第十二章 8話
「律、仕度をしろ」
戻ってきた八尋が開口一番にそう言うので、律花は怪訝な顔で首を傾げた。
「どうしたの?」
「会わせたい者がいる」
その言葉に、律花は益々首を傾げるが、八尋は詳しくは説明しないで、微かに苛立つような素振りさえ見せて律花が立ち上がるのを待っている。それで、律花は急いで立ち上がるとすぐに歩き出した八尋の後に従った。
八尋の様子はどこか、律花が問いかけるのを拒んでいる気配があり、律花は口を開く事ができずに、二人で黙々と廊下を渡った。そうして着いた部屋を示して、八尋はようやく言う。
「木野の当主に言って呼び出して貰った」
入った部屋の中で、見覚えのある老婆を見つけて、律花は思わず身を硬くした。
―――あの時の巫女の人だ。
以前律花が木野に来た時に、朱子の呪いを解くため、と律花を殺そうとした、まさにその老婆だった。
―――どうして?
問いかけるように八尋を見るが、八尋はただ、部屋に入って老婆の前に腰を下ろすように示しただけだった。律花は警戒しながらも指示された通りにした。
意外にも、老婆から敵意を感じる事はできなかった。その代わり、目の前に座った律花をまじまじと興味深そうに見つめると、しばしの後、溜息をつくように言った。
「やはりな。この度の行列の中にいるおぬしを見た時、もしやと思ったが、間違いではなかったか」
出てきたのは、そんな言葉だった。律花はただ身を硬くしているだけだったが、その言葉に訝しげにする。
老婆は深く息を吐くと、にい、と皺々の顔に笑みを浮べた。
「朱子の力が弱まっている。多分、長い間体と魂が別の場所にいるせいだろう」
その言葉に、律花はいつぞや自分が考えた事を思い出した。ではやはり、朱子の夢での出現回数が減っていたのはそれが原因だったのだ。
老婆は律花を見据えて、言葉を続ける。
「朱子の力がその程度に落ちた今、わしの力でも対抗できる。……おぬしを、元の体に戻してやる事もできるだろうよ」
―――え?
その言葉に、律花は大きく目を見開いた。
木野を攻めないと、悲痛な思いで決めたのに。その時に潰えた希望がふいに目の前に表れたのだ。それも、なんともあっけなく。そのあまりの唐突さに、律花は呆けてしまうだけで喜びを感じる事もできなかった。
「やるかね?」
そんな問いかけに、律花は困惑して傍らの八尋を見上げる。
八尋は表情の見えない瞳で、ただ、頷いてみせた。
老婆に用意にはすこし時間が掛かる、と言われて律花と八尋は部屋を出た。
「八尋、いつからこの事、知ってたの?」
薄暗く長い廊下を歩きながら律花は心もち沈んだ声で尋ねた。八尋は律花の前を歩きながら、振り返らずに答える。
「木野にならお前を戻せる者がいるかもしれない、というのは前から考えていた事だ。だから、この度の使者をわざわざ俺にして貰った」
声は落ち着いていた。
「そっか」
しばし落ちた不自然な沈黙に、律花は戸惑った様に視線を動かす。廊下に面した中庭には、葵が日の光を浴びて、眩しいほどに見事に咲き誇っていた。
「……もう、一年になるね」
ここに来た時も、丁度夏だった。その季節がまた、こうして訪れている。
ここに居た一年、色々な事があって、とても長い間居たような気がする。まるで、自分がこの時代で生きているのが当たり前の様に、今では馴染んでしまった。
「そうだな」
八尋はやはり、振り返らずに素っ気無く答えた。律花は顔を俯ける。
―――なんだか、涙が出そうだ。
本来は、喜ぶべき事の筈なのに。家族の元に帰れるのだから。また、みんなと会えるのだから。
―――だけど、その代わり八尋達とは会えなくなってしまう。
胸が重石を乗せた様に重い。とても素直に喜べない。
「みんなに、挨拶できないね」
無理にでも会話を作ろうと、律花は重い口を開いて言う。だが、それにはつれない返事が帰って来ただけだった。
「事情を説明するのが難しいだろう。どちらにしろ、そのまま行くしかない。……行くのなら、早い方が良いだろう」
