第二十二話 琴子②
琴子は奥の間に寝かされていた。広い畳敷きの部屋の真ん中に布団が敷かれ、こんこんと眠っている。枕元には見覚えのある白い花弁の貼られた栞が一つ、大切そうに置かれていた。寿郎と揃いの、片割れだろう。
茜は失礼だろうかと思いつつも、眠る琴子をまじまじと見てしまっていた。齢三十一になると聞いているが、生娘のようなあどけない顔立ちである。食が細いためか頬はこけており、肌から血の色は失せているが、その儚さは雪の精のようであった。
まさに夏雪草を体現したような姿である。
そのそばに膝をつき、寝顔をじっと見つめている寿郎の美しさも相まって、なんとも絵になる光景であった。
「洋吉」
「なんだよ」
茜は寿郎の背中に幼子のようにしがみついている琴子の霊体を指さし、小声で尋ねた。
「琴子さん本人より、霊体のほうが幼いのはどうして?」
「そりゃ、愛する男と親しかったころの姿を無意識に選んでるからだろうよ。そのころの記憶が彼女の未練そのものなんだから」
「そういうこと……」
「なんだ? 嫉妬か? 俺のとこに来れば嫉妬なんかしなくていいのに」
「うるさい」
寿郎がちらりとこちらを振り返った。茜はなんとなく、洋吉から一歩身を離す。
「坂井様」伊代がすがるような目を向けた。「お嬢様をどうか、呼び起こしてくださいませ」
「はいはい、すぐやりますよ」
洋吉は懐から夏雪草の栞を取り出し、両手でぱんと挟む。琴子の霊がキッと顔を振り向けた。
「すまねえなあ。ちょっくら肉体に帰ってもらうぜ」
ごう、と風が吹き抜けた。障子も戸も閉めきられているのに、洋吉の長い髪がばたばたと風にはためく。
琴子はすさまじい形相で歯を食いしばり、黒い靄を吹き上げたが、洋吉が「おっと」とさらに両手に力を込めると、やがて力負けしたのか、霊体は苦悶に顔を歪ませながら琴子の肉体へ吸い込まれるようにして消えていった。
風が止み、洋吉の髪も静かになる。静寂の中で、誰かがごくりと唾をのむ音が微かに聞こえる。
すう、と息を吸うかぼそい声がして、布団がぴくりと動いた。続いて、琴子の長い睫毛にふちどられた目がゆっくりと押し開かれる。
「おお……!」
伊代とハンスが同時に感嘆の声を上げる。
琴子は、ぼんやりと瞼を閉じ、また開くのを繰り返したあと、そばに膝をつく寿郎の存在に視線を向けた。
途端、じわじわと目を見開いていく。
「と、しろう……?」
「ああ」
寿郎は慈しむような眼差しで、琴子の痩せ細った手を取った。
「ようやく会えた。琴子……」
生気のなかった琴子の頬に、ぽっと花咲くように朱色がともる。
「ああ、としろう……!」
琴子はよろよろと起き上がり、両手で寿郎の胸にすがりつく。
「やっと、やっとあえた……ずっと、ずっとまってた……」
「すまなかった。本当に……」言いながら、寿郎はうなだれる。
「君が、父の手にかかってしまったのだと……ずっとそう思い込んでいたんだ。まさか、生きていてくれたとは……」
「そうよ。私、いきてるの。ここで、ずーっとながいこと、としろうの夢をみてたのよ……」
琴子は寿郎の胸に頬を押し当て、じっと上目遣いに見上げた。
「ね、でも、これでようやく、私……としろうのお嫁さんになれるのね」
「――いや」寿郎は落ち着き払った声で首を振った。
「忘れたのかい。私たちは実の兄妹なんだよ」
「そんなの、かんけいない」琴子の手が、寿郎の着物の襟をぎゅうとつかむ。「ここでふたりいっしょに暮らしていけばいいじゃない。だれにもめいわくをかけたりしないでしょ、ね、ね」
「すまない」
寿郎は琴子の両手をつかみ、優しく引き離した。
「私にはもう、妻がいるんだ」
「……え」
夢見るようだった琴子の瞳に、稲妻のような感情が揺れる。その目がぎろりと動き、寿郎の肩越しに茜の姿をとらえた。
「あ、んた、は……」
うっと呻いて、頭を押さえる。気遣うように手を伸ばした寿郎のことなど見えていないかのように、茜をぎらぎらと凝視する。
「あんた、しってる……おもいだし、た……いつもいつも、私ととしろうのじゃまをして……私からとしろうをうばった、どろぼう女……!」
「琴子」
