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終章

 「――かね、おい、あかね、大丈夫か?」

 激しく体を揺すられて大声で声を掛けられていたのに律花が気が付いて、ぼんやりと目を開くと、見覚えのある顔が目に入った。朦朧とした頭の中から、必死にその顔の主を探りだす。

 「……三太?」

 咄嗟に出たのはそんな名前。その人は、もう死んでしまったというのに。

 「なんだ、三太、生きてたんだね?」

 そんな言葉に、相手はなんとも複雑な顔をした。

 「しっかりしろよ、あかね。何度も言ったろ? 俺は三太じゃない、お前を陥れたヤツとは違う。俺は孝志だよ」

 ―――孝志。

 律花はぼんやりとしたまま、頭の中でその名前を反芻する。

 ―――孝志。保科、孝志。

 ようやくその名を思い当たるに至って、大きく目を見開いた。

 次の瞬間、がばりと横たえていた身を起こす。

 「保科?」

 体を起こした勢いで、濡れた髪がばさりと跳ね、水滴が跳ぶ。それと共に、塩素消毒液の独特の臭いが鼻についた。

 律花は慌てて周囲を見渡す。

 目に入ったのは、夕闇に呑まれて薄っすらと暗い中にある、以前なら恐怖と共によく見慣れていた筈の四角い、水を湛えた大きなプール。離れたところにシャワーと更衣室が見え、自分の下にあるのは柔らかい草でもなければ土でもない、妙な弾力性を持ったゴムのプールサイドだった。

 「なに、これ……」

 律花は愕然とした面持ちで、そう呟いた。

 ―――どういう事?

 頭が混乱する。

 ―――どうして?

 その時になって、ようやく目の前にいる人物も律花の異常に気付いたようだった。

 「あかね? どうしたんだ、本当に。大丈夫か?」

 ―――あかね?……朱子。

 「どうして、保科がその名前を知ってるの?」

 尋ねた声は他人の声のようだった。

 「私は、朱子じゃない」

 その言葉に、今度は保科が驚いた顔をした。それから、顔を青褪めさせて恐る恐るといったように質問する。

 「お前、もしかして……川名か?」

 律花はこくりと頷く。

 保科はどこかショックを受けたような顔をして、ぽつりと言った。

 「じゃあ、朱子のやつ、本当に帰っちゃったのか」

 ―――これは、朱子の仕業?

 見渡す場所に、律花が居た場所の面影はない。どんなに探しても、求める人の姿が見付からない。

 ―――私は、あちらを選んだのに。

 悩んで悩んで、そうして決めたのに。それをこうして、いとも簡単に無駄な事にしてしまう。

 こんなに唐突に、こんなにあっさりと。まるで律花を嘲笑うかのように。

 ―――朱子。

 律花はぎりり、と奥歯を噛み締める。強く握った拳で、ゴムの地面を叩く。目から熱い物がこぼれ落ちた。

 「朱子、朱子……」

 恨みを込めて、ただそれだけを呟く。赤く腫れた拳の痛みさえ感じられないほど、その怒りは激しい物だった。

 保科はしばし呆然と、その姿を見つめていた。 


 律花の中に朱子が居た一年間、律花は記憶喪失という事になっていたらしい。どうやら朱子の事情を知っていたのは保科だけのようだった。

 散々泣いた後、律花はお互い無言のまま、保科に送られて家に帰った。制服のままずぶ濡れで帰った律花を、母親は始め、驚きと心配の入り混じった顔で出迎えたが、律花の記憶が戻ったと知るや涙を流して喜んだ。喜んだのは、父も兄も同じで、その日は別の場所で一人暮らしをしている一番上の兄も家に呼び戻されて、盛大にお祝いをしてもらった。母親は、親戚や学校の先生に電話をして、涙をまた流しながらお礼を言っていた。

 そんな光景を、律花はどこか現実感を伴わない感覚を覚えながら見ていた。

 家族に話しかければ笑いもする、話もする。ただ、自分が話しているという意識は全くなくて、自分が呆けている間に体が勝手に話したり笑ったりをしてくれているよな、そんな空虚な感じを受けた。

