第二十一話 琴子
翌朝、茜は目覚めたあとも、しばらく布団の中で目を閉じ、胸に手を当てていた。寿郎と気持ちを通わせたときのことを思い出すと、ドキドキと胸が高鳴って、幸福ではちきれそうになる。
今日は二人で役所へ行き、入籍の届け出をすることになっていた。これで晴れて正式に夫婦となる。
入籍の知らせを聞いた直彦は、「え、そうなんですか」と驚いていたが、すぐさま胸を張り、「じゃあ俺、明日から朝餉はひとりで用意しますんで。オクサマは早起きしなくていいですよ」などと、意味深なことを言ってのけたのである。
茜は単に「直彦も一人前になったのだなあ」としか思わなかったが、後ろで寿郎が小さく咳払いしたのはどういう意味だったのか。
茜は久しぶりにのんびりと起きて、身支度を済ませて食堂へ向かった。引き戸を開けると、寿郎が既に席についていた。
「おはようございます」
サンルームの窓から入る朝陽を背に、美しい微笑を浮かべる寿郎の姿はあまりにも芸術的で眩しい。「おはようございます」と返してから、茜は目をぱちくりとさせた。
寿郎の横に、少女が立っている。
白い着物に、背中まで伸びた長い黒髪。頭には白い花飾り。
「えっ……」
言葉を失い立ち尽くす茜に、寿郎は首をかしげた。
「どうかしましたか」
「あの……」
茜はおそるおそる寿郎の右隣を指さした。
「います。琴子さんが」
「えっ?」
寿郎が茜の視線を追う。
「いるのですか? ここに……?」
「はい。寿郎さんの着物の袖をつまんで……わたしを睨んでいらっしゃいます」
琴子は視線で射殺そうとでもいうように、怨念のこもった目つきで茜を睨んでいた。霊体は黒い靄に包まれ、禍々しい気配を漂わせている。
「どうして……成仏したはずでは」
茜は朝食のあと、一も二もなく屋敷を出た。町内の看板地図を見、周囲を歩く人々に声をかけ、目的の宿までたどり着くと、洋吉を呼んだ。
「なんだ、茜か。どうした? やっぱり俺と結婚するって?」
寝癖のついた頭をぼりぼり掻きながら出てきた洋吉に、茜は「馬鹿なこと言わないで」と、宇木邸のある方向を指さした。
「そんなことより、大変なの。琴子さんの霊がまた現れて……」
洋吉の寝ぼけ眼がしゃっきりと見開かれ、「そうか……」と小さく口走る。
それから二人で俥を捕まえ、すぐに宇木邸へ向かった。
玄関先で出迎えた寿郎の横に立つ、黒い靄をまとった琴子の霊を一目見て、
「あー、やっぱりかあ。なんか妙だと思ったんだ」
と洋吉がぼやいた。
「やっぱりって?」
「こいつを祓ったとき、なんというか、妙な手応えだなと思ったんだ。でもこれで合点がいった」
洋吉は人差し指の先をぴしゃりと琴子に突きつけた。
「こいつは、生き霊だ」
茜も、寿郎も、ぽかんと洋吉を見る。
「生き……霊?」
「ああ。見ただけじゃ区別はつかねえ。邪霊になってるからにおいも似るしな」
「つまり……琴子は……」
呆然とつぶやく寿郎の言葉を受け、洋吉はうなずいた。
「生きてる。この日ノ本の国のどこかで、必ず」
茜は寿郎の顔をちらりと見上げた。信じがたいという気持ちと、深い安堵が混じり合ったような、複雑な顔で立ち尽くしていた。
「だがやっぱり怨念で穢れていることに変わりはないから、ほっとけばまたここを通りかかる霊を捕まえて、自分の怨念に染めて茜を攻撃してくるようになる。それを止めるには、大元を断つしかないわけで」
そこまで言って、洋吉はニヤッと口端をつり上げた。親指と人差し指で円を作って見せる。
「俺なら辿れるぞ」
「洋吉」
口を出しかけた茜を、寿郎が制した。
「いくらでもお支払いしましょう。……琴子の居場所を、突き止めていただけますか」
「――契約成立だな」
洋吉は腰を上げ、くんと鼻をならす。
「うん。やっぱり、においの元はあの庵からだ。また性懲りもなく、あんたの持ってた栞に取り憑いてんだろう。それをしばらく預からせてくれ」
