第四話 一応、妻なんです
宇木邸の食堂はハイカラな洋間である。
四角い横長の西洋風な食卓に、ミルクホールや喫茶店でしか見ないような白い布がかけられ、そろいの椅子が六つもある。茜はその中央で、寿郎と向かい合って座っていた。
こんな洋間でいただく食事だ。さぞかしハイカラな洋食でも出されるに違いない。あるいは刺身や鰻や牛肉といった、金持ちが好みそうなものであろうか。直彦も茜を追い出すほど料理の腕前に自信があるのだろう。
などと思っていたら、台所へ続く引き戸が開き、直彦がカートをがらがらと運んできて、寿郎の目の前に丼鉢をドンと置いた。
続いて茜の前にも堂々とそれを置く。「どーぞお召しあがりください」と慇懃に告げ、脇へ控えた。
「こら、直彦。おまえも一緒に食べなさい」
寿郎の呼びかけに直彦は首を横へ振った。
「旦那様がよくても、オクサマが嫌がられるといけませんので」
「嫌ではありません」
「ほら、茜さんもそう言ってる」
直彦は胡乱げな目を茜に向けつつ、端の椅子へ慎重にそろそろと腰を下ろした。
「では、いただきましょう」
寿郎の言葉を合図に食事が始まる。
茜は、目の前の食卓を見下ろした。
そこにあるのは、丼だ。米の上にあちこち焦げ付いた魚の切り身や、くたくたの野菜の端切れが雑に混ざって広げられている。
丼というより、ねこまんまである。
寿郎は何を言うでもなく、当然のようにもくもくと食べている。直彦も然り。うろたえているのは茜だけだった。
およそ金持ちが食べる代物ではない。
もしや、寿郎はとんでもない偏食家で、これが唯一の好物である可能性も……ある、のか?
来たばかりの人間が他人様の食卓につっこみを入れるのは野暮である。それに、具材だけ見れば貧乏暮らしの茜には考えられないほど贅沢だ。味はおいしいのかもしれない。
茜は箸で具材を米ごとすくい、そっと頬張った。
硬くてねっちょりした白米と魚の焦げた風味が口いっぱいに広がり、なんともいえない気持ちになった。
食材が泣いている。
その夜、茜は寝室に敷かれた布団へ横たわった。
家のカビ臭いせんべい布団とは違い、たっぷり空気を含んだ羽毛布団はふかふかである。一生くるまれていたいほど居心地がいい。茜はまぶたを閉じたまま寝返りを打とうとした。
が、手足がピクリとも動かない。思わず目を開けかけたが、まぶたが糊づけされたようにくっついてしまい開くこともできなかった。
金縛りだ。
キン……とひどい耳鳴りがした。気づけば障子の外から聞こえていた葉擦れの音や、春の虫の声がぴたりと消え失せ、不気味なほどの静寂に包まれる。
まるで暗闇の異空間に放り込まれたような気分だった。
『茜……』
遠く、彼方から聞き覚えのある声がした。
『茜、聞いて……ここは危険よ……』
今にも消えそうなほど儚く、途切れ途切れではあるが、間違いなく母の声だった。
なぜここにいるのだろう。あの長屋に取り憑いているのではなかったのか?