 ―――きっと、あまりにも唐突すぎたからだ。

 あんまりにも突然で、びっくりして、きっと意識の半分くらいを向こうに忘れてきてしまったのだ。

 折角家族に会えたのに素直に心のそこからはしゃげない、そんな自分が悲しかった。


 次の日学校に行くと、友人達も皆、律花を囲んで喜んでくれた。普段クールな美佳が涙ぐんでいたのには嬉しかったが、それでもやはり律花はずっと現実味を感じられないでいた。

 ずっとこうして、14年間はここで生活をしていたのに、経験した一年があまりにも鮮烈で、そこから抜け出せない。

 ―――それに。

 ふと気を許すとすぐに浮かぶ姿がある。その人に会いたい、と心底思う。その人が側にいないことが現実だとはとても思えない。涙が出そうになる。

 律花は学校が終わるとすぐに図書室に向かった。目指す場所は図書室の『歴史』のコーナー。彼らがあの後どうなったのか、知るのが恐くなかったわけではないが調べずにはいられなかった。だが。

 ―――そんな。

 律花は数多の歴史の参考書や辞書を引いて途方に暮れる。

 1560桶狭間の戦い。

 1570姉川の戦い。

 1575 長篠の戦い。

 1582 本能寺の変。織田信長、死す。

 歴史は律花が変えた事実などそこには存在しないように、その人の名をそこへ刻み付けていた。そして、隅々まで探しても、篠田という文字は見付からなかった。

 歴史の先生に大急ぎで尋ねて、もっと詳しい本ならば載っているかも、と言われて次の休みの日に大きな図書館まで電車を乗り継いで行った。家族に不審な顔をされても、確かめずにはいられなかった。自分の居た場所、そこにいた人達が確かに存在した事を。

 大きな図書館の、分厚い辞典に載っていた篠田の項は僅か1ページにも満たなくて、それには八尋の父親の義任の代で内部の争いのために潰れた、というような事が書いてあった。

 律花はしばし呆けたようにどんなに見つめても代わり映えのしない本を見つめ続けていた。

 ―――じゃあ、あれは何なの?

 律花のいた場所は。確かに、存在して生きていた人達は?

 その笑顔も、手の温もりも、名を呼ぶ声も覚えているあの人達は、何だったと言うのだろう。

 ―――存在しなかったなんて、そんなはずない。

 みんな、鮮やか過ぎるほど鮮明に、律花の脳裏に刻み込まれている。

 律花はやがて図書館を飛び出すと、急いで帰路に着く。

 ―――そうだ、保科。

 あれ以来一度も話していなかったけど、保科ならば、何かを知っているはずだ。だって保科は朱子の事を知っていたのだから。そして、それこそが律花のいた場所が夢でも幻でもない証拠そのものだ。


 チャイムを鳴らして出てきた保科の母親に頼むと、母親は快く保科を呼んでくれた。愛想の良い笑顔で律花に笑いかけてくれる感じの良い人だ。

 対して出てきた保科は、律花の覚えている明るい表情ではなく、今は思いつめたような顔をして玄関に立つ律花を見ていた。

 「ちょっと、外を歩いてくる」

 そう、母親に言い置いて、律花を促すようにして外に出る。律花も黙ってそれに従った。

 「……川名、お前、朱子の居た所にいたのか?」

 しばらく二人して黙って歩いていたが、口を切ったのは保科だった。律花は頷く。そして、尋ねた。

 「なんで保科だけ朱子の事を知ってるの? どの程度知ってる?」

 その言葉に、保科は少し困ったような顔をした。

 「まず、一つ目の質問な。これは、朱子が自分で話したからだ。でも、それは朱子が俺の事を信頼したからとかではなくて……」

 保科はこう、自分で言っておきながらその言葉に一瞬、傷ついたような瞳をした。それから、もう一度「そう言うわけではなくて」、と言う。

 「俺が朱子の恨んでるヤツに似てたらしくて、朱子がお前の体に入ってすぐ位に、俺、殺されかけたんだよ。首を、こう」

 と言って保科は自分の首を絞める真似をする。

 「だけどまあ、流石に男と女の力の差だから殺される事にもならなくて、それで逆に問い詰めたんだ。そうしたら、俺がアイツを陥れた、とか意味の分からない事言いやがって。俺はハッキリ言って引いたぞ? 記憶喪失だけじゃなくて、お前の頭がおかしくなっちゃったんじゃないかって」

