第十六話 優しい棘
寿郎の新しい作品はあっという間に完成し、無事、原稿を取りに来た中川富美子の手に渡った。
その場で原稿の題を見た富美子は一瞬、ぎょっと目を瞠った。そして内容をさっと読み込むと、
「これは……」
と困惑の声を上げたのだった。
作品の出来映えは良かったらしく、その後すぐ会社へ持ち帰り、無事に原稿を通してくれたらしい。
こうして無事、寿郎は締め切りを乗り切ったのである。
「結局、どんなお話になったのですか」
その日の夕餉の席で茜がたずねると、彼は少しだけ困ったような顔をした。
「……秘密です」
「え?」
「まあ、すぐにわかります。再来月の雑誌に載るそうですから」
なぜ隠されたのか、茜はよくわからなかった。
「そうだ、茜さん。明日、お時間ありますか」
それぞれの皿がほとんど空になった頃、寿郎が唐突に言った。
「はい、ありますが」
「では昼間、一緒に出かけませんか。ようやく時間ができましたので」
胸の鼓動が、ひとりでに速くなる。
「わかりました。よろしくお願いします」
一緒に出かける。寿郎と。
――一緒に叶えましょう。
寿郎の優しい言葉が胸によみがえって、食後に台所で直彦と洗い物をしている間も、茜はときどき無意識で心臓を押さえていた。
あの日ついた着物の汚れは、結局取れなかった。あんなにべったりと広範囲に染みついてしまっては、もはや解いて手ぬぐいにすることもできず、結局廃棄せざるを得なかった。
手持ちの着物は、木綿絣の普段着しかない。代々お下がりとして人の手に渡り続けた古着で、色も柄もすっかり薄れてしまっている。貧乏だったころはそこまで気にならなかったのに、いざ、玄関で寿郎と並んで立つと本気で惨めな気持ちになった。
寿郎の着物は当然のように絹織物で、紺と灰の格子縞が洒落ている。黒い羽織は薄物で、涼しげで粋だった。
こんなの絶対、夫婦に見えない。どう見ても偉い社長とお付きの女中だ。一緒に歩くのがものすごく躊躇われる。
「では、行きましょうか」
寿郎が帽子をかぶり、外に出る。
「いってらっしゃいませ!」
直彦の元気な声に追い立てられるようにして、茜はしぶしぶ、後をついて行った。
「すみません。外出用の着物は、汚してしまったので……こんな恰好で申し訳ありません」
坂を歩きながら小声で弁明する。自然と歩幅が小さくなり、寿郎の後ろを歩いてしまう。
だが寿郎は振り返り、茜の歩幅に合わせるように歩みを遅くした。
「何を着ていても茜さんは綺麗ですよ」
ひゅ、と喉から変な音が鳴った。慌てて口を閉じて飲み込む。
急に何を言うのだろう、この人は。
お世辞なのは丸わかりなのに。
寿郎に連れられるまま、電車に乗る。休日であるからか、四角い車両は鮨詰め状態だった。途中の駅からも人が乗ってきて、小柄な茜は壁際に押し込まれてしまう。
だが、潰れる前に寿郎が壁になってくれた。
「人が多いですね」
茜の背後に手をついて、困ったように微笑む。
茜は反射的に目を伏せた。背中が汗ばむのを感じる。
――近い。駄目。目のやり場に困る。化粧で誤魔化している顔の粗を間近に見られたくない……
緊張で目眩がしだす前に、なんとか目的の駅につく。大きな町であるからか、人が一斉に降りていき、茜は安堵感で大きなため息をついたのだった。
ここは繁華街で、帝都ほどではないものの、この辺りでは一番栄えている町である。大きな運河がそばに横たわっているおかげか昔から商いが盛んであり、大通りの商店街は呼び込みの声や買い物客で賑わっていた。
寿郎の横を歩きながら、茜は出かけたため息を何度も飲み込んだ。寿郎の美貌はとにかく目立つ。四十手前だとか、ちょっと寝不足気味であるとか、そんなことは関係ない。むしろその陰のある顔がかえって女性の目を惹いてしまう。道を歩いているだけで何度も振り返られ、立ち止まってはひそひそされ、茜はもはやろくに顔を上げられなかった。
――わたしはお付きの女中です、人形劇の黒子です、あまり見ないでください。むしろ背景になりたい……
そう思ってなるべく後ろへ控えようとしているのに、寿郎がいちいち歩幅を合わせてくる。「あそこのカステラ、とても美味しいですよ。よければ買って帰りましょうか」などと優しく話しかけてくる。
