02.任務と出会い
窓から日の差し込む長い長い廊下を、軍靴の足音を響かせながら踏破した先、その最奥に佇む装飾の施された扉を開く。
そこにはおれを呼んだ人と、来るように指示した奴が立っていた。
「二人には頼みたいことがあって、お呼びさせてもらいました」
「はあ…」
「……」
「どうかしましたか? 何か腑に落ちないようですが」
「いや、てっきり昨日の件で叱られるものかと思ってたので」
「まさか、もし人命への被害を出していたならともかく、『穢れ』討滅に貢献した以上、僕から叱責する理由もありませんから」
「ただ…苦情が来ている。なんて話が耳に入った所だったんで、気になってしまって」
「ああ、苦情ですか。うーん、この中のどこかにはあるんでしょうけど、はは…どうにも溜まってしまっていまして、お恥ずかしい」
彼が気恥ずかしそうに背後へ目をやると、そこには抱えるほどの大きさの箱。その中には大量の紙の束が放り込まれていた。
「まさか、…それ全部苦情書かれてたりするんですか?」
「ええ、普段より少し多いくらいですから……。まあ平常運転ですよ、あはは」
優しい笑みを浮かべながら、もう慣れっこだと笑う男性。
『リッカ・ルアック』
年はまだ三十代前半と若く、局長という立場から前線に立つということも無いが、落ち着いた物腰は熟練の指揮官を思い起こさせる。彼の手にかかれば、圏士への指示に関して他の追随は許さない。
……というか他の連中は戦い闘いばかりで、その手の能力がくたばっている。その中で出来るのがリッカさんしかいないという状況。
つまるところ、討滅局の局長として手腕を振るう優秀な人物であることに変わりなく、おれたちを呼び出したその人だった。
「それで、私達を呼び出した理由とは何でしょうか。局長に対して失礼なのは承知していますが、私自身、可能であれば時間を掛けたくない」
そして、隣にはこれまで沈黙を保っていた、所属している組織のトップに対してもなお、己のスタンスを崩そうともしない女が一人。
(よくもまぁ本人目の前にしてはっきり言えるもんだ)
目線だけ明後日の方向にやって話を聞き流していると、リッカさんはその態度に対しても気分を害した様子なく、柔和な表情のまま話を続ける。
「そうですね、ハイネさんには我々も助けられていますから。ですが申し訳ありません、単刀直入に言いますと、しばらくはこの任務にあたっていただくことになるかと思います」
「では、その内容は。しばらくかかる、ということは個人の技量で短縮できるものではないという事でしょうか」
確かにハイネの言う通りであれば、『穢れ』の討滅やらモノ探しじゃなさそうだ。そういった内容ならハイネとおれが組まされる理由も無いし、第一ハイネ一人で両方が片付けられる。
「はい、その通りです」
そして、その予想はそのまま答えとなって返ってきた。
「じゃあ、護衛とかですか? 人手不足だとこういう時面倒ですからね」
「まあその様なところ、でしょうか。中々近いです」
「……局長、単刀直入にお願いいたします」
「あ、ああすみません。ですが、出来ればもう一人がそろってからの方が都合が良いもので…」
「もう一人?」
「圏士であれば呼び出しますが」
疑問を飛ばすおれの足元に、いつのまにか式神うさぎが待機していた。耳をピンと立て、鼻からフンスフンス息を漏らすその姿からは今にも走り出しそうなやる気を感じる。
ハイネは常に一匹連れているみたいだが、街中に配備されている式神は任務、緊急時の連絡手段として使われてる。わざわざこの部屋から出て行かなくても通話できるもんだと思うんだが、なんでこのうさぎこんなに血気盛んなんだ…?
「圏士、……ではないのですよ。それに、先ほど灯日に到着したとの知らせが『観測室』から入りました。今こちらに向かってきている最中ですので、そう時間もかからないはず……」
「観測室から? 私は何も聞いておりませんが」
「申し訳ありません、ちょっとした機密事項でして。知っているのは観測室主任の『コーネリア』だけなんです」
「そう、でしたか。そういうことでしたら仕方ありません。…待機していれば?」
「はい、お茶くらいならすぐ用意しますので——」
そう言うとあまりにも自然に食器を用意するリッカさん、というか討滅局局長。
「ってリッカさんっ、それくらいこっちでやるんでリッカさんこそ休むか他の仕事やっててくださいよっ」
「ああ、そうですか? なんだか悪いですね。それじゃあよろしくお願いしようかな」
良くも悪くも局長に見えない人だなぁ、と思うが、苦笑いを浮かべた顔からして良い人なのは間違いないので嫌な気もしない。
それに、これがキリエ辺りならほっとくが、上司、しかも局長に茶を淹れさせるなど、流石のおれでも気を遣う。乱暴にならない程度に食器を取り上げると、部屋の端に備えつけられていたコンロに火を起こす。これでも物心ついた時から喫茶店で育ったんだ、茶の一杯や二杯くらい朝飯前ってなもんだ。
「へぇ、お茶淹れるのお上手なんですね。何というか意外です」
「あー、まあそう言われても仕方ないですけどね。アイツに店を任せっぱなしにしとくと偶に飲み物すら変なの出すんで…、っていうか元圏士なんだったらリッカさんも知ってるんですかね?」
「ええ、もちろんです。彼女にはとても、…とてもお世話になりましたから。辞められてしまったのは今でも残念なくらいですよ」
茶の香りを楽しみつつ過去に思いをはせるリッカさんは酷く懐かしそうな顔をしている。
なんというか、おれの思ってた以上にアイツは優秀な圏士だったらしい。…意外だ、問題行動ばっかり起こしてると思ってた。
「当然だ、13年前の討滅局といえば近代において最強戦力がそろっていた時代だ。なにせ、特級が同時に二人存在していたからな。まさかロスト、知らんのか?」
「そりゃあ知らないわけじゃないけどさ。あの『神域の森』だってそいつらのせいで出来たって話なんだろ? 個人であんなことされたのによく止められたもんだよ」
荒野だけしかないこの世界にも、灯日の北西には巨大な森が存在する。位置的にはおれが鬼ごっこしてたところから灯日をはさんで反対側。
そこには何をどうやれば出来るのか分からないほどの巨大な孔が大量に空いていて、それらを埋め尽くすかのように樹々が根を張っている。その規模から、入り込むのも一苦労らしい。
らしいってのは、おれも遠くから見たことがあるだけで、入ったこと自体は無いからだ。資源の苦しい この世界において、樹木というのは肥沃な土地を生み出すためにも重要。そこをいたずらに荒らされようものなら人類規模の死活問題になるので基本的には立ち入り禁止。
圏士で入れるのは一級以上でもごくわずかだろう。
そして、その森を作り出したのはかつての特級。いまや存在しない称号を持つ者であり、ある特級圏士が反逆を起こしたことによる戦争の痕跡だ。ちなみに討滅局全体が疎まれているのもそのせい。人ってのは十年以上たっても過去と現在を切り離すことはできない。
それは仕方ないことだけど、命がけで『穢れ』倒そうとしてる時の能力にまでケチ付けてくるのは面倒この上ない。今は亡き先輩よ、何という置き土産を残してくれたのか。
「それに、今ハイネさんが使っている式神も、当時の主任瞳士が開発したものなんですよ。あれから十三年、瞳士の皆さんも頑張ってくれていますが、いまだに同じ性能のものは生み出されていません」
「あぁ、それも聞き覚えはありますよ。なんかすっげえ変人だったって」
「あはは……、確かにその通りですね。…先代の局長も、酷く手を焼いていましたから」
「『ナキ・ブルーマン』、ですか」
「ええ、聞けばハイネさんの憧れだと——」
「違います」
リッカさんが言い切る前にハッキリと否定するハイネの瞳は冷たい。よほど毛嫌いしてるのか。
「ブルーマンは越えるべき目標、それだけです。そう遠くない未来、技術さえも抜き去って見せます」
そう言い切る姿からは、己の使命として背負う強さが垣間見えた。ハイネはハイネで重い荷物を背負ってるらしい。その姿を目の前で見せつけられると、おれはどうなのだろうと不安になりさえするほどに。
「分かりました、では僕もその時を期待していますよ。ですが、無理は禁物、ということでお願いします。人手不足云々じゃない、一人でも仲間を失いたくはありませんから」
「……了解、しました」
「はい、それならよかった。局長の座を継いでからしばらくたったのですが、どうにも人の上に立つのは難しい。誰かに命令するのは特に」
「私には、とてもそうは見えませんが」
「ふふっ、買いかぶりすぎですよ。僕は誰かに助けてもらってばかりの臆病者ですから」
カップを置いて微笑むリッカさんからは自虐でありながら、ほんの少しだけ誇らし気な言葉が伝わってくる。相応の人生経験を積んできたってことなんだろうけど、その内容はおれに知る由もない。
あまり深く突っ込むつもりもないし、聞いたところで何が出来るってわけでもないだろ。
「にしても遅いですね。待ってる人って灯日には到着してるんですよね」
「そのはず、なんですが。……人選を誤ったかな?」
「誰を向かわせたのですか。これ以上何もなく待たされるくらいでしたら式神を向かわせますが」
「それが、ですね…。『フォムド』さんにお願いしたんですよ」
「じゃあ女ですか」
「女か」
「はい、女性です」
「「「……はぁ」」」
三人そろってのため息はしかし、それぞれ吐き出された意味合いが若干異なる。一人は納得、一人は呆れ、一人は侮蔑。
ため息をつかれている本人も、名前出されただけでここまでの反応取られる程度には常習犯だ。戻ってきたところを叱ったところで今更治らないだろうという諦観だけは皆が共通して持っていた。
「フォムドさんなぁ、あの人も昔からあんな感じですか?」
「まぁ、そんなところはありました……よ? で、ですが彼は彼で非常に優秀な人物だというところは知っておいてくださいね。……女性が絡むと少しアレですが。そ、それじゃあハイネさん、やはりお願いしても?」
「気は進みませんが致し方ありません。あの男の事ですから接待と評して食事でも奢っているのでしょう。まずはその辺りから調べを進めればすぐにでも」
苛つきを隠そうとすることも無く、今度こそ式神がドアの外へ向かって駆けだす。どうやってドアを開けるのだろうかと目で追っていると、器用にノブへ跳びつく。なるほど、移動とかを考えると、うさぎよりも鳥とかの方が良いだろとか思ってたけど、あそこまで器用に動くならどっちでもいいのかもな。
そのまま跳びついた反動を利用してドアを開けようとしていると、不自然にドアが開かれていく。いや、それは向こう側から開かれたのだ。
そして当然というかなんというか、そこに立っていたのは一人の男性。隊服の上着を肩にかけ、飄々とした風来坊のように何とも軽い空気を醸し出す圏士、『フォムド・フロード』だった。
「おっす! いやぁ、待たせた待たせた。なんつーか話が盛り上がっちまってさぁ。いやぁ俺も罪な男——」
「フォムドさん…、いつも言っていますが時間は守っていただかないと……」
「んー、そう落ち込むなリッカよお。そんなしけた面ぁしてたら市民の皆様に顔向けできねえぜ。笑え笑えっ」
「あー…ははは……、はぁ…」
「リッカさん…、大変ですね」
「いえっ、……いえ、ありがとうございます…」
「………」
この調子じゃ、本当にいつもこんな感じなのだと思わされる。ってかこの人が事実上の討滅局ナンバー2ってのがどうにも腑に落ちない。他に適任いなかったのか?
