第八話 距離が近い
目が覚めると、視界のまぶしさに思わず瞼を閉じてしまった。ずっと暗闇の中に閉じ込められていたのに、突如、光の中に放り込まれたような、そんな感覚だった。
もう一度、今度はゆっくり、瞼を開けてみる。宇木邸の、自分の寝室の天井が見えた。右手の障子から差す白い光が、部屋を淡く満たしている。
寝返りを打つと、その光のほうを向いて、誰かが文机に向かっているのが見えた。
その人は、はっとしたようにこちらを振り返る。
「茜さん」
寿郎だった。彼はすぐにペンを置くと、枕元へ膝を寄せた。
「具合はどうですか」
そこまで言われて、ようやくぼんやりと思い出す。
そうだ。自分は、風呂場で霊に襲われて……
何かで強く頭を打たれた。足元の白い石鹸、冷たい水底に沈んでいく感覚……誰か、女の恨みがましい叫び……
ずん、と頭が猛烈に重く感じた。頭どころではない、全身が気怠い。
ふいに寿郎の手が茜の視界を覆う。え、え、と思っていたら、おでこにぴたりと手のひらを当てられた。
「まだ熱いですね。でも、峠は越えられたようでよかった」
「あ、あの……わたし……」声が掠れてガラガラだった。慌てて唾を飲み下す。「どうして、こんな……」
「貴女は一晩じゅう、風呂場で失神していたんです。朝になって直彦が発見したころには、すでに高熱で意識がありませんでした」
「……」
「一時はどうなるかと思いましたが……目を覚ましてくれて、本当によかった」
「……」
茜は真顔のまま、頭の中で様々な考え事がぐるぐると高速回転していた。
――熱? 風邪? わたしが? このわたしが⁇
風邪なんて引いたことないのに、それが長所だとはっきり葉書に書いたのに、思いっきり熱を出して、おまけに気絶していたなんて。
それに……風呂場で気絶? 自分は服を着ていただろうか? 記憶をさかのぼる。風呂からあがって着替えてから掃除するつもりだった。だが実際は風呂から出る前に霊の攻撃を受けて……
頭が冷水を浴びたように冷たくなり、同時に頬が猛烈に熱くなる。顔が二色に分かれそうなほど感情がぶつかっているのに、茜の顔は悲しいほど無表情だった。
「あの……わたしをここに……運んでくださったのは」
「もちろん私です」
寿郎が当然のように言った。
「あなたの夫なんですから」
――そうだった。
そもそも正式に入籍すれば、自分は彼の子を産むことになる。子を産むということは、つまり、いずれ全部見られるということだ。
見られたあとどうなるのかは有耶無耶だが、寿郎はその覚悟を持って茜を運んでくれたのだ。それなのに自分だけ恥ずかしがってはいられない。
「ありがとうございます」
「いえ……」
寿郎は茜の枕元へ手を伸ばす。カチャ、と茶器の触れる音がした。盆ごと文机に置き、脇に置いていた茶瓶からとぽとぽと湯を注ぐ。薬のような独特な匂いが鼻をついた。
「沸かしたばかりでよかった」匙で湯を混ぜながら寿郎がつぶやく。
「医者から、あなたが起きたら薬湯を飲ませるよう言われています。……飲めそうですか?」
「……飲みます」
茜は布団へ手をつきながらゆっくりと起き上がった。途端にずんと重たい気怠さが肩にのしかかる。ぐらりと後ろへ倒れかけた肩を、寿郎の腕が抱きかかえるように支えた。
「無理をしないで。支えていますから」
――寿郎の、腕の中にいる。
抱きしめられそうなほどに、腕や肩が密着している。
「あ、あの、こ、ここまでしていただかなくても」
「何を言ってるんです。あなたは病人なんですよ」
そう言って、寿郎は奇妙な形をした茶器のようなものを茜の口に近づける。それは陶器製で、取っ手のない小さな急須のような形状だったが、注ぎ口にあたる部分が細く長い。
「これは……」
「吸い飲み器といいます。医者から借りました。この吸い口から飲んでください」
「そう、なのですね、では自分で飲みますから……」
「無理をしてはいけないと言ったでしょう」
寿郎は茜を片腕で抱きかかえたまま、もう片方の手で吸い飲み器を茜の口にあてがった。