 その言葉に、律花はなんとも言えない顔をした。保科はそんな律花にお構いなしで続ける。

 「だけどアイツ、何度も俺の事、三太ってうわ言みたいに呼ぶから、誰かと間違ってるんじゃないかと思って違うやつだって訂正したんだ。それでも、なんかしばらく疑ってて……まあ、それでそん時はそれ以上危害を加えてくる感じもなかったから、まあいいやってそのまま帰したんだ。でもさ、アイツ、お前と全然違うんだよな」

 保科がしみじみと言うので、律花は当たり前のように頷く。

 「そりゃ、別人だもの」

 その言葉に、保科は苦笑した。

 「そうだけどさ、なんつーか、タイプが正反対っていうの? アイツはお前みたいに明るくもなくて、愛想も良くなくて、おまけに可愛げがないときたモンだ。だからさ、いざ学校に来て、みんなも記憶喪失って事は知ってても、あまりのお前の変わり様に度肝を抜かれたワケだ。以前仲良かったヤツがどんなに話しかけても、ツンケンして全然口を利かない。しかも、なんつーかな、すっごく棘々してて、回りを見る目が皆敵を見るような目なんだ」

 その言葉に、律花が即座に思い浮かべたのは出会った当初の八尋だった。朱子もまた、八尋と同じように、周囲の信じていた人全てに裏切られて、人を信じる事ができなくなってしまったのだろう。

 「それで、何日かそんな状況が続いたんで、流石にお前とも昔からの付き合いだし、目も当てられねえな、と思ってしょうがないから声をかけたんだよ」

 そう言って保科は何かを思い出すように苦笑する。

 「もう、俺に対する敵意ったら周囲に対するヤツの比じゃなくてさ、近寄るなオーラが流れてるんだよ。それでも、なんとか気を引く事がねえかな、と思って。そん時、三太って名前を思い出して口に出してみたらビンゴ、すっごい反応でさ。それで、事情を聞きだしたんだ」

 そこで、律花は少し首を傾げる。

 「よくそんな素直に話してくれたね」

 その質問に、保科は居心地悪そうに視線を逸らした。

 「ああ、まあな……」

 「何かしたの?」

 更に重ねて問いかける律花に、言い逃れできないと腹をくくったのか保科は悔しそうに頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜてから、渋々と言った感じで言う。

 「これはもう過去の事だから言うけどな? 俺はお前が好きだったんだよ。それが、どうもお見通しだったらしくて、こう、しつこく聞く俺に売り言葉で買い言葉、みたいな感じに『私はあなたの好きな律花って子じゃないわよ』ってな」

 律花が驚いた顔をすると、保科は苦笑いをした。

 「いいよ、もう過去の事だから。お前が全然気付いてなかった事も、俺の事など恋愛対象外だった事も知ってるよ」

 わざと拗ねたように言ってから、話を続ける。

 「まあ、そんなわけで朱子に事情を聞きだしたわけなんだけど、俺の感想としてはやっぱこいつヤベーかも、プールで相当打ち所が悪かったんだな、って感じで、全然信じてなかったんだよな。そうしたら、アイツ、何したと思う? いきなり俺の体に金縛りかけやがんの。それで、『この体ではこの程度の力しか出せないけど、充分信じられるでしょう?』って。最低だと思わねえか?」

