第二十話 仮面がこわれる日
洋吉が琴子の霊を祓ってすぐ、茜は屋敷内の空気が澄み渡ったように感じて驚いた。琴子の怨念に呼び寄せられ、穢れてしまった霊たちも皆、行き場を失ったようにまごつき、うろうろと彷徨っている。
彼らについて、洋吉は茶室で茶を飲みながら「ほっとけばいい」と言い捨てた。
「元々この家は立地柄、霊の通り道になってんだ。つまりどうしたって霊は来る。ただし引き留める存在がいなくなったから、あいつらも勝手にいなくなるさ」
つまり、途中で姿が見えなくなった老婆の霊は、ここを通り道にして成仏したのだろう。琴子の邪気に染まらなかった数少ない、善良な霊だったから。
その話を受け、寿郎は洋吉から護符をあるだけ買い取ってくれた。洋吉は「まいどあり」と舌なめずりでもしそうな顔で札束を数え、ほくほく顔で宇木邸を去っていった。
「洋吉!」
茜はその後を追いかけ、門の外で引き留めた。
「なんだよ」
「ありがとう。その……いろいろ、解決してくれて」
「いやー、これでこの町もくっせえにおいがなくなって良かった良かった」
洋吉はうんうんとうなずき、「あ、そうだ」と何やら思い出したように身をかがめた。
「あのさ。さっき祓った女の子の霊だけど。ちょっと思うところがあるんだよ」
「……え?」
「なんというか、手応えがなー。普通の霊と違うというか。ま、俺の勘違いって可能性もあるからなんとも言えんが、なんかわかったらまた知らせる」
「そう……」
「あとな」
洋吉はぐいと茜の肩を抱き、耳元に唇を寄せた。
「旦那が嫌になったら、俺んとこ来ていいから」
茜は反射的に両手を突き出し、洋吉の腕から逃れ出た。洋吉はにやっと笑いながら、寿郎からせしめた金の包みをひらひらと振る。
「俺、結構金あるんだぜ」
「は……?」
「金と結婚するなら、俺も旦那も大差ないだろ」
茜は大まじめに首を横に振った。
「わたし、ここから出る気、ないから」
「あっそ。ま、もしもの保険だ。気が変わったらいつでも言ってくれ。俺はもうしばらくこの町に滞在するからさ」
じゃあな、と洋吉は手を振りながら坂を下っていく。茜は肩で息をしながら振り返った。
玄関先に、寿郎が立っていた。まずいところを見られたと、内心で頭を抱える。
大丈夫。冷静になれ。寿郎は……こんなことできっと怒らない。彼が愛しているのは琴子で、琴子を成仏させたのも、彼女をこれ以上穢したくないからという愛情で……
彼は、わたしを選ぶとは一言も言ってなかったじゃないか。
「茜さん」
玄関先で、寿郎が手招いた。
「今から少し、お時間をいただけませんか」
いやに凪いだ声だった。感情という感情を徹底的に排したような眼差しに、なんとなく背筋がこわばってしまう。
「はい」
「では、ついてきてください」
寿郎が玄関の戸をくぐる。茜も黙って従った。
寿郎は廊下を右手に歩き、階段を上がっていった。二階は掃除のために何度か上がったことがあるが、あるのは寿郎の寝室だけで、そこには入ったことがない。
寿郎は襖を開け、寝室の中へいざなった。
「どうぞ」
「……失礼、します」
おっかなびっくり、中へ踏み入る。
畳敷きの、広々とした部屋だった。左手の壁際に文机と書棚、右手には大きく立派な桐箪笥、部屋の隅に一組の布団。真正面の窓際には一対の座椅子がある。家具らしいものはそれくらいで、調度品の類いはない。資産家の寝室とは思えないほどこざっぱりしている。
「すみません、こんなところで……直彦には聞かれたくなかったものですから」
言いながら、寿郎は窓際へ向かい、「どうぞ」片方の座椅子を示した。そこに茜が座ったのを確認してから、自らも向かいへ腰を下ろす。
窓辺からは外庭の様子がよく見えた。陽が傾きだしたためか、庭には薄い影が落ちている。梔子の低木に白い花が点々と咲いているのが見え、なんとも美しい眺めだった。
