第五話 悪あがきの浄化作戦
――幽霊の中でも、穢れてしまったヤツ……邪霊って俺は呼んでるけど、そういうのは不浄を好むからな。家はできるだけ綺麗に、ピカピカにしておけよ!
遠い昔のいつか、誰かに言われたことが、ここへきて役に立つとは思わなかった。
夕餉のあと、茜は後片付けをしている直彦に「すみません」とたずねた。
「明日から、屋敷の掃除をしてもよろしいでしょうか」
直彦は瞬時に嫌そうな顔をした。
「なんですか。俺の掃除にご不満でもおありでしたかオクサマ」
「そういうわけではありません。ただ、おひとりでこの広いお屋敷を綺麗にし尽くすにも限界があるかと思いまして。毎日毎日大変でしょう」
「別に。旦那様も特に何も言わないんだから問題ないだろ」
直彦はてこでも引かない。威嚇する子犬のような顔でこちらを見据えているだけだ。
仕方がない。
「趣味なんです」
「……は?」
「趣味なんです。掃除が」
「……はあ」
「寿郎さんから、妻として過ごしてほしいと言いつかっています。なので趣味の掃除をして過ごしたいのです」
茜は真剣だった。真剣に、真顔をぐいと近づけて迫った。
直彦は足を一歩引いた。「そ、そうかよ……」と不気味なものを見るような顔でじりじりと退がりつつ、食堂の壁の一点を指さす。
「あっち側……俺の部屋の向こうに納戸があるから、適当に道具使えば」
「わかりました。ありがとうございます」
茜は丁寧に会釈して、その場を去った。
そういうわけで次の日、茜はさっそく襷で袖をたくし上げ、あねさん被りで髪をまとめ、右手に和箒、左手にぬれ雑巾の入ったバケツ、腰にハタキを装備して、いざ宇木邸の掃除に臨んだのである。
まずは、直彦が普段から手入れしやすい、比較的掃除の行き届いている部屋から順にやっていく。
天井の梁や鴨居、背の高い箪笥や戸棚へ順にハタキをかけ、埃を落とす。次に箒を使って埃を掃き出し口へ払う。その後、固く絞った雑巾で畳を拭き上げていく。
口にするだけなら簡単だが、全身を使って作業するので実際は結構な労力である。さらに、茜の場合は単なる掃除ではなく、目的は部屋の「浄化」であった。
――幽霊、特に邪霊は、不浄を好む。
少しの塵や埃も逃さず、彼らの居場所を徹底的に取り除けば、居心地の悪くなった彼らは自然と退いていく。退いたらすかさず盛り塩でも置いてやればいい。
かしゃん、と背後で音がした。振り返るとバケツが倒れ、掃き集めた塵埃の山に綺麗な雑巾が思いっきりなだれ込んでいた。
「……」
クスクス、ケタケタと笑い声が響く。青白い顔でにたにた笑う霊たち。こういうのは邪霊の部類に入る。
一方で、嘲笑や嫌がらせを一切してこないおとなしい霊もいる。初日に見かけた、長い黒髪に白い花飾りをした少女。廊下や縁側でぼんやりと突っ立っているだけの老婆。こういう害のない霊ならいくらいても構わない。追い出したいのは寿郎の厄介な追っかけである邪念まみれの霊どもだ。
――今に見てなさい。あなたたちの居場所を消し去ってやるから。
茜は先に塵の山を部屋から掃き出してから、埃まみれになってしまった雑巾を洗いに行った。
そんな茜の思惑を知ってか知らずか。それとも本能的に危機を察したのか。
茜の気合いと比例して、霊たちの妨害も活発になっている。
棚の上の小物や一輪挿しが落ちてくるなど序の口で、気がつけば掃き出したはずの埃が部屋の真ん中にうずたかく積もっていたり、未使用の雑巾が謎の汚水にまみれていたりと、とにかく掃除が進まない。
茜の行動が一つ止まるたび、霊たちはケタケタ嗤って大喜びである。それもいちいち癪にさわるが、睨みつけると目が合ってしまうので、だまって無視するしかないのも腹立たしい。
ついには水場で盛大にバケツの排水をまき散らされてしまい、しかも運悪く現場を直彦に見られていたため本気で参ってしまった。
「あ、あんた、何やってんだよ!」
直彦は「あーあー、もー……」とぷんすかしながら走り去り、やがてブリキの棒に何やら房状の糸がたくさん連なった道具をもってやってきた。
「申し訳ありません、不注意でした」
本当は霊がやったんですと言いたいのだが、もちろん言えるわけもなく。
「それは掃除道具ですか。わたしが後始末をしますので貸してください」
「いやだね。これは一本しかないんだぞ。ただでさえ舶来品で貴重なのに、貸して壊されでもしたらたまったもんじゃない。というかなんでオクサマが掃除なんかするんだよ。俺がちゃんとやってるのに……」
「あの、ですから、掃除は趣味で」
「別の趣味を探せばいいだろ」
「直彦」
後ろから声がして、茜と直彦が同時に振り返る。いつの間にか、廊下に寿郎が袖に手を入れた格好で立っていた。
「だ、旦那様……っ」
直彦が真っ青になって口をつぐむ。寿郎の厳しい眼差しが直彦にそそがれる。
「直彦。茜さんになんて口の利き方だ。彼女はおまえの主人なんだぞ」
「……」
「まさか、日頃からそんな態度を取っていたのか」
「……」
小さく縮こまり、カタカタとかすかに震えている直彦を見ていると、なんだかいたたまれなくなって、茜は横から小さく助け船を出した。
「あの、今回はたまたまなんです。わたしが水をまき散らしてしまったせいで、彼を怒らせてしまって」