「それで、フォムド一級。迎えに行ったという対象はどちらに? 私としてはいい加減任務内容を聞きたいのですが」
「ん? ああそうだったな。そんじゃもういいぜ、入ってくれ」
「ハイ」
フォムドさんの後ろに隠れるように立っていたのは一人の少女だった。
真っ黒な隊服のおれたちとは真逆に、染み一つない純白の法衣に身を包んだ姿は、神の失われた大地に残された聖職者といったところか。
幼さの残る見た目からして、年齢はおれよりは下らしい。氷のように透き通るような瞳と、陽光を反射して輝く染み一つない白髪のショートヘア。冷静さをたたえた表情からは、冷たい無垢さを感じさせられる。
少女は数歩前に歩むと一礼、淀みない綺麗な声で挨拶をする。
「お初にお目にかかります。表裏境界圏・残穢討滅局局長、リッカ・ルアック様。
此度はお招きいただき心よりの感謝を。ですが、私一人でのご挨拶となってしまい大変心苦しく。我らが司教も自らはせ参じることのできなかった旨、非常に悲しんでおられました」
恭しく礼を崩さない少女は清廉であり、動き一つとっても淀んだところが見当たらない。その少女に対してリッカさんも、討滅局局長としての態度を取る。
「頭を上げてください、お呼びたてしたのはこちらなのですから。失礼でなければ、改めてお名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「失礼いたしました。私の名は『アイリス・マトラ』、皆様のような階級なども智慧ない身ですので、お好きにお呼びくだされば結構です」
少女、アイリスは真っすぐな瞳を順繰りに向けながらおれたちへと名を名乗る。ここまでしっかり目と目を合わせられると気恥ずかしくて、つい目を逸らしてしまった。
その時目に入ったハイネはというと、何やら怪訝そうな表情だ。すでにフォムドさんよりも彼女、アイリスへ意識が向けられているらしかった。
(何、気にしてるんだ?)
多少気にはなるが、この場で口を開くほど馬鹿でもない。あとで本人に聞くしかないだろう。
「それでは、マトラさん。この二人がお話しさせていただいていた圏士です。詳細についてはまだ知らせておりませんから、今から一緒にとなりますがよろしかったでしょうか」
「ハイ。仮のものですが、私は灯日に足を踏み入れた瞬間から所属は討滅局となっています。その長であるルアック局長の指示に背くような真似は致しません」
「それではハイネ・ルビア一級、ロスト・ヘリオール三級、貴方達に任務を言い渡します」
役者はそろったと、改めて告げられる言葉からは柔らかさが削がれ、リッカ・ルアック個人ではない、討滅局局長としての言葉だった。
「彼女、アイリス・マトラと協力し、神域の森の調査、また『穢れ』を確認次第の討滅。それが任務となります。そして本任務の『穢れ』についての情報は機密事項となるため、決して口外しないように」
さっきの会話からして、アイリスは任務の内容を知らされている。にしても、『穢れ』の討滅任務なら毎日下される内容だ。何か、他に理由があるという事か。
「フォムドさん、念のため部屋に僕達だけにしてもらっていいでしょうか」
「はいよ、終わったら呼べな」
言われた通り、おとなしくドアの向こうへ姿を消し、そのまま見張りを兼任する。誰かに聞かれたらマズいってこと。
「質問をしても?」
「もちろん」
先に疑問を上げたのはハイネだった。コイツの性格からして疑問をそのままにしておくということは無い。おれからの疑問も含まれているだろうし、こっちは後に回しても大丈夫だろう。
「その『穢れ』は存在を隠蔽されるほどに特殊な個体と見てよろしいのでしょうか」
「はい、恐らくその認識で問題ないと考えられます」
「考えられる、とは? 正確な情報を要求します」
「正確にいうならば不明、です。そも『穢れ』と口にしましたが厳密にはそう言い切れないのです」
「言い切れない? それはどうして」
怪訝そうなハイネと同様に、おれも眉を顰める。
その反応は予想していたんだろう。リッカさんは執務机の上に用意していた地図を開くと、説明を始めた。
「件の『穢れ』が確認されたのはこの位置、神域の森の中心付近です。この場所は殆ど誰も立ち入ったことなく、実質未開の領域でした。そして、その調査の際に現れたのが『穢れ』です。ですが、少々様子が他と異なると報告を受けました」
「それはどのような」
「お二人もご存じの通り、『穢れ』はそこに在るだけで生命を奪い、不毛の地へ変化させます。個体差はあれど、それだけは差異の無い特性であり、僕達が戦う理由でもあります」
『穢れ』は在るだけで世界を汚染する。人の生命圏を脅かし、もしも灯日内の上水道施設を潰されればそれだけで生存が脅かされるほどに。
「それじゃあつまり、その『穢れ』はそうじゃない?」
「その通りです。発見者の報告によると、おそらくその『穢れ』は二級から一級相当の力を持っている。だというのにその周囲の植物は一切枯れることなく存在している、と。……本来あり得ない事象が起こっている。この変化がこの先どのような事象をもたらすのかを知るためにも、我々は正体を知らねばなりません。そして、そのために貴方達に助力を頼んでいるのです」
「なるほど、確かに事実であるならば興味深い事象です。これまでの『穢れ』とは一線を画す、いや何らかの進化が行われたと考えることもできる。研究対象としてこれ以上ない検体でしょう。ですが、腑に落ちません。どうしてこの男なのです、それにそのマトラという少女は」
「確かに、自分で言うのもあれですけど、なんでおれなんですか?」
『穢れ』にも圏士と同じく等級が定められている。それは危険度を示す為であり、どの圏士であれば討滅することが可能かという指標として扱われている。
「その『穢れもどき?』と戦闘になった場合、少なくとも二級以上に分類されてるって言うなら、三級圏士のおれが向かうのは変な話じゃ」
等級の決定指標は単純だ。ようは同階級の圏士が討滅可能かどうかなのだから。
つまり、二級の『穢れ』であれば、二級圏士相当の実力があれば討滅可能と判断される。数字上は同じ等級とはいえ、それでは戦力の割り当てが難しい。
その結果、同じ等級の『穢れ』を問題なく討滅することのできること。それが、圏士として昇格するための指標の一つだ。
これはまぁ、前提として圏士は討滅した上で生還しなければならないのだから当然ともいえるが。
だからこそ、いまだ契約も満足に扱うことすらできない、下手したら万年三級のおれが抜擢されるような任務にはどうしても思えない。
「それに、わざわざ呼び出して内密に話すだなんて、なんとも大ごとみたいじゃないですか。その辺りは教えてもらえないんですか?」
そう問いかけた先、リッカさんは微動だにすることなく言葉を紡ぐ。
「それについては、教戒側からの提案となっています。外部の人間が討滅局の任務に加わるとなると、組織間の公的性というものが重要になってきます。つまり現場を知る第三者が欲しいのですよ。そしてそれは、ロストさんが望ましいと判断しました」
「それこそなぜでしょうか。この男は三級、組織間の公的性というのであればより実力があり、討滅局へ不利益を起こすことは無いと、信頼できる人間を連れていくべきです。
私が彼女にそそのかされ、『穢れ』に襲われたと嘘を吐いて殺害するかもしれない。神域の森へは誰も入り込まないのだから事故として処理されることでしょう」
「お前ならやりかねないのが怖いんだが……、じゃなくて。ま、まぁそう言う感じですよ。『代償契約』も満足に使えないおれが襲われたらそれこそどうしようもないと思うんですけど」
「いえ、ご安心くださいロスト・ヘリオール様。そのようなことは起こりえません」
「え……っと…」
これまで静観していた少女、アイリスが前へ出てくるとおれの前に佇む。俯き気味だった瞳はブレることなくおれへと向けられ、呑み込まれるほどに澄みきったアイリスの瞳からは目が離せなくなる。
「安心しろとはどういうことだ。まさか、出会って間もない自分のことを信じろと? 馬鹿を抜かせ、貴様のような余所者を信用するなどありえん。それこそ、コイツの命がかかっている」
「お前……」
ハイネがこんなこと言うだなんて意外だ、てっきりおれの命なんてどうでもいい。さっさと終わらせるぞ。みたいなことを言われるのかと思ってた。
「この程度でも『原型』を振るうくらいはできる。いないよりはマシだ」
「……あっそ」
いや、大体想像通りだった。そりゃお前からすればおれなんて下っ端だろうさ、へっ。
しかし、信頼するなどありえないと断言されたアイリスは一切動じない。静謐たる精神性を以ってハイネへと向きなおる。
「もしも、ロスト様が何らかの原因でなくなった場合。どのような原因であろうとも、我々が全責任を負うとの契約が交わされております」
「なに?」
「ですので、もしハイネ様の言う通りに神域の森内部において、ロスト様を殺害ないし見捨てるといった行動をとれば我々には不利益しか生じません。そしてそれは、決して望むものではありません」
「つまりは人質、といいたいわけか」
「そのような言い方をしたくはありませんが事実上そうなってしまいます。ですがご安心ください。何があったとしてもロスト様の命はお守りさせていただきます。そして、『穢れ』との戦闘となればご自身の命を優先してくださって結構です」
機械的に発せられた言葉から嘘は読み取れない。第一、嘘を吐くことでアイリスに得があるように思えない。だってそうだろう、おれを殺したところで一体何があるというのか。
「納得はしていただけましたか。今回の共同任務においても話し合いを経て決定されたものです。できれば貴女にも理解していただきたい」
これ以上の進展はないと踏んだんだろう。リッカさんが入り込み、議論を打ち切ろうとする。
「……くっ、ですが彼女は——っ!」
「彼女は?」
「…っ、……いえ、何も、ありません…」
ハイネも食い下がろうとするが、現状は納得するしかないらしく、最後には悔しそうに歯を食いしばっていた。
「……。では、他に質問が無ければこれで———」
「あ、じゃあ一つ聞いてもいいですか?」
「ええ、構いませんよ」
「その『穢れ』、下手したら一級相当なんですよね」
「はい、そのように報告は受けています」
「そいつ、もしもおれが倒したら昇格とかできたりします?」
「昇格、ですか……。そう、ですね。…どうしたものでしょうか……」
あれ? まさか結構考えてくれてる?
