第十七話 優しい棘②
寿郎の言っている意味がわからず、茜は目をしばたたかせた。
「何を……おっしゃっているのか……」
「あのとき、あなたの目は恐怖に揺れていました」
恐怖? 自分が? そんなわけない。
霊が視え、その体質ゆえに散々恐ろしい目に遭ってきた。恐怖なんて感情はもう焼き切れているはずなのに。
「あなたが着物を汚して帰ってきた日も同じ……言い様のない悲しみや苦しみを湛えた目をしていましたよ」
「そんなはずは……」
「あなたの頬は動かないし、その口からあまり本心を聞くことはありませんが……出会ったときからあなたの目は、ひときわ強く感情を湛えていましたよ」
「……」
茜は黙ったまま、小刻みに首を横に振る。そんなはずない、そんなはずない、そう呪文のように念じ続けるしかできない。
だって、もしもそれが本当なら。
心の内側を隠せないのだとしたら。
この貧しく醜い卑屈な心まで彼に見えてしまっていたら……
「本当に、あの日は、転んだだけで」茜はできるだけ抑揚をおさえ、声を絞り出した。
「咲子さんも……本当に友達だったんです、でも、きっと旦那さんとうまくいってなくて……だから鬱憤がたまっていて、それをわたしにぶつけただけでしょうし」
お願いだから、そっとしておいてほしい。
この心を暴かないでほしい。
まだ試用期間なのだから、身も心も強い完璧な妻でいさせてほしい。
この人に、惨めだと思われたくない。捨てられたくない。見限られたくない。
失望されたくない……
その感情さえ、見透かされているのだろうか。
「つらいことを我慢しなくていい」
そう告げる彼の声は、どこか切ない響きを帯びていた。
「ひとりで抱えなくていいから……つらいことがあるなら、私に打ち明けてください」
労わるような優しい眼差し。手首をつかむ、温かくて力強い手のひらの感触……そのすべてを感じるたびに、胸がぎゅうっとつままれたように痛む。
痛くて、苦しくて、胸の奥をかきむしりたくなるのに、その甘苦しさを拒絶できない……正体のわからない痛みにおそわれ、目の奥がひとりでに熱くなった。
それが形となってあふれ出るのを、茜はすんでのところで押さえ込む。
「我慢していることなんて、ありません」
しばしの沈黙のあと、頭上で彼の吐息がかすかにこぼれた気配がした。
「どうすれば、あなたの心に触れさせてもらえるのでしょうね」
手首をつかんでいた手が、ゆっくりと離れていく。
「私の心には踏み込んで、救い出そうとするのに」
どこか諦めたような声で力なくつぶやくと、寿郎は一歩下がった。
「すみません。少し冷静さを欠いていました。酒のせいでしょうか……年甲斐もなく……」
頬を掻きながら、「引き留めてすみません。おやすみなさい」と言って、背を向けた。
おやすみなさい……そう小さく返して、茜も襖を開ける。部屋へ踏み入ると、襖を閉め、ずるずると座り込んでしまった。
顔が熱い。息が、苦しい。寿郎の言葉の一つ一つが、今になって急激に胸を締めつける。
「どうして、わたしなんかに……」
宇木邸に来てから……いや、寿郎と関わってからおかしなことばかりだ。今までやってきたことが何ひとつ通用しなくなる。
ふと、部屋の片隅に白い着物の少女の霊がぼんやりと突っ立っているのが視えた。頭に白い花飾りをつけている……彼女は初日からずっと数少ない〝害のない霊〟だ。
「……ごめんね」
幼い少女の前で落ち込んでいるのも恥ずかしく、茜は気持ちを切り替えようと立ち上がる。
彼女から目を離そうとした刹那――少女の霊の顔が一瞬、ぐにゃりと大きく歪んだように見えた。
はっと目を上げる。少女の姿は見当たらなかった。
さっきのあれは……気のせいだろうか。
視界の端にほんの一瞬見えただけなのでなんとも言えないのだが、口が大きく左右に裂けていたような……
背筋になんとも言えない寒気を感じて、茜は寝室へ足早に向かうと、すぐ布団に潜り込んだのだった。
***
――藤島喜壱の新作は、編集会議にすんなりと通ってしまった。
中川富美子は電車に揺られながら、ぼうっと暗い窓を眺めていた。車内の明かりが反射して、富美子の力ない顔をぼんやりと映し出している。
初めて彼の新作を読んだときは本当に驚いた。まずその内容。夫婦ものである。あの藤島喜壱が。
彼の作品の主役は常に、世間から決して認められない関係が描かれていた。書生と幽霊、令息と使用人、兄と妹……認められない愛ゆえにいつもふたり孤独に死ぬ。死しか彼らを結びつけるものはない。そういう作風が世の女性たちを惹きつけてやまないのだ。
彼の得意とする悲劇的で鬱々とした世界観はこの新作にも確かにあった。妻は因習深い旧家の一人娘、夫は借金のカタに婿入りした哀れな男。妻を含む一族もろとも、余所者である夫に冷淡で、ときに彼を態度や言葉で苛んでいた。そんな中、妻が病床に伏してしまう。夫は自分を嫌う妻を最後まで看取ろうと決意し、献身的に尽くすのだった。
ここまでは、なんだか哀れだからいい。いっそこのまま夫の気持ちが報われず妻が旅立てば藤島喜壱らしい悲劇の完成だと思っていた。
だがこの後。夫の献身に耐えきれなくなった妻は、今まで隠していた夫への愛をぽつりとこぼす。
長年続いていた因習の影響で、妻の体は生まれつき病に冒されていた。子を産んだことで病は加速し、命をむしばみ、床へ伏せさせたのだ。
その未来がわかっていた妻は、自分の死後、夫がなんの未練もなく離縁できるようにと、決して愛情を表に出さなかった。夫の借金を密かに帳消しにして、あとは静かに召されるはずだったのに。夫があまりにも尽くすものだから、罪悪感と悲しみからつい口を滑らせてしまった。
妻は夫の手を静かに握り、頬ずりして謝罪する。夫は妻を抱きしめ、永遠の愛を誓う。庭から差す茜色の光に包まれながら。
その後、夫は妻の看護を続けつつも一族から因習を取り去ろうと奔走する。物語の最後は、妻の病が奇跡的に回復し、夫や子どもたちと共に睦まじく過ごす場面で締めくくられていた。
あまりの結末に、富美子はただ唖然としていた。
そこは夫が妻と死に別れて、未練を引きずりながらどんどん堕落して終わるんじゃないのか。
なぜこんなにも幸福な結末にしたのか。せっかくの悲劇を台無しにしてしまったのか。
この作品の題は――〈茜さす庭〉。
茜……
富美子は身震いした。脳裏には寿郎の新しい妻の能面のような顔が浮かんでいた。
視界の隅が少しずつ黒い靄に染まっていく。
『あんな女、消えてしまえばいいのに』
ふと、頭のなかに見知らぬ少女の声が聞こえた気がした。その言葉は富美子の薄暗い心に恐ろしいほどすんなりと溶け込み、黒々とした荒波を立てはじめた。




