第十八話 乱心事件
「明後日、次の作品の取材のために出かけようかと思っています」
朝餉の席で、寿郎がそんなことを言い出した。
「取材ですか」直彦がたちまち目を輝かせた。「俺、お供しますよ!」
「いや、今回は旅行じゃない。日帰りだから相伴はいらないよ」
「……そーなんですか」
「朝から出て、夕方頃に帰ると思います。……茜さん?」
真正面から名を呼ばれ、茜ははっとした。
「はい」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
答えながら、茜は無意識に視線を泳がせてしまっていた。
寿郎と目を合わせられない。
食後に食堂の後片付けをし、布巾を洗いに台所へ入ると、食器を洗っていた直彦が口を開いた。
「なあ。あんた最近、様子が変だぞ」
「……え?」
「もしかして旦那様を怒らせたりしたのか?」
なぜ、様子が変だと寿郎を怒らせたことになるのだろうか。
「旦那様と全然目を合わせようとしないし、喋りもしないし。後ろめたくなるくらい怒らせたんだったら、ちゃんと謝っとけよ」
「別に、怒らせたわけでは……」
「じゃあいつもみたいに堂々としとけよ。あんた表情がないから余計に何考えてるかわかんなくて不気味だぞ」
直彦の指摘はもっともである。だが、茜にはもはやどうしようもないことだった。
料理をしているとき、掃除をしているとき、部屋で過ごしているとき……何気ない瞬間に、先日のあの夜のことを思い出してしまう。後ろから寿郎に手首を押さえられた感触や、彼の優しい言葉の一つ一つが、茜の胸の奥にぎゅうっと鈍い痛みを走らせる。痛みはすぐに引くが、その後に残る甘苦しい感覚が切なくて、振り払おうにも振り払えず、茜はひっそりと胸を押さえて耐え忍ぶほかなかった。
寿郎の顔を見たら、もっと耐えられなくなる気がして、たまらず目をそらしてしまう。こんなことは生まれて初めてで、どうすればいいのかわからない。
寿郎は食事の席や、廊下ですれ違うときなど、何事もなかったかのように話しかけてくる。まるで自分だけが特別に意識しているようで、それもまたつらかった。
二日後の朝、寿郎は出かける準備をして玄関に立った。
「今日は帰りに寿司でも取ってきますから、夕飯は要りません」
「え、寿司ですか!」直彦が目を輝かせる。「俺、あの、マグロ、マグロ食べたいです!」
「はいはい。前に食べたときも鮪を気に入っていたね。……茜さんは、何が好きですか?」
「えっ」
茜はうろたえ、一瞬顔を上げかけたが、すぐに目を伏せた。
「寿司は、食べたことがありませんので……お好きなものを買ってきてください」
「わかりました。店で適当に見繕ってもらいましょう」寿郎が中折れ帽を深く被る。
「では、行ってきます」
「行ってらっしゃいませ旦那様!」
直彦が元気に声を張り上げる。茜は顔を上げられないまま、「行ってらっしゃいませ」と口にした。
寿郎が戸を開けてから、外に出るまで少し間があった。彼の視線が自分に向けられているのを痛いほど感じる。だが、結局何も言わないまま、彼はゆっくりと戸を閉めてしまった。
「あのさあ」
直彦が口を開き、だが困ったように「あー……」と言葉を迷わせてから、誤魔化すようにコホンと咳払いした。
「今日の家事が終わったら、旦那様が帰るまで勉強につきあってほしいんだけど」
「いいですよ」
「やった。決まりだな。俺、ひらがなとカタカナはもう完璧だからさ。次は漢字、教えてくれよな」
言うやいなや、直彦は返事も聞かずに「さ、掃除掃除!」と廊下の端へ消えてしまう。
――わたしも漢字はそれほど知らないんだけどな……
やれやれとため息をこぼしつつ、自分も掃除に取りかかろうと納戸へ向かった。