「熱いですから、少しずつ……ゆっくり飲んで」
囁き声が耳をかすめる。心臓が熱暴走を起こしそうなほど高鳴っている。
やめてほしい。ただでさえ綺麗な顔が近すぎてまともに顔を上げられないのに、優しい声で低く囁かないでほしい。緊張で心臓が破裂するから。
茜は悲しいほど男性というものに耐性がなかった。顔も声も何もかもが美しい相手には、特に。
霊に対しては強く出られるのに、いったいどうして……
茜は震える唇で吸い口をくわえ、すべてを振り切るように吸い込んだ。
途端に熱湯で口の中を焼かれ、思わず咽せ込んでしまう。
「ゆっくり、と言ったのに」
寿郎は苦笑交じりに背中をさする。茜は咽せながら、自分が猫舌だったことを今さら思い出していた。
時間がかかったが、どうにかこうにか飲み干すと、寿郎は吸い飲み器を茶器と共に脇へ避け、再び茜を寝かせてくれた。
薬湯が喉を潤し、喉枯れも気休め程度には落ち着いてくる。
「あの……申し訳ありませんでした」
「何がですか」
「風邪を、引いたこと」
申し訳なさに、声が消え入りそうになる。
「どうして謝るのですか」
「わたし……あなたに、風邪は引かないと……体が丈夫なことが取り柄だと、そうお伝えしたのに。あなたもそう信じて、わたしを妻に……」
口にすればするほど自分の不甲斐なさに腹が立つ。もはや自分に取り柄など何ひとつ無くなってしまった。
「これでは、契約不履行じゃないですか」
「ふふ」
信じられないことに、寿郎は笑っていた。いつもの薄い微笑ではなくて、目を柔らかく細めて、明確に、笑っていた。
「すみません。茜さんは真面目ですね」
「……え」
「風邪なんて、引くときは引くものです。今回は一晩中、風呂場で気絶していたのですから、むしろ風邪で済んでよかった。あなたはやはり、強いですよ」
「……」
「その程度のことで契約不履行にはなりません。私があなたに課した条件は『風邪を引かないこと』ではないでしょう?」
「そう……ですね」茜は素直に答える。「すみません。まだ頭がうまく働いていないようです」
「では、もうしばらく寝ていてください」
「寿郎さんも、仕事に戻られてください。わたしはもう、大丈夫ですから」
「仕事ならここでさせてもらっています」
寿郎は文机をさした。「勝手ながら、机をお借りしていますが」
「ここの家主は寿郎さんですから……」
茜の声は小さく掠れ、言葉尻がうち消える。
こんなところで仕事をしてまで、そばにいてくれたなんて。
やがて寿郎が文机に向かい、ペンを動かし始めたので、茜はしばし、その背を見つめていた。
カリカリ、カリカリ……時折止まっては、また進む軽快な音。
いったいいつからこうしていたのだろう。まだ試用期間にすぎない妻を、どうしてこんなに真剣に看病してくれるのだろう。
優しい。というよりお人好しだ。お試しの妻なんて放っておいていいのに。
優しいから、霊に好かれるのだろうか。霊はつけいる隙のある人間を好んで憑くと聞いたことがある……
気づけば茜はふたたび微睡みに落ちていた。すう、すう、と寝息がこぼれる音を聞き、寿郎が振り返る。
茜の寝顔を見下ろし、柔らかく微笑んだ。
「寝顔は無垢ですね」
また一つ、新たな一面を見られたというように。
***
薬湯がよほど効いたのか、それとも寿郎の言うとおり茜が丈夫で強いのか。それから丸一日眠ると茜の熱はあっという間に下がり、体の怠さもすっかり消えてしまった。後頭部を押さえると少し痛むくらいだ。
寿郎がそばにいたおかげか、特に霊からの嫌がらせもなく、ぐっすり眠れたのがありがたかった。
朝、いつも通り食堂へ向かうと、台所の引き戸が開きっぱなしになっていた。中を覗けば直彦の姿はなく、代わりに寿郎が七輪で握り飯を焼いていた。
「――おはようございます」
「おはようございます、茜さん。顔色がすっかり良くなりましたね」
寿郎が微笑む。
だがなぜ、彼が台所で米など焼いているのか。状況が飲み込めず突っ立っている茜に、彼は申し訳なさげに告げた。