『私、もういられな――お願い、ここにいちゃだめ――何かが、私を阻んで――』
声がどんどん遠ざかっていく。何かに物理的に阻まれ、引き剥がされていくかのように。
母の声が消えてすぐ、待ち構えていたかのようにあちこちからクスクスと笑い声がさざめいた。
母はどうなったのだろう。茜は霊視できても霊に詳しいわけではない。彼らに阻まれ、どこか遠くへ飛ばされてしまったのか。それとも不承不承、成仏せざるを得なくなったのか。後者であればいいのだが……
『オマエは ココに イルベキじゃナイ』
茜の思考を邪魔するように、耳のすぐそばで声がした。
『出テ行ケ』
『彼ノ前カら消えロ』
『オマエニ妻ノ資格ハナイ』
およそ人のものとは思えないような、奇妙で不気味で調子の狂った声が四方八方から降り注ぎ、わんわんと反響する。水の中へ沈み込むようにすべての音がくぐもっていく……
本当になんなのだ。
おまえたちはそんなに寿郎さんが好きなのか。
茜は金縛りに遭ったままふうと柔らかく息を吐いた。呼吸はできる。じゃあ大丈夫だ、問題なく眠れる。
昔、父母と共にあのボロ屋へ移住したばかりの時も、家には複数の霊がいた。彼らは一番の弱者である茜に取り憑こうと、昼も夜もまとわりついては精神的に弱らせようとしてきた。最初こそ眠れなくて困っていたものの、無視を貫いているうちにだんだん慣れてきて、いつしか気にせず眠れるようになっていったのだ。
霊たちのおどろおどろしい呪詛や罵詈雑言が響く中、茜は深く息を吸い、吐く音に集中した。
一秒、二秒……数秒、呼吸し……茜はあっという間に深い眠りに落ちていった。
翌朝。
朝陽をたっぷり浴びた障子の輝きで目が覚める。起き上がり、障子を開け放つと、みずみずしく輝く藪椿の生け垣が目に飛び込んできた。
起き抜けにこんな景色を拝める生活を手放すわけにはいかない。霊たちの嫌がらせに屈せず、なんとしてでも正式な妻にならなければ。
髪を編み込んで髷にし、しっかりと化粧を施す。
着物は昨日の一張羅を着てもいいのだが、なんせ一着しかないので汚すのが怖い。仕方が無いので普段通りの麻の着物に着替える。
食堂におもむくと、すでに食卓が整えられていた。
丼鉢である。
またしても米と、焦げついた魚の切り身と、何やら野菜である。茶色っぽい塊は玉子であろうか。
なんとなく言葉を失っていると、「おはようございます」と寿郎がやってきた。
「おはようございます」
返した茜は、寿郎の姿に目が吸い寄せられてしまった。
寿郎は寝間着姿のまま、のそのそと席についた。髪があちこちはねていて、隈も濃い。昨日の完成された美からは考えられないくらい締まりのない姿だ。なのに、なぜだろう、昨日よりも色気があふれ出ている気がするのは。
寿郎は浴衣の袖に腕をつっこんだまま、しばらくサンルームの窓をぼんやりと眺めていたが、ふいにこちらへ目を向け、薄くはにかんだ。
「すみません。こんな姿で、お恥ずかしい」
「……いえ」
――こちらこそすみません。朝早く起きて洗面と化粧をきっちり施しているにもかかわらず、あなたの足下にも及ばない顔面で恐縮です。
「朝には弱いもので……これでも早く起きたほうですよ」
「そうなのですか。もう少し寝ていらしても……」
「そういうわけにはいきませんよ。今日からあなたもいるというのに」
茜は無表情のまま、微妙に視線だけをずらした。
本気で目に毒である。
やがて直彦が自分の丼鉢を持ってやってきて、朝餉が始まった。昨日と同様、べちゃべちゃご飯に焦げこげ具材であったが、寿郎も直彦も何も言わずに平らげてしまう。舌がどうかしているのではないか。
「そういえば、昨日は庭を案内するのを忘れていました」
途中で寿郎が思い出したように言った。
「よければこの後、一緒に庭へ出てみませんか」
一緒に?
何気ない誘い文句なのに、茜はなぜだかそわそわしてしまう。
「はい。よろしくお願いしま」
「旦那様には仕事があるでしょう」直彦が食い気味に割って入った。「案内なら俺がしますから」
「いや。おまえも仕事があるのだから、そちらをしっかりやりなさい」
「……はーい」
直彦はふてくされた猫のように首をすくめてしまった。
朝のみずみずしい空気をたっぷり含んだ宇木邸の庭は、昨日よりも鮮やかな輝きを帯びている。
「この庭を設計した者が、かなりこだわりの強い人でして。季節のうつろいがよくわかるようにと、あちこち計算して花木を植えてあるんです」
そう語る寿郎の低く穏やかな声も、庭の静謐な空気に調和して耳に心地いい。
彼は朝餉のあとに身支度を整えており、渋めの紺の着物に濃い灰色の羽織姿である。控えめな柄と色味だが、本人の素材の良さが際立っていて目が焼かれそうになるので、茜は極力、景色のほうばかり見るようにしていた。