おれとしてはそんなの無理に決まってるでしょ、って言われてお終いかと思ったんだが。
「そうですね、構いませんよ」
「え、マジっすか?」
「はい、マジです。ですが、もちろん相応の武功を上げればとなりますし、彼女たちの意見を聞いた上での運びとなるのでそう簡単にはいきませんがね」
「ま、そりゃあそうですよね」
そりゃそんな簡単に行くわけもない。第一、昇格には筆記試験もあるからそっちも問題だ。
ま、人質のおれとしては何事も起きなければそれでいいけどさ。
「任務開始は2日後の明朝となります。それまでの間、ハイネさんには神域の森外縁から調査をお願いします」
「……了解しました。他に何もなければ私は失礼します。あるのであれば式神経由でお聞きしますので」
「あ、おいハイネっ」
「うん? おっとぉ! なんだ、話し終わったのか?」
引き留める間もなく、ハイネはドアを乱暴に開くとそのまま去って行ってしまった。見張りをしていたフォムドさんも頭をのぞかせるが、リッカさんは軽く手を上げてもう少し待機するように伝える。
「すいません、もう少し」
「へいへい、閉めるぞー。あんま女の子泣かせんなよなー」
一人減った室内に残されたおれは何をすればいいのか聞いていない。いつも通りの任務に行ってたら、タイミングによってはこの任務に合流できない可能性がある。
軽く頭をひねって出てきたのは、怒って出て行ってしまったハイネのことだ。
「じゃあ…、おれはハイネの手伝いでもすれば?」
「いえ、ロストさんには一つお願いがありまして…」
「ん? なんです?」
苦笑い気味のリッカさんの視線の先にはおれでもハイネでもなく、アイリスが立っていた。そうなると、まさか。
「ロストさんには、マトラさんを任務当日まで灯日を案内していただきたいのですよ。とはいえ、別に重要な個所を教えてほしいというわけではありません。ごく普通に、食事は何処で取るのがお勧めか、景色が良いのは何処か。その程度のことで構いません」
「えぇ…っと、それってつまり…」
「はい、観光案内。とでもいえばいいでしょうか。はは……、ま、まあ休暇のようなものだと思っていただければ」
「いや、はは……じゃなくて、人手不足だってのにそれはちょっと……」
これでも一応、戦力にはなるという自負はある。だってのに戦闘そのものから外されるとは思っていなくて面食らう。そんなに大事なお客さんなんだったらそっちで対応してくれれば……。いや、無理だ、少なくともおれよりはずっと忙しい。
「それでは、よろしくお願いいたしますロスト様。私に出来ることがあれば何なりとお言いつけ下さい」
こっちはこっちでもう案内してもらうつもりだし、その上何かしらを手伝おうとしてる。今この場において、おれが灯日観光案内をすることになるのは決定事項となっていた。
「アイリスさんとは、その時に交流を深めていただければ。もちろん、友人として。……あと、できればハイネさんのこともよろしくお願いできれば……」
武器振ってる方が性に合うおれに対して、まさかこんな仲介者的な仕事が回ってこようとは。
「ご安心下さい。問題が生じた場合、対処には私もお手伝いいたします」
「あー、はは……」
現状、キミとの付き合い方が一番の問題だ。などと言えるはずもなく。
なんともまぁ、力ない笑いが出てくるだけだった。
□ □ □
「はぁ…」
会議は終了、同時に今日の仕事も終了、いや開始かも。
討滅局の表門を超え、外に出たときには空は夕焼けに染まっていて西日がやけに眩しい。
「どうしたもんかなぁ」
あの後も一応確認してみたが、本当におれの仕事は観光案内らしい。実質、非常に稀な休暇な訳だが、傍に立つ少女の存在がおれをそういう気分にさせてくれない。
「一応聞いてみるけど、どっか行ってみたいところとかあるか?」
女の子にしては少ない旅荷物を詰めたであろうカバンを持つ少女は、ぼやくおれへ身体を向けて、彼女なりに大真面目な答えを返してくる。
「もしも私の案内について重く受け止めていただいているのでしたら、その必要はありません。私はロスト様の案内に従いますので」
彼女なりに気を使ってくれているのかもしれないが、口を開けばこの調子だ。望むものを聞いているのに”何でもいい“と返されるのは厄介この上ない。
(無いなら無いと言い切ってくれた方がこっちも諦めもつくんだが……)
しかも揺らぐことなくこちらを見つめてくる瞳からは、本当に何でもいいのだと訴えてきているようにさえ感じるくらいだ。
けど、個人的に気になる所はもう少し別の所で。
「あー、いや。それもそうなんだけどその前にさ」
「はい」
「その、ロスト”様“っていうの止めてくれないか? 背中がかゆくなる」
これだ。彼女なりの好意や敬意の示し方であって、深い感情がないのも分かるがそんな風に呼ばれたことの無いおれからすれば違和感しかない。
「そりゃ、リッカさんとかにはそうするのが当然で、さん付けで呼んでるおれの方がおかしいんだけどさ。階級的にも大したことの無いおれにキミが“様付け”で呼ぶ必要も無いだろ」
「そうでしょうか、私としては当然の事だと教えてこられたので」
「ずいぶん育ちがいいんだな、大切にされてきたんじゃないか?」
「しかし、ロスト様はロスト様です。一時とはいえ私達は共に任務へ参加する仲間。そこには階級、各々の立場など関係はないと考えるのですが」
「………ああ、そうだ……。———いや違う」
今のは危なかった。危うく納得させられるところだった。いや、実際間違ったことは言ってない以上、彼女の言い分を認めた方が正しいのかもしれない。……けど、なぁ。
「あー…、やっぱダメだ。おれの方が耐えられなさそうだ。出会ってすぐ、初対面で仲間って言ってくれるのは素直に嬉しいんだけどさ。やっぱり名前は普通に呼んでくれた方が助かる」
「普通、ですか……」
そこで初めて、彼女の氷の仮面染みた表情が揺らぐと、小さな顎へ手をやって何か考え込むようなしぐさを取る。
「えっと、悪い。何か変なこと言ったか? 気、悪くしたなら謝るけど」
「いえ…、そうではありません。少々、考えたいことがありました」
「それってのは一体何か、っていうのは聞いてもいいのか?」
「はい、ではロスト様にお聞きしたいのですが」
ダメだ、もはや癖になってるんだろうが、すっげえ自然に様付けしてくる。
「あ、ああ。答えられることなら……」
「ありがとうございます。では、お聞きしたいのですが。”普通“とは、なんでしょうか?」
「は? 普通? ……普通、か…」
これはなんというか、予想外だ。
別に、おれの常識は世界の常識。おれの知ってることはみんな知ってる、なんて馬鹿みたいなことは思っていない。そもそも人間ってのは千差万別だから面白いところもある。けど、普通と聞いて思い起こすのはその時々によって変わってくる。
腹が減ったら飯を食うし、疲れたら休む。それは多分生物である以上は順守する普通だろう。でも今、アイリスが言ってることはそうじゃない。普通に名前を呼ぶ、ということ。その意味だ。
アイリスにとっては相手を様付けて呼ぶのが普通で、おれはそうじゃない。
じゃあそれはなぜか。そこまで説明しようとすると、個人個人の出生やこれまでどう育ってきたのか。どんな友人関係だったか。なんてとこまで言わなきゃならなくなるんじゃないか?
