第六話 事故
水場で盛大に水をまき散らした日から二週間が過ぎようとしていた。掃除自体は遅々としながらも、どうにかこうにか進んでいる。
屋敷内の部屋はあらかた手をつけることができたので、残っているのは廊下と寿郎の書斎、風呂場である。
茜は掃除道具を手に廊下へ出て、各部屋と同じく、上の埃を落としてから最後に床面を拭いていった。
途中、バケツが不自然な挙動で倒れたり、壁に飾られた絵が落ちてきたり、箒や雑巾を隠されたりもしたが、ただ黙ってやりすごす。
『ナゼ 逃げなイ』
『消えロ 今スグ 出て行ケ』
反応しない。反応しない。
『惨めナ貧乏女』
『醜イ 汚イ 醜女め』
聞こえない。聞こえない。聞こえない……
「ご苦労さまです」
廊下に響く霊たちの呪詛をかき分けるように、穏やかで優しい声がした。
見れば寿郎が渡り廊下を歩いてくるところだった。気がつけば書斎の手前まで掃除が進んでいたらしい。
「屋敷の中がずいぶんと綺麗になりましたね」
寿郎が感慨深げにつぶやく。
綺麗に……なっただろうか。霊の妨害がすさまじく、綺麗にしてもすぐ汚されてしまうので、正直、成果のほどはわからない。
一方的に耐え忍ぶだけなんてご免だという、茜のただの意地であり自己満足なのに。
「本当ですか」
「ええ。あんなにこもりやすかった屋敷内の空気が、少し澄んでいるような。風通しが良くなったような、そんな気さえします」
「……なるほど」
霊感のない寿郎でもそう感じるということは、浄化行為は多少なりとも成功しているのだろう。茜はほっと安堵した。
「ところで、このあいだ買ったモップの具合はいかがですか」
「とても使い心地がいいです。腰を痛めず拭き掃除ができるなんて画期的だと思います」
「それは良かった。業者が来たとき、茜さん、なんだかはしゃいでいましたね」
「えっ……」
茜は思わず箒を取り落としかけた。
「いえ、いろいろ物珍しげに見ていらしたので、そういうふうに見えただけで。気のせいでしたらすみません」
「い、いえ……」
茜は片手でそっと頬に触れる。相も変わらず立派な能面である。……良かった。いや良くないのだが、霊と攻防を繰り広げている今、能面でなければ困るのだ。
茜は先日、寿郎の呼びつけた業者から舶来のモップを買ってもらった。
掃除道具以外にも、業者はいろんな商品を持ってきていた。寄せ木細工の綺麗な小箱、螺鈿をほどこした美しい化粧品入れ……見たこともないような高価なものを前に、茜は心の中で歓声を上げていたのである。
まさか顔には出ていないだろうが、その心中がばれてしまったのは、なぜだろう。
そういえば寿郎は、茜がしげしげ見ていた品々を「全部買ってもいいですよ」などと言ってきたが、あれにはさすがに狼狽した。お金持ちの金銭感覚っておそろしい。
「では、続きをさせていただきます」
「いや、この先は結構です」
彼の口調はやんわりしているが、どこか有無を言わさぬ圧を感じる。
「私の書斎ですから。自分でやりますよ」
「いえ、そんな」
「直彦にもさせていませんから」
「……わかりました。では、渡り廊下だけでもさせてください」
茜はそう断りを入れ、いつものように上から下へ、渡り廊下を掃除した。
その間、寿郎は庵の縁側に腰掛け、のんびりと外庭を眺めていた。時折そよと風が吹き、チルチルと鳥のさえずりが聞こえてくる。
なんとも長閑で、平和な光景だった。茜は箒で塵を掃き出しながら、そうか、と気づく。
先ほどから霊障がまったく起こらない。相変わらずブツブツと霊たちの恨みがましい呪詛は聞こえてくるが、それだけだ。寿郎がいると、彼らは何もしない。