寿郎のいない一日は、静かに過ぎ去っていった。茜は時折、その辺りを浮遊する霊を見ながら、そういえば以前見かけていた老婆の霊が見当たらないことに気づいた。無事に成仏したのだろうか。
掃除や洗濯、台所の鍋磨き、風呂のタイル磨き、寿郎の着物の修繕などをやっていたら、午後三時を少し過ぎていた。直彦が新しい教本とわら半紙と鉛筆を持って茶室へやってきた。
別に漢字の読み書きなら、教本を使って自分一人できるだろうにとも思うが、せっかく仲良くなれたので、彼の気の済むまで勉強に付き合ってやることにする。
それに、何かしているほうが気が紛れる。寿郎のことを思い出して胸を痛めずにすむ。
「あ、この字、見たことあるぞ。あ、これも……へー、星ってこんな字なのかぁ。……」
直彦は興味津々で漢字を書き取っている。あんなに勉強嫌いだったのに、いつの間にやらすっかり夢中になっているようだ。今、彼が学生になれたら、きっと優等生に違いない。
茜も横で一緒に硬筆練習を見守っていたら、外でリィンと呼び鈴が鳴った。
「ちぇー、誰だよ、今いいとこなのに」
直彦がぶつくさと立ち上がり、開け放たれた縁側から直接庭へ出て行った。
その後すぐ軽快な足音がして、茶室の襖が開いた。
「こんにちは」
中川富美子がにこやかに顔を覗かせてきた。その後ろで直彦がこっそり顔をしかめているのは見なかったことにして、茜も「こんにちは」と立ち上がる。
「先生の新作が会社で好評だったので、そのご報告をと思ったのだけれど……」
「だから、旦那様は今いませんって」
直彦がうんざりした調子で答える。
「先生は何時頃お帰りになるの?」
「夕方頃って言ってましたけど」
「じゃあそれまで待たせていただくわ。あと一時間かそこらでしょう?」
そういうわけで、茜は富美子を茶室でもてなすことになってしまった。
富美子は「帝都土産よ」と言って、持参していた箱入りのキャラメルを分けてくれた。生まれて初めて口にした茜は、そのとろけるような甘さと不思議な噛み応えに、ひたすら夢中で咀嚼してしまう。
「ふふ、おいしいでしょう。先生にも召し上がっていただきたいわ。……ねえ、奥様」
ふいに富美子が身を乗り出してきて、茜は慌ててキャラメルをごくんと飲み込んだ。
「先生の〈夏雪草〉、もうお読みになった?」
「はい」
「そう。素晴らしかったでしょう?」
「……とても面白かったです」
「お話もそうだけど、何よりあの結末が、もう本当に悲しくて、やるせない気持ちになるでしょう? あれが藤島喜壱の作品なのよ」
富美子がうっとりと頬に手を当て、それから唐突に「ねえ」と少し声色を低くした。
「あの幽霊の少女に、モデルがいることはご存知?」
「……え?」
「やっぱりご存知でないのねえ。あの少女はねえ、実在の人物を元にしているの。それだけじゃない……あの物語自体、先生の実体験に基づいているのよ」
そんな話は初耳だった。唖然とする茜を尻目に、富美子は熱っぽく語り続ける。
「もちろん、館で起きたあの惨劇は創作だけれど、医者の娘たちは先生の兄弟関係と同じだし、複雑な家庭環境も同じ。先生は母親に先立たれ、その後やってきた後妻とその子に家督を継ぐ権利を奪われ、家に居場所がなかった。そんな折、先生は恋をしたの。座敷牢に閉じ込められていた少女に」
富美子は熱に浮かされたような目を宙に投げた。
「座敷牢はねえ、先生のご実家の地下にあったの。そこに閉じ込められていた美しい少女に先生は生まれて初めて恋をして……共に将来を誓い合ったの。だけど、秘密の逢瀬が父親にばれて、二人の仲は引き裂かれ……絶望に打ちひしがれた先生は、少女への愛を忘れられず、二人の許されざる関係を小説に描き続けている……」