少なくともそこまで言えば人となりというか、どう生きてきたかの傾向は見える。なるほど確かに、そうやって生きてきたのなら様付けで呼ばれるのは好きじゃないだろう。そう納得してくれるかもしれない。
…けどなぁ……、それもそれでなんか違う気もする……。
「う、うぅぅん……?」
下手な思考に頭の中身がこんがらがってきた。
頭の中の血流がグルグルと同じところを巡ってる感覚、さっきと全く同じものが巡っているのだから弾き出される結果も似たようなものばっかりだ。
そこまで答える必要自体無いとは思うが、彼女の放つ純粋無垢ともいえる透き通った雰囲気が全てを説明した方がいいんじゃないかと思わせられる。
「ロスト様、今のはたわいのない疑問です。迷惑でしたら無理にお答えいただく必要もありませんが」
「あ、ああ、大丈夫。ちょっと無駄に考えこんじまっただけだから。……しっかし普通か、改めて考えると難しいな…」
おれもアイリスと同じように顎に手を当てて考えてみるが、ポーズを変えたただけで答えが出てくるわけでもない。
「悪い、ダメだ。良い説明が出てこない」
「了解いたしました。ですがお気になさらないでください。私のような卑小の身から出た疑問などロスト様のお時間をいただくに値しません。今のことはお忘れくださ――」
「そんな言い方するな」
「ハイ?」
「あんまり、自分を卑下するような言い方しない方がいいって。少なくとも今の疑問は、おれの時間を使うくらいには大事だったからさ。そんな風に自分をすぐ貶めないでほしい」
昔から、自分を大事にしないやつは嫌いだ。
そこに至った理由は人それぞれで、声をかけるのもためらわれるほどの絶望に包まれていたのだとしても。
真っ暗な狭い部屋に閉じこもって膝を抱えて、窓の外を見ることも無く、そこから一歩も動こうとしないやつは特に。
「………」
別にアイリスはそんなつもりで言ったんじゃなかったんだろうさ。
他者と関わる時には自分を下にする癖、性質とでもいえばいいような話し方をする。それはきっと彼女が元居た場所では普段からして当然のことで、彼女なりの”普通”だ。
だからおれが怒るのは見当違いも甚だしい。むしろ彼女に対しての否定となってしまうかもしれない。
アッチからしたらちょっとした精神異常者かもしれないな。けれど、どうしても、そんな人を見ると言葉が出てしまう。
「あー、だから、さ。…なんていうんだろうな……」
かつて、失うはずだった小さな命を、尊厳を、ここに居るおれの全てに通ずる始まりを助けてくれた人がいたのだから。その想いに、報いたいと思ってしまうのだ。
「せめて、おれ相手にだけでもいいからさ。思いついたこととかは聞いてくれないか? その……、応えられるかは、分からないけど……」
これが、おれにとっての精一杯だ。
元々人付き合いがうまいってわけじゃないし、育ちが良いわけでもないからな。ぶっきらぼうにしかならない。でも、少しくらいアイリスに伝わったなら。それはそれで嬉しいと思うわけで。
「なるほど、ではこれよりロスト様のことは敬称を除いた、名前そのままでお呼びすればよろしいですね。了解しました」
「………、く、っ…」
あまりにも冷静にアイリスが返してきたから、一人で勝手に盛り上がっていたことを改めて自覚してしまって……、急に恥ずかしくなってきた。
「どうかされたのですか? 急に顔をそらすなど…。こちら側に何かございましたか?」
「なんでもない、なんでもないからのぞき込まないでくれっ。今見られるのはそこそこ…、結構キツイっ!」
「?」
(なぁにが「自分を卑下するようなことは言うな」だ! 今! おれがおれ自身をぶっ殺してやりたいわ! 意味分からない所で昔の事思い出しやがって、別に今じゃなくってもいいじゃねえかよ!?)
後悔先に立たず、覆水盆に返らず、何て言う言葉を考えた奴はそうならないように済む方法を考えてろよ。それでちゃんと後進に伝えておけよ。
うんうん唸っているおれを揺らぐことなく真っすぐな瞳で見つめたままのアイリスは、彼女なりに納得したのか。小さくうなずくとおれの背中に対して言葉を発する。
「そのようにおっしゃられるのでしたらこのままで。それでは落ち着くまでこのまま待機しておりますので、落ち着いたら声をおかけください。目は瞑っておいたほうがよろしいでしょうか?」
「それはどっちでも……、瞑っといてください…」
「ハイ」
きっと彼女は、おれには見えない位置でも律儀に眼を閉じているのだろう。
それでも、今が夕焼けじゃなかったらマジで危なかった。男女が一組いて、男の方が顔を真っ赤にしてるところ、誰かに見られでもしたら恥ずかしくて死んじまう。
けど、幸いの夕焼けは染まった頬くらい多少なら隠してくれる。
(はぁ……、変なテンションになっちまった。これから道案内もしなきゃならんのに、下手に意識してたら何も出来んぞ……。ふぅ…)
熱くなった血流を冷やすように、ゆっくりと呼吸をして少しだけ高鳴る心臓を落ち着けていく。深呼吸を数回終わらせる頃には顔の熱も引いてきて、ようやく面を合わせる準備が整った。
「はぁ……、ったく———」
少し自己嫌悪に陥りつつも、ようやく気持ちも持ち直す。
きっと律儀に待ってくれているアイリスだが、ずっと待たせておくのは男として非常にどうかと思う。
もう目を開けてもいいぞ。と口にしようと振り返った時、映った姿におれの瞳は釘づけにされた。
「………」
形を持った言葉は出てこない。呼吸さえ、忘れかけている。瞬きなど許されようはずもない。
「———」
最初に思ったことは清らかであるということ。
さっきと何も変わることなく、姿勢を崩すことないまま立ち続けるアイリスの姿は、まるで聖母の彫像とでも言うべき美しさを持っていた。
纏う純白の法衣は夕焼けで赤く染まっている。
色素の薄い髪と肌も同様だが、アイリスの持つ透き通る白さは、まるで水晶のように陽光を受けてなお透過して、彼女自身が透明に輝いているようにさえ見えるのだ。
「———」
言葉を発することは無い。ただ静かに、小さな呼吸音だけが風にかき消されることも無く耳に届く。
「………」
閉じた瞳の奥で、彼女は何を考えているのか。
知りたいと、思うわけじゃない。
そこに在る存在は純粋無垢に過ぎて、人が触れていいかどうかでさえ考えこんでしまう。それほどまでに、この少女の清らかさは完成されきっていた。
「ロスト様、…いえ、ロスト。何かありましたか? 動揺しているようですが」
「あ、ああっ。何でもないっ。ちょっと考え事してただけだ。悪かった、もう大丈夫だから」
瞳を閉じたままにこっちの様子を看過されるが、それでも勝手に瞼を上げようとしないのだから気真面目は筋金入りか。このまま、アイリスの姿を観察してみたい気持ちにも駆られたが、これ以上待たせておくのは忍びない。それに、このままだと日が暮れてしまうかもだ。
「そうですか。それでは——」
了承を得たアイリスは、光の眩しさに慣らすように少しずつ目を開く。すると、そこには落ち着き払った人間の少女が立っていた。
綺麗であることに変わりはないが、先ほどまでの光に包まれた少女はいない。
(なんか、テンションの高低が多すぎて変なもん見たかな……?)
自分の頭が心配になってきたが、それもこれも慣れない任務を押し付けられたからだろう。しかも人質だしな、おれ。
「さて、と。待たせて悪かった。じゃあどうしたもんかな。とりあえず荷物でも置きに行った方がいいか。ずっと持ってるのも大変だろ? 宿とってるならそっからだな、連絡とり合うにも場所くらいは分かってた方が良い」
「ありがとうございます。荷物と言っても着替えが数着入っている程度ですので、邪魔になる。というようなことはありませんが、そのお心遣いに感謝を。ですが、後者は難しいかもしれません」
「難しいって、宿が?」
「ハイ、事前に灯日に向かうと決まった時点で連絡をしてはいましたが、予定していた時間を大きく超えています。ともすれば宿泊を拒否される可能性もあり得るやもしれません」
「な、なんでそれをもっと早く言わないっ。そういうことなら急ぐぞ、えーっと、場所は何処だ!?」
「場所は私も把握しています。歩いて行けばここから十数分といったところでしょうか」
「落ち着いてないで行くぞ、お客さんに野宿なんてさせられるか」
「あ…」
想像以上に華奢な腕を傷つけてしまわぬように掴むと、アイリスの案内に従って歩き出す。
案内は正確で、灯日に来たのが初めてだとは思えない。そう伝えると、不思議そうに首を傾げ、『地図を見れば覚えられるのではありませんか?』なんてさも不思議そうに言ってのけた。
「記憶力が大分いいんだな、それなら宿の事だって忘れちゃなかったろうに」
「ハイ、フォムド様に案内をしていただいていたため、そちらを優先しておりましたところ、時間が過ぎてしまいました」
「……あの人…。どっか変なところとか行ってないだろうな…」
「案内していただいたのは中央駅から討滅局本部までの道中、主に食事処や賭場に準ずる施設を数件です」
「……あの人ってやつは……っ」
あれで本当に局長補佐とか任せてて大丈夫か? というかアレが上司でおれたちが大丈夫なのか?
