第17話 春の約束
一月に入ると、日照時間が少しずつ長くなった。
変化はごくわずかで、気づく人間は少ない。だがセリーヌは毎朝、窓から差し込む光の角度を確認していた。春は、確実に近づいていた。
「引き継ぎ書類の第二稿ができました」
書斎でルカスに手渡しながら、セリーヌは言った。
「食料備蓄の管理方法、薬品の補充サイクル、ラヴィの服薬スケジュール、グラウ商会の代替となる取引先候補三社。それぞれ詳細を記してあります」
ルカスは受け取り、ページをめくった。
「……丁寧だ」
「引き継ぐ方が困らないように」
「引き継ぐ方、とは誰を想定している」
「それは旦那様がお決めになることです。新しい執事長を雇うか、シクストさんが兼任するか。どちらでも対応できる形にしてあります」
ルカスはしばらく書類を見ていた。
「ラヴィの服薬スケジュールまで書くのか」
「春以降も定期的に服薬が必要です。忘れると再発のリスクがあります」
「……私に、できるか」
「覚えることは難しくありません。一日一回、夕食後。メモを台所に貼っておけば十分です」
「そういう話ではない」
ルカスの声が、少し低くなった。
「ラヴィが熱を出したとき、私は何もできなかった。あなたがいなければ——あの子は、もっと悪くなっていた」
セリーヌは返事をしなかった。
「私は、甥の子供の薬の名前も知らなかった。三年間、この屋敷にいながら」
「……今は知っています」
「あなたが教えたから知っている。私が自分で知ろうとしたわけではない」
「でも今は、気にかけています」
「気にかけることと、できることは違う」
それは正しかった。セリーヌは否定しなかった。
「時間をかければ、できるようになります。私も最初から全部わかっていたわけではありません」
「あなたは——」とルカスは言いかけて、止まった。
「何ですか」
「……いや」
彼はまた途中で言葉を閉じた。このところ、そういうことが増えていた。言いかけて、止まる。セリーヌはその度に、閉じられた言葉の向こうにあるものを想像して——そして想像するのをやめた。
春が来れば、決着がつく。それまでは、目の前のことをするだけだ。
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その夜、ラヴィが書き終えた練習帳を持ってセリーヌの部屋に来た。
「見て! 全部書けた!」
練習帳には、アルファベット二十六文字と、自分の名前が書かれていた。文字は不揃いで、所々かすれているが、確かに全部書いてある。
「ちゃんと書けているわ。上手になった」
「ルカスおじさんにも見せた!」
「なんて言っていた?」
「よくできた、って」ラヴィは少し考えた顔をした。「おじさん、笑わないけど——でも、目が笑ってたよ」
セリーヌは、その言葉が思いのほか胸に残った。
目が笑う、か。
「ラヴィ」とセリーヌは言った。「春になったら、何がしたい?」
「お花を見る! 裏庭に、春になったら黄色いお花が咲くって、ヤンが言ってた」
「じゃあ一緒に見に行きましょう」
ラヴィの顔が輝いた。
「約束?」
「……約束」
言ってから、セリーヌは気づいた。春の約束をした。自分は春にここを去るかもしれないのに。
だがラヴィは「やった!」と言って、もう練習帳を胸に抱えて走り去っていた。
セリーヌは一人になった部屋で、しばらく窓の外を見た。
灰色の夜空に、星がいくつか出ていた。