 そんな事を言いながらも、保科の口調に、そこか愛おし気な物を感じて、律花はようやく気が付いた。

 ―――ああ、そっか。

 「保科は朱子の事が好きだったんだ」

 口に出して言ってしまうと、途端、保科の顔が赤くなった。

 「お、お前、自分のときは全然気付かなかったくせに、何を……」

 焦ったようにそんな事を言うのが、何よりの証拠だ。

 「……だったんでしょ?」

 律花がもう一度、確認するように聞くと、保科は悔しそうな顔をして「ったく」と言いながらも頷いた。それから、どことなく遠くを見るような目をする。

 「あいつ、全然可愛げがないし、恐いし、困ったヤツだけど、時々すっげえ悲しそうな目をしたんだ。それが、なんか気になって、どうにかしてやんなきゃって……」

 でも、と保科は落ち込んだような口調で言う。

 「結局、最後までどうにもしてやる事は出来なかったな」

 律花は少し考えるようにしてから、やがて尋ねる。

 「ねえ、なんで朱子は帰っちゃったの?」

 その言葉に、保科は辛そうに眉を寄せる。

 「ここにも、アイツの居場所がなかったからだろ」

 「居場所?」

 律花が怪訝そうに尋ねると、保科は頷く。

 「ここにいる皆は、朱子にお前を見てるだろ。誰も、本当の朱子を見ちゃ居なくて、それでお前と違うからって失望する。お前のおばさんだって、表立っては絶対そういう様子を見せようとしないけど、空気でそういうのはわかるって朱子が言ってたな。とにかく、まあ、自業自得の感はあるんだが、朱子はどうやってもここに馴染めずにいたんだ。でも、朱子は別に馴染むつもりはないって言ってた。いずれお前が役目を果たしたら、すぐに向こうに戻るつもりだから、って。だけど……」

 「私は、それを果たさない事にした」

 保科の言葉を引き継いで、律花は言った。それは、自分が一番良く知っている事だ。

 保科は頷いて続けた。

 「朱子はそれで恐ろしくなったんだろ。体と魂が引き離されてるせいで、どんどん力も弱くなってるし、このままじゃ帰れなくなるかもしれない、とも言っていた。それで、アイツもアイツなりに迷って、結局元居た場所に帰ることにしたんだろうな……」

 言って、保科は自分で首を振った。

 「いや、違う。帰るというよりは、ここからも逃げ出したかったんだろう」

 その口調は、どこか怒っているようだった。

 律花は尋ねる。

 「保科、悔しい?」

 その言葉に、保科は一瞬目を見開いて律花を見て、それから頷く。瞳には先程よりもハッキリと傷ついたような色が浮かんでいた。

 「ああ。なんやかんや言って、俺はあいつに結構頼られてると思ってたんだ。向こうの話も俺だけにして、何か困った事があったら俺を頼って。……だけど、アイツはそんな俺も信用せずに、帰っちまったんだ」

 声に涙の色が混じって来たのを感じて、律花はそっぽを向いた。

 「ねえ、水を差すような質問していい?」

 「なんだよ?」

 ぶっきらぼうに答える保科に、律花は尋ねる。

 「朱子、どこへ帰るって言ってた?」

 その言葉に、鼻をすすり上げながらも保科は答える。

 「そんなの、決まってるだろ?元の時代に帰るって言ってたよ」

 その言葉を、律花は胸にしまいこむ。

 ―――元の時代。やっぱりあそこは存在する。

 ふと、胸の奥で、体の片隅で、何かざわめく感じがするのをはっきりと感じた。それは、こちらに戻って来てしまってから薄っすらと感じていた物。それの正体を、何となくだが律花はきっと知っていた。

 律花は目を伏せ思い浮かべる。

 こちらに戻って来てからの、両親や兄達や友人の喜ぶ姿を。切り捨てる事に決めたのに、もう一度会ってしまえば驚く程に愛おしいその人達の姿を。


 次の日、律花はワンルームマンションの階段を上っていた。目指すは大学に通うために一人暮らしをしている長男の優貴(ゆうき)の部屋。前もって連絡はいれていたため、兄は家に居て律花を待っていてくれた。

 「珍しいな。りっかが来るのは」

 そう言って、優貴は笑顔で迎えてくれる。どちらかといえば、二番目の兄とは喧嘩をしてばっかりなのだが、この長男とは年が離れすぎていて、甘やかされている一方だ。

 「うん、どうしても優兄に聞きたい話があって」

 律花は部屋に上がりながら周囲を見渡す。そんなに広い部屋ではない上に、兄は物が多いため、さらに狭くなっているように感じる。その狭くしている要因の主な理由になっている壁の本棚。その中にはびっしりとSF小説が詰め込まれていた。

 「優兄、SF好きでしょ? ちょっと教えて欲しいんだけど、タイムトリップした女の子が過去で歴史を変えちゃったらどういう風になるの?」

 その言葉に、優貴はおかしそうに笑って言う。

 「どうしたんだい? 急に。りっかもSFに興味を持つようになったの?」

 「そうじゃないんだけど」

 律花が言うと、少し残念そうに、それでも優貴は言う。

 「そっか。……まあ、いいや。うん、そんな場合は何通りかあるよね。まず、そのまま歴史が変わっちゃうっていうのもあるし、元から修正する力が働いちゃって歴史なんて変えられない、っていうのもあるんだけど、この場合これはナシかな? あとは、その変わった場所から新しい世界が発生していわゆるパラレルワールドとして存在するって言うのもあるよ?」

