第十九話 夏雪草の君
富美子の乱心から一週間が経った。
寿郎は今回の一件で怒りをあらわにし、出版社の人間を呼び出して責任の所在を追求した。会社のほうも寿郎に契約を打ち切られるわけにはいかないと必死だったのだろう。富美子の上司や社長までもが宇木邸までやってきて、大汗をかきながら平にと謝罪し、相応の補償と、富美子の解雇が取り決められた。
富美子は殺人未遂と判じられ、禁固刑となった。彼女は「先生があんな作品を書くからいけない」などと意味不明な弁明を繰り返すか、「頭に靄がかかったようで覚えていない」などと供述するばかりでまったく反省の色が見られない、と新聞で痛烈に報じられていた。
一方、町のほうでは、「女が乱心して丘の屋敷の奥方を襲った」「呪いだ、祟りだ」と妙な噂になっているらしい。買い出しから帰ってきた直彦が愚痴をこぼしていた。台所でそれを聞きながら、茜はふと洋吉の顔を思い出していた。
彼は確か、しばらくこの町で仕事をすると言っていなかったか。
噂を耳にして、屋敷へ除霊の営業に来たらどうしよう。
来ないでくれと頼みはしたが、万一のことがある。改めて念押ししておくほうがいいかもしれない。
茜は洋吉が滞在しているという芦谷荘宛てに葉書を出した。「もう噂を耳にしていると思いますが、邪霊の仕業ではありませんのでご心配なく」と短く認めたが、果たしておとなしくしていてくれるだろうか。
***
さらに数日が経った。寿郎の肩の傷は幸い悪化せず、順調に回復しているようである。動かすと傷口がひきつれて痛むが、何もしなければ平気だと、本人は言っている。
だが茜は、寿郎とは対照的に憔悴していた。ここ数日、何度も同じ夢に苦しめられている。
自分を庇って寿郎が傷ついたあの光景が、活動写真のように映し出される。慌てて彼に近づこうとすると、耳のすぐそばで富美子が熱っぽく囁くのだ。
――先生は恋をしたの。座敷牢に閉じ込められていた少女に。
――絶望に打ちひしがれた先生は、少女への愛を忘れられず、二人の許されざる関係を小説に描き続けている……
何度振りほどいても、声はしつこく茜を追う。どこまでも、どこまでも……
「茜さん」
茜ははっと現実に引き戻された。
茶室で、着物の左肩をはだけた寿郎と向かい合い、傷口に消毒薬を塗って、包帯を巻こうとしたところで手が止まっていた。
「……すみません」
浮かんでいた物事をふりはらい、無表情で手当てを再開する。
そんな茜の顔をじっと見降ろしながら、寿郎は「ありがとうございます」と微笑んだ。
「包帯を巻くのがお上手ですね」
「それほどでは。……直彦君が苦手すぎるだけです」
「不器用ですからね、彼は」
「ええ」
答えながら、茜はどこか上の空だった。それを寿郎も見抜いたらしい。
「何か、悩んでいますか」
「え、……いえ、何も悩んでいません」
「本当に?」
心配そうに顔を覗き込まれる。ふいに顔が近づき、茜はどきりとした。
――先生は少女の愛を忘れられずにいる……
勝ち誇ったような声に耳を射られ、心臓が凍りつく。
「……〈夏雪草〉の幽霊少女に、モデルがいると」
気づけば、口からそんな言葉が漏れていた。急いで口を閉じたが、寿郎のただならぬ表情の変化を前に、勢いのまま言葉を連ねてしまう。
「寿郎さんの、初恋の方だと。中川さんが言っていました。本当ですか?」
「……」
寿郎の喉がかすかに震えた。
「なぜ、彼女がそんなことを……」
「事実、なんですね」
「……ええ」
寿郎は歯切れ悪く返事をこぼす。その目には、それ以上踏み込まれたくないという強い意志が窺えた。
――今も、想っているのですか。
そう尋ねたかったのに、言葉は喉の奥でつかえて出てこなかった。
きっと、聞くまでもないことだ。
