜の父が職を失い、家族で貧民窟に越してから咲子の態度は一変した。
「近寄らないで」「貧乏が伝染る」「その着物洗えてるの? 下水くさいんだけど」……ことあるごとに罵倒し、教室中の女子を巻き込んで茜を仲間はずれにした……
咲子は女学校に進学することになり、受験勉強の鬱憤がたまるとますます躍起になって茜を攻撃した。母の作ってくれた握り飯を奪い、「畜生の餌だ」と言って鶏小屋の餌箱に放り込んだり、「こんな所に雑巾が」と言って茜の着物に筆の墨汚れをなすりつけたり、されたことは両手の指でも数え足りない。
あの頃、唯一茜と普通に接してくれたのは洋吉だけだった。今思えば洋吉から「幽霊を無視する訓練」を受ける時間だけが心の救いであったのだが、彼は上級生。先に卒業していなくなってしまってからは、茜は本当にひとりぼっちになってしまったのだ。
「ねえ、まただんまりなの? あんた尋常小の頃から何も変わってないのねえ」
扇子ごしに咲子は高飛車な声をあげた。
「相変わらず能面みたいな顔……つぎはぎだらけの着物は卒業したみたいだけど、安っぽい銘仙ねえ。そんなの庶民の女学生しか着ないわよ」
「……」
「それより、ねえ、どうやって特等席に座ったの? ハッ……あんたまさか、私娼にでもなってたりして? パトロンのおじさまに買っていただいたとか? ああ、それはないわよねえ。だってそんな醜い能面の女を誰が買うもんですか」
「……咲子さん」
茜はついに、閉ざしていた口を開いた。
「あなた、相当お暇なんですね」
「……は?」
「貧乏だと見下している相手を人混みの中からわざわざ見つけ出して、必死に話しかけて応答を求めるなんて。よほど話し相手がいなくてお暇なのだとお見受けします」
「……は? ……はああっ?」
「わたしは生憎と忙しい身ですので、これにて失礼いたします。ごきげんよう」
そう言って茜は踵を返した。
もう、この女と自分はなんの関係もない。苛められていた時代から十数年たっている。しかも自分は、まだ正式に入籍していないとはいえ立場上、寿郎の妻だ。もう貧乏じゃない。貧乏じゃない。貧乏じゃない……
そう、自分の心に言い聞かせていたのに。
後ろから手首を掴まれ、強い力でぐいと引っ張られる。
何が起こったのか、すぐには理解できなかった。
気がつけば、すぐそばの路地に倒れ込んでいた。ばしゃん、と汚泥が跳ね、顔に、首に、手足に、冷たくぬるりとした感触が降りかかる。
コンクリートで整備された大通りと違い、雨上がりの路地裏はひどいぬかるみだった。茜は呆然と、眼前に立つ咲子を見上げる。
「茜のくせに」
扇子で口元を隠してはいたが、異常に冷たい目つきと声色で、彼女が唇をわななかせているのがわかった。
「茜のくせに……小汚い虫けら同然の貧乏女のくせに……あたしは大手企業の重役の妻なのよ……そのあたしを見下してんじゃないわよ!」
そう吐き捨て、咲子は肩を怒らせて去って行った。カン、カン、カン、と力任せに道を踏みつける音が響き、遠ざかっていく。
茜は、ゆっくりと立ち上がった。びしゃびしゃと汚泥がぬかるみに落ちる。
唯一の一張羅が、泥まみれになってしまった。
着物も、足袋も、下駄も――朝から苦労して整えた髪も、頬にも、黒い汚れがべっちゃりと染みついてしまっていた。
茜は宇木邸まで戻っていった。どんな道順で帰ったか覚えていない。ただひたすら人目を避け、ひとけのない通りを選んで歩いた。
ずっと歯を食いしばっていたせいか顎が痛い。
正面玄関から入ると寿郎と鉢合わせてしまいそうだった。かといってこんな姿でお勝手に上がりたくもない。
考えた末、門からこっそり庭を回り、寝室へ直接上がり込むことにした。そこでささっと着替えて、顔の泥も落としてしまえばいい。
寿郎は今、執筆に忙しい。直彦も家事と勉強で毎日やることが盛りだくさんだ。庭には誰もいないはず――
「あれ、オクサマ」
なぜか庭に、直彦がいた。
両手に抜いたばかりの雑草を山盛り抱えて、みるみる目を丸くする。
「えっ、なんだよそれ、どうしたんだよその恰好!」
「あ、これは、その、いろいろあって」
「何があったらそんな泥んこになるんだよ!」
「しーっ、しーーっ! お願い、あまり大声を出さないで、お願い……」
その訴えもむなしく、茂みの向こうから「直彦? 何を騒いでる」と声がした。草履で土を、石畳を、踏みしめる音が近づいてくる。
逃げ出すこともできないまま硬直していると、庭の小道から寿郎がやってきてしまった。
「茜さん……?」彼は茜の姿を一目見た瞬間から目を瞠り、急いで駆け寄ってきた。
「いったい、どうしたんですか? その汚れ方は……」
「なんでもありません」
どうしよう。寿郎には知られたくなかったのに。
彼は今、大事な原稿に取りかかっている。せっかくスランプから抜け出して、調子を取り戻せそうなのに。締め切りも近いし、邪魔したくない。
「お恥ずかしい話で、転んでしまいました。昨晩の雨で道がぬかるんでいて、派手に突っ込んでしまったものですから」
「なんだ、そんなこと――ですかぁ」
直彦は寿郎の手前、慌てて口調を改める。
「まさか、それでコソコソと庭に回ったんですか?」
「まあ、そうですね。こうしてご心配をかけたくはありませんでしたし……」
「というかその着物、すぐ洗わなきゃですよね。洗い桶と石鹸、出しときますけど」
「ありがとうございます、助かります」
直彦は「ふん」と鼻を鳴らして去っていく。茜はその背を見送ってから、何気なく寿郎のほうを見やった。
寿郎は眉を寄せ、いぶかしげな目で茜をじっと見下ろしていた。
「……寿郎さん?」
「さっきの話、本当ですか?」
そう問う声は、いつもと変わらず穏やかなのに、どこか重々しく響いた。
「本当です」
「……」
いつになく剣呑な眼差しに、心の薄暗いところが見透かされているような気がして、茜はごくりと喉を鳴らした。
「お見苦しいところを。すみません。すぐに着替えて参ります」
茜は一礼して、寿郎とすれ違い、自室への小道を抜けていく。
――大丈夫。だてに能面顔をしていない。わたしの本心なんてわかるはずがない。きっと心配しているだけだ。彼は優しいから……
寿郎の邪魔をしたくない。
今は作家活動にだけ集中していていほしい。
こんな自分なんかのために、心を裂く必要なんてない……




