第一話 美貌の訳あり物件
――幽霊は、寂しがりだから。返事したり、目を合わせたりしたら駄目だぞ。
十数年前のいつか、誰かにいわれたことを、茜は今も忠実に守っている。
『茜……』
狭い長屋の一室に、母の呼び声がこだまする。
茜は反応せず、黙って手鏡を覗いていた。
『茜、聴いて……』
左右に首をひねり、化粧した顔を念入りに確認する。ひび割れた鏡面に映る自分は、人形のように無表情だ。その肩越しにこちらを見つめる母の姿が見え、すぐに視線をそらした。
母の口元は石榴を唇で潰したように、赤いものであふれていた。その雫は色あせた木綿の着物の胸元にまでしたたり、真っ赤な染みを広げている。
正直言って見たくない。いや、視てはいけない。
もしも視えていると知られたら、祟られる。あるいは取り憑かれたり、呪われたりする。彼らは常に、この世の存在とつながろうと躍起になっているからだ。
『私のように……ならないで……良い人に嫁いで……お願い』
切々と訴える母を尻目に、茜は立ち上がる。埃っぽい土間へ降り、外へ続く引き戸に手をかけた。
あばら屋に近いこの建物は全体的にガタついていて、引き戸も力の入れ方に気をつけなければなかなか開かない。どうにかこうにか隙間を開け、外へ滑り出た。
『茜……!』
母の痛切な呼び声は、締め切られた戸の向こうに消える。
茜は無表情のまま、唇の隙間からそっと吐息をこぼした。
「わかってる。……だから〝結婚活動〟してるでしょう」
遠くで正午を知らせる空砲が鳴る。――時間だ。
砂と埃にまみれた貧民窟の通りを抜け、市街の駅へ急いだ。
休日だからか、電車は混み入っていた。車両の端にまっすぐ立ち、揺れを耐えながら、茜は懐から一枚の葉書を取り出した。もう何度も読み返した文面に、もう一度目を通す。
〈ご連絡くださり、有り難うございます。私もあなたにお会いしたく存じます。つきましては三月二十日の午後一時頃に、××駅前の喫茶店にて落ち合うのはいかがでしょうか。お返事をお待ちしております〉
顔を上げると、座席の窓ガラスに能面のような顔が映っていた。一瞬、幽霊かと思ったが、なんのことはない。自分の顔である。
茜はそっと頬をつまみ、ぐいぐい引っ張ってみた。しかし表情筋は相変わらず凝り固まっており、ただ間延びした能面になっただけだった。
これでは初対面の相手に悪い印象を持たれてしまう。〝結婚活動〟は第一印象がすべてだと、雑誌に散々書かれているのに。
これは、お見合いとは違う。大衆雑誌に掲載された結婚広告の中から、気になる相手を自ら選んで会いに行く……いわば妻候補として自分を売り込みにいくのだ。
むろん、相手の素性も自身で見極めなければならない。茜はこれから会う男の広告内容を今いちど頭に思い浮かべる。
本籍地 ■■市
現住所 ■■市
年齢 三十七歳
職業 文筆家
係累 父母弟(別居するもの)
資産 家屋、月収二百圓以上、證券等相当にあり
其の他 当方都合により離婚経験四回あり
希望 学歴血統容姿問わず、過去は如何なるとも差し支えなし。心身強健にして子を成せる者
全体的にものすごく訳あり感が漂っている。四十手前という年齢もさることながら、目を引くのは離婚歴。彼は五人目の妻を迎えようとしている。それでいて収入は相当にあり、證券まで持っている。
茜はこういう男を待っていた。自分のように育ちが貧しく、器量も教養もない女が幸せになるには、「若くて子を産める女であれば誰でもいい」と言ってくれる訳ありの金持ちと結婚する以外に道はないからだ。
駅を出ると、通りを挟んだ向かいに喫茶店が見えた。西洋風の洒落た扉や花模様のステンドグラスが堂々と威容を誇っている。
周囲にそれらしい男の姿はない。茜は店の入り口付近に立ち、自分の着物の裾や髪が乱れていないか確認した。