周囲の視線が肌に突き刺さる気がして、ますます顔を上げられない。
どうしてこんなに人の目が気になるのだろう。
幽霊の視線ならいくらでも躱せるのに。霊たちにどれだけ罵倒されても聞き流すことができるのに。
「そういえば、この間の外出ではどちらに行かれたんですか?」
寿郎は周囲の視線など気にも留めず、気さくに話しかけてくる。
「活動写真館へ行きました」
「映画ですか。そういえば最近観ていませんね……今はどんな演目をやっているのですか?」
「村の暴れん坊が怪異を次々にやっつけるという痛快なお話でした」
「それはまた……ずいぶんと盛り上がったでしょうね」
「弁士の方がとてもお上手だったので。主に子どもが喜んでいましたね」
他愛もない会話。
なのに、背中が妙に汗ばんで、息も浅くなる。
どうしてしまったんだろう。家では普通に話せていたのに。
いや、普通に話せたことがあっただろうか? いつも寿郎の前だと緊張して、まともに目を合わせていられなかったではないか。
ああ、寿郎を見る周囲の視線にあてられて、息が苦しい。
せめて、自分が寿郎に釣り合うほどの美人だったら。こんなふうに思わなかったかもしれないのに……
「つきましたよ」
気づけば寿郎がまた立ち止まっていた。
目の前に「呉服 九重屋」と木彫りされた看板が立っている。そのそばに二階建ての大きな商店がそびえていた。
「ここで茜さんの着物を買いましょう」
「えっ?」
「このあいだ、着物を駄目にしてしまったでしょう。この際ですから新調しましょう」
寿郎は当然のように言って、ガラリと引き戸を開けてしまう。茜はおっかなびっくり、ついて入った。
「いらっしゃいませ。ああ、宇木さん」
奥から齢四十ほどの女将がいそいそと出てくる。寿郎とはすでに顔見知りであるらしい。贔屓の店なのだろうか。
「妻の着物を新調したいのですが」
「あら、奥様?」女将の目がまっすぐ茜にそそがれる。茜は真顔のまま、足だけは着物の裾に隠れて思いっきり逃げ腰になっていた。
「お初にお目にかかりますわ! 本日はようこそ起こしくださいました。お着物はどのようにいたしましょ? 普段着ですか、晴れ着ですか」
「普段着を」寿郎が当然のように答える。「家で過ごしやすいものと、外出用のをそれぞれ五着ずつ……」
「と、寿郎さん」
さすがに声が少しうわずってしまった。寿郎は振り返り、「そうですね、浴衣と肌着も新調しましょう」とあさっての返答をする。
「承知しました。奥様、とても運がよろしいですわ。ちょうど今日、新しく入荷した明石縮がございますのよ、ほら、この透け感をご覧になって、今からの季節にぴったりでございましょう?」
女将はすっかり営業に入っている。茜は困惑の眼を寿郎に向けたが、
「茜さんがほしいと思ったものをなんでも選んでください」
と微笑まれるだけだった。
店で着物など仕立てたことはない。いつも近所のお下がりをもらって、自分で解いて縫い直していた。こんなふうにずらりと反物を並べられても、どうすればいいのかわからない。
茜の反応の悪さや、この店に場違いなほどのみずぼらしい恰好から何かを察したのか、女将はさっと生地をいくつか見繕い、「旦那様、いかがでしょう? この縹色が奥様の涼しげなお顔にぴったりじゃございません?」などと寿郎を巻き込み始めた。
「いいですね。茜さん、いかがですか?」と寿郎も乗り始める。茜は二人に勧められるままにあれこれと生地をあてがわれ、褒めそやされ、何がなんだかわからぬあいだに、夏用の外出着や普段着、肌着から帯まで生地を決められてしまった。
茜が店の奥で採寸をしているあいだ、寿郎は「少し外します」と店を出てしまった。「すぐに戻りますので、終わったらこちらで待っていてください」と言い置いて。
採寸自体はそれほど時間がかからなかったのだが、すべて終わった後、茜はどっと疲れてしまった。
呉服屋での買い物に憧れていた。色とりどりの美しい絹織物を目にすると心躍ったし、「なんでも買っていい」と言われて、遠慮しつつも胸が高鳴ったのは事実である。
だが、自分はどうしたって不慣れで、場違いで、気後れしてしまう。自分なんかが、おこがましいのではないか。服に着られるばかりで似合っていないのではないか。これを着て寿郎のそばに立ってもまったく釣り合わないのではないか……そんなことばかり考えてしまう。