寿郎はしばらく庭の緑を見つめていたが、やがて小さく息を吸い、深々と吐いた。
「茜さん。まずは、謝らせてください。これまでのことを」
困惑に目をしばたたかせる茜に、寿郎は頭を垂れる。
「あなたがここへ来た初日からずっと、屋敷に巣くう霊と戦っていたことを私は知りませんでした。霊感のあるあなたを、こんな屋敷に住まわせて……苦しめてしまった。本当に申し訳なく思います」
「いえ、あの、それは、あなたもどうしようもなかったことですから」
「知らなかった、どうしようもなかったでは済まされないこともあります。あなたが私に何も言えなかったのも、私が打ち明けるに値する者になれなかったからなのでしょう」
「そんな、違います」
寿郎が悪いわけじゃない。
ただ、ここから追い出されたくなかっただけだ。前の妻たちのように気が狂ったと思われたくなかった。
そうでもしなければ、ここに置いてもらえない。自分は価値のない女だから。
言葉が次々と喉元に押し寄せてくるのに、絡まり合って出てこない。押し黙っている茜に、寿郎は寂しげに微笑んだ。
「ですから、私も、茜さんにすべてを打ち明けようと思います。……聞いていただけますか」
茜は静かにうなずいた。寿郎は窓の外へ目線を投げ、ゆっくりと息を吸う。
「私は、とある薬店の一人息子として生まれました。店は繁盛しており、分店も多く、それを束ねる父は大変な財を有していました。私は将来家督を継ぐ者として、幼い頃から店に入り、薬や経営の知識を叩き込まれていました」
だが寿郎が十二歳の折、母親が胸を患い倒れてしまう。それからわずか一年でこの世を去ってしまった。
「父は後妻を取りました。その間に子が生まれました。私の弟です。ですが、後妻は……先妻の面影のある私を嫌い、弟には近づけさせませんでした」
それ自体はよくある話だ。寿郎は子どもながらに「仕方がない」と割り切って、後妻からどんな扱いを受けようとも黙って耐えていた。
そのせいか、後妻の態度は日に日に大きくなり、ついに「家督は私の息子に継がせてほしい」と父親に懇願するようになった。
父親は悩んだ末、寿郎を呼びつけ、こう言った。
『おまえはとても優秀だから、洋行でもして別の大きな会社に勤めなさい。おまえならできる』
寿郎は父の言葉に従った。下手に抗議しても話がこじれるだけだからだ。それに、寿郎自身、家督へのこだわりはそれほどなかった。
「私は家でひとり、勉学に励むようになりました。しかし後妻のヒステリーがひどく、些細なことで使用人を怒鳴りつけるようになり、その声から逃れるため、私は家の裏の蔵に明かりを持ち込んで勉強するようになりました。……そんなある日、私は気づいたのです。蔵の床に地下へ続く入り口があることに」
茜は「あ」と声をあげそうになった。寿郎もうなずく。
「そう……〈夏雪草〉の書生が見つけた蔵の座敷牢と同じものが、我が家にもあったのです。そこに、一人の少女が閉じ込められていました」
それが、琴子だった。
牢の外には乳母代わりの女中がひとり、世話係として寝泊まりしていた。突然現れた寿郎に女中はうろたえ、慌てて立ち去らせようとしたが、寿郎は女中を黙らせ、目の前の少女に語りかけた。
『どうしてこんなところにいるの』
少女は小さな声で答えた。
『わからないの。だれもなにも、おしえてくれないの』
どうして我が家の地下に、見たこともない少女が閉じ込められているのか。女中に聞いても気まずそうに黙り込むばかりで、答えてくれなかった。
琴子の白い着物姿と、まっすぐでつややかな黒髪はとても美しかったが、一歩も外に出ていないせいか頬に血の気はなく、まるで幽霊のように儚い気配をまとっていた。
