第二話 何も視えない聞こえない
後日、茜は勤めていたミルクホールの厨房長に辞表を出した。結婚する(かもしれない)のでと伝えると、厨房長は「そうかあ」と残念そうに辞表を受け取った。
「森本さんがいなくなると正直困るなあ。厨房が回らないよ」
これは茜の料理の腕ではなく、下働きと同じ薄給でこき使える料理人がいなくなるから困るという意味である。
茜は元々、下働きとしてここへ雇われたが、人手不足の折に一度、調理から盛り付けまでを頼まれ、一人でなんとか片付けたところ「君、なかなかできるね!」と厨房長に褒められたのだ。それ以降、調理員としての仕事を任されるようになってしまったのである。
下働きの給料のままで。
「茜ちゃん! 辞めちゃうのォ?」
厨房の裏手から静かに出て行ったのに、ひとりの女給が後を追ってきた。
「はい。これまでお世話になりました」
「ということは、いよいよ結婚が決まったのね?ね?」
「はい」――とりあえずお試し期間で、とは言えないので、素直にうなずくだけにとどめる。
「あの、雑誌をたくさん譲ってくださったり、化粧を教えてくださって助かりました。本当にありがとうございました」
「いいえぇ、いいのよォ」
女給はにこにこと愛想のいい笑みを浮かべた。
「おめでたいことだけど、寂しいわねえ。厨房に女子がいてくれると、厨房長にもいろいろ言いやすくて助かってたのに……」
「今にもっといい人が来ますよ」
下働きの身分のまま調理員になってくれるほど生活に困窮している人間が来れば、の話だが。
「そうだ、茜ちゃん、余計なお世話かもしれないけど……。結婚するならその能面みたいな顔、なんとかしたほうがいいわよ。お相手がどんな方か知らないけど、男は愛嬌のない女を嫌う生き物なんだからね」
「……わかっています」
能面顔は、もうなおらない。生まれてから二十年あまり、霊たちに〝視える〟ことが気づかれないよう、必死に無視し続けてきた副作用のようなものだからだ。
実は今も、追いかけてきた女給の後ろにガリガリに痩せた子どもの霊がぼうっと突っ立っているのだが、茜は巧妙に視線をそらしている。彼が突然おそろしい顔で脅かしてきたとしても、表情ひとつ動かさずにやりすごすことができるだろう。幼い頃からそうやって身を守ってきたのだ。
結婚活動においてこれは致命的な欠陥だと覚悟していたのだが、寿郎は特に気にしていない様子だった。
本当に、子さえ産めるのなら相手が能面だろうが渋面だろうが気にしないのだろう。あの顔と十分な資産を持ちながら、何をそんなに切羽詰まっているのかはわからないが……
茜は家に帰るとさっそく荷物をまとめた。といっても、私物は着替えと簡易な化粧道具くらいのものだ。父母の遺した物入れや布団などの家財は家に置いていく。次に移り住んだ人が使うだろう。
荷物を整理し、改めてこの住み慣れた借家を見回す。土間と畳だけの九尺二間。埃と黴のにおいに満ちた、今にも崩れそうな古い長屋の一室に、かれこれ十四年も住んでいる。その前はもう少しましな一戸建ての借家に住んでいたのに……茜が十歳の時、父の履物屋がつぶれ、下駄の歯入れで日銭を稼ぐようになってから、這々の体でこの貧民窟へ越してきたのだ。
もう忘れよう。これから新しい生活が始まる。三ヶ月を無事に耐え、寿郎と入籍できれば茜の勝ちだ。
『茜……』
暗い部屋の真ん中で、血まみれの母がぽつんと立っている。
『私のようになっては駄目……』
わかっている。
絶対、穏やかでまともな最期を迎えてみせるから。
茜は破れかかった行燈の明かりを消し、布団へ静かに横たわった。母の嘆きを聞くのもこれで最後だろう。
茜はしばし目を閉じたまま、鬱鬱とした母の声に耳を澄ませていた。
***
汽車に揺られること約一時間。降りた駅は市街地の真ん中にあり、人で賑わっていた。
駅を出てすぐのところで寿郎が待っていた。人混みの中でも彼の美貌はよく目立つ。道行く女性が幾度となく振り返っているので、正直近寄りがたい。
それでも堂々と彼に近づき、背筋を伸ばして会釈する。
「本日からお世話になります。改めまして、森本茜です。不束者ですが何卒よろしくお願い申し上げます」