疑念が次々湧いてはお茶らけた笑顔にかき消されていく。ダメだ、安心できる想像自体が今は無理だ。今度会うことあったら問い詰めてやろう。
「ロスト、こちらです」
「え、あぁ…ここか」
考え込んでる間に到着。リッカさんのお客さんということもあって大層な場所を想像していたが、目をやればどこにでもあるような小さな宿屋だった。ちょうど日も暮れてきたからか玄関に掛けられたランプが灯されている。
ここで止まってたところで意味も無いし、さっさと入って聞いてしまおう。ダメならダメで次の宿探さないといけなくなる。
「すいません、ちょっとお聞きしたいんですけど」
「はいはい、なんで……しょうか…」
「……あー、いや。おれじゃなくてですね。こっちの女の子、今日泊まることになってたらしいんですけど。予約の手紙とか来てないですか」
おれの方を見るなり態度がよそよそしくなる店主のおっさん。視線からして隠すことも無く不快感をぶつけてきている。このままいても悪いし、さっさと用事済ませて帰った方がいい。
「予約……ですか…? 少し待ってくださいね」
でっぷりと出た腹を揺らしながら受付の奥に向かうと、一冊の手帳を手に戻ってきた。
帳簿を開き、しばしのにらめっこをしていたがパタンという音とともに帳簿を閉じると一言。
「ないみたいですね」
「な、本当ですか?」
「疑ってらっしゃるんですか? 市民を護る圏士様ともあろう方が」
「あー……いえ、まさかそのようなことないですよ、ええ。その、だったら今日この子を泊められる部屋とか…」
「悪いんですけどね圏士さん、ちょうど埋まっちまったんですわ。出来れば他の場所を探してほしいですね」
「……そう、ですか。はぁ。分かりました。それじゃまた機会があればちゃんと予約させてもらいますよ。行くぞアイリス」
「ハイ、それでは失礼いたします」
「…ふんっ」
ご丁寧に礼をするアイリスの腕を取って宿を出る。
背後で機嫌悪く鼻を鳴らす店主の顔は、見えていなかったが容易に想像できた。
「運が悪かったですね。他の場所が空いていれば良いのですが」
「ああ、…そうだな」
追い出された以上、アイリスの為にもさっさと泊まる場所を探さないといけない。けど、嫌な予感だけはしっかりと感じていた。
「はぁ……、悪かったアイリス。おれのせいだ」
灯日の中央駅、その前面に広がる噴水広場。
街を染めた夕焼けは完全に沈み、空に月が昇る星明りの下。おれたちは噴水の外縁に腰かけていた。街灯が淡い光を放つ中、通りがかりの屋台で買ったパンをを手にし、ベンチに腰掛けたり、改札から出てくる人たちをぼんやりと眺めている。
すると、隣に座っていたアイリスが疑問を呈してきた。
「なぜロストが謝るのですか? 確かに部屋が一室も空いていないというのは非常に運が悪いと言えますが、それはロストの責任ではないと思うのですが」
「なぜって、そりゃあ……。おれが圏士だからだよ…」
「ロストが圏士であることと、宿に泊まることのできないことに何の因果関係が?」
「…圏士ってのは嫌われもんなんだよ。特に灯日じゃあな、ったく…」
食い終わったパンの包み紙を丸め、手の中で弄ぶ。そこらのゴミ箱に投げ入れようかと思ったが、さっきのおっさんみたいなのに目を付けられたらリッカさんの仕事を増やすことになる。それはちょっとダメだ。
「私はここに来る以前、圏士とは命を賭し『穢れ』の討滅を行うことによって市民に尊敬され、敬われる存在であると聞いていました。事実はそうでないと?」
「いつの話だよ、それ。元々その傾向はあったみたいだけど、問題として表面化したのは十三年前の『雷環戦争』から。圏士の身内、しかも最強の特級様が大暴れしてくれたおかげで討滅局の株は大暴落。しかもその頃から『穢れ』の出現率の跳ね上がったからな、市民の皆様から槍玉にあげられ続けてるんだよ」
『雷環戦争』
討滅局において最強の称号である“特級”を持った圏士が裏切ったことに端を発する。個人を相手にした戦争。ただ一人を殺害するために圏士全員が立ち向かうこととなった、灯日の悪しき記憶。
今まで自分たちを護ると思い込んでいた圏士が、無力な自分達には抗いようのない力を以って襲い掛かってきたのだ。
恐ろしかったろう。その上、相手は特級。人としての領域から隔絶された力の持ち主だ。その気になりさえすれば剣の一振りで街を焼き切る力を持った規格外だったのだから。それでも、討滅局の歴史最後の特級圏士は戦争で敗北し、死んだ。結局は人間に負けたらしい。それから今まで、裏切り者ほどの規格外は生まれていない。
戦力の足りない討滅局において喉から手が出るほどに欲しい戦力だけど、また暴れられたらと思うとたまったもんじゃないし、いなくてもいいかな。
「でも、裏切り者は始末されて十年以上経っても心の中に尾を引いてる。討滅局が取り壊しになってないのも『穢れ』の出現率が増えたからだ。対処できる人間がおれ達、圏士だけなんだから潰すに潰せない。ま、大分規模も縮小させられたみたいだし、今から圏士になりたがる奴もいないから、そのうち自然消滅するんじゃねえかな」
もう十年以上も前の話、圏士は『穢れ』を絶滅の縁にまで追いやったのだという。しかし、雷環戦争の後、奴らは急激に増加した。
その理由は定かじゃない。けれど、市民の中には討滅局が原因であるという声も多かった。
「ようは自分たちの仕事が無くならないように、特級様が『穢れ』を生み出したんじゃないか。もしくは今もなお生み出し続けてるんじゃないか。ってな? なんとも想像ってのは自由だよ。問題は想像でしかないのを大声で騒ぎ立てることだけど」
その“想像”が事実なのかどうか、おれには分からない。むしろ誰にも分かりはしないだろう。
けれど、理屈ではない。
ただ、自分たちの心の平穏を護る為、討滅局を、圏士を、瞳士を、糾弾する理由が欲しかったのだから。そして、それは今なお収まることを知らない。きっといつまでも続くんだろう。隊服着て街を歩くだけで白い目で見られるくらいならいいくらいだしな。今日の宿屋だってそうだ。
「アイリスだって気付いたろ、あのおっさん、おれが圏士だってことが分かった瞬間に機嫌悪くしてた。アイリスが泊まることができなかったのも、おれの連れへ嫌がらせしてやろうって魂胆さ」
「そうだったのですか。気づきませんでした」
「マジか、それはそれですげえな。ははは…っ」
「申し訳ありません、感情の機微には疎いものでして。正直に言えば、なぜ今ロストが笑ったのかも良く分かっていません」
「そりゃ大変だ。…にしてもどうしたもんかな。立て続けに断られたってことは、一帯の宿屋はもうダメだろうな。絶対手ぇ組んでる。泊まるのはおれじゃないって言ってるんだけどなぁ」
「灯日ではそのような状態になっていたのですね。私が聞いていた内容とは異なっていたため情報を修正しておきます」
「聞いた話って、元居た所だよな。…っていうかアイリスのことちゃんと聞いてなかった。灯日の外って言うと…、北? 東?」
「そうですね、任務に同行していただくのですから私の所属は明確にしておくべきでしょう。北か東か、その質問の答えは東です。私は『日環』、『教戒』の所属となりますので」
「ああ…、言われりゃあそうか。第一服装で気づけって話だけどな」
アイリスの纏う純白の法衣。
それは灯日の東に存在する海に面した都市『日環』において、『教戒』と呼ばれる組織の制服であった。おれも話に聞いたことがあるだけだったからその可能性自体、思いつきもしなかった。昔聞いた話によると、発足は十年ほど前に遡る。
雷環戦争によって増加した『穢れ』討滅に際し、討滅局の信用が地に堕ちたためにお目付け役をすることになった外部機関、だったか? 表向きは同盟ってことにはなってたと思うけど。
「いえ、私も圏士ご本人にお会いしたのは今日が初めてとなります。それまでは伝聞のみでお聞きしておりました」
「それでさっきの勘違いか。ま、そういう時代もあったんだろうさ。少なくともおれの生まれる前にはさ。今の状況はこんなんだけど、がっかりさせてないか心配になってきた」
「いえ、そのようなことはありません」
「そっか、ならいいさ。じゃあアイリスも『原型』持ってるってことか。戦えないのに派遣もされないだろ」
「ハイ、こちらです」
そういうとアイリスは法衣を少しめくる。その隙間からはちらりと黒い刃が見えた。そこそこデカそうな剣…いや、鉈かな。
『原型』の数に限りがあるとはいえ、討滅局自身で扱いきれない量を保有しているのだ。使わないものを仕舞い込んでいても意味はない。
そのため、教戒の発足時、討滅局が所持していた『原型』から百本くらいをアチラに明け渡している。使える人間自体が少ないとはいえ、強力な兵器足りえるモノを無条件で外部へ渡すのはなかなかの勇気だったろう。
世論に対して断ることができなかったともいえるが。討滅局は大前提、自身で護るべき信念として人々を護る、というのが最重要事項だ。そんな組織だったから、貧乏くじを率先して引いてしまうという悪癖もあるわけだが、変に邪道に走るよりかはずっといい。
「しっかし『教戒』が討滅局にまで出向くなんて何の用だ? その辺は今日の会議で誰も口に出さなかったし、……例の『穢れもどき』と関係が?」
「それは不特定多数の人間が歩く、ここで伝えることは不適切です。場所を変えるべきかと」
「あー…、そりゃそうだ。口に出したおれが悪い……」
正論で返されて、自分の不注意さに反省。言い訳など論外だから、ちゃんとアイリスに頭を下げる。
「——くぁぁ……」
背を逸らして、いつもと何も変わらない星空を見つめるが、灯日の中からでは外灯とかの人工光が邪魔をするせいで少し薄らいでいるように見える。
『穢れ』を追いかけてる時は当然、荒野で駆けまわることになるから星の光を邪魔するものは存在しない。人が生きているという温もりを持った輝きではあるが、同時に何処か冷たく感じてしまう二律背反を抱いている。
「それほど悩むようなことでしょうか。私は野宿でも構いません」
「女の子にそんなことさせられるか。どうしても無理ってなったら討滅局のどっか空いてる部屋でも使えば……って。あ、そうだ。キリエがいた」
「キリエ、様…とは?」
「おれの同期。同じ女だし、つんけんしちゃいるけど困ってる奴ほっとけるような人間じゃないから信用してもいい。キリエなら任せても大丈夫、のはずだ。まぁ、アイツの許可が出た上でアイリスが良ければだけど」
「私は構いません。もちろんキリエ様の承諾を得ることができるのであれば、ですが」
「よし、なら行くか。任務から帰ってるといいんだが……」
立ち上がり、アイツの住んでる方へと向かう。おれの住んでる場所からもそう遠くないから迷うことも無いだろう。
アイリスが付いてきてくれていることを確認して夜道を歩いていく。
「ん、どうした?」
すると、少し後ろを歩いていたアイリスとの距離が心なしか近い気がする。これまではわざわざ測ったかのように一定の距離を取っていたが、それよりも間違いなく近い。
さっきまでが腕を伸ばせばなんとか届くくらいだったのに対して、今は肩を並べると言っていいほど。急な変化に戸惑うが、さっきの会話で多少は信用してもらえたってことか?