寿郎は少し躊躇うような目をしたが、洋吉に従い、書斎からあの白い押し花の栞を持ってきて手渡した。
途端、寿郎のそばにくっついていた琴子がものすごい目をして洋吉にくってかかったが、洋吉は中指で琴子の額をぴんとはじいて追い返す。
「費用は調査が済んでから、もろもろ実費と合わせて請求する。それまで待っててくれ」
そう言って、洋吉は颯爽と家を出て行った。
「……琴子の姿は、まだ見えますか」
寿郎が小声で尋ねる。茜は首を横に振った。
「いえ。……洋吉の姿が見えなくなるにつれて薄れていきました。あの栞に取り憑いているというのは本当なのでしょう」
寿郎の未練の象徴だった栞が、今でも琴子の魂の道しるべとなっているのだろう。
琴子の件が解決するまで入籍はいったんお預けとなった。茜の身の安全が完全に保証されなくては、結婚どころではない。
洋吉が報告にやってきたのは、その翌週のことであった。
***
汽車に揺られること一時間。そこから別の汽車に乗り換えたあと、地方交通線に乗り、ほぼ半日かけて洋吉の指定した駅へたどり着いた。
「ここが仁橋温泉郷ですか……」
古い山小屋のような小さな駅を出て、寿郎が辺りを見渡す。茜もその隣に立ち、周囲に目をこらした。
温泉郷というから、てっきり湯治客で賑わっているものとばかり思っていたが、周辺はひどく閑散としていて人の気配がほとんどない。人力車の乗り合い場所で饅頭笠を被った車夫がひとり、退屈そうに座り込んでいるくらいである。辺鄙な温泉郷というだけあって緑豊かではあるのだが、それ以外は何もなさそうだ。
茜は「すみません」と車夫に声をかけ、洋吉の書いた覚え書きを見せた。
「こちらのお宅まで乗せていただきたいのですが……」
車夫は「はあ」と眠そうな目を上げ、茜の身なりを見るなりぎょっと目を剥いた。
「す、すぐにご用意しますんで」
この寂れた田舎の村で、二人の装いは少々浮いていたかもしれない。寿郎はいつも通り、正絹の薄物を上品に着こなしているのだが、隣に立つ茜もまた、先日に呉服屋で仕立ててもらった縹色に百合模様の単衣を纏っている。少し早めの避暑に訪れた裕福な夫婦と思われたのだろう。
まもなく車夫が俥を出してくれた。古びてはいるが、立派な二人乗りである。
仁橋温泉郷は、御一新前までは湯治客で賑わっていたらしい。あちこちに宿が建ち、旅商人や各地の神社を目指す参拝客などがよく利用していたのだと、車夫が道中で教えてくれた。
だが御一新をきっかけに世間の動きががらりと変わり、時代の変化に追いつけなかった仁橋の地は廃れ、今はもう忘れ去られているのだとか。
「お客さん、あの丘屋敷の方とは、お知り合いなんですかい?」
車夫が何気ない調子でたずねてくる。丘屋敷とは、目的地の家のことだろうか。寿郎が「ええまあ……」と曖昧に濁すと、車夫が一瞬こちらをふり振り向き、探るような目を向けてきた。
「なんでも、ご病気のご令嬢が寝込んでらっしゃるようで。しかし村中の誰もご令嬢の出自を知りやせん。いったいどこぞの御方かと、昔からずーっと、みんなして噂しとりましてね……」
寿郎が曖昧に笑いながら躱し続けてくれているうちに、俥は目的地に到着した。
寂れた村のはずれである。木々の鬱蒼と生い茂る林の中に、細い小道が奥へと続いている。宇木邸にも林と坂があるが、それよりも道は暗く細い。夜道になれば歩くのもままならないだろう。
寿郎が先導し、後ろを茜が歩く。宇木邸とは違い、道はろくに舗装されていなかった。
やがて細い道が開け、緑に囲まれるようにして古い平屋家屋が姿を現した。広さだけはあるが、剥げかけた漆喰や変色した屋根瓦を見るに、かなり年季が入っている。
家の軒下で洋吉が待っていた。「よお」と片手を上げ、親指で玄関をくいと指す。
「お目当ての方はこの中だ。世話役の女中には話をつけてある」
言うや否や、引き戸をがらりと開け、「おーい、到着しましたよ」と声をかけた。
ぱたぱたと複数の足音がする。真っ先に現れたのは白髪で小柄な老婆だった。そのすぐ後に現れた男を見て、茜は思わずたじろいでしまった。
