EP.幸福な訳あり物件
「はーい、そのまま動かないで、この黒いレンズをじーっと見ていてくださいね~」
宇木邸の中庭に景気のいい声が響く。キャスケットを被ったカメラマンが、どっしりとした四角い箱型のカメラを向けている。
その先には、婚礼衣装に身を包み、椅子に腰かける茜と、そのそばで寄り添うように立つ寿郎の姿があった。
「もう少しですよ、もう少し……まだもう少しじっとしてくださーい」
二人の衣装は、今朝がたから呉服屋の女将が精鋭の女子店員と共にわざわざ駆けつけて、着付けから髪結いまですべてを担ってくれた。とりわけ茜の支度にはとんでもない時間がかかったものである。
鳳凰に桐文様をあしらった黒縮緬の留袖、高島田につのかくし。顔には見たこともないような高級白粉や頬紅、アイシャドウをほどこされ、出来上がったときには女将も女子店員たちも口々に褒めそやかしてくれた。
「茜様は化粧映えのなさる方ねえ」
「ほんとほんと、とーっても綺麗。このまま画家に美人画として描いていただきたいくらいよ」
茜は鏡に映る自分の姿が信じられなかった。見たこともない女の顔がそこにある。能面のような真顔がなければ本当に自分なのか疑わしいほどであった。
「あとは笑顔、笑顔よ」
全員から促され、茜は頬に渾身の力を込めてひくひくと釣り上げて見せた。
「……やっぱり、いつも通りのお顔でよろしいですわね」
女将があきらめたように天を仰いだ。
だが、この顔を好きだと言ってくれる人がこの世にたったひとりだけ、いるのだ。
彼はすでに庭で待っていて、茜の姿を見るやいなや、呆けたように口を開けた。
茜もまた、黒い五ツ紋の羽織袴姿の寿郎をまぶしい思いで見ていたのだが、彼の凝視はその比ではなかった。
「とても、綺麗ですね。……ああ、物書きのくせに、語彙が散漫でお恥ずかしい」
そう言って、彼は茜の手を取り、中庭の真ん中にある木製の椅子へと導いた。その足取りはまるで、神前式で社殿へ向かう新郎新婦の参進のように厳かで慎ましく、周囲の者たちは固唾を呑んで魅入ってしまっていたのだった。
こうして、二人の婚礼の姿が写真に収められたのである。
「結局、祝言はやらないんですね」
すべてが片付き、写真館のカメラマンや呉服屋の女将たちが帰ってしまったあと、茶室で直彦がぼやくように言った。
茜も寿郎もすっかり普段着に着替えている。茜は髪の油を流したばかりなので、洗いざらしの髪であった。
ちゃぶ台には、二人が署名した婚姻届が置かれている。その墨の乾き具合を確かめながら寿郎がうなずいた。
「私も茜さんも、参列してもらえるような身内がいないからね」
「あー……」
「だから今回の婚礼の撮影が、式の代わりのようなものだよ」
ね、と寿郎が茜を見る。茜も「はい」とうなずいた。
茜は両親を失っている。寿郎も実家とは絶縁状態にある。寿郎は三十を超えているので、法律上、婚姻に当たって戸主である父親にお伺いを立てる必要もない。祝言の意味があまりにも薄いのである。
「そろそろ乾いたでしょうか」
茜が用紙を持ち上げ、縁側から差す陽にかざす。墨は紙になじんでいるように見えた。
「そうですね。……では、持っていきましょうか」
立ち上がり、玄関へ向かう二人を、直彦が見送った。
「直彦君。お留守番よろしくお願いしますね」
「戻ったら一緒に牛鍋でも食べよう。他に何かほしいものはあるか?」
「え、いいんですか?」
直彦がみるみる目を輝かせる。
「ああ。今日は特別な日だから」
「じゃあ、俺、ソーダ水が! ソーダ水が飲みたいです!」
元気のよすぎる声に、寿郎は「わかったわかった」と苦笑しつつ、戸を閉めた。
「では、行きましょうか。茜さん」
「はい」
ふたり並んで、表門をくぐる。
梅雨に差し掛かり、降雨の続く中での、めずらしく晴れた空であった。門の外にも美しく刈り込まれた低木が続き、こんもりとした薄紫の紫陽花をつけている。夏らしい爽やかな風が吹いて、二人のあいだを心地よく駆け抜けていく。
『茜……』
はっと、足が止まった。
後ろに、気配を感じる。あまりにも懐かしいひとの眼差しが、そこにある。
『よかった。幸せになれたのね……』
たまらず、茜は振り返った。
表門のすぐそばに、母の姿がある。相変わらず、口元と胸のあたりを血で染めているけれど、笑っていた。心から、嬉しそうに。
『これでようやく、逝けるわ……。ずっとそのまま、幸せでいてね』
「うん」
茜は母の顔をまっすぐに見つめながら、力強くうなずいた。
「またね、お母さん」
母の姿は見る間に薄れていき、透明な空気に溶けいるように消えてしまった。
「……お母様が、いらしたのですか」
横で、寿郎がぽつりと尋ねる。
「ええ。でももう、旅立ってしまったようです」
寿郎は、母親がいた方向へ、黙って短く低頭した。
「ご挨拶できなかったのは残念です。お盆には我が家で迎え火を焚きましょう」
「いいのですか」
「もちろん。愛する妻の御母堂様なのですから」
ふたりの頭上に、肩に、足元に、木漏れ日がまだらに光って揺れる。
葉擦れの音がさらさらと、幸福を祝う調べとなって、坂をくだるふたりの耳にいつまでも響いていた。