寿郎はまだ戻ってこない。女将に「中でお待ちいただいても」と勧められたが、断って店の外へ出てしまった。
たちまち通りのざわめきが耳を覆う。みずぼらしい服装で呉服屋の前に突っ立っているのが恥ずかしくて、建物の陰に避難しようとした。
「あらぁ?」
眼前に人影が立ち塞がり、茜は息を呑んだ。
咲子がいた。綺麗な洋服に身を包み、扇子で口元を隠しながら、茜を上から下までじろじろと眺め回している。
どうして、こんなところに。
「あんた、何その汚らしい着物……冗談でしょ。まるで物乞いじゃない」
ぞっとするほど冷たい侮蔑の目。だがその奥に、獲物を見つけた獣のような興奮の色があらわれている。
「また性懲りもなくこんな町中をうろちょろして……まさか、この呉服屋に用事でもあった? ……なわけないわよねえ。あんたみたいなのが出入りしだしたら店の名に傷がつくもの」
頭から冷水を浴びせられたような気分だった。無意識のうちに後ずさりしてしまう。
こんなところを、寿郎に見られたら。
考えるだけで目眩がしそうだった。過去にこの女から苛められていたなんて知られたくない。ただでさえ存在が惨めなのに、さらに失望されたくない。
冷静に考えれば、寿郎に見られたところでなんとでも誤魔化せばいいだけなのに、茜の頭の中は最悪の想像ばかりが駆け巡って息もできない状態だった。そのままくるりと踵を返し、宛てもなく走り出す。
この間の反省もかねて、大通りの中をひた走った。だが人が多くてうまく進めない。咲子はしつこく追いかけてくる。
「あははは! 何逃げてんのよ、無様ねえ!」
どうして。どうして見下している相手をわざわざ、追いかけてくるの。
放っておいてほしい。お願いだから、もう関わらないでほしいのに。
人混みに不慣れなせいか、咲子が身軽な洋装だからか、あっという間に追いつかれ、手首をぐいと掴まれた。
「つかまえた。ふふふ……あんたこんなにどんくさかったっけ? 昔はどんなにいびっても、その醜い能面顔でじーっと睨んできてたのに」
「……」
「ねえ、もしかしてあの日着てた着物が一番いいやつだったの? だから今日は物乞いみたいになってるの? あはは、惨めねえ。なのにどうしてこんな通りを歩いてるの? あんたみたいなのが来ていい場所じゃないのよ」
「……」
「これに懲りたらとっとと貧民窟に帰って、一生出てこないことね。ほほほ、ほほほほ!」
扇子越しに高笑いが響く。往来の人々の視線が一瞬、何事かとこちらを見るが、都会の街角の光景など皆すぐ興味を失い、目をそらして通り過ぎてしまう。
茜は咲子の嘲笑を聞きながら、彼女の様子にどこか狂気じみたものを感じていた。わざわざ追いかけてまで必死に人を罵倒するなんて、正気の沙汰じゃない。
茜は思わず口を開きかけ、すぐに閉じた。咲子のすぐ後ろに見える人影を、信じられない思いで見つめる。
「茜さん」
寿郎が、軽く息を切らせて立っていた。咲子は驚いたように振り返り、ぎょっと目を瞠る。次いで、頬がぽっと赤らんだ。
「あ、あの、あなたは……」
生娘のような反応を見せる咲子を見下ろし、寿郎は口元に薄い笑みを浮かべた。まるで人形のように冷えた微笑だった。
「私の妻に、何かご用ですか」
「――つ、ま……?」
咲子が目をまん丸に見開いて茜を見、寿郎を見る。何か信じがたい言葉を聞いたかのように何度も、何度も。
「あ、茜さん、この方、旦那様なの?」
「はい」
「け、結婚してるの……?」
「はい」
「や、やだあ、そうならそうと言って頂戴よお、水くさいじゃない」
咲子はほほほと笑って茜の肩を叩く。
「すみません、あたし、茜さんの元学友ですの、ねえ、茜さん、ほほほ……」
「そうなんですか?」
寿郎が茜にたずねる。茜は「はい」と即答した。寿郎は眉間に微かに皺を寄せ、何事か口を開き駆けたのだが、それよりはやく
「咲子!」
と野太い声が響き渡り、咲子がびくりと大げさに肩をふるわせた。
見れば背広にステッキを持った小太りの紳士が往来を突っ切ってこちらに向かっている。そのすぐ後ろを、召使いとおぼしき男が荷物を持って慌てて追いかけてきていた。