「直彦が熱を出してしまいまして」
「えっ」
「代わりに私が。冷や飯を焼いているだけですが……」
「いえ、そんな。ありがとうございます」
急いで台所を後にし、使用人部屋を覗く。額に濡れた手ぬぐいを載せた直彦が布団でぐったりと横たわっていた。
「なんですか、……ゴホッ。何見てんですか、どっか行ってくださいよ」
「どうしてあなたまで風邪を……」
「オクサマから伝染されたんですけど」
「えっ?」
「だから、俺もあんたの看病してたんだよ旦那様に言われて!」
言った瞬間、直彦は盛大に咳き込んだ。
寿郎はあれだけ側にいた割には平気そうなのに。体質の問題か、直彦だけ被害が及んでしまったようだ。茜は一気に申し訳なくなった。
その日、茜ははじめて台所に立ち、米を炊いて粥を作った。玉子に葱ものせて、滋養を増した特製の粥である。
使用人部屋へ持って行き、直彦を起こした。丸めた予備の布団で背もたれを作ってもたれさせ、戸惑う直彦の口元へ、匙ですくった粥を持っていった。
「お、お、おいっ」
直彦はかあっと頬を赤くして顔を背ける。
「やめろ、俺を幼児扱いすんなっ」
「でも、熱いですし、少しずつ食べた方がいいですし、何より病人ですし」
「馬鹿にすんなよ、自分で食べられるっての。貸せよ」
直彦は熱に浮かされた顔で茜の手から匙を奪い、乱暴に頬張る。はふはふと口を開けながら「あつっあつっあつっ」と騒ぐ。
「これくらい、あつっ、自分で食べられるから、わかったならとっとと出てけよ、あっっつ!」
「……」
なんだか、思ったより元気そうである。
仕方なく、茜は席を外すことにした。これ以上そばにいても直彦はいっそう騒ぐだけで、無駄に体力を使わせてしまうからだ。
「水差し、ここに置いておきますからね」
「……どーも」
「またちょくちょく様子を見に来ますからね」
「来なくていい!」
その昼から、茜は直彦の代わりに炊事をすることになった。寿郎は「病み上がりなのですから無理しなくても」と店屋物を取ろうとしたが、茜自ら「わたしはもう完治しておりますので」と断ったのだ。
本当なら、金持ちがどんな高級店のものを買ってくるのか、寿司か鰻か牛鍋かと興味はあったのだが。それよりも「胃袋をつかむ良い機会だ」と思ったのである。
まだ試用期間であることに変わりはないのだから、ここでしっかりと妻らしいところを見せておきたい。直彦に追い出されずに済む今が好機なのである。
台所脇の食料庫を覗くと、食材は潤沢にあった。買い入れたばかりであるらしい。驚いたことに、庶民の家庭ではあまり見られないキャベツなどの西洋野菜もあった。これもきっと適当に刻まれ、ねこまんまにされるのだろうと思うとちょっとやるせない。
材料を吟味し、台所へ運び入れていざ、調理を開始した。
昼餉時になり、茜は盆をカートに乗せて食堂へ運び込む。寿郎が席について待っていた。
「いい匂いがしますね」
思わず、といった調子で彼がつぶやく。そうでしょうとも、と茜も思う。
二人分の盆を卓上に置いて、向かい合わせに座る。寿郎は目の前の皿を見下ろし、「これは……」と目を瞠った。
「ロールキャベツです」
「ハイカラですね。しかし……」寿郎はすんと鼻を動かす。「出汁のにおいがします」
「和風のロールキャベツですから。本来なら牛挽肉を使うのですが、代わりに魚を使っています。スープ種もありませんから、醤油や昆布だしを……」
「なるほど」寿郎は感心したようにうなずいた。「さっそくいただいても?」
「はい、どうぞ召し上がってください」
いただきます、と寿郎が箸を取る。だし汁の中で丸められたキャベツを箸の先で割ると、中からじゅわりと出汁が出て、細かく刻まれた魚の切り身が顔を出す。
本来なら肉汁が出るところを、茜はメリケン粉と切り身と出汁を混ぜることでそれを擬似的に再現していた。寿郎は一口頬張ると驚いたように目を見開き、ゆっくりと味わいながら咀嚼した。