寿郎のたしなめる声など気にも留めず、美しい顔を憎悪に歪ませ、ますます声を荒げる。
「としろうは私のなのに、私のお婿さんなのに! なにをしても、あんたはへいきなかおをして、いやみったらしい無表情で! 私からとしろうをうばって……めのまえで……私をあざわらって……!」
琴子は激情のままに両手で枕を投げつけた。枕は寿郎のすぐ後ろにぽとりと落ちた。
「どろぼう! しょうわる! おに! ……消えて! いますぐ消えて! としろうをかえして! 出ていけ、しんでしまえ!」
「琴子!」
寿郎が両手で琴子の肩をつかむ。
「彼女は私の選んだ、私の妻だ。侮辱するのは許さない」
だが琴子はキッと彼を見据えた。
「としろう、私を愛してないの?」
目尻から涙を引きながら拳をふりあげ、寿郎の胸を何度も何度も叩く。
「私を愛さないとしろうは、としろうじゃない! にせものよ! ほんものをかえして! にせものなんかいなくなれ! 消えてよ、しんで!」
もう我慢ができなかった。茜は二人の間に割って入り、寿郎の肩をつかんで琴子から引き剥がしていた。
「愛してくれないなら死ねって……?」
腹の底から苛立ちが湧き出ていた。
「それが、愛するひとにかける言葉なの?」
「あんたになにがわかるのよ! どろぼうのくせに!」
琴子は涙で真っ赤に染まった目で茜を睨みつけた。
「私はただ、としろうを愛してるだけなのに……こんなところにとじこめられて、ひきはなされて……だから、どんな手をつかっても、としろうといっしょにいようとおもって……としろうに、わたしをずーっと、愛してほしくて」
そうつぶやいてすぐ、ふっとその顔から表情が抜け落ちる。「ああ、そうだわ」とひとりごちると、なんのためらいもなく、するすると浴衣の帯をほどきはじめた。
周囲の者がぎょっとするのも構わず、帯を外すと自分の首にまきつけた。
「ほんとうに、しんじゃえばいいんだわ。しんで……こんどこそ、あんたを たたりころして……としろうとずーっといっしょにいるの。としろうに、私をかきつづけてもらうの、えいえんに」
パァン! と乾いた音が部屋中にこだました。
琴子は布団に倒れ込み、赤くなった頬を押さえて呆然としている。じんじんと痺れる右手をあげたまま、茜は肩で息をした。
「ふざけないで」
表情こそ無であるが、茜の目は怒りに震えていた。
「あなたの境遇に、同情はする。実の父親に地下牢へ幽閉されて、愛する人と引き離されて、こんなところに閉じ込められて。わたしが想像できないくらいつらい思いをしたんだろうとは理解できる。……だからって、寿郎さんを苦しめていいわけがない。曲がりなりにも愛しているというのなら、せめて愛する相手の幸せをなぜ願えないの」
同じだ。書生が炎に巻かれて死ぬというのに、ただ一緒にいたいがために、彼を突き放さなかった夏雪草の幽霊と。
「寿郎さんはあなたを、それはそれは大切に想ってる。男女のそれではなくても、かけがえのない存在だからこそ、あなたが生きていると知ってすぐに駆けつけたのに。ここであなたの死を目の当たりにしたら寿郎さんがどんなに悲しみ苦しむか、考えが及ばない?」
琴子への愛情とスランプのせめぎ合いで、彼がどんなに苦しんでいたか。取り憑いていたのなら目にしていたはずなのに。
「あなたのそれは、愛とは呼べない。ただの一方通行で我が儘な自己愛でしか」
「うわああああああっ!」
琴子は膝立ちになり、茜につかみかかった。泣き叫びながら拳をぼこぼこと殴りつける。その力ない手の感触を浴びながら、茜はようやく理解した。
琴子の精神は、十代のまま止まっているのだ。
「私には……っ! としろうしか、いないの! としろうだけが、私のせかいなの! だから、としろうも、私だけしかいらないの、そうでなくちゃ……私は……」
後ろで洋吉が「依存してんなあ」とぼやいたが、聞こえている様子はなかった。琴子は両手を下ろし、ぐすぐすと鼻をすすりながらうなだれてしまった。
と、茜の横を誰かがすっと通り過ぎた。
ハンスだった。彼は琴子のそばに膝をつき、手ぬぐいをそっと差し出した。
「僕がいます」