あまりにもわかりやすすぎて、笑いそうになる。この顔ではちっとも笑えないのだが。
夕餉のあと、茜は「風呂の後始末のついでに掃除がしたいので、お湯は最後にいただきます」と直彦に申し出た。
直彦は「あっそう……ですか」と言ったきり、特に文句は言わなかった。不満はありありと顔に出ていたが、寿郎の叱責がよほど堪えたのだろう。
茜は寝る前、寿郎と直彦が風呂を出てから刷子と浴室用洗剤を脱衣所に持ち込み、服を脱いだ。まず体を洗ってから、最後に掃除をするためだ。
宇木邸の風呂場は一面が白いタイル張りで、檜の内風呂が設置されている。あまり清潔感のない公衆銭湯の浴場しか知らない茜は、最初にこの風呂場を見たとき、あまりの贅沢さに開いた口がふさがらなかったものだ。
体を洗うのも、ぬか袋ではなく石鹸と手ぬぐいである。まさに贅沢の極み。至福のときだ。
小窓にびたんっと張り付く手形や、排水口から不自然にあふれている長い髪や、扉をバンバンひっきりなしに叩く音さえなければ。
これも、宇木邸に来た初日からずっと続いている嫌がらせだ。茜は無表情のまま、黙々と体を洗い、浴槽に入った。
暖かな湯船は、入浴剤で色が薄黄色く濁っていた。浮いている布袋から、柚子や生薬のほのかなにおいが漂う。なんという贅沢……と顔を上げると、天井に青白い顔がぼうっと浮かんでいるのが見えた。
その顔が、ニィッと不気味に笑う。目が完全に合いかける寸前、茜はあくびをするふりをして視線をそらした。間一髪だ。
が、その直後、足首をぐいと強く掴まれる感触がした。湯の底は色が濁っていて、何がいるのかわからない。茜は努めて冷静に、手探りで浴槽の栓を探り当てて一気に引き抜いた。
ごぽっごぽっと湯が抜けていき、やがて浴槽は空になった。足首をつかんでいた手の感触も消える。
ああ、せっかくの薬湯が。もう少し浸かっていたかったのに……
茜はため息交じりに浴槽を出て、脱衣所に出ようとした。
瞬間、後頭部をガツンと思いっきり殴られたような強い衝撃が走った。
背後で何かが床に転がる音がする。あまりに突然のことで、茜は大きく体勢を崩した。それでもどうにかふんばろうと、足を大きく前に出す。
出したところに、白い石鹸があった。
濡れて泡だらけの、ぬるぬるとした石鹸は、みごとに茜の足をつるりと転ばせた。
体が後ろへ倒れていく。ドボン、と冷たい水に背中から落とされる。
どうして。湯を抜いて空っぽのはずなのに。
この冷たい水はなんだ。霊障の見せる幻覚か。そうならはやく、抜け出さなければ。
必死にもがくが、視界を長い黒髪が覆い、茜の手足を縛りつけた。
『としろうから はなれて』
『あんたはお嫁さんにふさわしくない』
今まで聞いてきたどの呪詛よりも強く、はっきりと耳に響く。確かな女の声。
――いやだ。
心の中で、茜は必死に反抗する。
ごぼっ、と喉から空気が漏れる。細かな泡が視界に霧散する。
『このままあんたを ころしてやってもいいのよ』
――やれるものならやってみればいい。
今までの妻の中に死人はいない。やろうと思えばいくらでも殺せるはずなのに、霊たちはただ苛めて追い出しただけだ。
彼らには、人を殺める力はない。
『あんた、なんなのよ。どうしてなにをやってもこたえないの! こんなにさんざん いじめてやってるのに!』
――「私の妻です」
唐突に、寿郎の声が脳裏によみがえった。
腹の底にぼっと熱がともる。凍りつくような冷たい水に全身が侵されているのに、茜の心臓は熱く燃えていた。
――わたしは絶対、ここから出てやらない。
――もう二度と、あの貧民窟に戻りたくない。惨めな思いをしたくない。出ていくのはそっちだ、この部外者……!