男は驚くほど背が高かった。色素の薄い栗色の髪と、薄暗い中でもひときわ目立つ真っ青な瞳。どう見ても異国の人間である。しかも、なぜか白衣を着ている。
「ぼ、ぼっちゃま……」老婆がしゃがれた声を震わせた。「寿郎坊ちゃまでございますか?」
「ああ……」寿郎は戸惑い気味にうなずく。「もしかして、あなたは、琴子の……」
「はい、お嬢様の世話係だった、女中の伊代でございます」
思わぬ再会であった。言葉を失う寿郎と、目の前でおいおいと泣く女中の伊代。だが解せないのは、後ろに立つ異国の男まで涙ぐんでいることだ。
「よかったですね、伊代さん、本当によかった」
なんと流暢な帝都言葉である。異国の訛りがまったく感じられない。
「寿郎坊ちゃま、そちらの方は……?」
「伊代、坊ちゃまはもうやめてくれ。私は三十七になったのだから」そう困ったように言い置いてから、寿郎は改めて茜を紹介した。
「こちらは私の妻の茜だ」
「初めまして」
「まあ、まあ……」
伊代は感激に顔をほころばせたが、直後、複雑そうに顔を曇らせた。
「左様でございますか……寿郎様はもう、ご結婚を……」
それから伊代は「どうぞお上がりください」とうながし、居間へ通してくれた。中央に囲炉裏を据えた板張りの広間だった。
あの異国の白衣の男も一緒に腰を下ろしたのを見て、寿郎は「失礼ですが、あなたは……」とたずねる。
「ああ。申し遅れました。僕はハンス岡崎。この村の岡崎医院で医師をしております」
ハンスと名乗った医者は人なつっこそうな笑みを浮かべた。
「ハンスさんは、ずっと長いことお嬢様を診てくださっているのです」
伊代が茶を淹れながら説明してくれる。
「それこそもう……何年になりますかしら」
「僕が岡崎先生に拾われて……確か八歳になった年に琴子さんがこの村にやってきたんですよね。当時、琴子さんは確か十歳だったと。体が弱いから、よく岡崎先生が診にきていました。僕もお手伝いでたびたび家に上がらせてもらっていたんですよ」
「ほほ、よく覚えていらっしゃいますこと……」伊代は悲しげに微笑んだ。
「そう、あれから大旦那様の命令で、私とお嬢様は荷車に乗せられ、お屋敷から遠く離れたこの地に連れて来られたのでございます。大旦那様は私に次の命令を下されました。お嬢様を決して家の外に出さないこと。私自身も必要最低限の買い物などの用事以外は外へ出ないこと。決して村の者に出自を明かさないこと……」
「そんなことを」寿郎の顔が蒼白になる。「琴子を幽閉するつもりだったのか」
「左様でございます。それが大旦那様の〝処分〟でございます」
伊代の言葉が重々しく響く。茜も寿郎も言葉を失ってしまった。
「岡崎先生が亡くなってからは、僕が後を引き継ぎ、琴子さんを診させてもらっていました」ハンスが闊達に話し始める。
「ですが……実はもう、かれこれ十年、いやもっと長くか……琴子さんは寝たきりになってしまって。時折『としろう、としろう』とうわごとのようにつぶやく他は何も口にせず、声をかけても反応がなく……。起き上がらせて食事を与えれば口を動かしはするのですが、目は虚ろで、まるで魂が抜けてしまったような状態が続いているのです」
「そりゃ、おそらくこの御仁に生き霊を飛ばしているからだ」
ずっと黙っていた洋吉が初めて口を開いた。
「肉体は生きているが、魂の大部分は霊となって愛しい男の元へ飛び去っている」
生き霊、と聞いて、伊代もハンスも顔を曇らせた。二人とも事前に洋吉から話を聞かされていたのだろう。
「だが俺なら、魂を元に戻してやれる。そうすりゃ彼女も目が覚める。お代はこちらの御仁に全部つけてくれりゃあいいんで、すぐにでもやってみせますよ」
「よろしいのですか、寿郎様」
伊代が涙にうるんだ目を上げる。寿郎は「ええ」と真剣な面持ちでうなずいた。
「すぐにでも、琴子を目覚めさせてやりましょう」