「どうして?」
律花は思わず問いかけていた。一瞬そんな自分を不審に思ったが、その理由は少し考えてみればすぐに分かるものだった。
―――この期に及んで、少しでも長く八尋と一緒にいたいなんて、思ってしまったからだ。
「延ばせば延ばしただけ、名残惜しくなるだろう」
八尋の言葉に、律花は表情を暗くする。
―――確かに、それはそうかもしれない。
今でも充分にそうなのだから。
だが、八尋の言葉はまだ終わってはいなかったのだ。
「俺が」
続いた言葉に、律花は目を見開く。
「八尋、私、行かない方が良い?」
思わずそう問いかけてみたのは、もしかしたら引き止めて欲しかったからかもしれない。そんな律花に八尋はこだわりもなく、首を横に振る。
「いや、帰った方が良い」
「どうして?」
自分でもどうしてだか分からないが、律花は少しむきになってそう問いかける。
八尋は当たり前のように答えた。
「律はずっと家族の元に帰りたがっていたのだろう? きっと、家族の方も律を恋しく思っている。それに、律はこちらには似合わない」
突き放すような物言いに、律花は不安げに問いかける。
「なんで?」
「お前の居た場所に比べて、ここはとても辛いのだろう? お前は、こちらに来てからいつも傷ついているように見えた」
―――確かに。
その言葉には、律花は同意せざるを得ない。元居た時代と比べて、ここは辛い事や恐ろしい事、悲しい事がたくさんある気がする。でも、それでも、嬉しい事も楽しい事もあったのだ。
「でも……」
言いかける律花を制するように、八尋は静かに言う。
「無駄な問答は止めにしよう。……どちらにしろ、帰るのだろう?」
確認するようなその口調に、律花ははっとしたように言葉を呑んで俯く。
しばし無言で二人は歩き続けた。だが、やがて耐え切れないように律花が小さな声で不安そうに尋ねる。
「ねえ、どうしてこっち向いてくれないの?」
その言葉に、八尋が溜息をついた気配がした。
「今律の顔を見たら、俺はお前を手放したくなくなってしまうからだ」
律花は目を見開いて、俯けていた顔を上げた。だが、目の前にあるのは相変らず八尋の背中だった。振り向いてくれない背中を見ながら、律花は胸の奥に何かの波紋が広がるのを感じていた。
あてがわれていた部屋に戻ると、部屋は一人毎に区切れるようになっているので、八尋は律花の顔も見ずにすぐに自分の場所へと入って襖を閉めてしまった。彰は木野見物に行ってくる、と置き書きがあって、部屋にはいなかった。
―――私が行っちゃうまで、ずっとああしているつもりなのかな。
八尋の様子を思いながらそう考えると、心が暗くなった。
考えてみたら、たった一年一緒にいただけなのに、八尋のいない生活が想像出来ない程になっている自分に気が付く。
もう、あの低いけれどどこか耳に心地よい声で「律」と呼ばれることもないのだろう。意外に大きくて、とても頼りがいのある手に触れられる事もないのだろう。呆れたように苦笑する様や、微かに笑んで律花の頭を撫でてくれる事も、きっともう。
この一年で八尋とした事がぐるぐると頭を駆け巡る。とても色々な事があって、辛い事も苦しい事も悲しい事も沢山あって。でも、楽しい事もあったし嬉しい事もあった。何よりも、八尋と一緒に居るのが幸せだった。
八尋が、愛おしかった。
不意に、浮かんだ言葉があった。
『お前が死ねぬような事があれば、俺はきっと生きてはいられない』
八尋はいつもどこか孤独で、陰があった。大切に思う物をとても大切にして、それ以外のものには気にも留めない。それなのに、八尋が大切に思う物はみんな、八尋の手からすり抜けてしまうのだ。沖房も、夕も。そうして、自分もこうして八尋の側から離れようとしている。
律花はぎゅ、と唇を噛む。
家族も、友人達も自分が居なくても、生きていけるだろう。とても悲しんでくれると思うし、辛く思ってくれると思う。それでも、生きていく。だけど、八尋は?