この着物は唯一の一張羅。商家で女中奉公していた時代、女主人に散々ゴマを擦って譲ってもらったお下がりの銘仙である。髪は左右をきっちりと編み込んで髷にすることで、つやの無さとぱさつきをどうにか誤魔化している。化粧は勤め先のミルクホールの女給から教わったもの。……できる手はすべて打った。あとは相手に気に入られるよう、懸命にふるまうだけだ。
相手は、どんな男だろう。裕福で、でも四度の離婚を経ている、四十手前の訳あり男……
たとえどんなに老けていようが肥え太っていようが、頭の禿げた醜男だろうが構わない。自分も二十二という若さしか取り柄のない細民の女だ。会ってくれるだけありがたいというもの。……
心の中でブツブツと思い巡らしていた茜は、目の前にすっと影が差したのに気づき、急いで顔を上げた。
「森本茜さん、でしょうか」
一人の男が立っている。茜の目はその顔に一瞬で釘付けになった。
とても綺麗な顔だ。堀が深めで鼻筋がすっと通っていて、瞼にはくっきりと綺麗な二重が刻まれている。何より、口元に浮かんだ微笑が活動写真の俳優のように美しい。濃い緑の着物に薄ねず色の羽織姿も立っているだけで絵になる。
いったい誰だろう。この、全体的に美しく整ったひとは。
「森本茜さん……で合っていますか?」
「――はい」
魂の抜けたような声が出てしまった。
緩やかな春の風が吹き、彼の薄墨がかった髪を柔らかく揺らす。男は「お声がけが遅くなりすみません」と軽く頭を下げた。
「私が広告主の、宇木寿郎と申します」
もしも茜の表情筋が動いていたら、きっと目玉が飛び出そうなほど見開いていたことだろう。残念ながら実際にはぴくりとも動かず、茜はただ、能面顔で男を見上げているだけだった。
「では、さっそく中に入りましょうか」
宇木寿郎と名乗る男は、そんな茜の反応などお構いなしに扉を開け、店の中へ誘った。
席についても、茜は未だ狐につままれたような気持ちでいた。
改めて向かい合うと、相手の顔の綺麗さに目がやられそうになる。見目がいいとはなんとずるい。四十手前ということもあり、髪はやや薄墨がかっていて、目も少し落ちくぼんでいるし、なんならうっすら隈も見えるが、それが妙な色気を立ちのぼらせていて、見ているこちらをそわそわさせる。
なぜ、こんな人が。結婚広告など出してまで妻を探さなければならないのだろう。
女給が注文を聞きにやってくる。宇木寿郎は御品書きを見下ろし、「コーヒーとビーフスチューを」と告げた。茜は迷ったあげく、サイダーとみつ豆を注文する。
「そんなもので足りますか?」
女中が去ってから心配そうに尋ねられたが、茜は「足ります」と即答した。
「……もしかして、緊張していますか?」
「しておりません」
茜は汗ばむ手を膝にこすりつけながら、淡々と返す。
「そうですか」と微笑を浮かべる彼に、茜は「宇木さん」と改めて呼びかけた。
「寿郎で構いませんよ」彼が穏やかに返す。「ここに集った目的が目的ですから。……私も茜さんと勝手にお呼びして構いませんか?」
「はい。……では、寿郎さん」ほんのわずか、他人にはわからない程度に声が震える。
「さっそく一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「はい、どうぞ」
「今日はなぜ、わたしに会おうと思ってくださったのでしょうか」
寿郎は「そうですね……」と顎に手をやりながら答える。
「いただいた葉書を拝見して、条件に合う方だと思ったからです」
「条件……」
「はい。心身ともに健康で、とにかく丈夫であり、風邪も滅多に引かないと、あれだけはっきり書いてくださったのですから、相当に自信がおありなのかと頼もしく思いました」
寿郎が言っているのは、彼の結婚広告にあった「心身強健にして子を成せる者」のことだろう。
確かに、茜は彼宛ての葉書に自分の長所を惜しみなく書き連ねていた。働き先に提出する面接申し込みの葉書くらいびっしりと、懇切丁寧に。
