第七話 事故②
森本茜という娘の第一印象は、〝無〟だった。
喫茶店の前に立っていた茜を見たとき、一瞬、「人形がいる」と思った。そう見えるくらい、彼女の表情もたたずまいも、すべてが〝無〟だった。
年頃の娘というものは、寿郎を見ると例外なく顔を赤くする。しなを作り、人目もはばからず媚びを売ってくることもある。宇木邸に越してすぐのころは女中を雇っていたのだが、彼女らもまた寿郎に惚れ込み、対応が面倒になったのでたまらず解雇してしまった。
自分がそういう見目をしていることは、学生時代から自覚している。もはや生まれついての呪いである。
だが茜にだけは、その呪いも通用しなかった。彼女は無の顔のまま真っすぐ寿郎を見てくる。もはやそういう仮面でもつけているのかと思うほど表情が微動だにしない。
最初は少し不気味だと感じたものの、話すうちにだんだん妙な心地よさを覚えていた。色目を使わず媚びを売らずしなを作らない女性と話すというのはこんなにも気が楽だったのか。
茜の送ってきた葉書を思い出す。時候の挨拶から始まり、過剰なほど丁寧に自己紹介が綴られているのを見て、いったいどんな人なのかと思ったが……会ってみて、彼女はとても生真面目な性格なのだろうと察した。真面目すぎて、夫となる人間に対してまったく〝女〟を出さない、ものすごい堅物なのだと。
そんな彼女が喫茶店で注文したみつ豆を一匙、口にしたとき……彼女の黒い瞳がほんのわずかに揺れた、気がした。
たったそれだけの変化だったのに、その一瞬だけ、彼女の顔色がパッと明るく輝いたように見えたのだ。見間違いだったかどうか、そのときはわからなかった。
彼女を屋敷に連れてきたときも、同じようなことがあった。
人力車から降りる際、手助けしようと手を差し伸べた。顔は伏せられていたが、彼女が一瞬、重心を崩し、すぐもう一方の手を取ったとき――彼女の瞳と、視線が絡んだ、ほんの一瞬……あっという間に彼女は、寿郎から視線を逸らした。
その瞳は、明らかに揺れていた。間違いなく動揺していた。表情こそ無だったが、目だけは赤面する乙女のように潤み、恥じらうように伏せられた。
何かものすごく特別なものを目にしたのではないか。そんな喜悦が、胸の中に湧いた。彼女の表面は驚くほど無機質だが、その殻に包まれた内面は違うのかもしれない。
もう一度、見られないだろうか。いつの間にかそんなことを考えている自分がいた。
茜を庭へ連れ出し、なんでもない会話をしながら歩いた。彼女は人形のような顔のまま、淡々と言葉を投げ返してくる。
茜の寝室から見える、藪椿の生け垣を前にしたとき。彼女は赤い花を見つめながら言ったのだ。
――朝起きてすぐ、美しい花を見られるだけで嬉しい気持ちになります。
この庭は確かに美しい。だがそれは、寿郎の中で当たり前の光景になっていた。見飽きたわけではないが、何もかもが当然だった。ここ数年、嬉しい、などと思ったことはない。
その小さな幸せを拾い、尊ぶ彼女の何気ない一言が、寿郎の視界を明るくした。隅々まで知り尽くしていた庭がもう一度新たに色づき、芽吹いたような、そんな錯覚さえ覚えるほどに。
だからだろうか。
中川富美子が茜を女中と間違えたとき、柄にもなく声を上げてしまった。我ながらどうしてしまったのだろう。
茜が舶来製のモップに興味を示したので、出入りの業者が来た際に彼女を呼んだ。彼女は物珍しそうに品々を見ていたが、顔は相変わらずの無表情。業者もそんな彼女の機嫌を取ろうとあれこれ声をかけているのが申し訳ないが滑稽だった。
彼女の目は、せわしなく動いている。きらきらと輝いているようにさえ見える。
彼女も、美しい化粧道具や女性好みの小物入れなどに興味を持つのか。やはり中身は年頃の娘に相違ない。
掃除が趣味なんて葉書には一言も書いてなかったのに、突然掃除をしだしたときも驚いたが、また新たな一面が見られた気がして興味深かった。
これほど妻という存在に心引かれることなどなかった。今までの妻は最低限の務めさえ果たしてくれれば、こちらもそれ以上関わることをしなかった。契約結婚とはそういうものだ。
だが茜は。彼女の瞳の動きが、いちいち気になる。その仮面のような顔の下に秘められた感情を暴きたくなる。まだ半月ほどしか経っていないのに、この違いはいったいなんなのだろう。
彼女がこのまま、正式に妻となってくれたらいいのに。何事もなく、平和に三ヶ月が過ぎれば……いや、きっとそうなる。だって彼女はぴんぴんしている。丈夫なことが取り柄だと言っていたが、宣言通り、彼女は元気に趣味の掃除を満喫していた。
そう、見えていただけだったのかもしれない。
目の前の彼女は今、生死の境を彷徨っている。
風呂場で転んだ? 頭を打った?
それが本当だとして、もしその原因が石鹸ではなくて、たとえばもっと別のものだったとしたら。
顔に出なかっただけで、彼女の中に、発狂しそうなほどの何かが積もり積もっていたとしたら。
それに気づけなかった自分が、すべての原因ではないか。
ふと、寿郎の脳裏に暗い座敷牢の光景がよぎった。うっすらと錆びた鉄格子、暗く湿った地下の澱んだ空気……
「んん……」
記憶の沼に沈みかけた寿郎を、小さな呻き声が呼び戻す。寿郎ははっと茜を見下ろした。
瞼は硬く閉ざされ、呼吸も苦しげなままだった。その薄く開いた唇から、何かブツブツと言葉が漏れ聞こえてくる。
「ぜったい……ここを さったりしない……」
「茜さん?」
思わず、茜の手を取る。じっとりと熱を帯びた手のひらに、手のひらを合わせて握りこむ。
「ぜったい……ここをはなれてなんか やらない、から……」
誰に、何を言っているのだろう。
もしかして、黄泉の使者の姿でも見えているのだろうか。寿郎は信心深い方ではないが、あり得ないことでもないと思えた。
「わたし、としろうさんのそばを、ぜったい、はなれない、から……」
何か、突き上げるような感情が胸に湧いて、熱く染み広がっていくのを感じた。
「離れなくていい」
彼女の手を握りしめたまま、気づけばそう言い聞かせていた。
「離れなくていいから。戻ってきなさい」
三ヶ月のあいだに何か異変があったら、いつでも出て行っていいと、彼女に言った。
出て行ってしまうだろうか。
そのほうが無事に済むというのなら、それでもいい。
でも、去りたくないというのなら、去ってほしくない。
ここで寝起きして、いつでも庭を、花を眺めてほしい。その瞳が感情に揺れるところを見せてほしい。
何かに懇願するように、寿郎は茜のそばを離れなかった。
茜の熱は、三日三晩、変わらず高いままだった。