彼が今まで見せてきた優しさは、本当にただ優しいだけだったのだ。それなのに、自分は彼の言動に一喜一憂して、胸を痛いほど高鳴らせて……
馬鹿みたいだ。
こんな感情、持つべきじゃなかった。
彼と自分の関係は所詮、契約結婚に過ぎないのに。
翌日からも寿郎は、茜を見かけると微笑んだり、親しい距離で何気ない言葉を交わそうとしてきた。直彦と庭の草むしりをしていたら、なんと寿郎まで作務衣姿でやってきて一緒にやると言い出したので、さすがにひっくり返りそうになった。
「ずっと書斎にこもっていると気が滅入ってしまうので。気分転換でもしようかと思いまして」
とにこやかに言われ、茜は「やめてください」と言いかけた言葉を努めて飲み込んだ。
気分転換なら散歩でもしていればいいのに。どうしてわざわざ、こんなに近い距離で、面倒な作業をする必要があるのだろう。
お願いだから、今は優しくしないでほしい。距離を詰めてこないでほしい。でないとまた、変に期待して、胸が痛くなってしまう。
茜は極力、寿郎に近づかないで済むよう、台所や寝室にこもって過ごしていた。もう感情をいたずらに揺すぶられたくなかった。
「なんかさあ。あんた、旦那様のこと避けてないか?」
台所で懸命に鍋の焦げ付きを落としていたら、直彦がやってきてそう言い放った。
「……いえ、そんなことは」
「嘘つけ。あんたぜったい変だって。あれだろ、『わたしのせいで旦那様を怪我させちゃった……』とか思って塞いでんだろ」
合ってはいないが、間違ってもいない。茜は返事に困り、無言で鍋を磨き続けていた。
直彦は髪をかきむしり、あーとかうーとか呻いたあと、「俺さあ」と言葉を続けた。
「そのー、俺、あんたに去られると困るんだよ。たぶん、あんたを逃すとこの先ロクな奴が来ねえと思うから。あんたが一番、いろいろマシっていうか……だからそのー、旦那様とできれば仲良くしてもらいたいっていうか……」
「寿郎さんがそう思われているかはわかりませんよ」
「旦那様だってそう思ってる。ぜったい。俺にはわかる。前のオクサマたちとは、わざわざ一緒に買い物に行ったりしてねえし。あんなふうに楽しそうに話してるとこ、俺見たことねえし……」
「ありがとうございます。直彦君は、優しいですね」
「優しくなんかねーし! そうじゃなくて、ほんとに。前のオクサマたちと違ってあんた、俺のこと、ちゃんと扱うし……看病とか、されたこと、なかったし……」
ごにょごにょと声はどんどん小さくなり、最後はうめき声のようになっていた。
「だから、とにかく、あんたはもうちょっと自分を――」
そのときだった。
リィン。リィン。
リィンリィンリィンリィン。
「すみませーーーーん!」
呼び鈴が続けざまに打ち鳴らされ、それに負けないくらいの大声が表門の方から響き渡った。
「あのー! すみませーん! 出張除霊師でーす! 宇木寿郎さーん! いらっしゃいませんかー!」
「うっっせ」直彦が耳を塞ぎ、勝手口を開ける。「なんなんだよ、出張なんだって?」
だがそれより速く茜が動いた。直彦の横をすり抜け、庭へ飛び出すと、表門へ一直線に走り出す。
果たして、表門にいた人物は、茜を見てニヤッと笑った。
「よお」
「よ、洋吉……」
肩で息を切らしながら、「どうして、ここに……」と問う。
「どうしてって。除霊しに来たんだよ」
「なんで……来ないでって葉書を出したでしょう⁉」
「いやー無理無理。あんな事件があって、今が除霊営業の絶好の好機なのに。俺だって商売でやってんだから、あんな葉書一つでおとなしく引き下がれるかよ」
「そんな……」
青ざめる茜を尻目に、洋吉は大げさに鼻をつまむ。
「いやーお宅は確かにクッサいですねー。においでここまで辿ってこれるほどだ、もうそこらじゅうに邪霊の気配がぷんぷんするぞ」
「お願い、今日はもう帰って。他にも仕事はあるでしょう?」