 律花はしばらく黙って聞いていたが、兄の話の切れたのを見計らって唐突に言う。

 「じゃあ、ね、優兄。今からとっても長い話をするんだけどね。それに対する感想を教えて」

 そう言って、律花は語り出す。学校のプールで溺れてしまった女の子の長い長いお話を。


 朝から出かけて来た筈なのに、話が終わる頃にはそろそろ日も傾きかけていた。

 長い話が終わって、それと共に感情を溢れさせるように律花は涙を流していた。優貴はずっと黙って律花の話を聞いていた。聞きながら、ずっと考えていた。

 ―――これは、律花の作り話だろうか?

 始めは、律花の夢で見た話か妄想か作り話だろうと思っていたのだ。だが、話す律花はあまりにも真剣で、それにその話の内容は夢や幻で片付けてしまうにはあまりにも細かく、また、律花がとても知っていると思えない情報まで律花に詳しく植えつけていた。

 ―――まさか、でも、ありえない。

 SFは好きで、タイムトリップものなどそれこそ飽きるほど読んできた。 だけど、これはあくまでも作り物の話だと割り切っている。実際にそんな事が起こるはずはない。だが。

 記憶をなくしている間の律花の様子は、まるで律花だとは思えなくて、その上見ていると奇妙な点が多々あった。洋服の着方がまったくわからなかったり、スプーンやフォークも使えなかったりするのに、箸の持ち方は妙に上手く、また、当初は字も読めず、鉛筆やシャープペンシルにはとても慣れない様子だったのに、書道の時間に書いてきたという文字は妙に手馴れた感じがした。それに、それまでに律花が持っていた趣味を片っ端から否定し、持たなかった物を好む。まるで、別人だった。一時期は、母親が多重人格のせんまで疑っていた程に。

 話終わった律花に涙を拭くためにタオルをとってやりながら、優貴は問いかける。

 「りっか、今はその文字はかけるのかい?」

 律花は少しきょとんとして、それから納得したように頷く。そうして、側の机の上にあった紙とシャープペンシルで優貴にはとても読めそうにない文字をすらすらと書き始めた。

 「これが、『かわなりつか』。こっちが『川名律花』ね」

 適当に書いたにしては、どことなくその漢字や平仮名の名残が残る。だが、現代の人に書けと言えば専門の人ではなければ書けないだろう。そんな字を、律花は迷いもなく書いてみせた。

 優貴は少しの間、それでも内心でひどく葛藤した後、大きく息を吐いて言う。

 「それで、その『少女』は今、俺の目の前にいるわけだね?」

 その言葉に、律花は驚いたように涙に濡れて真っ赤になっている目を上げた。信じてもらえるとは、あまり思っていなかったのだろう。

 「優兄、普通信じないよ?」

 律花の言葉に、優貴は苦笑して律花の頭を撫でる。

 「でも、俺は信じるよ」

 言ってから、少し考えるようにして言う。

 「今の話だと、やっぱりりっかが歴史を変えてしまった時点で、俺達の居る世界とその世界が分かれちゃった、とか、元々似ているけど別の世界だったとか考えるのが妥当かな。だけど、俺のも小説の受け売りなだけだから分からないな。本当は、もっと俺達の考え付かないような全然別の事情かもしれない」

 だけど、と優貴は続けた。

 「その朱子って子が帰っちゃった以上、そこはちゃんと存在していて、八尋って人はちゃんといるんだと思うよ」

 その言葉に、止まった筈の涙がまた溢れてきた。優貴はそんな律花を愛おしそうに目を細めて眺めながら、語りかけるように言う。

 「ねえ、りっか。りっかは記憶を取り戻してから前のりっかに戻ったけど、でも、いつも上の空だったね」

 その言葉に、律花が驚いた顔をするのを楽しそうに見遣って優貴は続ける。

 「家族だからね、気付かないわけないだろ? 母さんも父さんも、おまけに圭も心配してたんだ。だけど、お前にも色々あるだろうから、って気付かないふりをする事にしてたんだけどね。……その理由が、その事なのかい? 本当は、りっかは向こうに戻りたいと思ってる?」