男は寿郎と茜の存在になど目もくれず、こちらに来るやいなやいきなり咲子の手首をつかんでねじり上げた。
「い、いだだだだだっ」
「おまえ何をこんなところで油売ってる。ええ? 俺の許可なく勝手に外へ出やがって。脱走は許さんと言っただろうが!」
「も、申し訳ございませんお許しください旦那様、お許しください、お許しくださいっ」
「これで何度目だ、ええ? 女中に見張らせておいて正解だったな、今後は部屋に閉じ込めて外から鍵をかけてやる、一生お天道様を見られると思うな、この役立たずの石女が!」
男はステッキで咲子の頭や肩をぶつと、ずるずる引きずっていってしまった。見ればすぐ向かいに馬車が停まっている。
「た、たすけて、たすけてえっ」「お許しください、お許しください……」
咲子の断末魔が尾を引き、彼女は馬車の扉の向こうへ乱暴に投げ込まれてしまった。
茜と寿郎は、互いに無言のまま顔を見合わせた。
「今のは……」
「さ、さあ……」
首を傾げつつも、茜はなんとなく想像してしまっていた。
咲子曰く、彼女の夫はさる会社の重役。それは、咲子や男の身なりからして納得できる。
だが、男の最後の言葉……咲子は求められていた役目を果たせず、家に閉じ込められていて……
まさか。すべてただの憶測だ。
「……茜さん、大丈夫ですか?」
寿郎の声に、思考の渦から引き戻される。
「何がでしょうか」
「あの女性と何か、揉めていたように見えましたので」
寿郎の声はいつもと変わらず穏やかで、何気ない調子である。
「揉めていません。尋常小時代の学友で……偶然出会ったので、話していただけです」
嘘ではない。
だから、堂々と、寿郎の目を見て言い切った。
「そうですか」
寿郎はあっさりと納得してくれた。よかった……とこっそり肩をなで下ろす。
そのあとは、寿郎とパーラーに入ってお茶をした。着物の完成が楽しみですね、着物を下ろしたらまた出かけましょう、などと当たり障りのない会話をしてから、電車と人力車で宇木邸へ帰ったのだった。
なんとか、すべてが丸く収まった。
そう、心の底からほっとしていたのに。
夜、風呂の湯をもらい、浴衣に着替えて寝室へ向かっていると、
「茜さん」
と声をかけられ、驚いて振り返った。
廊下のすぐ後ろに、寿郎が立っている。
茜は肩にかけていた手ぬぐいで咄嗟に目から下を覆った。今は化粧をしていない。風邪を引いたときに既に見られているとはいえ、やはりすっぴんを晒すのに抵抗があった。
「どうして顔を隠すのですか」
寿郎の苦笑に気の利いた返事ができず、「なんでしょうか」と尋ねる。
「庭に出てみませんか」寿郎が優しい声で言った。「少し、話がしたいので」
なんだろう……
茜は妙な予感を覚えつつ、「では少し支度をして参ります」と告げ、背を向ける。
「支度? なんのですか?」
「……お化粧を少し……」
「いりませんよ」
「そんなわけには。お見苦しいでしょうから……」
言いながら、さりげなく襖を開けようとしたのだが、その手を背後からそっと押さえられてしまった。
とても優しい力なのに、その手のひらに有無を言わせない熱を帯びていて、茜は身動きできなくなった。
「どうして今日はずっと、そんなに泣きそうな顔をしているのですか」
そう静かに囁かれた途端、胸の奥にずきんと鈍い痛みが走った。
何を言っているのだろう。この鉄の顔が崩れることなどありはしないのに。
「そんな顔、していません。……しているはずがありません」
手を押さえる寿郎の手に、わずかに力がこもった。
「今日、町で話していたご学友……あの女性は、もしかして着物が汚れたことと関係しているのではありませんか」
――どうして。
茜は無意識に呼吸を浅くしながら「違います」と答える。
「でも彼女は、あなたの友人などではないでしょう」
「どうして、そんな……」
「あなたが、とても旧交を温めているような顔をしていなかったからです」
「わたしの顔なんて、いつも同じではありませんか」茜は自嘲するようにつぶやいた。「能面のようだという自覚はありますよ」
「いいえ」
寿郎の手が、茜の手首を優しく掴む。そのままぐいと引かれて正面を向かされる。
寿郎の背後、開け放たれた障子の向こうから、煌々と輝く月の白い光が見えた。
「あなたの目は、とても雄弁ですから」