「やだね。こんな大口顧客をつかむ好機を誰が逃すかよ。すいませーん、宇木さん、いないんですかー⁉」
「ちょっとやめて、お願い――」
そのとき、背後で玄関の開く音がして、茜は言葉を飲み込んだ。
「ちょっと、なんなんですか。いきなり大声で呼びつけるとか、近所迷惑だろ」
直彦がずかずかとこちらにやってきて、茜の袖をぐいと引いた。
「オクサマ、不審者の相手なんかしちゃだめだ」
「誰が不審者だ。俺は茜の友達だぞ」
「と、友達ぃ?」
直彦が目をさらにして洋吉と茜を見比べる。
と、庭のほうから敷石を踏む足音が聞こえてきた。その足音は茜の背後に立つと、「あなたは……」と驚いたような声を上げた。
「おや、あんたが宇木さん? いやー、茜が世話になってますー」
洋吉は陽気に笑った。
「あ、俺、坂井洋吉ってもんでして。一応、除霊師やってるんですけど」
「除霊師?」
寿郎が戸惑い気味に繰り返す。
「茜さん、この方は……」
「茜とは同郷の幼なじみでして。いやあ、以前から茜に相談を受けてましてね。お屋敷が幽霊だらけだって――」
「洋吉」
茜は首を横にぶるぶると振った。
「駄目。やめて」
「相談? 幽霊?」直彦がうさんくさい声を上げる。
「何言ってんだよ。んなもんいるわけねーだろ。オクサマがそんなことあんたに言うかっての」
「いるぞ。ほら、あそこに」洋吉が庭の一角を指さす。「ありゃ邪霊だ。茜をものすっごい目で睨んでる」
「で、デタラメだろ。そんなんいるわけ……」
「洋吉。もう、いい。やめて」茜は首を振って制止する。「もういいから……」
洋吉は「はァ」と露骨にため息をついて、頭をぼりぼり掻いた。
「おまえさあ。いい加減正直に吐いちまえよ。せめて旦那にくらいはさあ」
「やめて」
「宇木さん。こいつね、この屋敷に来た初日から霊障に悩まされてたんですよ」
「やめてったら!」
茜は慌てて二人のほうを振り向いた。
「ちがいます、全部嘘です、わたしは何も悩んでいませんから」
「いい加減にしろって。そうやって隠し通してなんの得があるんだよ」
「霊障とは、なんですか?」
寿郎が重々しい口調で尋ねる。「茜さん」と、真剣な面差しで。
すると洋吉が門から身を乗り出し、軽々と飛び越えると、茜の左腕をつかんで引き上げた。手首に巻きついた組紐をあらわにし、陶器製の細い筒を開け、丸めた札を取り出して広げる。
「うわ、もうこんなボロボロになってら」
洋吉の護符は虫食いにあったように無残な姿になっていた。
「これは、俺が作った護符だ。それがもうこんなになってる。あんたらには視えないだろうが、この屋敷は幽霊がうようよしててな。しかもただの霊じゃない、ほとんどが邪霊……つまり、恨みや憎しみに染まって穢れてしまった奴らだ。そういう奴は、恨みの矛先を見つけると容赦なく襲いかかる。――茜から聞いた話じゃ、宇木さん、あんた、離婚歴があったんだったか? そいつらみんな、邪霊に祟られたんだよ」
直彦は「うそだ」と小さく口にしたが、否定もせずただ下を向いている茜の姿に、その声は瞬時に萎んでいった。
「茜は精神的に強いから、邪霊の嫌がらせにも精神力で耐えていた。でも、例えば物理的な攻撃をくらってしまったらひとたまりもない。そういう目に遭わないよう、俺が護符をやったんだ」
寿郎が小さく息を呑んだ。
「茜さん。……もしかして、風邪を引いたあの日……」
「……」
「やたらと掃除をしていたのも、もしや何か関係がありますか?」
「……」
「茜さん。ちゃんと教えてください」
「そうだぞ、全部言ってやれ」洋吉も横から言い放つ。「今までひとりで霊と戦ってましたって。あんたらの知らないところでひとりぼっちで苦しんでたって」
「そんな、言い方――」
