第三話 愛嬌はなくても
宇木寿郎という人物には、今のところ特に問題らしい問題が見当たらない。屋敷中を案内するときも紳士的で、何より顔と所作が美しく、そのくせいちいち腰が低いので、こちらが遠慮してしまうくらいだった。
やはり彼の元妻たちが次々に発狂した原因は、この屋敷にひしめく霊たちにあるのではないか……と、茜は座敷のちゃぶ台で寿郎と向かい合いながら考える。
今も茜の両隣には、青白い顔でじっ……と凝視してくる霊がいる。どちらも女で、片方は梅毒の痕があり、もう片方は枯れ枝のように痩せ細っていた。
「では、今日から三ヶ月を目安に様子を見ましょう」
寿郎が湯飲みを置いて言った。
「もし体や気持ちに何か異変が起こったら、どんなに些細なことでも構いませんからすぐに申し出てください」
「承知しました」
「それから……もう少し肩の力を抜いて」寿郎の口調はとても優しい。「この三ヶ月はいわば、あなたがいつでもこの家を出て行ける期間ということですから。それでもあなたが平気であれば改めて入籍しましょう」
「では、寿郎さんのおっしゃっていた条件である、夜の務めもこの間は無しということでよろしいでしょうか」
途端に寿郎が飲んでいた茶を噴きかけた。
「すみません。昼間から下世話な話とは承知の上ですが……」
「いえ。契約のうちですから、気にもなるでしょう――」寿郎はなんでもないように続ける。
「三ヶ月は当然、寝室は分けますよ。ご安心ください」
「承知しました」
「それ以外ではあなたを妻と思って接しますから、あなたも私を夫と思って生活してみてください」
夫、という言葉に、茜はなぜか心臓がドキリと高鳴るのを感じた。ただの事務的な話なのに、顔の綺麗なひとに言われるとこうも緊張するのかと末恐ろしくなる。
『オマエが 妻?』
『あり得なイ 出てイケ』
両側から耳障りな声でぶつぶつと呪詛をかけられている。茜は無表情で茶をすすりつつ、その言葉に少しだけ耳を傾ける。
彼女らは、茜が寿郎の妻になるのを嫌がっているのか。もしや他の霊たちも……?
「では、わたしは本日より妻として過ごさせていただきます。……旦那様」
「呼び方は寿郎で結構ですよ」
「では……寿郎さん」
口にした瞬間、両隣の霊がものすごい形相で睨みつけてくる。彼らはいったい、なんなのだろう。まるでオペラ歌手の厄介な追っかけのようだ。
作家になると幽霊のファンまでつくのだろうか。
寿郎は夕餉までのあいだ、仕事のために書斎へこもった。書斎は離れにあり、中庭と外庭の境に庵のようなこぢんまりした部屋が見える。母屋とは渡り廊下でつながっているようだ。
取り残された茜は、部屋でひとり、鏡台の前に座していた。ぴかぴかに磨き抜かれた鏡面には凍りついたような能面顔が映し出されている。
――「結婚するならその能面みたいな顔、なんとかしたほうがいいわよ」
――「男は愛嬌のない女を嫌う生き物なんだからね」
ミルクホールの裏で、女給に言われた言葉がよみがえる。
両手で頬をつねり、引っ張ってみる。みょん、と伸びた頬はすぐにぱちんと元に戻った。貧しい食生活だったせいか伸びる余地すらないらしい。
笑顔。笑顔。笑う……どうやって笑えばいいんだったか。にっと動かしてみても口が真横に伸びるだけだ。どこをどう動かせば、あの女給のように可憐な笑みが生まれるのだろう。
ふと、鏡に映る自分の肩越しに、青白い顔がぼうっと浮かんでいるのが視えた。茜は反射的に目線を曖昧にする。
霊の手が伸び、肩をつかまれる。
『オイ オまエ 消えロ』
鳥肌のたつようなおぞましい声が囁く。
『身ノ程ヲ知レ』
茜は鏡台に布をかけ、部屋の真ん中の座布団に座り直し、縁側から見える庭の景色をぼうっと眺めた。
残念ながら愛嬌を振りまくのは不可能だ。やはり妻の仕事といえば家事労働。寿郎は「しなくていい」と言ってくれたが、男の胃袋はつかんでおくべきだ。ミルクホールの厨房で鍛えた腕前を今こそ発揮するときではないか。
部屋を出ようと立ち上がる。だが襖を開けた瞬間、ものすごい力でびたんと閉じられた。
もういちど開けてみたが、同じ現象に阻まれる。外へ出す気がないらしい。
クスクスと笑い声がそこかしこから聞こえてくる。
「あれーおかしいなー」
茜は棒読みでつぶやいてから、両手で襖をえいやっと取り外し、壁に立てかけて廊下へ出て行った。
霊の悪戯はひたすら無視するに限る。視えない聞こえない気にならないを徹底していれば、いずれあきらめてくれるだろう。