茜の挑発的な心の声が聞こえていたのか。それとも思い通りにならない茜に怒り心頭に発したのか。暗い水底を揺るがすような醜い絶叫が割れ鐘のように響き渡り、鼓膜を激しくゆさぶった。
それきり、茜の意識がぷつんと途絶えた。
***
朝。直彦の「ぎゃあああっ!」という声で、寿郎ははっと顔を振り向けた。
朝餉の時間になっても茜は現れなかった。寝室はもぬけのからで、直彦と共に家中を探したが見当たらなかったのだ。
「旦那様! いました! オクサマが!」
直彦が脱衣所から真っ青な顔を出して叫ぶ。寿郎も急いで駆けつける。
石鹸と、盥と、風呂椅子が散らばる浴室。その奥、湯のない浴槽で、茜がぐったりと目をつむっている。素裸の肌は血の気を失い真っ青になっていた。
「茜さん」寿郎は茜をゆさぶった。「茜さん!」
反応はない。目は硬く閉じられ、開く気配もなかった。
「こ、この人、昨日、掃除したいからとか言って、最後に風呂に入って、それで……」
「彼女の浴衣を持ってきなさい」
「え、あ、で、でも」
「はやく!」
寿郎の気色ばんだ声に、直彦は慌てて脱衣所に飛び込み、茜が畳んで置いていた浴衣を持ってきた。
寿郎は茜の体をすばやく浴衣で包み、彼女の体を横抱きにする。
「医者を呼んでくれ。できるだけ急いで」
そう言うやいなや、寿郎は茜を抱いたまま彼女の寝室へ急いだ。
布団を用意し、行火に火を入れる。長火鉢も運び入れ、熱源で囲うように茜を寝かせた。
どうして、こんなことに。
寿郎の脳裏を、半狂乱になった妻たちの姿が次々とよぎる。
『だれかが私を狙ってるの!』
『このままここにいたら、私は殺される!』
『助けて、助けてえっ!』
彼女らに何があったのか、どうして狂ってしまったのか。もしかして、茜もそうなってしまうのではないか。
彼女は初日から無表情で、何を考えているのかまったくわからなかった。だからこそ発狂の気配もなく、今度はきっと大丈夫だと半ば安心していたのに。
直彦が呼んだ医者は、茜を診るなり首をひねった。
「後頭部に瘤ができとりますな」
「コブ?」
「浴室を一寸見せてもらったが、ありゃ石鹸に足を滑らせて、浴槽に強く頭を打ちつけて失神したんだろう。触診したところ内出血もしてなさそうだし、石頭の娘でよかったですな」
「はあ……」
「問題は、この後」医者は深々とため息をついた。
「とんでもない高熱だ。濡れた体で一晩中、風呂場にいたもんだからすっかり冷えきっとる。こりゃ命に関わりますぞ」
寿郎は息を呑み、茜を見下ろす。血の気を失い真っ青だった彼女の顔は、今や高熱に浮かされ赤々と火照っている。呼吸も浅く苦しげだった。
「これから三日三晩が勝負どころでしょうな」医者は淡々と言葉を落とした。「じゅうぶん、看ておやりなさい。水は無理矢理にでも飲ませること。意識が戻ったらまず薬湯を飲ませることですな。あとで粉末状のものを持ってこさせましょう」
それだけ言って、医者は立ち去った。寿郎は茜のそばから動けなかった。
「旦那様」
医者を見送った直彦が、部屋の戸口でまごついている。
「その……あとは俺がやっときますから、旦那様は先に朝食を……」
「ここで食べるから、持ってきてくれ」
「でも」直彦は心配そうに眉を下げる。「あの、まさか、ここでずっと看ている気ですか」
「できる限りはそうしたいが……私が看られないときは交代してくれ」
直彦は何か言いたげな顔をしたが、あきらめたように食堂のほうへ言ってしまった。寿郎はもう一度、茜に向き直る。
彼女の、薄く開いた唇の隙間から、はあはあと浅い呼吸が漏れ出ている。その様を見つめながら、寿郎はぎゅっと眉根を寄せた。