「私がこの屋敷を買ったときは、ひどく荒れていたのですが……よくぞここまで美しく再生してくれたものです」
「この屋敷は、元々寿郎さんの持ち家ではなかったのですか」
「ええ。七年前……三十になった年に買い上げたのです。ちょうどそのころ会社をやめて、専業作家になったので」
「作家になる前は、サラリーマンだったのですか」
茜は驚いた。サラリーマンという高給取りのエリートな肩書きを捨ててまで、作家になる道を選んだとは。
「はい。お恥ずかしい話です。しかし、どうしても……執筆に専念できる居場所がほしかったもので」
茜は昨日、人力車で宇木邸に運ばれた経路を思い浮かべる。ひたすら人目を忍ぶように奥へ、町の外れへと進み、坂を上がる……梺とは林で隔てられ、屋敷が見えると空気ががらりと変わったのを思い出した。
「ここは、外と空気が違いますものね」
「あなたも感じますか」
「はい。とても……静かで」己の語彙の乏しさに情けなくなりながらも、懸命に続ける。
「その……考え事に向いているというか」
霊さえいなければ、本当に、そう思う。
「ええ、本当に。わかっていただけると嬉しいものですね」
寿郎の声は、心なしか愉快そうだった。
霊感がないというのは幸福なことだ。
「買った当初はただの古い廃屋だったので、あちこち手を入れて住みやすいように変えて……あの食堂とサンルームはほぼ建て増しですね」
「なるほど」
「それから台所も、せっかくなのでモダンな様式に変えました。もう、ご覧になられましたか」
「はい」
実際には、直彦に即刻追い出されてしまったのだが。
あの威嚇する子犬のような目つきを思い出し、内心苦笑いを浮かべてしまう。
その後も寿郎は庭木を順繰りに指しては「こちらは梔子です、夏になると綺麗な白い花が咲きますよ」などと丁寧に解説を入れてくれる。茜はそのどれもを目にするたび、すごい庭なのだな、とただ関心させられるばかりだった。
「茜さんはどんな花が好きですか」
歩きながら、再び寿郎が尋ねてくる。
「……どんな、とは」
「文字通りの意味です。お好きな花があるとか、特になくとも何色が好きとか、この季節の花がいいとか……何かおありかと思いまして」
「考えたこともありませんでした」
何の花が好きとか、そんなことを考えるような風雅な生活をしてこなかった。花より明日の食い扶持である。だがそんな恥ずかしいことはとても言えない。
「そんなに真剣にとらえないで。ただ、もしもお好きな花があるなら、ここに植えようと思っただけですよ」
見れば、いつの間にか茜の寝室に面した庭に出ていた。
今朝、寝室から見えた藪椿の生け垣が目の前に見える。花は今が盛りと赤くつややかに咲き誇っていた。
「……特に、好きな花があるわけではないのですが」
生け垣を眺めながら、茜は独り言のようにつぶやいた。
「今朝……ここから見えたこの花が、とても鮮やかで綺麗だと思いました。朝起きてすぐに美しい花が見られるというだけで、とても嬉しい気持ちになります」
言ってしまってから、頬がじんわりと熱を帯びる。なんだか恥ずかしいことを言ったような気がする。
「……なるほど」寿郎は真摯な顔でうなずいた。「それなら年中、花が見られるよう、季節ごとの花をここに植えましょうか」
「え」
「そうすれば一年中、とてもいい目覚めになるでしょう」
「いえ、あの、そこまでしていただかなくても」
庭はじゅうぶん綺麗で満足です、と続けかけたところで、庭の反対側からリィンと涼やかな音がした。
「表門の呼び鈴ですよ。直彦が出るでしょうからお気になさらず」
寿郎が歩き出し、茜もそれに倣う。
しばらくすると前方からカツカツと硬いヒールの音が響き、庭木の影からスッと一人の女の顔が覗いた。
「あ、先生! 直彦君の言うとおりだったわ、こちらにいらしたのね」
断髪にパーマネント、くるぶしまである紺色のワンピースに白いパンプスという、お手本のようなモガである。寿郎は「ああ、どうも。中川さん」と会釈した。
「朝早くから、もうお勤めですか」
「ええまあ。出勤がてら、先生の原稿の進捗具合を確認させていただこうかと思いまして。あら、それより……」
中川と呼ばれたモガは、初めて茜に気づいたとでも言うように、綺麗に化粧した目を大げさに瞠った。
「先生、ようやく女中をお雇いになったんですね。あたくし、前から言ってたじゃありませんか、直彦君ひとりじゃこの御殿は回りませんわよって」
「彼女は私の妻です」
モガの声を遮るようにはっきり、朗々と、寿郎は告げた。
茜は信じられない思いで彼の横顔を凝視した。
――まだ試用期間なのに、そんなにはっきり紹介してもらっていいのだろうか?
