第十二章 8話
律花は八尋の隣で馬に揺られていた。肩から胸にかけての傷は今はもう、ひっつれた痕を残すのみで殆ど治っていた。
律花の格好は、いつぞや朝熙に見立ててもらった豪奢な衣装だった。青を基調とした趣味の良い装いのその姿で、背筋を伸ばして馬に揺られていると、どこか凛とした風情がある。傍らにはジン、彰。後方には多数の軍勢がついていた。
「まったく、律にはいつも驚かされるよ」
彰が呆れたように溜息をついて言う。
「まさか、木野と講和を、なんてそんな日が来るとは思わなかったよ」
朝熙のやった事を律花が全部暴露してしまったあの日、律花の部屋を去ったあの後から、朝時と朝熙は何度も話し合い、どうにか朝時が今のまま当主の座に座り続け、朝熙がそれを補佐する、という事で妥協したようだった。 朝時は病や自分の犯した咎などを理由に当主の座を辞したがっていたが、前当主から朝時に代わったばかりだと言うのにそれでまたすぐに当主が変わっていては臣に対する印象も良くない、と朝熙が譲らなかった。とは言っても朝時は目下のところ大麻の依存症を治さなければいけない。長い年月に与えられ続けた麻薬は、確実に朝時の体と精神を蝕んでいるから、一日中部屋に閉じ込めていなければならない日も多かった。だからこそ、朝熙が補佐する事になったのだ。これに関しても、始めは朝熙が、全ての企みが白日の下に晒されてしまった以上この城を出て行く、と言って聞かなかったのを朝時がねじ伏せた感がある。八尋は、篠田が落ち着くまではここに居て二人を補佐し、ある程度落ち着いたら城を一つ貰って領地の一部を任される予定になっているという。
そこまで取り決めた後、篠田の内部の改革や粛正を大幅にやって、ようやく篠田は落ち着いた。その中で朝時は、集落に今は隠居していた男を召し上げ、朝熙は臣として北見を召し上げた。二人とも、特に北見は始めは頑なに辞退していたのだが、とりあえず朝時を当主とする篠田が軌道に乗るまでは手伝え、と言われ、それに加えて朝熙には「お前も手を貸したのだから同罪よ」と脅されて渋々受け入れることとなった。北見は後に渋い顔で、どこかの集落で読み書きでも教えて暮らそうと思っていたのに、と残念そうに言っていた。
一通りそれらが終わった後は、安曇と木野への対処に目を向けるのが当然だった。
そこで、律花の『お願い』の出番となる。律花は八尋に、戦を起こさないで、と頼んだのだ。
元の場所に帰る事の希望を捨てたわけではない。探し続ければ、もっと他の方法を見つける事ができるかもしれない。ただ、一番帰れる可能性の高かった方法の望みが絶たれただけだ。律花は気落ちし、後悔しそうになる度に、自分に何度もそう言い聞かせている。
律花の願いを聞き入れて、八尋はとりあえず、安曇にも木野にも講和を申し入れてみる事を提案してくれた。始めは朝熙が特に不満そうであったが、律花には借りがある、とぶつくさ言いながらも終いには渋々承諾してくれた。講和を申し入れてそれが駄目ならばどうにかして一番犠牲の少ない方法で相手を追い詰め、そうしてやはり講和に持ち込んでみる事が第二案だったが、これは使わなくて済んだ。
とういうのも、一度目の講和の申し込みをした時、木野は即座にそれを跳ね除けてきたが、安曇は違ったのだ。安曇の当主は愚鈍ではない。すぐに何かが篠田であった事を察し、手のものに偵察に行かせた結果、その講和を受け入れる事とした。「内部で争って付け込む隙があった時ならば崩すのも容易だっただろうが、あれでは苦労する。ここは受け入れておいた方が無難だろうな」そんな事を家臣に残念そうに漏らしながら。
これを後に知って、木野は慌てて講和を申し込んできた。
それで、こうして八尋が使者として木野に向かっているのだった。
「それに、律は色々と影の功労者だからね。特にもう、あの小うるさい桂を追い出してくれた事は俺には嬉しくて嬉しくて」
おどけて言う彰に、律花は苦笑する。
「それは別に私のせいじゃないです。……そういえば彰さん、桂さんと昔から知り合いだったんですか?」
律花が思い出したように問いかけると、彰は怪訝な顔で首を傾げる。
「桂さんが初めて会った時、そのような事をちらりと言ってました」
律花が説明すると、彰は眉をしかめて苦い顔をした。
「うーん、まあ、認めたくないけどそうなるかな。桂も俺も、それに柏も同じ場所で育ったからねえ」
意外な話に驚く律花に、彰は笑って見せる。
「そういう場所があるんだよ。捨ててある子供や、戦で両親を失った子供や、そういったみなしご達を集めて来て、幼少の頃から役に立つように仕込むんだ。……もっとも、柏のように元から両親があそこ育ちで、だから自分もそこで育ったって言うのもいるけどね」
桂と俺はみなしごだったんだよ、と彰は続けて、律花が気まずい顔をするのに苦笑してみせる。
「そんな悪い事を聞いた、って顔をするもんじゃないよ。俺は物心つく前からあそこに居たから、そんな悲しいと思った事もないしね。まあでも、修行は厳しかったし面倒くさかったから、結構抜け出してたけど」
それに、自分たちを使って金を稼ごうとしている人間のためにわざわざ強くなってやる必要もないと思った。だが。桂は違ったのだろう。