「ロスト、一つ聞いてもよろしいでしょうか」
「あ、ああ…いいけど」
そして、おれの方へ迷いなき瞳を向けながら何かしらを問いかける。
「先ほど聞いた圏士の現状は私の知るものとは大きく異なるものでした。護られていながら守護者の背に剣を突き立てる行いを、どう考えても私は理解できませんでした。これは、感情の機微を悟ることができないことが原因なのではないのかとも考えたのですが、例え豊かな感情を持ちえたとしても答えにたどり着くことができません」
「ああ、それで?」
「理解には他の要素が必要なのか。それとも灯日に住む人間でなければ持ちえぬ素養があるのではないか。これまでに見聞きした内容を統合しましたが、やはり理解は困難です。つまり、私が聞きたいことは……。ロスト、なぜアナタは圏士となったのですか?」
「ああ、そういうことか……」
つまるところアイリスはこう言っているんだ。
『少量の利益より数多の不利益を被る行為になぜひた走ったのか』と。当然の疑問だろう。なんせ、圏士となることの純利があまりにもないのだから。
誰でもない者達の為に命を捨て、捨てた所で悲しまれることもない。生きて帰ったところで向けられるのは賞賛の声ではなく殺戮者の異名。
神の力を身に纏い、穢れた影に身を濡らし、殺せば殺すほど強くなっていく。それは本当に人間の域に残っている存在なのかと、彼らは恐れ糾弾する。
圏士がいなくなれば自信を護る者達は消え去ってしまうというのに、後のことなど考えているかどうかも怪しい。
「だというのに、なぜ圏士への道を選び取ったのかが分からない。アナタの進む道の先に、幸福があるようには思えません。その魂に祝福を与える存在がいるようには思えないのです」
だからこそ、彼女は分からないのだ。
誰から聞いたのかは知らないが、知る圏士の姿は栄光の時代、過去の遺物。遠くすたれた廃墟のガラクタ。その栄光を、今なお美しいと信じてくれているのだから。
そのアイリスが、知りたいと言ってくれたのだ。疑問をぶつけてくれた。
なら、約束通りおれもちゃんと答えないと。
「おれはさ、実に珍しい戦争孤児ってやつだ」
「戦争孤児…、雷環戦争によるものですか?」
「そ、とはいってもおれ一人だけなんだけどな。一般市民へ人的被害が出る前には何とかなったらしい。もしくは相手の特級様ににその気がなかったか」
「ですがロストの両親は亡くなったと?」
「んー、それが分からないんだな。おれは戦争以前の記憶はないし、おれの両親を名乗る人もついぞ現れなかった。んで、戦争後に圏士辞めるついでにおれを引き取ってくれた物好きがいてな。こっから汽車使って一週間以上かかるような田舎で育ったよ」
「そのままその場所で生きていこうとは思わなかったと?」
「思わなかった。なんとも、しっくりこなくってさ」
「望むものが無かったということですか」
「それは…どうだろうな。田舎って言っても生きてくのに問題はなかったし、別に都会に憧れがあったわけでもない。ただ、そうだな……。おれからも一つ聞くけど———。アイリスは初めて見た夢って覚えてるか?」
「いいえ、私は夢を見たことがありません。眠りとは無であり、人に許された唯一の安息です」
「あー……、悪い、そっちじゃなくて目標とか希望を持つ方の夢だよ」
それはそれで気になる話だけど、一々突っ込んでたら話が進まないので訂正。しかし、そちらにしてもアイリスに変化はなく、淡々と答えを返す。
「そちらにしても同様です。私は、夢を見たことはありません。『ただ、在るがままに』
それこそが私たち教戒の教えそのもの。身に背負うことのできない分不相応な願いなど人が持つべきものではないでしょう。その願いは自らの存在を破滅に導くものです」
「ふぅん、教戒ってのはそういう考えなのか、まあアイリスがそれでいいならおれが口出すことじゃない。で、おれの初めて見た夢だけど――」
戦争に巻き込まれ、眠りから目覚める前の全ての記憶が真白であったおれが、ただ一つ持っていた確かなモノ。
「思い返しても馬鹿らしいけど、『誰かの手を取りたい』だ。もっと言えば『全員を救いたい』。
おれは身寄りのない中で運よく助けられたけど、そうじゃないやつもいる。精神的にまいっちまって、ダメになったりとか。単純に『穢れ』に襲われたりとかな。ただ、そういう奴は総じて自分の殻に閉じこもってる奴らばっかりだからな。見ててムカつくだろ。私苦しんでます、どうか優しくしてくださいっていいながら他人への文句だけは一丁前。それだけのエネルギーあればマシな活動できるだろうって思うんだけどな」
「すみません、そこから圏士になろうとする考えに理解が至りません」
顔色一つ変わってはいないが、首をかしげるアイリスは納得できないらしい。というか、今の話を元にすれば、圏士になった理由がまともじゃないとしか思えないだろうよ。
「ははっ、まあそうだろうな。ただ、まあなんだ……。助けたいって、思ったんだ。おれみたいな身寄りのないヤツとか、生きる気力の無いヤツとかな。自分の力で立ち上がれない連中に手を差し伸ばして、少しでも胸張って生きられるようにしてやりたい」
「ですが、それは対象となる人からすれば迷惑と受け取られるのではないでしょうか。現に灯日の多くの市民は圏士を憎んでいる様子。『穢れ』からの被害を受け以っている圏士に対して、ロストの語った現状を加味した場合、感謝はされないと予測されますが」
「そうだなぁ、マジで面倒だよな。傘の下にさえいれば雨が当たらないと思ってんだから。助けた所で文句言われるか、助けられたことを理由にいじけて、一人で苦しみ続けてるんじゃないか?」
「それでは、ロストの“夢”は達成されません」
「別に、そう言うわけでもない。何度もいじけるってなら、何度だって引っ張り上げてやる。蹲ってるなら立たせるし、抵抗するならぶん殴る。…ってところか。こんな世界に生まれた以上、ここで生きるしかない。例え何があったとしても、それだけは間違いないんだ。だから、ここがお前の生きる世界なんだってことを分からせないとな」
静かにしておいてほしい相手からすれば有難迷惑でしかないが、ずっとふさぎ込んでるのは見るからに心身ともに不健康だ。それなら多少無理やりにでも引っ張り出してやった方がまだマシだと思ってる。
「そりゃあ偽善でしかないただの自己満足だ。褒められた考え方じゃないし、これが褒められてたらどうかと思うぜ? ただな、もし文句があれば受け止めて、その上でもう一回助けてほしがってるなら何度でも助けてやるさ。おれの言う『手を伸ばす』っていうのはそういうことで、最終目標で言えば……。そうだな、手の届く範囲全部を救いたい。ってな、馬鹿な夢を持っちまった訳だ」
よりにもよって、初めて見たこの夢は、今の今までずっと続いちまってる。
達成しようにもまだまだ力は足りないし、宿屋探すのも満足にできやしない体たらくだが、圏士になったことを後悔したことは一度も無い。
誰かの手を取り、救いたい。
例え上から目線の偽善でも、それだけは自身の心に誓うことができるのだから。
「なるほど…、ありがとうございますロスト。アナタの言葉、理解しました」
そうしてアイリスも、完全かどうかを表情から読み取ることはできないが理解はしてくれたらしい。真っすぐおれの目を見つめながら、彼女の至った考えを言葉として形にする。
「そのために圏士になったということですか。社会的利益と、ロスト自身にとっての望みは必ずしも一致するわけではない。身勝手で、図々しく、自己中心的な考えです」
「……そこまで言ってくれなくてもいいんじゃないか。おれだって何も感じないわけでもないぞ?」
「ですが。私は支持します」
「そりゃどうも、でも……いいのか? 『ただ、在るがままに』、なんだろ。おれのやってることってそれとは正反対だから例の教義とやらに反するじゃないのか?」
アイリスが教戒の教義を優先したなら、おれの考えなど一蹴して当然だ。
喜びも悲しみも怒りも憎しみも、ただそこに在るがまま。
人が人に手を差し出すなどあまりにばかげている。到底許されることではない
「——なんて言われるかと思ったんだけど」
「確かに、そうとらえることも可能でしょう。ですが、教戒の教えは画一的なものではなく、個人の持つ意思や思想を無碍に否定することはしません。ロスト、それはアナタに対しても変わりません。それに」
「それに?」
「方法は多少乱暴に聞こえますが、他者を救いたいと願うロストの考えは好感の持てる物でしょう。いつか、アナタの夢が達成されることを、私も祈っております」
「…そっか、嬉しいね」
本当にそう思ってるのかどうかすら怪しい言葉の平坦さだが、不思議と疑う余地はない。
身長差からして、こっちを見上げる形になるアイリスの瞳があまりに真っすぐで無垢にすぎるからか。どうにも、嘘を吐くだとか言葉に含みを持たせるという行為をするようには見えなかった。
そもそも、おれはアイリスと出会ってから一日も経っていない。まだまだこの少女のことを何も知らないようなものなんだから、断定しようっていうのがおかしい話だ。
(任務終わったらサヨナラだろうし、せめてそれまで仲良くできれば御の字だな。おれの人生、女心なんて分かった試しがない)
周囲の女どもは皆が皆して灰汁の塊みたいなのしかいないことを思い出し、少々の戦慄を覚えるが、ま、まあ大丈夫だ。良識は……あるからな。アイツらも…。
「ロスト、顔色が優れないようですが」
「あっ、ああ何でもない大丈夫だ。っとと、長話ししてたら着いたぞ。ココだ」
都市の外縁部に向かって歩くこと十数分。
街灯もまばらになり、消えかけたものも存在する暗闇の道の先には木造の集合住宅が建てられていた。
この辺りは灯日北西部の工場地帯も近く、日夜遠からぬ距離から機械の駆動音と振動が微かに響き続けるという最悪な立地条件である。しかし土地代は安く、誰も住みつこうとしないのも事実だ。
そのため、ここらには討滅局管理の宿舎というか寮が数件建てられていた。
「確かキリエの部屋は……。よし、とりあえず電気はついてるな」
その集合住宅の内の一つ。
多くの部屋が暗がりの中で唯一灯りの漏れた一室。あそこがキリエの部屋のはずだ。
「相変わらず灯りが切れてるな。直す気もないんだろうけど」