「まるで奉公に来たような挨拶ですね」寿郎が苦笑する。
「あなたは私の妻になるのですから、もう少し気を楽にしてください」
「ありがとうございます」
そうはいってもまだ試用期間なのだから、油断は禁物である。
寿郎にいざなわれ、駅前で待機していた人力車に乗せられる。町を横断し、街の喧騒が遠ざかると、和風住宅の並ぶ通りに出た。そこからさらにはずれにある急な坂を駆け上っていく。いったいどこまで行くのかとおののいていると、やがて道の両隣に濃い緑の木々が立ち並ぶようになった。
頭上に覆い被さる林並木の屋根の下を、がたがたと俥が突き進む。整然と敷かれた白い石畳を、葉陰がまだらに彩っている。その静謐な光景がふいに途切れ、広々とした和風邸宅が姿を現した。
茜は小さく息をのんだ。今までの人生でこれほど広い家は見たことがない。門の向こうにそびえる彫刻のように美しく刈り込まれた庭木や、磨き抜かれた黒い敷石の輝き……庭ひとつとっても絵に描いたような豪邸である。茜はただ言葉を失っていた。
先導していた寿郎の人力車が停まる。慣れたような足取りで降り立った彼は、すたすたとこちらへやってきて、茜にまっすぐ手を差し伸べた。
「足下に気をつけて」
「……はい」
これは、手を取れという意味なのか。茜はいぶかしみつつ右手を差し出し、おそるおそる寿郎の左手に重ねた。すると当然のように指先を軽く握られ、胸の奥が一瞬、ぎゅっと緊張にちぢこまる。
そんな、まるで華族の淑女みたいに。
自分のような女が、こんなふうに手をとってもらっていいのだろうか。
手なんて借りずとも降りられる……できればどいてほしいのに、降りる拍子に車体がぐらりと揺れ、俥に不慣れな茜の足はあっけなく重心を崩してしまう。
「あっ……」
「おっと」
とっさに伸ばした左手が、寿郎の右手につかまれる。
「気をつけてと言ったでしょう」
「……はい」
ダンスでもするように両手を取られ、綺麗な顔が間近に迫る。なんだか息苦しくなり、あさっての方向へ視線を逃がしながら、どうにかこうにか地面に降り立つ。
「――さて」
寿郎が手を離し、目の前の邸宅を見上げた。
「行きましょうか。我が家へ」
びゅうと風が吹き、背後で木立が一斉にざわめきだした。余所者を値踏みするような冷ややかな音だ。しかし、じきに慣れるだろう。……慣れなければならない。
寿郎の後につづいて、宇木邸の門をくぐる。
門から玄関まで黒々とした敷石が続いている。がらがらと引き戸を開け、寿郎が「ただいま」と呼びかける。
するとドタドタと足音がして、左手の戸口から作務衣姿の少年がひょっこりと顔を出した。
「おかえりなさい」
少年は十四、五くらいだろうか。朗々と寿郎を迎えてすぐ、その後ろに控えた茜をじっと見やった。
歓迎されていないのが一目でわかる、不躾な目つきである。茜は戸惑いつつも、まっすぐに彼を見返した。
直後、彼の後ろを一人の女が音もなくスッと横切っていった。その頬や首もとに大きな赤い斑点がいくつも見える。
あれは、梅毒だ。
「茜さん。こちらは我が家の下男、直彦です。直彦、茜さんだ。ご挨拶なさい」
直彦はたちまちむっすり顔をひっこめ、やたらと澄ました顔でぺこりと頭を下げた。
「はじめまして。直彦ともうします、です」
敬語が少したどたどしいのは、まだ幼いゆえだろうか。
「はじめまして。森本茜です。本日からお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」
茜が丁寧に会釈を返すと、直彦は一瞬、怪訝な顔をした。が、何事もなかったかのように澄まし顔へ戻ってしまう。
梅毒患者の女はまだ直彦の後ろをまごついている。しかし寿郎も直彦もまったく気がつく様子はない。
やはり、こんな場所にも霊はいるのか。まあどこの家にも一人くらいはいるものだ。
と思ったら、戸口の向こうにも一人、老婆がひっそりと佇んでいるのに気づいた。まあ古い家ならよくあることだ。昔奉公していた商家にも二人の霊がいた……と思っていたら、その老婆の肩越しにもう一人、霊とおぼしき人影が通り過ぎていった。
三人も?