確かに「妻として接する」とは言っていたが……いざ外部の人間に堂々と紹介されると、どんな顔をすればいいかわからなくなる。――どんなも何も、この顔しかできないが。
「え? つ、ま……」
モガの顔から一気に血の気が引いていった。
「そ、それは大変失礼いたしました。てっきりあの……軽装でいらしたものですから……」
「女中は雇いませんと、以前にもお伝えしたでしょう」
淡々とした口調の中にうっすらと冷ややかさが混じっている、気がする。
モガもそれを感じ取ったのか、さらに慌てた様子で頭を下げた。
「そうでした。あの、奥様、大変なご無礼をいたしました」
「いえ、お気になさらないでください」
軽装なのは事実である。茜は今さらながらに普段着姿で庭へ出てしまったことを後悔した。寿郎に恥をかかせてしまったのではないだろうか。
ちらと目を上げると、寿郎の端正な横顔にはいつも通りの美しい微笑が浮かんでいた。感情が読めない。
「あたくし、中川富美子と申します」
モガは何やら革製の財布のようなものを探り、小さな紙切れを差し出してきた。茜は丁重に受け取り、書いてある文字に目を通す。
〈旭文学社 小説部門編集部 中川富美子〉
「茜と申します」
茜も軽く会釈を返す。富美子はどこかほっとした様子で「藤島先生の原稿を担当しているんです」と告げてきた。
「藤島……」
「ええ。……えっと、あら? 先生の筆名をご存知では……」
「茜さん。藤島は作家としての、私の筆名です」寿郎が横からそっとささやくように言った。「藤島喜壱と言います」
「えっ……」
名前だけはなんとなく知っている。だが、それは雑誌や新聞によく広告が載っているというだけの乏しい知識だった。
茜は貧乏ゆえ本を読んだことなどほとんどない。尋常小学校時代は教科書や校内で貸し出されていた児童文庫を手に取ることもあったが、卒業して奉公に出てからは、目にする活字といえば郵便物の宛名や、集めていた古雑誌の切り抜きくらいなものだった。
寿郎が「藤島喜壱」としてどんな物語を書いているのか、まったく知らない。ただ、たくさん売れて儲かっているであろうことくらいしか。
「そうなのですね」
こんな無難な返事しかできないのがなんとも情けない。心なしか、富美子の視線にも呆れが混じっている気がする。
「先生ったら、新しい奥様にご自分のお仕事のことをお話されませんでしたの?」
「筆名などさほど重要なことでもないでしょう」
「そんな、先生ほど知名度のあるお名前が重要でないなんて」
「直彦!」寿郎が遠くへ向かって声を上げる。「客間へお茶をお出ししなさい」
すると、富美子の立つ低木の向こう、玄関の方角から「はーい」と返事があった。どうやらこちらの様子をのぞき見していたらしい。
「原稿をお持ちしましょう。客間へどうぞ」
寿郎が先導する。富美子もそれに倣いかけたが、思い出したように「そうだわ」と茜へ向き直り、小声で告げた。
「お気をつけてくださいませ、新しい奥様。このお屋敷、いわくつきですから。今までもう何人もの奥様がひどい目に遭われてますの」
「……はあ、そうなのですか」
「もしかして、それもご存知でなかったの? 絶対に呪われていますわよ、このお屋敷。先生とご結婚なさった方ばかり、何かしらの祟りに遭いますもの」
「わたしは特に何も感じておりませんが……」茜も小声で返す。「一応、気をつけておきます」
富美子は露骨におもしろくなさそうな顔をした。
富美子が去り、庭は静寂に包まれる。茜はなんとなく、近くの手水鉢に目を留め、そっと近づいた。
透明な水の上に小さな木の葉が浮いている。それをぼうっと眺めていると、富美子の言葉が脳裏によみがえった。
――今までもう何人もの奥様がひどい目に遭われてますの。
――先生とご結婚なさった方ばかり……
自分はそうならない、という自負はある。彼らがあきらめるまで徹底的に無視すればいいだけだからだ。
しかし、こちらが一方的に耐え忍ぶだけでいいのだろうか。
残念ながら、茜に霊を祓う力はない。だが霊の嫌がることなら少し心得ている。ここいらでひとつ、ささやかな反撃に出てみるのもいいかもしれない。それでもしも居なくなってくれれば万々歳である。