―――盛大な自惚れかもしれないけど。
だけど、あの言葉を信じるならば。
家族も八尋も、同じくらい大切だ。天秤はいつも釣り合ってしまっていて、選び取る事なんて出来やしない。
だけど、もし、八尋が自分を必要としているのなら。他の何よりも、自分を望んでくれているのならば。その思いの分だけ、天秤は傾くかもしれない。
―――八尋の側に、いたい。
律花は目を伏せてその想いを噛み締める。
瞼の裏に、家族の顔が、友人の顔が、名残のように浮かび上がる。
―――みんな、ばいばい。
涙が流れる。もう会えないのは辛いけれど、悲しいけれど、それでも後悔はしない。
―――私は、八尋をとる。
「八尋」
障子越しに声を掛けると、八尋が向こう側で身じろぎするのが分かった。 律花が障子に手をかけて引こうとすると、制止の声が掛かる。
「律、開くな。……俺は、お前が思っている程、物分りが良い男ではない」
低く押し殺した声。何かを耐えるような、そんな声。
「お願いだから、このまま行ってくれ」
律花はしばらく黙ってそこに立っていたが、やがて決意を決めるように手を引いて障子を開けた。
「律……」
目を見開いた八尋の苦しげな顔が、意地の悪い事かもしれないけれど、なんだか嬉しく感じる。
律花は八尋に近づいて行くと、その目の前にすとんと腰を下ろした。
「八尋がそうやって感情的になるのって珍しいよね」
そう言うと、八尋は非難するように律花を睨みつけた。律花は構わず、八尋の瞳を見据えて続ける。
「ねえ、八尋。私、決めたよ」
大きく息を吸って、そうして噛み締めるように言う。
「私は、帰らない。ここにいる」
目の前の八尋の瞳が、律花が今までに見たことのない位、大きく見開かれた。
「律、だが……」
言いかけた八尋の言葉を首を振って制して、律花はもう一度きっぱりと言い放つ。
「ここにいるよ」
八尋の瞳が困惑に揺れる。
律花は自然と自分の口元が微笑むのを感じた。
「ねえ、八尋、もう一つだけお願いがあるの」
「願い?」
困惑しながら怪訝そうに問いかける八尋に律花は頷いてみせる。
「うん、これからもずっと、八尋の側に居させて?」
しばし戸惑っていた八尋の顔が、ようやく落ち着いてくるのが分かった。
瞳に優しい色が浮かび上がり、珍しい事にそれはどことなく悪戯っ子のような光までも湛えていた。
そうして、八尋は問いかける。
「それは、女として? 臣下として? 客人として?」
―――あ。
その言葉には、律花は覚えがあった。八尋と出会った山で、律花が八尋に一緒に連れて行ってほしいと頼んだ時、聞かれた言葉だ。あの時、律花は『臣下』にしてもらった。では、今度は?
―――もう、認めてしまうしかないのかもしれない。
今までは、いつか離れてしまう事や千鶴や志摩の事を楯に、ずっと気付かない振りをして逃げていたけれど、自分の気持ちを表す言葉は本当はとうに気付いていた。その気持ちに、それに立ちはだかる障害に立ち向かうのが恐くて、目を逸らしていたけれど……。
律花は顔を赤くして、少々俯かせて、そうして先程までの自信はどこへやら、言い難そうにもぞもぞと口を動かす。
「あの、もし八尋が嫌じゃなかったらなんだけど、女として……」
窺うように見た八尋の顔に、今までに見たことのないような笑顔を見つけて、律花はしばし呆然と見惚れてしまう。
八尋は律花に手を伸ばして引き寄せる。
「では、覚悟を決めなくてはな」
「……うん」
志摩や千鶴に対する後ろめたさがないとは言えない。でも、二人に遠慮して自分の気持ちを押し込める事もやめて、ちゃんと二人に言いに行く。それが、自分が八尋を選んだ責任というものだ。
―――もう、手放すことなんてできない。
律花はまわした腕に力を込めて、八尋の肩に顔を埋めた。
『お久しぶりです。元気にしていますか? なんて挨拶は白々しいわね。本題から行きましょう。八尋、こちらで起った事に関しては、本当にごめんなさい。私は、長い間こちらに居る間に、嫌な女になってしまっていて、それでとてもあなたを苦しめてしまったわね。あなたには本当に、謝る言葉もありません。
だけどね、私は意外だったの。傷ついたあなたはあのまま安曇で死んでしまうんじゃないかって、そう思っていたわ。以前のあなたならきっとそうしていたもの。そうしたら私は、あなたの側であなたの後を追おうと、あの時あの騒ぎの中をずっとあなたの屍を探して歩いていたのよ。でも、それは見付からなかった。
あなたもやっぱり私と同じで会わない間に変わっていたのね。もっとも、私と違って良いほうに、だけど。それはきっと、あの女の子のお陰なんでしょうね。あの子にも、ひどい事をしてごめんなさいねって謝っておいてと言うのは虫が良すぎるかしら?