沈黙して久しい、玄関ドアのランプに目をやりながら正面ドアに手を掛ける、こんなところにまで盗人はやってこないためか鍵はかかっていなかった。
暗がりの広間には特に何も置かれておらず寂しい印象を与えられる。他にも人が住んでいれば、生活の痕跡みたいなのが見れるんだろうがどうにもここに住んでるのはアイツだけらしい。
「しっかし古いな。床が落ちそうだから気ぃ付けろよ」
「ハイ、ありがとうございます」
ギシギシ音のなる廊下からして、建てられたのはずいぶんと昔だ。電気のついていた部屋は二階の端だったが、その階段も足を乗せればわずかに軋むのだから不安しかない。
階段を上ると、廊下の奥からかすかに灯りが漏れていた。外から見えた場所に違いも無いし、あの部屋だろう。
「キリエ、遅くに悪いんだがいるか。頼みごとが——。っと…、なんだ?」
ドアをノックしつつ声を上げると、向こうでドタドタと慌ただしい足音が響く。壁が薄いとかいうわけでもないらしいが、いかんせん他に人が住んでいない以上は音を遮るものも無い。
「ちょ、ちょっと待ってて! 勝手に開けちゃダメだからねっ!?」
「あ、ああ……」
ドア越しに伝えられた声は酷く焦っていて、今この瞬間もあわただしく部屋を駆けまわっているのが伝わってくる。
「何かあったのでしょうか」
「つっても、開けるなって言われた以上なんとも出来ないぞ。まあ怪我してたりするわけじゃなさそうだし心配しなくても大丈夫だとは思うけど」
そうやってドアの前で待つこと数分。
ようやく音も静まったころ、向こう側からゆっくりとドアが開かれた。
「ロスト……、なんの用よ」
ほんの少し開かれたドアの隙間、そこから顔を半分だけのぞかせたキリエはおれへ恨めしそうな視線を向けてきていた。
「あー……、頼みごとがあってきたんだが、今大丈夫か? 無理そうなら他をあたるけど」
「無理じゃ、無いわよ。急だったからちょっと驚いただけで。…ふぅ……。入る?」
「ん、まぁ…。入れてくれるなら」
「入れるつもりもないのに聞かないわよ。ロストはもっと女心を読みなさい」
「へいへい」
ようやくの落ち着きを取り戻したキリエは一息つくと、握り締めていたドアノブを離し、此方へゆっくりとドアを開いてくれた。
「まったくもう、来るにしてもタイミングっていうのがあるでしょ? せめて言っといてくれたら私だってもう少しましなカッコ——、誰、その子?」
ああ、そうか。隙間からはおれしか見えてなかったんだろう。
開き切ったドアからは、おれだけじゃなくアイリスが並んでいるのがようやく分かった。見ず知らずの相手が知ってる相手と並んでいる。
その状況に頭の回転が追い付かないキリエと違い、アイリスは相も変わらず冷静沈着、まずは自己紹介を始める。
「初めましてキリエ様。アイリス・マトラと申します。此度はある事情によってロストのお世話になっております」
「は、はぁ……。えーっと…、見せつけ?」
「んなわけあるかっ。局長の客だよ、訳あっておれが街案内することになったの」
「でもその服、教戒の人間でしょ? なんでアンタが……?」
「悪いけど、そこは言えないぞ。っていうか事情についてはおれも良く分かってない所があるからな。説明しようにも無理だ」
「ハイ、ロストの言う通りなのです。現状は機密事項も取り扱う事態となっておりますので、キリエ様の納得される説明は難しいやもしれません」
「……それで、その教戒のアイリスさんと、三級のロスト殿は一体私に何の用なの?」
「言い方に棘があるぞ、キリエ三級……。はぁ、ってか入ってからじゃダメか? 立ちっぱなしはちょっと辛い」
「いきなり女の子の部屋に来て入れろなんて無茶苦茶いうわねアンタ……。けどそうね、仕方ないから入れてあげる。アンタは特に感謝しなさいっ」
「そりゃどうも、心が弾けて空飛びそうだ」
「ロスト、その言葉の選択ではむしろキリエ様を怒らせてしまうかと」
「ああもうっ、さっさと入りなさいったら」
開け放たれたドアはこちらを拒んではいないし、お言葉に甘えてさせてもらうとしよう。
内装も外装も朽ちかけの建物だったが、部屋は結構広い。人一人住むには少し持て余すかどうか。ってところ。
床には白を基調としたカーペットが敷かれており、家具も同様に白系。機能性を重視しているようでいて、何処と無く可愛らしさを優先したであろうチョイスには、キリエが女の子であるというのが伝わってくる。
ベッドにはぬいぐるみが数体置かれているが、何とも言えない造型のものばかりなのはアイツのセンスがズレてるってことなのか。
そうして部屋を人とおり見渡した時、ふと石鹸の匂いが鼻をくすぐった。
「ん? キリエ、お前風呂入ってたのか?」
「そうよ、お風呂上がりでいい気分だったのにロストが来たせいで逆に汗かいちゃった」
さっきは部屋からの逆光でよく分からなかったが、キリエをよく見ると髪は薄っすらと湿っていて、肌もほんのり赤く染まっていた。
「…そういうことなら言ってくれりゃその辺で待ってたのに」
なんというか、一度意識してしまうと気になってしまうもので。
風呂上がりの女の子の姿というのはどうにも色っぽい? 艶やか? しなやか? ……みたいなところに気が行ってしまう。
「ふぅ、タオルタオル。髪の毛乾かしながらだけどいいわよね。で、頼み事って何だったの?」
キリエは首に掛けたタオルで、髪についた水滴を吸い込ませながらも茶の準備をしてくれている。完全に休みだったのに、こういうところは本当に真面目な奴だ。
「んっ、あ、ああそれな。そうそう、この子の…アイリスの事なんだけど」
「改めて、アイリス・マトラといいます。この度は急な訪問となってしまい申し訳ありません。私の名を呼ぶときはアイリス、とお呼びくだされば結構です」
「そ、アイリスね。じゃあはい、取り置きの冷たいのだけど文句は受け付けてないわよ。私だって準備する時間があればもうちょっと……。いいや、こんなこと言ってても仕方ないし」
ガラスのコップに注いでくれたお茶は冷えており、冷蔵庫から取り出したってのが良く分かる。こっちも急に来ておいて湯を沸かせとまでは言うつもりもない。
「アナタの優しさに感謝を、キリエ。いただきます」
「ありがとう、もらうよ。で、頼みってのが、一晩…いや今日と明日、アイリスを泊めてやってもらえないかなー……、なんて」
「……ケホッ、な、なんでそうなるのよっ」
ちょうど口に運んでいた茶をせき込むキリエは良く分からない。なんて顔をしていて、そりゃ当然だと思う。おれだって見ず知らずの相手を泊めてやってほしい、だなんて言われたらこうなるだろうし。
「おれが昼に呼び出された時の任務の関係で、アイリスも遠路はるばる日環から来たんだけどさ。フォムドさんの手違い、みたいなので泊る所が無くなった」
「あぁ…、フォムドさんね…。でもそれじゃあ案内頼まれたアンタが新しいところ探してあげればいいんじゃないの?」
「探していただきましたが、ロスト曰く圏士は街の嫌われ者だと」
「そういうこと…。最近、都市間の移動中に襲われる被害も増えてきちゃってるからね。向こうも不信感を持ってるって事かしら」
「なるほど、仕方ない。なんていうのはいけないがタイミングも悪かったか。おれたちがしっかり航路守ってりゃ被害者も出なかったってな」
「その宿屋の人の知り合いが死んじゃったのか、単純に客足が減ったから。なんて理由かもしれないけどね」
「あー…まぁそれでだ、男のおれの部屋に泊めるのは最終手段だし、そうなると頼めるのはお前くらいしかいない。別に悪い子じゃないし、日中は街の案内とかで外出てるからさ、何とか頼めないか?」
「そうねぇ……」
手を合わせて頭を下げてみるが、キリエは訝し気な表情でこっちを見ている。なにやら引っかかる所があるらしい。
でもこっちも無理な頼み事してるのは承知の上だから、無理なら無理で諦めるしかない。最終手段はおれの部屋だが……。
「キリエ様、ワタシを部屋に受け入れるという行為が、もしもアナタの生活に損害を与えるのであり、無理を通そうとされているのであればおやめください。私も野宿の経験はありますので、そうそう体調に異変をきたすようなことは——」
「おいアイリス」
他者を優先するのは美徳かもしれないが、そのために彼女が損を被るというのはよろしくない。経験があるからって言っても、進んでするものでもないだろうし。
現時点で決定権を持っているキリエは大きな瞳をぱちくりさせ、少しだけ笑う。
「あはは、違うの、そうじゃなくって。その“極秘任務”ってどんなのだろうって気になってたのよ。聞いてみたいけど…言っちゃダメなんでしょう?」
「おれはほぼ人質だからな、何とも言えん」
「申し訳ありませんキリエ様。私からも申し上げることはできません。ですが調査任務、ということであれば構わないかと」
「へぇ調査任務かぁ……。ま、それだけじゃ分かんないわね。ジャイロなら何か感づくかもしれないけど、しばらくは灯日の外で任務らしいし」
「なんだ、アイツが野宿か。大変だね、期待の新人も」
「っていうかロスト、アンタの人質って何よ。なに、教戒に売られるの?」
「ちがわい。…いや、質にいれられてるって意味ではあってるかもしれん…。ええっと、アイリス、これは言っても大丈夫なやつなのかな?」
「それくらいでしたら構わないかと。もちろん悪意ある人物であれば契約を悪用する可能性もある為、信頼のおける人物に限定されますが」
「じゃあ大丈夫だな。キリエはその点問題ない」
「———っ、……」
「ん? どうしたキリエ、そっぽ向いて」
「なんでもないわよ…。なんだかちょっと熱くなってきたから窓開けるわよ」
「あ、ああ」
開けるだけで軋む音を響かせる窓を解放し、夜風を取り入れる。
風呂上がりの熱が残っていたらしいキリエはそこで数度深呼吸をするとすぐに戻ってきた。やっぱりタイミングが悪かったか。もうちょっと待つべきだったな。
「はい、もうダイジョブ。で? その人質って何なの?」
「ああ、それがさ——」
「アハハハっ、なによそれ。極秘任務なのに強いからじゃなくって弱いから選ばれるだなんてっ。くふふ…っ、おっかしい…っ」
「キリエ様、本任務の履行迄には幾度もの話し合いが行われました。その結果、ロストが選出された事は適正であることに誤りはないと、ここに進言させていただきます」