寿郎はそれから毎日のように琴子の元へ通い詰めた。琴子が退屈しないように、たくさん本を持ち込んで読み聞かせてやったり、庭の花をつんで見せてやったりした。
琴子は、庭でつんだ夏雪草をいたく気に入り、牢に飾りたいとせがんだ。
だが花はすぐに枯れてしまう。そこで寿郎は夏雪草の白い花弁をちぎり、押し花にして栞を作ると、牢の鉄柵ごしに琴子へ手渡した。
『同じものをもう一つ、僕も持ってるんだ。おそろいだよ』
琴子は大喜びで栞に頬ずりした。その長い睫毛の端に涙のしずくがきらめくのを見て、寿郎はずきりと胸が痛んだ。
どうにかして、この子を外に出してあげたい。
でも、どうすればいいのだろう。そもそもこの子を閉じ込めているのは誰だ。父だろうか。母だろうか。もしそうなら頼んだって出してはもらえまい。……
悩む寿郎に、琴子はぽつりと言った。
『私、としろうのおよめさんになりたい』
琴子の視線は、寿郎が持ち込んだ本の表紙に注がれていた。女児向けの甘い大衆小説が書かれたそれを、頬を染めて見つめてから、上目遣いに寿郎を見上げる。
『私をおよめさんにして』
どこか甘えるような、懇願するような、切羽詰まったような声は、寿郎の胸をいとも簡単に射貫いてしまった。
『わかった。結婚しよう。琴子』
『けっこん……』
『僕が夫に、君が妻になるんだ。僕はうんと勉強して、将来、立派なサラリーマンになって君を迎えに来る。そうしたら、二人で同じ家に住んで、死ぬまで一緒に暮らすんだ』
『うん、うん……私も、それがいい。そうしたい』
二人の無邪気で無謀な会話を、女中はどんな思いで聞いていただろう。
寿郎は夏雪草の花を取り、鉄格子の向こうへ手を伸ばして、琴子の髪に飾ってやった。
「その翌日、私がいつも通り、夜中に部屋を抜け出して蔵の地下へ向かうと、入り口の戸が開いていました。そして……座敷牢の奥で怯える琴子と、その眼前に仁王立ちする父の姿があったのです」
琴子との逢瀬は、父親に筒抜けであった。青ざめ、立ち尽くす寿郎に、父親は厳めしい声で尋ねた。
『こいつの存在をいつから知っていた』
寿郎は黙り込んだ。父親はガン、と鉄格子を蹴り上げた。
『こいつのことを、誰かに話したか』
いいえ――声にならないまま首を横に振ると、本当だろうな、と父親は声をすごませた。
『仕方ない。こいつはもう処分する。おまえはもう金輪際、こいつのことを思い出すな』
『ま、待ってください! どういうことですか、処分ってなんですか!』
『処分は処分だ。俺の一存だ。何か文句でもあるのか』
『僕は将来、琴子を妻にします。琴子の素性は誰にも言いません。だからどうか……』
『妻にするだと?』
父親は心底不愉快そうに唇をゆがめた。
『馬鹿者。こいつは俺が女中に生ませた子だ。そいつもとっくに病気で死んでしまったがな。つまり、こいつはおまえの妹なんだよ、寿郎』
悪夢のような一言だった。寿郎は奈落の底へ突き落とされたように目の前が真っ暗になった。
「琴子と私は異母兄妹。そんなことも知らず、私たちは……愚かにも、無謀にも、結婚の約束を交わし……当然、果たされることもないまま、琴子は父親に連れ去られていきました。処分の、ために……」
寿郎の膝に置かれた手が微かに震えている。血の気の失せた唇を開き、彼は淡々と続けた。
「私はそれから、生きる意味を失い、父に言われるまま勉強し、高等学校へ行き……卒業してからは蘭の国へ洋行しました。帰国してからは家を出て、帝都の製薬会社に勤めました。一時は琴子のことを忘れようと思いましたが、それではいけないと思い直しました。むしろ、彼女のことを片時も忘れずにいることが供養になると……そう思い、私は物語を書き出したのです」
物語の中に琴子を描く。地下牢にあしげく通い、琴子と逢瀬を重ねた日々を思いながら、物語の中に二人きりの世界を閉じ込める。
