第二十三話 秘めたる悋気
宿についた頃には、もう陽が暮れかけていた。この地域に電気は通っていないらしく、暗くなる前にとすぐに風呂へ案内され、食事の間へ通され、ようやく部屋へ戻ったころには行燈の明かりだけが灯る薄暗い部屋に、布団が二組、中央に並んで敷かれていた。ぴったりと、隙間なく。
「……」
戸口の前で固まる茜。寿郎は特に気にしている様子もなく、堂々と部屋へ上がって、卓上に置かれていた石油洋燈に火を灯す。
「茜さん」
寿郎が振り返り、茜の顔を見て、ふっと小さく笑った。
「そう緊張しないでください。もう少しこちらで休みませんか」
言いながら、寿郎は窓辺に置かれた一対の肘掛け椅子へ歩み寄る。茜は肩をこわばらせたまま「はい」と寿郎に従った。
向かい合わせに座って、眠たくなるまで他愛もない話をする――のだと思っていたのだが、気づけばなぜか、寿郎の膝の上にいた。
どうして⁇
「あ、あの」かろうじて、蚊の鳴くような声をしぼりだす。「食事の席で、お酒を飲んでおられましたが……もしかして、酔っていらっしゃいますか?」
「いいえ。あれくらいでは酔いませんよ」
本当だろうか。
茜はドキドキと高鳴る胸を両手でおさえる。背中に寿郎の熱を感じる……。
今、自分はどんな顔をしているのだろう。能面のままだったらいいのに。
今までどうやってあの顔を取り繕っていたのか、全然思い出せない。頬に力を入れないようにと努めていたら、寿郎の両腕がお腹の上にそっと回されて、喉がひゅっと変な音を立てた。
「今日は、ありがとうございました」
大騒ぎしている茜の心の中とは対照的に、寿郎の声は囁くように静かだった。
「疲れたでしょう。いろいろありましたから」
「いえ、寿郎さんこそ」
「私は、……疲れというより、ほっとしています」
茜の脳内で、これまでのことが走馬灯のようによぎっていく。風呂に沈められた夜。寿郎に取り憑く黒い靄。洋吉の除霊。号泣し、ぼかぼかと拳を振り回す琴子……
「ごめんなさい。寿郎さんの大切な人に手を上げて、あんな偉そうなことを言ってしまいました」
「謝らないでください。むしろ感謝しています。あの子は今まで、あんなふうにものを言われたことなどなかったはずです。私も、伊代も……どこかで彼女を哀れんで、甘くなってしまいますから」
琴子の精神は十代のまま止まっていた。物の道理を知らず、我が儘で、愛と依存の区別もつかない少女のまま。
「それに、私の実家の問題にあなたを巻き込んでしまったことを申し訳なく思っています」
「そんな」
「でも、茜さんがいてよかったと心から思いました。あなたはやはり、強いですね。芯があって、思慮深くて、地に足のついた強い女性です」
「そ、そう……でしょう、か」
褒められるのに慣れていなくて、下を向いて膝をもぞもぞさせる茜に、寿郎はくすっと笑みをこぼす。それから、お腹の上で組んでいた手を離し、するりと茜の左手首に触れた。
「茜さん。少しだけ、私の我が儘を聞いていただきたいのですが」
すぐ耳元で低く囁かれ、茜は「は、はい」と飛び上がりそうな勢いで答えた。
寿郎の長い指が、左手首に巻かれた組紐の結び目を撫でる。
「これを、外してもいいですか?」
「えっ」
「あなたの身を守るために必要なものだと、承知してはいます。ですが、今だけ……構いませんか?」
茜はさっと周囲を見渡した。霊の姿は視えない。
「だ、大丈夫、です……」
「よかった。では、外しますね」
洋吉にもらった組紐が、ゆっくりとほどかれていく。その様を、茜は固唾を呑んで見つめていた。
やがて紐はするりと外れ、寿郎の手に収まってしまう。
「茜さん。目を閉じて」
「えっ」
「少しだけ、閉じていてください」
おっかなびっくり、瞼をきゅっと閉じる。
チャリ、と金属の擦れ合う音が聞こえる。ごそごそと、寿郎が何やら手を動かしている気配もする。やがて、左手首にひやりと冷たい感触がして、茜は小さく肩を震わせた。
「すみません。……どうぞ、目を開けてください」
見れば、手首にほっそりとした銀色の腕輪が嵌まっていた。良い職人の手仕事だと一目でわかる、精巧な草花の透かし細工が美しい。だが何より目を惹くのは、手首の裏側に取り付けられた極小の箱状の装飾である。よく見れば針の先ほどの蝶番がついていて、開けられるようになっていた。
「これ……」
言葉にならない茜の代わりに、寿郎が後ろから装飾の蓋を開ける。中には折りたたまれた護符が入っていた。
「こんな、あの、いつの間に……」
「茜さんの着物を新調しに行った日です。少し、席を外したでしょう。あのときに、腕輪を注文していました」
「でも……護符を入れるところまで……」
「それは、護符のことを知ってすぐ、依頼していた職人に追加でつけてもらったんです」
言ってから、寿郎はため息をつき、茜の肩に額を乗せた。
「……すみません。こんな……大人げないと、自分でもわかっているのですが……」
茜はようやく、寿郎の腕輪の意図を理解した。と同時に頬が火のついたように赤くなる。
こんなひとが。誰もがうらやむ美貌と才と地位を持つ、手の届かない場所にいるはずのひとが。
そんな、子どもじみた感情を抱くことがあるなんて。
「……嬉しいです」
茜は銀色の腕輪を撫でた。
「ずっと、つけています」
「……茜さん」
「でも、この紐も大切なものなんです」
茜は寿郎から組紐を受け取り、そっと手のひらに載せた。
「本来ならお金を取るような代物なのに、わたしの危機だからと幼なじみが只で譲ってくれたものなのです。だから……次に会ったときにわたしから返します」
「……ええ」
寿郎は片手で自らの目元を覆った。
「我ながらお恥ずかしいことを。すみません」
「いえ……」
「でも、安心しました」
寿郎の両腕が、再びお腹の上にそっと回される。くすぐったさに、茜の胸の奥がきゅうと疼く。その感覚に無言で耐えていると、寿郎が「茜さん」と囁いた。
「こちらを向いてくれませんか」
「……えっ」
「今、どんな顔をしているのか気になって」
「あ、いえ、あの、ダメです」
寿郎の左手が、後ろから優しく頬に添えられる。右肩越しに横顔をのぞき込まれる。
必死に真顔を取り繕っているのに、寿郎は「ふふ……」と愉快そうに笑った。
「ああ、愛しい……本当に愛おしくてたまらない」
見つめられ、頬を撫でられながらも、茜は懸命に目をそらし、胸の奥の疼きを悟られまいと耐えていた。
「茜さん。こちらを向いて」
耳元で囁かれ、茜はついに我慢できず、おずおずと寿郎のほうを見た。
「あの……あんまり、見ないでくださ」
その言葉は、寿郎の熱に塞がれてしまった。
薄暗がりの中、茜は寿郎の静かな執愛を、戸惑いながらも受け入れていった。