あなたの側で死のうと思っていた私は、あなたの屍が見付からなかったから、自害し損ねてしまってこうして生きています。でも、今はそれを感謝しているの。
私、今お腹にややがいるの。皮肉な事だけど、それが分かったのはあなたが去ってから三日後の事よ? それを知ったからこそ、私は生きる気になれたのだけど。
正直言って、私は殿はそんなに好きではないの。父と同じ位の年だし、時には優しい事もあるけど、おおかた粗野だし乱暴だし。
でもね、それでも、私はこの子を絶対愛するわ。私たちの母がしたような事は、絶対にしない。この子に、私たちのような思いは絶対にさせないわ。愛して愛して、素敵な子にしてみせる。多分きっと、そうする事で私も幸せになれる。いいえ、もう、今お腹の中にこの子が居て、それを考えるだけでとても幸せなの。
だからね、八尋。私の事はもう、忘れて頂戴。私は幸せだから、もう、自分の事に専念して、自分の幸せを見つけて頂戴。きっとそれはあなたの側にもうあるのでしょう? それを大切にして、そうしていつか、お互いのわだかまりがなくなる位年を取ってから、お互いの子供と共に会えたら、それが私の今の願いです。
夕』
「律、何の用意?」
木野から戻ってきてからしばらくは、律花は色々な事に追われていた。
輿入れはまだ先になりそうだが、それでもそういう用意や心積もりはしておかなければならなかったし、彰や朝熙が妙に張り切って色々な調度品を揃えるのに付き合わされたりと慌しかった。
それに、千鶴や志摩の事にも決着を付ける事もあった。
もっとも、これは今まで律花の覚悟が足りなかっただけで、律花が正直な気持ちを話すと、志摩は寂しそうな顔をしながらも、祝いの言葉を言ってくれ、千鶴も少し不機嫌になったものの、それでも最後には認めてくれた。それどころか、後に自分から正妻を退く事を彰に伝えてきたと言う。このため、律花は側室として入るはずだったのが、正室として八尋に輿入れする事に決まった。律花は考え直すように千鶴のところに何度も出向いて行ったのだが。千鶴は頑として首を縦に振らなかった。
「正妻なのに殿が一度も訪れてくれないなんて侮辱は、もう懲り懲りだもの」
千鶴はそう言ったが、それではなくやはり、律花の立場を考えてくれたのだろう。
とにかく、そういうごたごたの合間を縫ってようやく暇ができた律花がいそいそと外出の準備をしていたので、彰が怪訝に思って問いかけたのだ。
彰の質問に、律花はぱっと顔を輝かせて答える。
「八尋が蛍を見に連れて行ってくれるんです。急がないと季節も終わっちゃうからって」
いつかした約束を、きちんと覚えていてくれた。それだけでも律花には嬉しい。
律花の顔を見て、彰は苦笑してわざと揶揄するように言う。
「それはそれは、どうぞ楽しんでいらっしゃってください」
その言葉に、律花はぱちくりと目をまたたかせた。
「あれ? 彰さんも一緒に行かないんですか?」
当たり前のようなその口調に、彰は思わず噴き出してしまう。
「いやいや、流石にそんなお邪魔な事はできないでしょう。せっかく二人きりで仲良くできるのに、時柾様に恨まれちゃうよ」
「そんな事はないと思うけど……」
首を傾げながら言う律花に、彰は声を立てて笑って、その頭をぽんぽんと叩いてやる。
「本当に、楽しんで来なね?」
「時柾様、律がもう準備を整えて待っていますよ」
彰が部屋に呼びに行くと、八尋は読んでいた書簡から目を上げて頷いた。
「分かった。今行く」
言ってくるくると巻き始めたそれに気付いて、彰は何気なく尋ねる。
「どなたからですか?」