「そう、そうよねっ、うんうん全然問題ないと思うっ。良かったわねロスト、あなたにぴったりの仕事があって!」
「性格悪いぞ、それでも元お嬢様かよっ」
おれが今回の任務に選ばれた理由を聞き終えたキリエは笑い転げ、すっげえ良い笑顔でおれに指差してきやがる。
「このヤロウ…、そのうち絶対にギャフンと言わせてやる……」
「アンタの前でそんなこと言うわけないじゃないっ、もしもそんなことがあれば何でも好きなもの奢ってあげるわよっ!」
「言ったなテメェ! その言葉忘れんなよ!?」
「えぇえぇ言わせていただきましたとも? ま、そんなこと有り得ないんだけどねー」
「ぐぬぬ……」
「ふっふっふ…」
「くぁ…、あ……」
「「ん?」」
他の部屋に誰もいないことをいいことに、二人して発熱した戦いを繰り広げていたが、ふと耳に届いた声によって中断されることとなった。
「いえ、お気になさらないでください。今のは只の生理現象によるもの、なのでお二人の邪魔をするようなものではありません」
あくまで何の問題も無いと、姿勢正しく声色涼やか。清廉潔白を体現した少女はおれ達のバカ騒ぎなど気にも留めていない。だが、そう言うアイリスの目が半分以上閉じているのだけは、他が完璧なだけによく目立つ。
「……まあ、もう遅いしな」
「そうね、じゃあアイリスは灯日にいる間は私の所に泊ればいいわ。そこのロストが嫌なら部屋に閉じこもっておけばいいから」
「……ハイ…、ありがとう…ございます……キリエ、様」
他にも限界が近づいているのか、頭を支えきれなくなってきた体はコクリコクリと睡魔によって陥落寸前だった。放っておけば、このまま床に倒れ込む勢いだ。
「はいはい、とりあえず横になっておきなさい。日環から来たなら長旅で大変だったでしょ」
眠りと同時、床に激突させるわけにもいかない。倒れる前にアイリスを横にさせたキリエはシーツを掛け、机の上のコップを手際よく片付けていく。
由緒正しいお嬢様って話だが、こういう姿を見ているとキリエには悪いがとてもそんな風には思えない。おれとしては高慢ちきな世間知らずよりずっといいと思うけどな。
「他にベッドとかあるのか?」
洗い物をさっさと済ませるキリエの隣に立つ。アイリスはすでに寝息を立て始めていて、その声も水音にかき消されていく。
「ううん、とりあえず今日は私のベッドに寝かせる」
キリエは、コップを三つとも洗い終わると台所に背を向け、腰を預けた。
二人してアイリスの方を見ながら、目線を合わせることなく話を進める。
「じゃあお前どうするんだ?」
「床で寝るしかないわね。ま、シーツは何枚か替えがあるから風邪ひくこともないわよ。それにこういうのは慣れてるから」
「あー…、悪いな。急に来たのに。断っても良かったんだぞ?」
「あんな可愛らしい子をアンタの部屋に泊めさせるわけにもいかないでしょ。襲ったりしたら大変じゃない」
「誰がそんなことするか」
「そうねー、誰かしらねー。ふふっ」
「お前なぁ。…にしても、慣れてるってのは床で寝るのが? お前お嬢様のはずだろ」
「そ、子供の時だけどね。三つ下の妹がいるんだけど、ちっちゃい時はおてんばでね。私も良く一緒になって遊んでたけど、遊び疲れるといつも私より先に寝ちゃって。私もお姉ちゃんだから頑張ってベッドまでは運ぶのよ? でも、運び終わるともうダメ。ベッドに上がる間もなくそのままぐっすり、なんてことはよくあったの。……ふふ、懐かしいわね」
「なるほどな、その妹とは会ってるのか?」
「ううん、たまに手紙のやり取りだけ。あの子、俗にいうお嬢様学校に通ってるんだけど、あの子がおしとやかに、なんてできてるかどうかが心配で心配で……」
「なるほど…。でも、そう言う割には笑ってるんだな?」
「誰だって、家族を大切に思ってるなら当然の事よ。ロストの場合は、その育ててくれた人になるのかしら」
「うーん、そうだなぁ」
言われてみて、最初に思い出すのは彼女の活発さを体現したかのような赤い髪。その次にはにかむような笑顔。で、マズい飯だった。
「まあ確かに、アイツにはよく笑わせてもらったよ。手紙も送ってこないけど、あの店まだ続いてるのかね」
「そういうのはアンタから送るの。その方は、急な連絡は煩わしいと思われるかも、って気を使ってるのかもしれないでしょ。アンタも子供じゃないんだから、気を回すくらいして見せなさいな」
「あー…、そうだな。うん、また気が向いたら、だけど」
「ま、それでいいわ。気が向かないよりずっといい」
「ああ、そうだな」
「「——————、………」」
「「あの……」」
「…なんだよ」
「……べつに」
いかん、沈黙が続いたからって変な空気になってしまった。帰ろうかと思ってた矢先とはいえ、ちょっと気まずい。
「………」
「…………」
「あのさ」
「っ、なによ」
「アイリス、ベッドに上げといた方が良いよな」
「そ、そうね。でもいいのよ? 私がやっておくし、男のアンタに任せたら変なところ触ろうとするかもしれないし」
「しねえよ」
「どうかしら」
「「………ぷっ、はは———」」
意味の分からん沈黙も、いつもの軽口で吹き飛んでいく。
ああ、確かにキリエはお嬢様然としてるよりこっちの方がずっといい。少なくともおれはそっちの方がいいと思う。
「よっと、悪いな疲れてたのに連れまわして。また明日来るよ」
「……すー、———すー……」
完全に眠りこけているアイリスをベッドに持ち上げ、シーツを掛ける。この様子じゃ朝まで起きやしないだろう。
「さてと、それじゃあおれも帰ろうかね。キリエ、今日は助かった、ありがとうな」
「いいのよ、困ったときはお互い様ってね。借りはまた今度返してくれればいいから」
「ああ、そうする。しっかし、本当に何もないんだな…」
ベッド脇の窓から流れ込む夜風はただ静かに、カーテンを揺らしている。
窓の向こうに見える景色は何もない、枯れた大地と灯日を隔てる壁。そして遠くで今なお稼働し続ける工場の灯りだけだ。
華やかさの欠片も無い場所だが、それでも夜空に浮かぶ星の輝きだけはここからでもよく見える。
「いいところだな」
「センスいいのよ、私」
「そうらしい。今住んでるところ追い出されでもしたら引っ越してくるかね」
「ロストが追い出される前に建物自体潰れちゃうかもしれないけどね。この前も床が抜けそうになったし」
「ははは、ならそうなってなかったら、にしとくよ。それじゃあ邪魔した、明日の八時ごろに来れば問題ないか?」
「ええ、その時間には任務で私は出てるけど、アイリスには合いかぎを渡しておくから問題ないわ。ちゃんと案内してあげるのよ」
「まぁ、それなりに……。街の案内ってどうやればいいんだ?」
「それはアンタが考えるの。ほら、私も寝るんだから帰りなさいっ。じゃあまたね。今度ご飯でも奢ってくれればいいから」
「はいよ、じゃあなキリエ。またその内な」
「ええ、アンタもねロスト。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
玄関までの見送りを受けてキリエの部屋を去る。
ドアが閉まると同時に、差し込んでいた光は閉ざされて真っ暗闇に立ちすくんでいるかのような錯覚を覚える。
「さて、と。おれもさっさと寝ないとな。案内に遅れようもんなら何言われるか……。いや、アイリスなら何も言わなそうでそれはそれで怖い」
ギシギシ音を鳴らしながら古びた廊下を歩いていく。おれ以外に誰もいない廊下の上、灯りも何もないような場所だが、それでも光はある。月は建物の影に隠れているが、この場所にまでその輝きは届いている。
地上を朧に照らす柔らかな光はおれ相手にでも平等に降り注いでくれるらしい。
普段、夜でも明るいところにいると薄明りってのは見えなくなってくるからな。任務の無い日でも、偶にならこういう日があってもいい。
「うん、いい日だった」
今日の出来事、意味の分からない任務にほっぽりこまれた上に、仲間は怒りっぽいハイネと、考えが読めないアイリスと来た。でも、今日は月が綺麗だったからそれでいい。
「これもこれで、終わりよければ。ってか」
この手が誰かを救うことができているのかは分からないが、とりあえず野宿しようとする少女を救ったと言えるのだから。まあいいだろう。
おれの夢はまだ、始まったばかりだからな。
「————っと」
自宅へ帰る道すがら、一陣の風が吹き抜けていく。結構強かった、帽子でもしてたら飛ばされてたかもしれない。
「む」
第二陣に備えて身構えるが、結局はその一度だけ。
誰もいない夜道で一人、拳を構えているのはあんまりにも馬鹿らしい。まだその辺の奴に指差されて小ばかにされてる方が、この気持ちの行き場もあろうってのに。
「人騒がせな……」
なんだか気恥ずかしくて、さっきよりも少し早く歩き去る。
その時は気づかなかった。いや、気付いたとしてもそれだけ、その先の意味までは理解できなかっただろう。
一陣の風、その大元。この枯れた世界で唯一、自然の命に溢れた円環。神域の森、その中心からだったということ。そして今、その最奥には穢れた命が眠りについていることを話として聞いていたが、彼は理解していても実感はしていなかったのだから。
だからこそ、此処で気づけなかったのも仕方の無かったことだ。彼だけではない、他の誰もが気づくことは叶わなかった。誰が悪いわけでもない。誰かの罪であるわけでもない。
しかし、最初で最後の機会を見過ごしてしまったことに対する罰。それは理不尽に、平等に与えられる。そこに強者も弱者も関係はない。
彼自身、例外であることなどありえはしない。
自らの命を賭して、圧倒的存在に刃を振るう運命へと巻き込まれていくということ。そのことを彼自身が気づくまでの時間は、もう迫ってきていることに。
『本編について』
・キャラの名前について
自分の書く作品全体に言えますが、大体命名はキャラが出てきてから決めたりすることが多いです。そのため大体適当ですが、圏士シリーズのキャラは名前のどこかにコーヒー関係の名称が入っています。
今回でいえばアイリスですが、
アイリス・マトラ → ス・マトラ → スマトラ
……みたいな感じです。前作は何も考えずそのままつけていましたが、流石に今作では多少弄ってます。
『定期連絡』
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