「だからといって、そんな態度を許すわけにはいきません。――直彦、茜さんに謝りなさい」
「……もうしわけございませんでした」
直彦は消え入りそうな声でそうつぶやくと、モップを置いてどこかへ走り去ってしまった。猫のように素早い動きだった。
「直彦!」寿郎はその背を目で追い、「はあ」とため息をつく。
「すみません、茜さん。とんだ失礼を。あとで厳しく言っておきます」
「……いえ、こぼしたわたしが悪いので」
茜は「お借りします」と告げてモップを手に取り、濡れた床を拭いていく。寿郎まで雑巾を持って膝をついたので、茜は慌てた。
「寿郎さん、そんな、結構ですから」
「ふたりの方がはやく済みますよ」
「あの、ではこちらをお使いください、雑巾はわたしが」
「いえ。茜さんには是非それを使ってみていただきたいです。とても便利ですから」
寿郎はにこやかにそう言うと、もくもくと水場を拭き始めた。
茜も恐縮しつつ、水を拭いては絞るのを繰り返す。棒のついた房状の布は、腰をかがめなくていいので確かに便利だった。
ひととおり拭き終わり、二人並んでぴかぴかになった水場を見下ろす。ふぅ、とどちらともなく息をついてから、茜は「ありがとうございました」と頭を下げた。
「いえ。こちらこそありがとうございます」
礼を返され、茜は真顔のままきょとんとした。
「何がですか」
「掃除ですよ。趣味だと言ってましたが、本当ですか?」
趣味ではないが、趣味にせざるを得ないくらい、これから頻繁にやるだろう……という意味を込めて「はい」と答える。
「では、ご無理のないように……そうですね、掃除が快適にできるよう道具も調えましょうか。出入りの業者が来たら見てみましょう」
「え、いえ、そこまでしていただかなくても」
「私がそうしたいんです」
寿郎はどこか申し訳なさそうな微笑みを見せた。
「この家は立地が悪いのか、空気もこもりやすく、すぐに汚れてしまうでしょう。趣味でもなんでも、綺麗にしていただけると助かります」
実際には床を盛大に汚してしまったのに、怒るどころか感謝までされては、逆にいたたまれなくなってしまう。
それからの日々はもう、霊と茜の根比べだった。
掃除した先からゴミをまき散らされても、拭いた床を謎の汚水まみれにされても茜は一向にめげず、ひたすら無言で掃除をし続けた。
もはや綺麗にしているのか汚しているのかわからなくなるが、一進一退を続けたとしても、こうして掃除をし続けるという姿勢が大事なのである。
清掃自体が浄化行為であり、邪霊は嫌がるものだ。
彼らもなりふり構わず、茶室のドアを閉め切り四方八方から置物を吹っ飛ばしてきたり、掃除のために立てかけておいた襖や衝立を茜めがけて倒してきたり、わざと転びそうな位置に箒を転がしておいたりと、あらゆる霊障で妨害してくるようになった。こちらはひたすら真顔で避けるしかないのだが、避けきれないこともある。
そのたびに彼らのクスクスと嘲笑う声が部屋に満ちる。その声を聞くうちに、茜の脳裏に嫌な記憶がよみがえってくる。
――ほら、貧乏神が来たわよ。貧乏がうつるわ、近寄らないで!
――ぼろ雑巾みたいな恰好なんだから、床を這って掃除しなさいよ。
クスクス。くすくす……
茜ははっとし、すぐに首を振って打ち消そうとした。
これは尋常小学校時代の古い記憶。父親が失業して貧民窟に移り住んですぐ、同級生の女子たちに苛められるようになった……
霊たちの嗤う声は、あの女子たちのものとそっくりだ。何度も聞くうちに、頭の奥底に封じていた嫌な記憶を呼び覚ましてしまう。
――今はもう関係ない。自分は今、豪邸に住んでいる。自分を馬鹿にする者はいない。忘れよう、忘れよう……
だが、その日の夕方、茜は茶室で思いっきり転ばされた。畳に手をついた瞬間、手のひらに激痛が走る。
「いっ――」
見れば、手のひらの薄皮を縫い止めるようにまち針が刺さっていた。破れた皮膚から赤い血がじわりとにじみ、手首へつたっていく。
『転んダ 転んダ』
『怪我した ザマミロ』
『泣ケ 喚ケ 無様に逃げ帰レ』
にわかに霊たちが活気づき、耳の奥を掻きむしりたくなるような不快な声が茶室内にさんざめく。
針の刺さった手のひらに、記憶の中の小さな手のひらが重なる。
尋常小学校の教室で、咲子といういじめっ子に転ばされた。手をついた先に、偶然にも古い釘が落ちていて……
手のひらに走った激しい痛みと真っ赤な血潮が、惨めさをともなって心の深層からよみがえってくる。
――アハハ、転んだ! 無様ねえ!
――うわ、血? 汚いわ、あっち行って! 貧乏菌がうつっちゃう!
血を見た児童たちが騒然とする中、咲子だけは愉快そうに笑っていた。
霊たちの嗤う声に咲子の声が重なる。耳を覆いたくなるのをこらえながら、茜はひっそりと奥歯を食いしばり、手のひらの針を引き抜いた。
部屋の隅で裁縫箱が蓋を開けている。まち針についた血をぬぐい、針山に刺すと、黙って箱を片付けた。
大丈夫。大丈夫だ。今はもう関係ない。咲子も取り巻きの女子たちも遠い過去の記憶にすぎない。
あと三ヶ月で、貧乏から解放される。つらい思いをしなくて済む。だからもう、大丈夫……
心の中で、そう念仏のように唱えながら箒を動かす。だが当時の惨めで悲しい気持ちが胸の底に凝ったまま、消えることはなかった。