「言い方もくそもあるか。それに、先日の事件。ここで女が刃物を振り回して暴れたんだろ? それも十中八九、邪霊の仕業だ。おまえ、なんか視えなかったか?」
押し黙る茜の肩を、寿郎の両手がつかむ。茜の震える瞳をのぞき込み、「……何か、視たんですね?」とつぶやく。
「やっぱりか。それはこのくっせえ死臭と関係がありそうだな。においの元を辿らせてもらうぞ」
言うやいなや、洋吉は茜をはなし、鼻をくんくんひくつかせながら庭を歩き出した。
「ちょ、おい! 勝手に入ってんじゃねえよ!」
直彦が止めるが、洋吉は「うるせえ!」と振り返る。
「この屋敷に霊を呼び込んでる奴がいる。呼ばれた霊はそいつの未練や怨恨が伝染して邪霊となり、茜を襲う。だから大元を断ちきらねえと、そのうち茜は死んじまうぞ!」
直彦ははっとしたように立ち止まり、こわごわと茜を振り返った。
「わかりました。どうか、お願いします」
対して寿郎は落ち着き払っていた。
「……ふん」
洋吉は再び鼻をひくつかせながら、ずんずん庭を歩いて行く。その後ろを直彦が慌ててついていく。
「茜さん。あとできちんと話をしましょう。……いいですね?」
寿郎が念を押すように囁き、茜の肩から手を離す。そうして彼も、洋吉の後を追ってしまった。
茜は足取り重く、その背を追った。血の気の失せた唇を噛みしめながら。
洋吉は外庭を抜け、やがて離れにある寿郎の書斎の前で立ち止まった。小さな庵を見つめ、眉間に深い皺をきざむ。
「ここだ。ここからえげつない死臭がする」
「死臭ってなんだよ、死体なんかねえぞ」
訝しむ直彦に「腐乱臭じゃない。穢れた魂のにおいだ」と訂正しつつ、洋吉は腕をまくった。
「とにかく、入らせてもらうぞ」
その後ろで寿郎が何か言いたげな顔をしたが、黙って洋吉の行動を見守っていた。洋吉は障子を両手で大きく開け放つと、眉間の皺をますます深めた。
「おまえか」
茜にも、それは視えた。
真っ黒い巨大な靄が、六畳間いっぱいにゆらゆらと立ち上っていた。それは洋吉の姿を見た瞬間、慌てたように小さくなり、すぅっと姿を消した。
「こら待て!」
洋吉が中へ駆け込む。きょろきょろと辺りを見回し、文机に目を留めた。
手を伸ばし、何かをつかむ。白い、小さな紙片。茜にも見覚えがあった。寿郎が取り憑かれた日、机に置かれていた、白い押し花の栞だ。
「――それは」
寿郎が珍しく焦ったような声をあげた。だが洋吉は険しい顔で首を振る。
「これが死臭の大元だ。鼻が曲がりそうなくらいひでえにおいだよ。嗅がせてやりたいくらいだ」
「まさか、それに、何か……取り憑いているとでも言うのですか」
「そうだな。さっき、部屋にどでかい靄が見えた。そいつがこれに逃げ込んだんだ」
洋吉は渋面で嫌そうに鼻をひくつかせた。
「ひでえにおいの中に、あんたらしいにおいもある。相当これを大事にしてたんだな」
「……」
「じゃ、始めるぞ」
洋吉は栞をパンと両手で挟み、破っ、と短く声を張り上げた。
空気がびりびりと振動し、茜の首筋にもその震えが伝わった。直彦はきょとんとしたまま首をかしげている。
やがて、洋吉の手の中から耳障りな悲鳴がこだまして、合わせた手の隙間から黒い靄が勢いよく溢れ出した。激しい空気の振動に耐えられないのか、靄はぐにゃぐにゃと変形し、やがて小さな人の姿をとりはじめる。
茜はその姿を見た瞬間、「あっ」と小さく声を上げた。
そうか。
そうだったのか。
彼女はずっと、この屋敷にいた。今まで何度もその姿を見ている……
「白い着物で、長くまっすぐな黒髪で……頭に白い花飾りをした少女の霊が、います」
茜は寿郎の背中に向かって静かに告げた。
「もしかして、〈夏雪草〉のモデルの少女ですか」
寿郎は明らかに動揺していた。彼はゆっくりと一歩、書斎に歩み寄る。
「琴子……?」驚愕に声を震わせて。「そこに、いるのか……琴子……?」