「直彦、茜さんの部屋は用意してくれているか」
「はい」
「では案内しましょう。どうぞ上がってください」
寿郎にうながされ、いかにも格式高そうな玄関を上がる。茜の履き古した下駄がなんだかとても惨めに見える。
玄関から左手に出ると廊下につながっており、その左手には階段が、右手には襖や引き戸が連なっている。向かいの障子は開け放たれ、中庭から明るい日差しが降り注いでいた。
――中庭? 外庭とは別に、中庭?
まだ家の中を全然見ていないのに目眩がしそうだ。寿郎は相当稼いでいるのだろう。小説を書くだけでそんなに儲かるなんて世の中どうかしている。
中庭をぽかんと眺めながら廊下を進むと、突き当たりに襖が見えた。開くとこぢんまりとした和室が現れる。さらにその奥の襖を開けると、六畳間の部屋があった。
「こちらがあなたの部屋です」寿郎が茜を招き入れる。
「奥の障子を開ければ外庭が、手前の和室を開けてしまえば中庭も一度に見えますよ。いかがですか」
「すばらしいですね」
後ろで直彦がぼそりと「すばらしいって顔じゃねえな……」などとつぶやいた気がしたが、きっと気のせいだろう。
「この部屋は好きにお使いください。他に必要な家具があればそろえます」
「じゅうぶんです。ありがとうございます」
部屋には文机に座椅子、衝立の向こうに厚みのある綺麗な布団、屏風式の衣桁や立派な鏡台が整然と置かれている。
もう、硬いせんべい布団にくるまる必要もなければ、ひびわれた手鏡でこまごまと化粧をしなくていいというのは、素直にありがたかった。
ふと部屋の隅に目をやると、先ほどまで誰もいなかったのに、いつの間にか見知らぬ少女の霊が立っていた。長くまっすぐな黒髪に白い着物。髪には白い花飾りをつけている。まさかの四人目だ。
――いや、違う。
この部屋の手前の和室にも大人の女の霊がいる。開け放たれた襖の向こうにも霊の影が通り過ぎていくのが見える。
「では、引き続き家の中も案内しましょうか」
寿郎の言葉に、直彦が「いえ、案内なら俺が」とすかさず制した。
「旦那様には仕事があるでしょう。案内くらい俺がやっときますよ」
「いや。茜さんは大切な妻候補だからね。家主の務めだよ」
その瞬間、茜は周囲の空気がぴしりと凍りつくのを感じた。文字通り、びゅうと凍えるような視線がいくつも肌につきささる。
そこで初めて気がついた。四人、五人、六人……どころではない。この屋敷のいたるところに霊が潜んでいる。最初は無関心そうに漂うだけだった彼らは、茜に寝室が与えられると少しずつ集まってきて、寿郎の「妻候補」という言葉で一斉に睨みつけてきたのだ。
「では、まず食堂から。すぐ隣にあります」
寿郎が和室へ出る。茜も続こうとした瞬間、すぐ眼前に逆さの女の顔がぶらんと天井からぶら下がってきた。
濁った眼球が飛び出さんばかりに茜を見る。女はけたたましいうなり声を上げた。が、茜は真顔のまま体当たりする勢いで素通りし、寿郎の後に続いた。
何も視えない。聞こえない。もはや呼吸するように自然と彼らを無視して歩く。
ふと、嫌な予感がして本能的にその場でしゃがみこんだ。
すぐ頭上を何かがひゅんと横切っていく。
畳の上にぽとりと落ちたのは、馬の形をした小さな置き物だった。物音に気づいた二人が振り返る。
「これが、どこかから落ちてきたようです」
茜が置き物を拾い上げると、直彦が「ああ」とめんどくさそうに受け取った。
「これ、棚の上にあったやつだ。……また派手に落ちたなあ」
そこから落ちたくらいで茜の頭上を飛び越えるはずがないのだが、彼はなぜだかあまり気にしていない様子だった。
「旦那様、この家やっぱり傾いてるんじゃないですか? 時々へんなとこに物が落ちてたりするんですよ」
直彦がぶつくさ言い、寿郎が「古い家だからね……」とうなずきながら廊下に出る。
いやいや、そんなことがあるものか。
これはれっきとした霊障だ。
ケタケタ、カタカタと笑い声がこだまする。見れば狭い和室にひしめくように霊が群がっていた。そのすべてが茜を嘲笑している。余所者を蔑み、見下すような下卑た笑い声。
茜はその真ん中を能面顔で突っ切って、和室を出ると襖をぴしゃりと閉めきった。
「視えないふり」を全力で磨いてきてよかったと心の底から思う。