その場の全員が、驚いて彼を見た。ハンスは青い瞳に優しい光をたたえて琴子を見つめている。
「僕が、あなたを愛しています」
琴子がゆっくりと顔を上げた。今はじめて彼の存在に気づいたとでもいうように、瞼を閉じては開く。
「あんた……は……」
「僕はハンスです。覚えていませんか。昔、岡崎先生と一緒に診察に来ていました」
「え……ああ……」琴子は何かぼんやりと思い出したような、していないような、複雑な顔でハンスを見た。
「思い出してくれましたか? 僕はあれからずっと……あなたが寝たきりになってしまってからもずっと、あなたを診察していたんですよ」
ハンスはわずかに身を乗り出す。
「あなたに初めてお会いした日のことは忘れもしません。岡崎先生につれられて、診察の手伝いに来ていた僕は、布団に横たわるあなたを一目見て、絵本で見た眠り姫のようだと思いました。この世のものと思えないほど綺麗で、透き通るようで……そんなあなたが、その瞳を僕に向けたあの一瞬……そのときから僕は、気がつけばあなたのことばかり考えるようになりました」
熱っぽく語るハンスを、みんな固唾を呑んで見守っている。あの洋吉でさえ軽口を叩かない。
「あなたを元気にしてあげたい、その一心で、僕は岡崎先生の後を継ぐために勉強しました。先生の診察を手伝いにここへ来る時間が、何よりの楽しみでした……」
ハンスは身を乗り出して、手ぬぐいで琴子の濡れた頬を優しくぬぐい、微笑んだ。
「あなたが、幼いころにどんな目に遭っていたのか、伊代さんから話はうかがっています。あなたの中で、愛という概念が大きく歪んでしまったのも、仕方がないと思っています。でも、あなたのお兄さんや奥さんにその欲求や不満をぶつけてはいけない。……だけどそれじゃ、あなたが浮かばれない。だから、代わりに僕がぜんぶ、受け止めます」
「はあ……?」
琴子は理解が追いつかないというような顔でぽかんとハンスを見上げていたが、すぐにぷいと顔を背けた。
「いやよ。だれが、そんな ぶきみな目のにんげんに……」
「琴子さん。あなたが僕と初めて会ったとき、僕を見てなんと言ったのか覚えていませんか」
「しらない。おぼえてないわ」
「僕の瞳が、絵本に出てくる『幸福な王子』みたいに綺麗だと、言ってくれたんですよ」
琴子は「うそ」と口走った。だがハンスの真摯な眼差しに、嘘ではないと悟ったのか、信じがたいような面持ちで目を伏せる。
「もちろん、僕の気持ちなんてあなたからすれば関係ない。もしも迷惑なら、以後は僕も気持ちを抑えて医師の役目に徹します。だけど……そうでないなら、愛されたいというあなたの欲求を僕に叶えさせてほしい」
「……だれが、あんたになんか。だいたい、あんたごときじゃ、としろうのかわりには」
「代わりにはなれませんけど。琴子さんが望むなら、僕は今すぐにでもこの眼を抉ってあなたに差し上げます」
「……は?」
「ハンスさん!」伊代が慌てたように声を上げる。だがハンスはにっこりと笑った。
「あなたが綺麗だと言ってくれた、僕の眼……気に入ってくださったなら差し上げてもかまいません。その代わり仕事もできなくなりますから、今後僕はずっと、あなたのそばで朽ちるまで一緒にいるでしょう」
いったい、この異国の若者は何を言っているのか。ハンスの言葉に冗談の気配が一切ないのが余計に不気味である。琴子はうっすらと頬を染めつつも、「き、きもちわるいこと、いわないで」と身を震わせた。
「僕はそれくらい本気なんです。さすがのお兄さんでも奥さんがいる手前、そんなことはできないと思いますから。世界で唯一、僕だけが、あなたのために、なんでも犠牲にできますよ」
――それが、僕の〝愛〟ですから。
最後の囁きは、琴子の心にどんな衝撃をもたらしたのか。
琴子はぶるぶると震えながら、頬をじわりと朱に染めていた。表情は困惑に揺れている。
「か、かえって」琴子はようやく声をしぼりだした。
「ぜんいん、でてって! も、もう、かおもみせないで!」
顔じゅう真っ赤にして声を荒げ、布団をかぶりこんでしまった。それからは伊代が何を言っても返事がなかったので、一旦、全員で部屋から出ることとなった。
「すみません。お嬢様が……」