なのに。富美子は突然目をすがめ、茜を睨んだ。
「なのに……今回のあの作品。あれはいったいなんなの? 先生の、少女に対する忘れがたい愛はどこへ消えてしまったの?」
直彦は富美子の気迫に気圧され固まっている。だが茜は、富美子の言葉など耳に入っていなかった。
寿郎の、初恋の相手。
将来を誓い合った相手。
彼女が死に、それでも忘れられず、少女への愛をひたすら作品に昇華し続けている……
――愛する人と添い遂げること以上に幸せなことなどないでしょう。……たとえ、外の人間からどう見えていようとも……
ああ。あのとき、彼の目は、きっと初恋の少女を見ていたのだ。
霊に取り憑かれ、心身ともに疲弊していても、意地でも筆を執ろうとしたのは、少女への愛を書きたいがため。
最初から、そこに茜の入り込む余地などなかったのだ。
喉が震える。目の奥が燃えるように熱い。それでも、茜の頬は悲しいほどに動かない。茜の感情など知るよしもなく、富美子はどんどん激情に駆られ、言葉が怒りに波打ち始めていた。
「夫婦の物語なんて。それもあんなに愛憎の薄い張りぼてのような上っ面だけの明るい結末なんて。それにあの題は……題は……なんなの! 妻の名を冠するなんて! ありえない! あたしの方が……あたしの方が先に愛してたのに!」
富美子は鞄に手を突っ込み、銀色に光るナイフを取り出した。それを両手に構えてゆらりと立ち上がる。
「ひっ……」
直彦は震え上がり、部屋の隅で壁に背中をぴたりと貼りつけている。
富美子の目はうつろで、もはや正気ではなかった。そのただならぬ様子に茜はぞっと背筋を震わせる。
寿郎はまだ帰らない。この屋敷は小高い丘の上。どんなに悲鳴を上げても誰にも危機を伝えることはできない。
直彦はまだ子どもだ。自分が守らなくてはならない。
「中川さん。あなた……寿郎さんを愛しているのですか」
言いながら、茜は直彦に視線を向け、無言で逃げるよう促した。だが直彦は足を震わせたまま、その場から一歩も動く気配はない。
「そうよ。あんたが来る前からずっと……あたしは……でも、彼は女性に好かれすぎてうんざりしてるみたいだから、ずっと我慢して、心にしまい込んで、編集者の立場に徹していたの。そのうちきっとこの気持ちに気づいてくれる、あたしのことを見てくれる……そう思って耐えていたのに、あんたが来たせいで全部めちゃくちゃよ!」
「……理解できません。あの人は初恋の相手を今もずっと愛しているんでしょう。だったら私もあなたも入り込む余地などないじゃないですか」
「そうよ、としろうは いまでも私を愛してる! 愛しつづけているのよ!」
まるで別人のような甲高い声色で富美子が叫んだ。眼球がひっくりかえり、だらりと白目を剥いている。
やはり、富美子は霊に取り憑かれている——茜は確信し、いっそう声を張り上げた。
「中川さん。しっかりして。戻ってきて。あなたは藤島喜壱の担当編集者、旭文学社の小説部の方です。思い出して」
「としろうは、としろうは、私を、ワタ、私、を、ヲヲ」富美子は白目を剥いたままナイフを振り上げた。「あんたじゃないのよおおオオ!」
茜は咄嗟に身を翻した。直後、茜がいた場所の壁にナイフが突き立てられる。
「直彦君! 逃げて!」茜は声を張り上げた。「外に出て警察を!」
直彦は急いで両手を畳につき立ち上がろうとしたが、すっかり腰が抜けてしまったのか、口をあわあわさせるばかりでろくに動けそうもなかった。
富美子はナイフを振り回しながら容赦なく茜を狙う。こうなったら自分が外に出て、坂をくだり、人目につくところまで富美子を引き連れて逃げるほかない。……そんなことができるだろうか?