「自信はあります。わたしは貧しい家で育ち、滋養に良い食事など与えられておりませんでしたが、それでも病気は何ひとつ患いませんでした。せいぜい転んですりむく程度の怪我しか負ったことはありません」
「なるほど。それは本当に……頼もしいですね」
寿郎がわずかに目を伏せる。それがどことなく申し訳なさそうな顔色に見え、茜は一気に不安になった。
せっかく会うところまでこぎつけたのに、ここで話を頓挫させるわけにはいかない。
「あなたの広告を拝見するに、一刻も早く跡継ぎをお望みなのだと拝察しました。わたしはこの通り体が丈夫ですし、子の一人や二人や三人、無事に産んでごらんにいれます。子育てには干渉いたしません。すべてご希望通りにいたします」
あとは何を言うべきだろう……一瞬ことばが途切れた隙に、「わかりました」と寿郎が苦笑気味に言った。
「ありがとうございます。それほどまでにご協力いただけるとは」
「当然です。わたしはその条件をのんで申し込んだのですから」
「では逆に、茜さんは何か結婚に条件はないのですか」
茜は無表情のまま一瞬、沈黙した。
まさかこちらの条件を聞いてもらえるとは思っていなかった。こういうのは普通、男側が一方的に条件を述べ、合致するか否かで関係が成立するものだとばかり思っていたのだ。
「わたしの条件……ですか」
「はい。あなたにも、これだけはというものが何かあるでしょう」
綺麗で広くて清潔な家、三度の食事、食うに困らない生活費……希望ならいくらでも湧いてくる。だが、茜の中で「これだけは譲れない」もの……それはたった一つだけだった。
「寿命を全うし、穏やかでまともな最期を迎えることです」
寿郎は何か言いたげな顔をしたが、ぐっと飲み込み「なるほど……」とつぶやいた。
茜はさきほど自分が貧しい生まれだと告げた。それである程度は察せられたのかもしれない。
貧乏人は、ろくな死に方をしない。
母は父の死後、女工になり、過酷な労働環境のなか肺を患って死んだ。彼女の霊体には無残な喀血の跡が残っている。
母だけじゃない。悲惨な死を遂げたまま浮かばれず、当てもなくさまよっている女の霊をこれまで幾度となく視てきた。そのだれもが吐血していたり、枯れ木のように痩せていたり……虚ろな目で人生を嘆き、周囲の人間を呪っていた。
貧乏な女の末路は決まっている。小作人の妻となり土と蚕にまみれながら嫁ぎ先の奴隷となるか、細民に嫁いで女工となり体を壊して早死にするか、私娼窟で売笑婦と蔑まれながら性病で息絶えるかの、どれかである。
そのどれにもなりたくない――哀れな霊たちを目にしながら、幼心に強く思った。だから茜は、それこそ十代のころから「どうすれば貧乏から脱せるか」だけを考えて生きてきた。
その答えが、「結婚広告で訳ありそうな金持ちを探す」であったのだ。
子どもならいくらでも産み育ててやる。その代わり、まともに寿命を全うできるよう養ってほしい。決して褒められた動機ではないが、向こうもきっと何か後ろめたい事情があるだろうからお互い様だ……と信じて、茜はあえて自らの下心を隠しはしなかった。
「ビーフスチューのお客様」
女給が盆をたずさえやってきたので、会話は一時中断となった。
サイダーとみつ豆を喫茶店でいただくなんて、普段は考えられない贅沢だった。ゆでられた豆やぷるぷるした寒天、贅沢に盛られたみかんや杏……そのすべてが宝石のように輝いて見える。茜は銀色に光る匙を取り、丸く盛られたゆで豆餡をそっとすくってぱくりと頬張った。
「……」
口の中が天国だ。
「甘い物がお好きなんですか」
寿郎が尋ねる。茜は「はい」とまっすぐに答えた。何がおかしいのか、彼は「そうですか」とほんの少しだけ口角を上げた。
「さきほどの、茜さんの条件ですが」