 責める風ではない、それどころか、それはそうであるのが当たり前とでも言うような、優しく穏やかな口調だった。

 律花はそれでも戸惑った顔をしたまま困惑したように優貴の顔を見ている。優貴は苦笑して続けた。

 「記憶が戻ってからのりっかはね、確かに前のりっかだったけど、だけどどこか違った。なんだかとても大人っぽくなって、しっかりしていて、それだけじゃなくて、なんというのかな、なんだかこう、すごく素敵になったように思えたんだ。それが、律花の行ってしまった先の人達のお陰で、しかもりっかがその人達を恋しいと思っているのなら、俺達はきっと喜んで律花を送り出すよ。もうりっかに会えないと思ったら、寂しくないわけじゃないけど、だけど俺達はりっかが一番幸せになれればどんな形であろうとそれが一番良いと思ってるんだ」

 いいかい、りっか? と優貴は顔を覗きこむようにしてまっすぐに律花を見つめる。

 「家族というのは子供を縛りつける存在ではないんだ。子供を慈しんで育てて送り出す、そんな場所なんだよ。そりゃ、普通の子よりもちょっと早すぎるとは思うけど、それでもいつかはりっかはお嫁に行く事になっただろうし、そう言う時はきっとみんな喜んで送り出すだろう。ちょっと寂しいけど、ね。だから、俺達に引け目を感じる事はない。行っていいんだ。行って、一番大切なものを掴んで、幸せになりなさい」

 その言葉に、律花は堪えきれずに声を上げて泣きじゃくり始める。優貴はどこか寂しそうに微笑んで、律花の頭を撫でてやった。

 「ねえ、りっか。本当は戻る方法を知っているんだろう?上の空の様子の君は、悲しんでいるとか寂しがっているよりは、迷っているように見えたよ。迷って、悩んでいるように、俺には見えたんだ」



 そうして律花は、今、人気のないプールサイドに立っている。

 戻ってきてからずっと微かに感じていた。体の奥底に、微かに朱子の残して行った力の欠片が残っている事に。

 ―――朱子、もう、あなたの好きにはさせないよ。

 律花は水面を見つめながら、そう、語りかける。思い返せば、無理矢理朱子に向こうに送られ、色々と引っ掻き回されて、勝手に連れ戻され、と随分好きなように振り回してくれている。

 ―――ちゃんとこっちで、逃げずに向き合ってみなよ。

 想ってくれる保科もここには居るのに、朱子はいつも逃げてばかりだ。

 ふと、保科との会話を思い出す。

 「なあ、朱子はお前の事嫌いだってよ?」

 保科は涙が止まった後、律花にそう言った。

 「知ってるよ。向こうで溺れて、こっちに来る時、なんか色々なものが見えたんだ。それは私たちの先祖だったと思うんだけど、その中でなんで朱子が私を選んだか、ちゃんと分かってるもん」

 足早に通り過ぎる映像の群れ。それでも、朱子はそれに反応したのだろう。自分に良く似た自分の血を引く娘が、三太に良く似た三太の地を引く男と一緒に居る姿に。

 だから、律花は始めから朱子に憎まれていた。

 だが、保科の言葉は意外なものだった。

 「いや、違うと思う。確かにそれで妬んでいたのかもしれないけど、そうじゃなくて、お前はあまりにもまっすぐで、良い子ぶりっこで嫌だって。顔は似ているのに、見ているとまるで、自分がとてつもなく汚いものになった気がしてそれが嫌だって」

 驚く律花に、保科笑う。

 「あいつきっと、妬みながらもお前に憧れてたぜ? そんな憎まれ口叩きながら、いつもお前の話しかしなかったもん。あいつがぼうっとしていた時は、いつもお前の姿を追ってた時だ」

 その会話を思い出して、律花は目を伏せる。

 ―――ねえ、朱子、私はそんなにキレイなものじゃないんだよ?