「……いや、違いますね。これもただの自己満足にすぎない。琴子に許されたい一心で、私は筆を執り続けた。その誤った執念が、琴子の魂を思い出の栞に縛り付けてしまっていたとは露知らず……」
自嘲気味につぶやく寿郎の瞳は、暗い闇に沈んでいた。激しい後悔と自己嫌悪を入り混ぜた複雑な闇だった。
「結婚広告を使ってまで妻を娶ろうと決めたのは、私の財産を親族に奪われたくなかったからです。私が勤め人であった頃から実家の薬店は経営難に陥り、父親はあちこちで借金を作っていました。ここに引っ越す前は、たびたび私の元へお金の無心をしにやって来ていたのですよ」
母の忘れ形見である己を末席へ追いやり、妾の子を〝処分〟した者にくれてやる財などない。
だが万が一、不慮の事故や急病で己が死んだとき。法律上、この家や財は親と兄弟に行き渡ってしまう。
それがどうしても許せなかった。だから急いで妻を娶り、子をもうけたかった。
「はじめは結婚広告ではなく、斡旋所や仕事上のつながりから妻を選んでいました。ですが離縁が重なるにつれ、訳ありの身では斡旋も厳しいと判断され……やむなく、広告を使うことにしたのです」
そのおかげで、茜に出会えた。
しかし……
寿郎は膝の上でぐっと拳をにぎりしめる。
「私のせいで、あなたを幾度となく危険な目に遭わせてしまいました。もうこれ以上、あなたをここに縛りつけたくない」
寿郎の、暗く陰った眼差しが茜を見据える。
「まだ試用期間内です。どうか、関係を解消してください」
「……え?」茜は理解が追いつかなかった。
「あの……え……?」
「もちろん、あなたの望みは責任を持ってすべて叶えます。あなたが穏やかに寿命をまっとうできるよう、必要なお金は潤沢にお渡しします。今後の生活の心配は要りません」
「ちょっと……待ってください」
どうして。
どうして、そうなるの?
「どういうことですか。解消って……お金って……」
「私はあなたを苦しめ、不幸にしました。ですがあなたも生活がかかっているため離れられない。それなら私が今後もあなたの生活を保障しますから、どうか気兼ねなく関係を解消してくださいということです」
「意味がわかりません。そんな図々しいことをあなたに望みません」
茜は大きくかぶりを振った。
「わたしはただ、あなたと……」
そこで言葉が途切れた。
この続きを言うには、何かが邪魔だった。それを押しのけようと、頬にぐっと力を込める。
ぴし。ぴし。ぴし……見えない仮面に小さな亀裂が入る。一度入った亀裂はたちまち大きく広がって、能面のようだった顔が決壊していく。
頬に、熱いものがひとしずく、伝い落ちていく。目の奥が燃えるように熱かった。それは止める間もなく次々にこぼれ出て、膝にぽとぽとと染みを作った。
「あなたと……一緒に……生きたいだけで……」
唇がわななく。喉がひくついて、まともに声が出ない。それでも茜は、精いっぱいに声を張り上げた。
「お金なんて、いらない……いらないから……夫婦でいたい……」
伏せた顔を、両手で覆う。指の隙間からも雫がこぼれ落ちていく。
「わかって、ます、わたしなんかが……愛されるはずもない……ただ子を産む役目でもいいから……あ、あなたは、琴子さんをずっと、愛していてもいいから……だから、どうか……わたしを、おそばに……」
言葉の続きは、言えなかった。
気づけば、身を乗り出した寿郎の腕の中に抱き込まれていたから。
ぎゅう、と強く、強く、腕に力がこもる。温かくて広い胸に、頬を思いきり押しつけられる。
耳元に低いため息が落ちた。すべての感情を吐き出すような、重たい吐息だった。
「……本音を言います」
茜を抱きしめたまま、寿郎はつぶやく。
「私も、あなたを離したくない」