「桂は真面目でさ。そこの大人たちに褒められようって、好かれようって一生懸命修行してたんだよね。それで、どうも俺の不真面目なのが不快らしくて目の仇にされてたんだよ」
笑ってそう言う彰に、それでも律花は暗い顔をしていた。
それを見て、彰は苦笑して話題を変える。
「そういえば、蘭子様が篠田に来るってよ」
その言葉に、律花は見事に食いついて、驚いた顔をした。彰は笑んで続ける。
「なんだかねえ。もう、同じ人は人質として意味がないだろうって思うんだけど、どうしても蘭子様が来たがっているから、って。人質には三男も差し出すつもりだから、とりあえず蘭子様も引き取ってくれ、だってよ」
可笑しそうに笑って彰が言うので、律花までその様子を想像して笑ってしまった。きっと蘭子はあの押しの強さで父親に迫ったのだろう。
「蘭子様らしい」
そんな話をしながら、一行は木野に進んで行った。
木野の当主の顔は朱子の夢で見た事があった。
その姿を目の前にして、律花はなんとも複雑な心持を感じていた。目の前の男は、本当に中年の普通の男だ。こんな男の命令一つで三太や朱子の運命が良い様に弄ばれた、という事はとても信じられなかった。
律花はそれ以上男の事を知らないが、男の方は朱子の容姿の律花に見覚え、それに後ろめたさがあると見えて、どこか怯えたような瞳を時々律花に向けていた。
八尋は律花の目の前で講和の条件を読み上げている。内容は領土の事など細かな事に渡っていたが、その中でも律花が特に願って付け加えてもらったものが、贄の慣習を取り止める事だった。
八尋がそれを読み上げている間、律花はずっと男を凝視していた。
―――あの人のせいで、三太が死んだんだ。
どうしても、思わずにはいられない。朱子が見せた無残な三太の姿が、今でも蘇って来そうになる。憎しみが、腹の奥から突き上げてくるようだった。
もう二度と、三太に会うことは出来ないのだ。この男のせいで、こんな男のせいで……。
―――それでも、耐えなきゃいけない。
講和を結ぶ事で木野の領地の人は辛い思いをする事がなくなる。だが、それと共にこの男が罰される機会も失われるのだ。三太を殺し、数多くの人を戦場へ、死へと追いやったこの男を、罰する事も出来ずに、この男はのうのうとここでこのまま贅沢に平穏に暮らして行く。それが、講和に持ち込む、という事だ。
恋人を殺されたという、律花の命を狙った八千代という女の顔が思い出される。行き場のない悲しみを持て余して、律花にその刃を向けるほどに追い詰められたその人。そういう悲しみを、この男のせいで抱かせられた人は何人いるのだろう?
個人の憎しみよりも、優先すべきものは決まっている。だが、人が何よりも重視するのは個人の感情かもしれない。悲しいものは悲しいし、この男がこのままのうのうと生きていくのを悔しく思うことも止められない。
律花は強く拳を握って目を伏せる。朱子の声が耳の奥で響く気がした。
この男は、三太が朱子を裏切ってまで守ろうとした家族を、三太の罪のためと言っていとも簡単に皆殺しにして、その上戻ってきた三太まで殺したのだと言う。そうして、その三太を朱子を追い詰める事で利用したチサという娘、今はこの男の側室となっているその娘は三太の事もその家族の事も、守ろうとも庇おうともしなかったのだという。幼い頃から一緒に育った、友人だと言うのに。
話し合いを終えてその場を辞す当主に向かって、律花は怒りを押し殺した静かな声で口を開いた。
「あなたは沢山の人を苦しめ、殺しました」
当主がびくりと体を震わせて律花を見た。その瞳の中には、怯えが色濃い。
「私も親しい人をあなたのせいで失いました。そういう人はきっと沢山居る。あなたの背には……」
律花の口調はどこか神がかったものだった。それは、意識したわけではなく自然とそうなったものだ。
「そういう人達の恨みや呪詛がたくさん張り付いているでしょう」
律花は真っ直ぐに木野の当主を見据えていた。
ただでさえ、『篠田にいる巫女』の甚大な力の噂は、木野ではよく聞く。おまけに今は朝熙の見立てた衣装によるものか、それともそれ以外の何かのせいなのか、見た目にも充分に説得力がある。当主の顔色を変えるのには充分だった。
足早に出て行く当主を冷たい瞳で見送りながら、律花は一瞬、当主の背後に本当に黒い影のような物を見た気がした。
木野であてがわれた部屋で一息を着くと、八尋は早々にどこかへ用事があると言って消えてしまった。律花は彰と取り残され、先程の発言の件で彰にからかわれたり、ジンに餌を与えたりしていた。ジンを連れてきたのは身の安全のためもあるが、それ以上に木野に与える印象が目的だった。律花が八尋に随行したのもまさにそのため。木野で有名になっている『巫女』を利用して少しでも木野に威圧感を与えるためだった。ただ、その為に律花は下手に外には出れなくなってしまった。皆、律花の顔を知っているため、気軽に出て行って危害を加えられる可能性は大いにある。そのため、律花はやむなく、やはり随行していた弥一に三太の首がまだ晒されているようならば探してきてくれ、と頼んだ。あのままではひどすぎる。せめて、手厚く葬ってあげたい。たとえそれが自己満足であっても。