 ただ、願っているだけだ。すこしでもそういうものになりたいと。本当はきっと、とても利己的な事も考えている。

 ―――だから、私はあなたに同情なんてしない。許してなんかあげない。

 たとえ、どんなに酷い目にあったからといって酷い事をして良いという事は決してないのだから。

 ―――私は、自分勝手に嫌がるあなたを引き出して、その体を奪ってみせる。

 目の前に揺れる水はまだ恐い。プールサイドに立つ足は、がくがくと大きく震える。

 それでも、決意は揺るがない。

 目を閉じると懐かしい人の顔が思い浮かぶ。その人がきっと待っている。だから、行かなくては。


 この、水中の路を通って。


 覚悟を決めるように大きく息を吸って、止める。

 そうして律花は、震える足を踏み出したのだ。


 了

以上で完結です。

結構長いのにお付き合い頂いてありがとうございましたー。


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(以下、読んでも何の得にもならない彰の小話)

 『独白』


 物心ついた頃には、もう里に拾われていた。

 そこは深い山の中に突然ぽっかりと切り開いたようにある里で、一部の武将などには有名な所だったらしいが、幼い俺にはそんな事は分からず、ただ俺の前にある世界はその里が全てだという事実があるだけだった。

 その里は身寄りのない子供を拾ってきて、日々の想像を絶するような厳しい修行によって色々な事を仕込んで、そいつらが一通り技術を身につければ、仲介金を取って武将に派遣するような、そんな方法で小さな里にしては信じられない位には潤っていた。

 もう長く続く里だから、元よりの里での生まれの者も居たが、それよりもやはり俺達のような者の方が多かった。

 その里では、元から身寄りがなく死んでいたかもしれない子供たちは、人とも思われない方法で育てられた。

 修行のうちに死に行く者は数知れず、それらは埋葬もされず、山に打ち捨てられる。そんな同士達を、俺は何人目にしてきただろう。どの子供も、そのまだ瑞々しいはずの柔らかい肌の上には、連日紫色の痣が醜くのたうっていた。

 そんなだから、俺は物心ついた頃にはもう、その里に深い反発心を持つようになっていた。


 ある程度成長してしまえば、体も慣れて来るから皆、余裕が出てくる。いや、耐えられないような子供はそれ以前に皆死んでしまっているから、耐えられるような者だけが残っていただけなのかもしれないけれど。そして、その頃になってくると、それぞれ自我というものも出てきて、俺は積極的に出来るだけ楽をしようという姿勢を取る様になっていた。抜け出せるものは全て抜け出す、手を抜けるものは全て手を抜く。そういう行いが露見すれば、仕置きと言って益々辛い修行が課されるだけなのに、それでも俺はそうし続けた。

 それは、もしかしたら里に対する反発心が起こさせたものかもしれなかった。

 俺が優秀になって一生懸命働けば働くほど、里は俺の値段を吊り上げられる。そうすれば、俺はこの憎たらしい里が潤う事に一役買ってしまう事になるのだ。それが癪に障るので、ただ、のらりくらりと暮らしていたのかもしれない。

 そんな俺と正反対の態度を取っていたのが、桂だった。

 桂は、俺と丁度同じ時期に里に入って、俺と同じ過程を辿ってきた。それなのに桂は、俺とは全く違う考えを持っているようだった。

 桂は、愛情とか言うものに餓えていた。こちらが見ていて目を逸らしたくなるほどに、それを欲していた。

 里の人間は役に立つ者には甘い。そこそこ好成績を収めていれば、時に褒美もくれるし誉め言葉は惜しまない。里の大人たちの大きな手に撫でられる時の桂の誇らしげな、それでいて顔を紅潮させてくすぐったそうに少し首を竦める仕草は、見ているこちらが恥ずかしくなるほどだった。

 桂はそれを欲して欲して、真面目に里の大人に言いつけられる事を守り、それを破ってばかりいる俺を目の仇にしていた。桂の俺を見る目にはいつも、軽蔑と、大人におもねる微かな媚が閃いていた。