『と、……し、ろ……う』
少女の霊が口を開くが、声は苦しげにしゃがれていた。洋吉はまだ両手を合わせたままだ。彼の力が効いているのだろう。
「私には、何も見えない……でも、いるんだな? そう、なんだな……?」
『とし、ろう、としろ……う』
「こいつ、あんたの想い人か?」
洋吉が鋭い質問を投げつける。茜はぎくりと身を震わせた。
いやだ。
聞きたくない。
寿郎は青ざめた顔のまま、唇を引き結んでいる。
「どうなんだよ」
「……そう、でした」
『そうよ!』
琴子は悲鳴のような声を絞り出す。
『私たち、しょうらいを ちかいあったの! お嫁さんにしてくれるって、としろうが!』
激情のためか言葉が次々に彼女の口から発される。洋吉は「へえ」と唇をゆがませた。
「ま、でも約束は果たされず彼女は死に、あんたはそれを忘れられず、思い出の品を大事に抱えて生きてきましたってわけか。大方そんなところだろ」
「……」
「けどな、こいつは穢れてる」
洋吉は琴子から目を離さないまま言い放った。
「あんたへの未練と愛憎でとんでもない邪霊に変わり果てちまってる。おそらくあんたの未練に同調してしまったんだな。このままほっとけば手のつけられない悪霊になって、茜なんか一瞬で呪い殺されるだろう」
つまり、と重々しい声で続ける。
「あんたが取るべき選択は二つに一つ。愛する女の霊と共に一生この屋敷に閉じこもり、誰も寄せ付けず二人だけの世界で死んだように過ごすか。この女への未練を断ち切り成仏させて、茜と共に生きていくか」
――二人だけの世界。
寿郎の寂しげな眼差しが思い浮かぶ。
――愛する人と添い遂げること以上に幸せなことなどないでしょう……
茜の下駄が、じゃり、と小さな音を立てる。耳を塞いでこの場から走り去りたい。
答えなんて、もう出ている。聞きたくない。やめて……
「もしもあんたがその女を選ぶっていうなら、茜は俺が引き取る。だから安心して決めてくれ」
いやだ。いやだ。聞きたくない。聞きたくない……!
「琴子を、祓ってください」
その声は凪いでいるのに、不思議とよく響いた。
茜はおそるおそる顔を上げる。ここからでは寿郎の背中しか見えない。
「……いいのか? 後悔はないんだな?」
「はい」
『まってぇ!』琴子が絶叫する。『まって! どうして! としろう!』
「私の未練が、あの子を穢してしまった。……これ以上、この世に引き留めて彼女を苦しめたくない」
「そうか」
洋吉は両手を合わせたまま、琴子を見据える。そのまま栞を押しつぶすように、手のひらへ力を込める。
『い、いや、やめて! としろう! 私からはなれないで、どこへも行かないで!』
琴子のからだがだんだんと輪郭を失っていく。
『いやだぁ! どうして! やくそく、した、の、に……』
声は吸い込まれるように消え、琴子の霊体は空気に溶け込むように見えなくなった。
洋吉が両手を離し、「ふう」と息をつく。
「……琴子は、どうなりましたか」
「祓った。もういない」
洋吉が栞を寿郎に差し出す。「そうですか」と寿郎は淡々と、栞を両手で受け取った。
「ありがとうございました」
「とりあえず百圓で。支払いは三日以内によろしく頼む」
「ひゃっ……」直彦がしゃっくりのような声を上げる。「ひゃ、百圓⁉」
「なんだよ。これでもまけてやってんだぞ。茜に免じて」
なあ、茜? と洋吉が振り返る。寿郎も顔を振り向けた。二人同時に、困惑の色を浮かべる。
「茜さん?」
茜は石のように固まっていたが、はっと我に返って、「はい」と応えた。
「なんでしょう」
「いえ、……なんだか……」
「なんかすげえ馬鹿みたいな顔をしてたぞ」
「気のせいです。わたしの顔に変わりはありません」
茜は「お茶を淹れます」と踵を返す。直彦も慌ててついてきた。