寿郎のビーフスチューが三割ほど減った頃、彼はつぶやくように言った。
「私の仕事は文筆業で、収入が安定しているとは言いがたいですが……このままいけば叶えてあげられると思いますよ」
「文筆……とは、雑誌記者ですか」
「小説のほうです」
「小説……」
茜は自然と寿郎の聞き手を見る。匙を持つ右手の中指にあるのは、おそらくペンだこだろう。
「あなたは無理して働く必要はない。うちには下男がいますし、下働きは彼にまかせて、お好きなように過ごしていただいて構いません。家計の管理などはお任せするかもしれませんが。……少なくとも、あなたの危惧しているような将来は訪れにくい環境だと思います」
使用人あり。家事の義務なし。そんなおいしい話があっていいのだろうか。もはや中流家庭の専業主婦より気楽で優雅な生活ではないか。
「それは……本当なら、とても魅力的なお話です」
「他に何か、これだけはという条件はありますか?」
「これだけは、という訳ではありませんが。生活が保障されたら、やってみたかったことがいろいろあります」
言ってしまってから、下心を出し過ぎただろうかと危惧した。しかし寿郎の表情は穏やかなままだ。
「では、それも……あなたが妻になってくださったら、叶えられるようにしましょう」
「本当ですか」
「ええ」
「では、わたしも改めて、あなたの条件を飲むと宣言します」
言いながら、茜は確認するように「契約成立、でしょうか?」とたずねた。
「そうですね。……ですが、その前に一つだけ、お話しておくべきことがあります」
「なんでしょうか」
「私の、離婚歴についてです」
そんなことまで正直に話してくれるとは意外だった。茜は傾聴する姿勢を取る。
「先に、経緯をお話します。一人目の妻は嫁いで数ヶ月経ってから気鬱の病にかかり、離縁を申し出されました。二人目の妻は嫁いですぐ『眠れない』と言い始め、まもなく気が狂ってしまったので実家へ戻しました。三人目の妻も同じく気が狂い家を飛び出し、四人目の妻は気狂いの果てに刃物で自死しかけたところを発見し、なんとか押し止められたので離縁して実家へ帰らせました」
まるで新聞を朗読しているかのごとく淡々とした物言いであるが、内容はとんでもなく怪奇じみている。
茜の顔はぴくりとも動いていないが、内心の困惑を見抜かれたのか、寿郎は少し気まずそうな顔をした。
「怖いでしょう。私も原因がわからないのです。もしかしたら立地が良くないのかもしれません。気の流れが悪いとか、北向きで陽当たりが悪いからという可能性もあります」
そんなことで、立て続けに人が発狂するものだろうか。
「そこで提案なのですが。すぐには入籍せず、三ヶ月ほど、我が家で暮らしながら様子を見てみるのはいかがでしょうか」
「三ヶ月、ですか」
「これまでの妻はだいたい三ヶ月以内におかしくなっていましたので。期間がすぎても茜さんが平気であれば改めて入籍する……ということにいたしませんか」
これが、宇木寿郎という人物の訳あり処なのか。ここへ来て最大の壁にぶつかるとは思いもよらなかった。
茜が結婚活動にいそしむ理由はひとえに「穏やかな最期を迎える」ためである。こんな物騒ないわくつきの男性と結婚して、果たしてそれが叶うのか。
だが、それ以外は完璧といえるほど条件がいい。一長一短なんてものじゃない……これは究極の選択だ。
幸い、彼はお試し期間なるものを提示してくれた。たて続けに妻を失い、彼も慎重になっているのだろう。本来、入籍前の男女が「お試し」などと言って同棲するなど信じられないくらいはしたない行為なのだが、それを非難する身内も知り合いも、茜の周囲にはいない。
すべて、決断の責任は自分にある。
「わかりました。では三ヶ月のあいだ、様子を見させていただきます」
こうして茜は、寿郎と結婚の仮契約を取り結ぶこととなったのだった。