「すごく美味しいです」と感慨深い顔で言う。「店が出せますよ」
「……それほどまでは」
「いえ、冗談ではなく、本当に素晴らしい……うちには洋食の材料などないはずなのに、ありあわせでこんなものを作ってしまうとは」
真正面から手放しで褒めそやされると、なんだか胸の内がくすぐったい。
「初めて喫茶店でお会いしたとき、ビーフスチューをとても美味しそうに食べたらしたので……洋食がお好きなのではないかと思ったのです。それに普段、食卓にはあがっていなさそうでしたし」
「……ああ」寿郎は目を伏せた。「そうですね……確かに洋食は好きです。普段も食べませんからね」
少しだけ、奇妙な沈黙が食卓に降りる。お互い黙って食べていたのだが、寿郎が唐突に手を止めた。
「茜さん。初めてうちの食卓を見たとき、びっくりしたでしょう」
茜はなんと返事したものかわからず、「いえ、まあ……」と曖昧に返した。
「毎食、ずっと変わらずあの食事で、嫌気がさしていませんでしたか」
「いえ、そんなことは」
ない、といえば嘘になる。
せめて米がふっくら美味しく炊けていて、具材が焦げたり味が濃すぎたりしていなければいいのだが。麦や粟ばかりの貧乏飯に慣れた茜ならいざ知らず、今までの妻たちはあの食事をどう思っていたのだろう。
「あの……あれは、寿郎さんの好物というわけでは……」
「いえ。好物ではないのですが」寿郎が苦笑する。「あれが直彦の唯一作れる得意料理なのです。毎日毎日、一所懸命に作ってくれるものですから、私も何も言わずに食べていました」
「……」
「直彦はここに来る前、小さな宿屋で下働きをしていまして。そこの主人が乱暴者で……私はたまたま、その地域で小説の取材をすることになっており、何日か宿泊したのですが……主人が彼を連日、激しく折檻するものですから、見るに見かねて引き取ったのです」
「引き取ったのですか?」
「はい。彼の実家から米俵一俵と引き換えに奉公へ出されたようなので、もうじゅうぶん、一俵分の働きはしただろうと言って」
「……」
直彦の「旦那様」と甲斐甲斐しくへつらう姿が脳裏によみがえる。
直彦の中で、寿郎の存在がどれほどの救いとなったことだろう。神であり仏である主人を、彼はきっと一生涯敬い、尽くすに違いない。
「彼は寿郎さんが大好きなんですね」
「……どうでしょう」
「寿郎さんが今の食卓に満足されているなら、わたしは何も申しません」
「茜さんも我が家の一員なんですから、食べたいものを我慢しないでください。いつでも店屋物を取ってもいいですし、直彦に遠慮せず、台所を使っていただいて構いません。私からも言っておきましょう」
「いえ、いいんです」
直彦は毎日台所に立つことで、必死に寿郎へ恩を返しているのだ。それを邪魔する気にはなれなかった。
昼餉のあと、茜はちょくちょく使用人部屋を覗き、直彦の容態を見ていた。彼はいつ見ても目をつむっていたが、狸寝入りだったかもしれない。
こまめに飲み水を変え、顔周りの汗も拭いてやる。お節介かもしれないが、彼も看病してくれたのだから、せめてお返しになればと思う。
その日の夕餉には和食を出した。白米に干し魚、吸い物と、野菜の簡単な和え物も添えておく。寿郎はこれもまた、美味しそうに平らげてくれた。
「茜さんは洋食も和食も、両方作れるんですね。どこかで料理の修業を?」
「商家で女中奉公しておりましたし……ミルクホールの厨房で働いていましたので」
「それはすごい。どうりで本格的なわけです」
今まで、作った料理をこんなにも丁寧に褒められたことなどなかった。なんだか胸のあたりがむず痒く、反応に困ってしまう。悩んだ挙句、
「それほどでもありません」
とにべもなく答えてしまった。
茜も寿郎も、目の前の食卓に集中していて気づいていなかった。
食堂の扉がほんのわずかに開いていて、その隙間から二つの目がじっと覗いていたことに。
覗いていた彼はやがて扉をそっと閉じると、押し黙って、うなだれたように、その場を後にしたのだった。