食堂へ向かい、お勝手の引き戸を開けた茜は、心の中で感嘆の声をあげた。
立ち流しの台所である。
旧来の、背の低い竈やしゃがんで使う洗い場ではなく、火の元も洗い場も腰から上の台に設置されている。しかも、洗い場にはポンプと蛇口がある。水道が引かれているのだ。
こんな設備はミルクホールの厨房でしか見たことがない。感心しつつ眺めていると、
「あんた、ここで何やってる」
とつっけんどんな声がした。振り返れば戸口に直彦が立って、こちらを睨みつけている。完全に不審者を見る目だ。
「ここは俺の領域だ。勝手に入るなよ」
寿郎がいないせいか、とんでもなく不遜な態度である。
「すみません。ですがわたしは一応、寿郎さんの妻……として過ごすよう言いつかっていますから」
「だからって何も台所なんかに来なくていいだろ。あんたはオクサマなんだから、部屋でお上品に刺繍でもしてろよ」
寿郎には「旦那様」と甲斐甲斐しくへつらっていたのに、茜には汚い野良猫を追い出すような険しい言い草である。
だが、来たばかりの余所者に自分の仕事場を荒らされるのは確かに気分のいいものではないだろう。茜は「失礼いたしました。わたしにも何か家事労働をさせてください」と改めてお願いした。
「はあ? いいよそんなの。どうせ最初だけだろ」
「そんなことは」
「最初はどのオクサマもちょっとは気を遣って俺にもいい顔すんだよ。でもだんだん本性を出して、下働きなんか平気で見下しやがる」
直彦は茜を押しのけ、土間の下駄に足をかけた。
ふと、真横の水屋箪笥が風もないのに小刻みに揺れているのが目についた。だが直彦は気がついていない。
「俺は別に見下されようが構わないが、旦那様を騙そうって魂胆が気にくわねえ」
ガタガタガタガタ……小刻みに揺れる箪笥の上から、行李が少しずつせり出してくる。
まさか。
茜が「危ない!」と叫ぶと同時に行李がひゅんと落下する。茜は反射的に直彦の腕をつかみ、ぐいと引き寄せた。
がしゃん、と騒々しい音を立て、行李の中身が辺りに散らばる。先ほどまで直彦が立っていたあたりに菜箸や勺、枡などの小道具が転がった。
どこかからぞっとするような忍び笑いが響いた。
直彦は至近距離にいる茜を見上げ、己の腕をつかむ茜の手を見下ろし、困惑した面持ちでそろそろと距離を取る。
彼は無言で床にしゃがみこみ、ちらばったものをせっせと拾い集め始めた。
「あの」
その背中に向かって、茜は探るように声をかけた。
「なんだか、棚が揺れていたような気がしますが……」
「小さい地震でもあったんだろ」
直彦は心底どうでもよさそうだ。
「この辺りでは、地震が頻繁にあるのですか」
「さあ」
「そういえば和室で物が落ちてきましたし、襖が急に閉まったりも……」
「たぶん床が傾いてんだよ。古い家だから」
直彦はうさんくさそうな目を茜に向けた。
「なんなんだよさっきから。あんたもアレか? 前のオクサマたちみたいに妙なことを言い出すクチか?」
「妙なこと?」
「何かが自分を狙って物を落としてくるだの、嫌がらせで戸を閉めてくるだの、夜中に耳元で笑い声が聞こえるだの……『殺される、私は呪われてる』とかなんとか、意味不明なことを散々言ってさ。挙げ句の果てに気が狂ってぶっ倒れたり、半狂乱のまま町へ飛び出してあることないこと叫んだり……おかげでうちは大迷惑だ。旦那様にまで変な噂が立ったし。俺はなんと言われようと構わないが、旦那様が町人から悪し様に言われるのだけは我慢ならねえ。あんたまで同じようなことを言い出したら俺は即刻追い出すからな」
直彦は「わかったならさっさと出て行けよ」と手をひらひら振って追い払ってくる。
下男が奥方を台所から追い出すなど前代未聞の行為である。だが彼の「奥様」に対する多大な不信感を見るに、今すぐ信頼を得ることは不可能だろう。
「では、お手伝いが必要ならいつでもお呼びください」とだけ言い置いて、茜は素直に退散した。
それにしても。先ほどの霊障は本来、茜を狙っていたものだろうと思われる。
直彦の話では、今までの妻たちは『殺される』『呪われている』ことを自覚していたらしい。彼女らに霊感があろうがなかろうが、こんな目に会い続けたら気もおかしくなろうというもの。
だが霊障に慣れた自分なら乗り越えられる自信がある。 だてに能面顔をしていない。霊たちがあきらめるまで無視をつらぬき、無事三ヶ月を乗り越えられれば、直彦もきっと自分を見直してくれることだろう。