返事もできないまま固まっていると、寿郎の腕にさらに力がこもった。
「本当は、私も……あなたと夫婦でいたい」
「う、そ」
「嘘ではありません」
茜の後頭部を優しく撫でながら、寿郎はため息をついた。
「町で、あなたが幼なじみに手首の紐をつけてもらっているのを見かけたとき……あなたはこれを生きるために必要だから身につけていたのでしょうが……何も知らない私は、年甲斐もなく、嫉妬していたのですよ」
「えっ」茜は息を呑んだ。「あ、あの、見て……」
「私には何もねだらないのに、あの若い男には、装飾品をもらうのかと……愚かにも……」
「そんな、はず……あなたは、琴子さんが」
「琴子のことは、確かに愛していました。ですが、あなたに感じるものとはまた違う……幼い時分の淡い恋と、使命感……彼女を失ってからは、ただひたすら罪悪感に突き動かされていました」
「でも、わたしは、……わたしなんかが、あなたに」
「あなただから、ですよ」
「わたしは貧乏で、醜女で、学がなく取り柄もない、ただの女で……あなたとは釣り合わなくて」
寿郎はわずかに体を離し、茜の顔をのぞき込んだ。反射的に顔を背けたが、両手で頬を優しくつかまれ、真正面を向かされてしまう。
「断言しますが、きっと私が先に、あなたに惹かれていたと思いますよ」
うそだ。
「うそだ、と思ったでしょう。あなたの目を見ればわかります。あなたは出会った日から無表情ではありましたが、瞳が一瞬だけ、感情を映す瞬間がありました。はじめは気のせいかと思ったのですが、注意深く見ていると、あなたの目が実はとても雄弁なのだと気づきました」
寿郎の手が、愛おしげに茜の頬を撫でる。
「あなたが感情に瞳を揺らす瞬間が、たまらなく好きなのです。もっと見たくなって、目が離せなくなる……」
つぶやきながら、ふっと笑った。
「でも、こうして仮面を剥ぎ、泣きじゃくるあなたの顔も、私は好きですよ」
ぞく、と背筋が震え、同時に胸にじわりと痛みが走った。
寿郎の言葉の一つ一つが、甘い棘となって胸に突き刺さる。そのたびにきゅうと締めつけられるように痛み、目尻に涙がにじむ。
「や……めて、ください」
胸を両手で押さえながら、やっとの思いで声をしぼりだす。
「もう……やめて……痛い……」
「痛い?」
「胸が……痛い……あなたの、言葉を聞いていたら、なんだか胸が苦しくて……痛くて……」
寿郎の美しい双眸が、じっと茜の瞳を見つめる。心の奥底をものぞき込むように。
やがて寿郎の口元に、えもいわれぬ微笑が浮かび上がった。
「それは、本当に嫌悪する痛みですか?」
戸惑う茜の右手を取り、低い声で囁いた。
「もっと痛くしましょうか」
ずき、と胸の奥に甘苦しい棘が突き刺さる。目尻に浮かんだ涙が珠となってこぼれ落ちるのを見つめながら、寿郎はゆっくりと、その手の甲に唇を寄せた。
まるで、西洋のおとぎ話のように。
茜の、あかぎれの痕が醜く残る肌に、彼は雪解けのように優しい口づけを落とした。
どくん、と心臓が大きく跳ねて、息ができなくなる。空いた手でぎゅうっと胸を抑える茜を見つめ、寿郎はふっと口元をゆるめた。
「その顔は、どうか、私以外に見せないでくださいね。直彦にも、あなたの幼なじみにも」
「……は、い」
魂が抜けたような声で返事をすると、寿郎はふいに真剣な表情になった。
「茜さん。まだ約束の期日まで日はありますが……」
茜の右手をつかんだまま、彼は言葉を継いだ。
「私と、正式に入籍していただけませんか」
茜の目が、大きく見開かれる。唇が震え、口角を少しだけ押し上げた。
「はい」
硬く閉ざされていた蕾がほんのわずかにほころぶような。その淡く開いた唇に、寿郎はゆっくりと唇を寄せた。
いつしか空は燃えるような茜色に染まっていた。畳に落ちる二人の影が柔らかく溶け合っていく。