伊代が申し訳なさそうに詫びる。ハンスは「はは」と笑って頬を掻いた。
「僕のせいです。ちょっと困らせてしまいましたかね」
「困らせたっていうか、怖がらせたっていうか……」洋吉でさえため息をつく始末である。
だが茜は、琴子の反応にはもっと別の感情がある気がしていた。
琴子は愛に飢えている。愛されなければ存在意義を感じなくなるほどに。だから寿郎の存在を病的なまでに欲していたのではないか。
だが、いざハンスから極端なほどの愛と熱量を注がれると、どうすればいいのかわからなくなる。琴子は愛に耐性がないのだ。
「私たちはひとまず、お暇するべきでしょうね」
寿郎がため息交じりに言った。
「余計に事態を悪くしてしまったようで、申し訳が立ちませんが」
「いいえ」ハンスがゆっくりと首を振る。「あなたが来てくださって本当によかった。おかげで琴子さんに少しだけ、現実を見てもらえました」
「……現実?」
「はい。あなたはどうあっても彼女のお兄さんで、それにご結婚までなさっている。おかげで僕の入り込む余地がようやく生まれました」
ハンスはにっこりと人なつっこい笑みを浮かべた。
「お兄さん、僕はこれからも琴子さんを全力で愛します。彼女が本気で拒まない限り、気持ちを伝え続けます。よろしいでしょうか?」
「……え、ええ」
寿郎の微笑がほんのわずかに引きつっている。ハンスは「ありがとうございます! いつかお義兄さんと呼べますように!」と言いながら、寿郎の手を取りぶんぶん振った。
玄関へ見送られてからも、寿郎は伊代やハンスから「また立ち寄ってくださいね」「時々は文をお寄越しくださいまし」などと声をかけられしつこく引き留められていた。
茜は空気を読み、そっと外に出る。すると先に軒下へ出ていた洋吉がずいと顔を寄せてきた。
「なあ。本当にあの旦那でいいのか? このまま入籍しちまうのか?」
「うん」
「いいんだな? 金なら俺もあるぞ。それに、いつでもおまえを邪霊から守ってやれるし」
「ありがとう。でも、護符を売ってもらえるだけでじゅうぶんだから」
「なんだよ。おまえの結婚相手は金だろ。だったら俺だって――」
「わたし、寿郎さんがいいの」
「すみません、お待たせして」
寿郎が玄関から出てきて、茜と洋吉を見やった。茜は「いえ」とさりげなく洋吉から離れる。
寿郎は洋吉に向かって改めて低頭した。
「坂井洋吉さん。このたびは何から何まで、本当にお世話になりました」
「いえいえ。別に。ま、幼なじみの誼ってやつなんで。また何かあったら金さえもらえればなんだって祓ってやりますよ」
洋吉は人差し指と親指で銭の形を作ってみせる。「ほんと下品なんだから」と茜につっこまれても、洋吉はへらへら笑っていた。
茜と寿郎は村に唯一ある旅籠に泊まることになっていた。洋吉は仕事で汽車に乗ってしまうため、ここでお別れとなる。
「またな」と気怠げに手を振って、洋吉は駅へと向かっていった。後ろで見送る茜と寿郎を振り返りもせず、しばらく歩いてから、「あーあ」と空を見上げた。
「何が幼なじみの誼だよ。あー、くそったれ」
――わたし、将来、お金持ちと結婚するの。貧乏はもういやだから。
昔、同級生の女から苛められ、あちこちに擦り傷を作りながら、幼い茜はぽつりとそう言った。人形みたいに無表情なのに、目だけは悲しげに震えていて、そんな彼女を慰める役割を持てたことがたまらなく嬉しかった。
だが寺の息子である自分は金持ちにはなれない。だから何も言わず、茜をそばで見守っていたのだ。兄貴分として。
大人になって、金を稼げるようになって、奇跡的に再会して。ようやく、ようやく気持ちを伝えられると思ったのに……
「知らん奴に先を越されるんだもんなあ……訳ありのおっさんのくせにあんな男前とか洒落にならんっての……」
すっぱりと諦めるのが正しい選択なのだろう。
だが、一縷の望みに期待してしまう自分がいる。
万一、旦那が嫌になって離婚したら、そのときは嫁にもらおう。うん、そうしよう。
それまで適当に女の子と遊びながら金を増やすか!
洋吉は機嫌良く駅へ向かっていった。極薄の望みを胸に宿したまま。