「姉上からだ。先日、蘭子殿が到着しただろう。その時に、持ってきてくれた」
それを聞くと、彰は少し迷った後、気まずそうな口調を作って言った。
「あの、もしかしていけない事を聞いてしまいました?」
「いや」
首を振って、八尋は巻き終わった書簡を棚にしまう。
「そういうものでもない」
身支度は整え終わっているようで、八尋はそのまま部屋を出ようとする。
「では、楽しんで来ていらしてください」
彰が言うと、八尋は意外そうな顔をした。
「彰も一緒に行くのではないのか?」
その言葉に、彰は一瞬、目をしばたかせる。だが、その後すぐに、少々くすぐったそうに破顔した。
「二人に誘われちゃ、行かない手はないですね」
怪訝そうな顔をする八尋に、首を振って、笑いながら彰は言う。
「では、俺も一緒におつれください」
「うわあ、すごい」
真っ暗な闇の中で、水辺に飛び交ういくつもの黄緑色の光に、律花は感嘆の声を上げた。ちかちかと瞬きながら飛ぶそれは、テレビや写真などで見るよりもとても綺麗で幻想的に見える。
「本当に光ってる。すごい。綺麗」
はしゃぐ律花に、八尋と彰は苦笑して少し離れた所でその姿を眺めていた。
「あそこまで喜ばれたら本望ですね」
彰の言葉に、八尋も苦笑して頷く。
その時、律花が二人に声を掛けた。
「もう少し向こうに行っても大丈夫?」
「あの辺りは川底が急に深くなっているから気をつけろよ」
その言葉に、律花は少し拗ねたように返事をする。
「どうせ水が恐くて川に足はつけられないよ」
そうして蛍を追ってそちらへ向かった。向かった理由は、そこに、蛍の淡い光に照らされて微かに花の咲いているのを見つけたのだ。
―――やっぱり、あった。
何気なく、その花を手折ろうとした律花は、不意に側に人影があるのに気付いた。
闇に紛れて気付かなかったが、確かに、人の気配がする。
律花は、何かわからないまま、ぞくりと背筋が粟立つのを感じた。
―――何、この感じ?
思った瞬間、蛍がその人物の顔の前を通り過ぎる。淡い黄緑の光に一瞬照らされたその姿を、律花は驚愕して見つめた。
―――桂さん。
慌てて八尋呼ぼうとした口に何かを入れられて塞がれる。そのまま、羽交い絞めにされて身動きが取れなくなった。
「お前のせいだ。すべて、お前の……」
そんな言葉が耳元で囁かれる。その声は、憎悪で満ちていた。
「お前さえ来なければ、こんな事には」
体に食い込む力が恐ろしく強い。
首に、手が回される。
―――殺される。
恐ろしくなって、無我夢中でもがく。そのもの音を聞きつけて、彰と八尋がこちらに向かう足音を聞いた気がした。
揉み合う内に、足に湿り気を感じる。川の中に入ってしまったのだろう。その恐怖に、更に律花は激しく暴れた。片足が、偶然桂の腹に当って桂が腕を緩めた。それを見逃さず、律花は勢い良くそこから逃れる。
「逃がすか」
桂の声が響いて、思い切り手を引かれる。律花は慌てて逃げようと足を踏み出す。
ずるり、と足元が滑る感覚がしたのはその時だった。
―――え?
思ったときには律花の体は川面に向かって投げ出されていた。
―――嘘。
水飛沫が跳ね上がる。
―――大丈夫、大丈夫、ここはまだ浅瀬だ。
必死に落ち着こうとそう自分に言い聞かせるが、纏わり付く水の恐怖に手足をばたつかせる事しかできない。
がくん、と川底が急に深くなった。
―――足がつかない。
水の流れが速くなって、律花を取り囲む。迫り来る水に、体を沈められる。
―――息ができない。
体を水が包んで、律花を完全に飲み込んでしまう。
―――誰か、助けて……。
ぐい、と何かに足を引かれる様な感覚。律花は激しい眩暈を感じた。