 でも、俺は知っていた。大人たちは影でそんな桂を嘲笑っていたのだ。

 俺は、仕置きの課題できちんとやらずにずっと居残りをさせられていて、とうとう本気を出してしまった時によく言われた言葉を、いつか桂に教えてやろうと思っていた。

 「お前が真面目にやれば、桂なんて目じゃないんだ。俺たちが本当に目をかけているのはお前なんだよ」

 俺の頭を撫でて、そんな甘い言葉を耳に囁いて、ヤツラは数枚の銭を俺の手の中にそっと握らせるのだ。

 こうして得た銭を俺はすぐに遊ぶために使ってしまうのだが、桂を含める同士達は俺がどこからその銭を得ているのか不思議そうに見ていた。


 桂が俺を不快気に見るように、俺から見ても桂は不快なものだった。

 構わなければ良いのに、桂はよく俺に突っかかったし、俺も俺でそれを無視する事が出来なかった。俺は桂が目障りだった。心底、視界の中から消えて欲しいと思っていた。

 何故なら、桂の中にある血は、そのまま俺の血かもしれないのだから。

 それは、里の大人たちがからかい半分、面白半分でよく口にした事だ。

 桂と俺は同じ戦場で、同じ場所に転がっていたそうだ。

 もしかしたら、母親が二人を抱いて逃げていて、その場で殺されたので二人はその場で置き去りにされたのではないかとヤツラはよく勝手に推測していた。また、それを受けて里の子供らも、よく俺に向かって桂を指して「ほら、お前の姉さんだ」などとからかう事が多かった。だから、俺達は余計反発せずには居られなかったのだ。

 桂がもし俺の姉として、俺の尊敬に値するような人なら、いや、せめてそうでなくてもあのように里の大人への媚を丸出しにして、尻尾を振って歩くようなそんな女でなかったのなら、もしかしたら唯一の肉親かもしれない女として、親しみを持つ事が出来たのかもしれない。または、そこまで行かずにもここまで目障りになることはなかったのだろう。

 だが、桂は平気で里の大人にへつらい、そうして死んで行った同士を見てもまるで弱いそいつらが軽蔑に値する、とでも言うように見下した目をする女だった。汚い手に頭を撫でられて誇りに思う、そうして影でそいつらにさえ侮られている無様な女だった。


 桂が何に餓えていたのかはよく知っていたつもりだ。里に親が居る一部の子供たちの事を羨ましそうに影から眺めていた事があるのも知っている。誰かに愛される事、慈しまれる事、そういうものは俺達には生涯与えられる事もないだろうと言う事を悟れずに、虚しく足掻いていた。それは結局最期まで変わらなかったわけだ。

 そして、俺と桂の関係も、何の因果か桂の命が終わるまで切れることはなかった。


 水を跳ね飛ばして何か激しい物音のした方へ、颯爽と駆け出した主君を追って駆けた。

 先ほどの叫び声には聞き覚えがある。そこに居るはずの少女の、まだ幼い瑞々しさを含んだ声ではなく、もっと硬質で神経質そうな女の声。

 「律っ」

 鋭い主君の声が響いて、その人は一目散に水を跳ね飛ばしながら川に入って行く。突然の騒ぎに驚いたのか、無数の蛍が黄緑色の光で飛び狂っていた。それでも、この暗闇の中でよくもまあ溺れるその姿を捉えたものだと一瞬感心したが、それも束の間で意識はすぐにそこに残されているはずのもう一人の女の姿へと行く。

 「桂、やってくれたね」

 蛍の光に映されて病人のような顔を不気味に浮かび上がらせながら、その女は狂った色の浮かぶ瞳をこちらに向けた。髪は乱れ、水に濡れてべたりと顔に張り付いている。着物も同じで、もみ合ったせいなのか大きくはだけ、それでも艶かしさなどは微塵も感じ得なかった。この女は、その高い矜持に支えられてかいつもどこか凛としていたのに、その矜持さえもへし折られて、もはやただ執着だけがその体を借りてそこへ残っている、という風に見えた。

 その姿は、俺が幼い頃から見た中でも一番惨めなもので、無様なもので、一番目障りなものだった。それを見た途端、俺は心の底から嫌悪感が浮かび上がってくるのを感じた。

 一刻も早く、目の前の物体を消し去りたい。俺の視界に、もう二度と入ってこないように。


 これ以上、この人が無様に落ちぶれて行かない様に。


 薄く乾いた唇が何かを発する前に、俺の持った短刀は桂の喉の薄い皮膚を切り裂いていた。

 生温かく降り注いだはずのこの血は、結局俺と同じものだったのだろうか? 最期までわからなかったな。

 そう思いながら、俺はせいぜい最期の弔いにと、いまだ腕に抱く少女しか目に入らない主君の目を盗んで流れの速い川にその死体を投げ入れたのだった。

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