だが、腰を抜かして震えている直彦を見ると、自分がやらねばという気になる。
「としろうから離れろ! としろうから去れ! としろうに触れるなああ!」
富美子の狂気の声が部屋中にこだまし、びりびりと空気を震わせる。茜はナイフの切っ先から逃げ回りながら、這々の体で障子を開け放った。
黄昏に染まった庭の木々が視界に飛び込んでくる。下駄に足を突っ込む余裕もなく、茜は庭へ飛び出した。そのすぐ後ろを富美子も追いかけてくる。
着物の裾をからげ、息も絶え絶えに走っていたが、足のつま先が敷石の境目にひっかかった。
あ、と思ったときには体が大きくつんのめり、茜は地面に倒れ込んでしまった。
「死ね! おまえなんか、死んでしまえええ!」
喉がちぎれんばかりの叫び声を上げて、富美子が襲いかかってくる。
――寿郎さん。
思わず目を閉じて、茜は、ただひとりの男の名を呼んだ。
暗い視界の外で、誰かが走り寄ってくる気配がした。その誰かが茜に覆い被さり――どっ、と大きな衝撃に揺さぶられ、富美子の悲鳴がこだました。
うっすらと瞼を開け、そこから見える景色に、茜は目を見開いた。
寿郎が、茜に覆い被さっている。
その右肩から腕にかけて、じわじわと赤いものが広がっていた。からん、とナイフが転がり落ちる。
再度、富美子の強烈な悲鳴が庭中にこだました。その声に別の甲高い声がかぶさり、不協和音となって木々をざわめかせる。
「直彦……警察を呼びなさい」
寿郎が顔を上げて言う。すぐに足音がして、転がるように坂道を駆け下りていった。
「茜さん。大丈夫ですか。怪我はありませんか」
茜は震えが止まらなかった。わななく指先で、寿郎の肩を指す。
「ああ……刃物の先が少しかすっただけです。それより、茜さんは? 大丈夫ですか」
「だ、だ、だい、じょうぶ……」
「それならよかった」寿郎は茜を抱きしめた。強く、強く……茜の存在を確かめるように。
「とし、ろうさん、怪我を……手当を……」
寿郎が身を起こす。茜もやっとの思いで起き上がった。みれば、寿郎の肩越しに、地面にへたりこんでいる富美子の姿が見える。
彼女は空を仰ぎ、白目を剥いたまま口をぽかりと開けていた。その空洞から黒い靄のようなものがもうもうと立ちのぼり、富美子の体から出ていこうとしていた。
あれが、彼女に取り憑いていたものだ。おそらく寿郎に取り憑いていたものと同じだろう。
その靄はよろよろと寿郎に近づこうとしたが、茜は袖をめくって洋吉の組紐をわざと見えるようにかかげ、睨みつける。靄はまごついたように立ち止まると、やがて庭の暗がりへ消えてしまった。
空は焼け付くような赤に染まり、木々や生け垣のそばには黒々とした陰が落ちている。その暗がりに紛れてしまったのだろう。
寿郎が茜の視線を追い、背後で抜け殻同然となっている富美子に気がつく。彼女を用心深く視界に入れながら、茜を庇うように肩を抱き寄せる。
「何があったのですか」
寿郎の剣呑な声。だが茜は答えられなかった。
富美子は、寿郎が好きだった。だが編集者という立場を守って必死にそれを押し隠していた。それでも妻をめとり続ける寿郎に我慢の限界がきて、茜に襲いかかった。
簡単な事実はこんなところだ。でも、それだけでは説明できないものが富美子の言葉の端々から窺えた気がした。
「わかりません。突然……錯乱されて……」
「錯乱?」
「寿郎さんの新作に衝撃を受けられていて……よくわかりませんが、わたしに怒っていらしたみたいです」
寿郎は富美子を振り返り、しばしのあいだ、何か考え込むように目を閉じたあと、盛大にため息をついた。
「私のせいですね」
「いえ、そんな、寿郎さんのせいでは」
「新作の題……そうか……この人も、私に……」
ブツブツと、どこか苦々しげに、うんざりとした調子でつぶやく。そうこうしているうちに、坂道のほうからどやどやと複数の気配が足早に近づいてきて、直彦とともに警官がなだれ込んできた。
「中川富美子! 殺人未遂の容疑でおまえを拘束する!」
富美子は魂の抜けたような状態のまま、警官に引きずられるようにして連行されていった。
直彦は町医者も呼んできてくれていて、寿郎の肩はすぐに手当をほどこされた。本人の口述どおり、傷は幸いにも浅く、消毒と包帯の交換をまめに行うだけで、一、二週間もあれば傷は塞がるだろうということだった。
寿郎の傷の面倒は直彦が買って出た。彼は富美子が乱心しているあいだじゅう、恐怖で何もできなかったことをひたすら悔いていたらしい。
「俺にもできることをさせてくれ。お願いだから……」
ごめん、何もできなくて……そう、力なく謝るばかりで、茜がどんなに慰めても、直彦はひたすら申し訳の立たない顔で過ごしていた。




