第十二章 6話
「八尋。大丈夫だよ? そんなに深い傷じゃないって」
律花が言ったのは、見下ろす八尋の顔が曇っていたからだ。
「まったく、お前はいつも俺をひやひやさせてくれる」
大きく溜息をついた八尋に、律花は少しすまさそうに視線を伏せた。
「ごめんね。心配かけて」
八尋は律花の側に腰掛けて、諦めたように言う。
「だが、それが律だからな。……もういい。そろそろ眠れ」
とろりとしてきた律花の瞳に気付いて八尋が言うと、律花はまどろみかけたまま薄っすらと笑んで言う。
「朝熙様と朝時様と、それに八尋も。仲良くできたらいいねえ」
八尋は呆れたような顔をして律花を見たが、その時にはもう、律花は眠りに沈んでいた。
久々に例の夢だ、という事が独特の空気から分かった。
律花は身を強張らせて朱子を待つ。聞きたいこと、問い質したい事がたくさんあった。
恐る恐るながらも、真っ暗な闇の中を手探りで歩いて行くと、ぼうっと浮かび上がるように見慣れたセーラー服の自分の姿が近づいて来る事に気が付いた。
「朱子さん」
律花はそう、呼びかけてみる。勇気を挫かれないうちに、自分の気になっている事を質問しようと、そう口を開きかけた。
その時、不意に目の前まで来た律花の姿をした朱子が笑い出した。律花は出鼻を挫かれて言葉を飲み込む。代わりに、朱子に向かって尋ねざるを得なかった。
「なにがおかしいの?」
朱子は、声を上げて、気がふれたのかと思うような激しい笑い声をたてていた。
律花はその姿に恐怖を感じて、少しあとずさる。
「おかしいわよ」
突然笑いをぴたりと止めて、返って来たその声に、背中がぞくりとする。
朱子はひたりと律花を見据えて恐ろしいほど真剣な声で言う。
「あなた、まだ何もわかっていないのね。私、あなたにお礼を言わなくちゃ」
「お礼?」
怪訝そうな律花に、朱子は思わせぶりに頷いて見せる。
「そう、お礼。呪いを成就させてくれるお礼」
律花が更に不審そうな顔をするのを面白そうに見遣って、朱子は続けた。
「あなたは気付いていないと思うけど、私が木野で最後にかけた呪いというのは、女が消えるものなんかじゃない。私がかけた呪いは、あなたよ? あなた自身が呪いそのものなの」
「私?」
意味がつかめず、ただ眉をひそめる律花に、朱子は大きく頷いて続けた。
「あなたのお陰で篠田は結束が固まって強くなる。今までは内部のごたごたを抑えるのに精一杯で外に向いていなかった目を、やっと外に向けられるくらいにね」
そう言って、朱子はもう一度声を立ててわざとらしく笑った。
「そうすれば、木野など瞬く間に滅ぼされてしまうわ。私が願ったのは、木野の滅亡。それこそが、呪いなのよ。きっと木野の領土は戦で皆焼け、踏み荒らされ、私を陥れた者達はみんな、無惨に、恐怖に震えながら殺されてしまうわ」
律花は呆然と目を見開いて朱子を見る。
「そんな……」
律花の様子を見て、朱子は意地悪く片眉を上げる。
「あなただって本望でしょう? 篠田には何も害がないのだから。……それに、木野には恨みこそあれ愛着なんてないはずでしょう」
―――それでも、そうやって害をなす事は嫌だ。
律花が考えた事を察したのだろう。朱子は鼻で笑うようにして律花を見下ろすようにする。
「あなたのそういうところ、大っ嫌いよ。そうやって、すぐに自分は善良ぶろうとするところ。じゃあ、あなたはこれを見ても言えるかしら? 木野は悪くないって思えるかしら」
「え……?」
突然目の前に映し出された光景に、律花は一瞬意味が分からずに目をしばたかせる。だが、次の瞬間には、それが何であるかに気付いて、顔面を蒼白にして、両手で口を覆うようにした。
それは、人であるはずだった。律花のよく見慣れた、人の顔であるはず。
「三、太……」
律花の声は掠れていた。
映し出された三太の瞳は大きく見開かれ、虚空を見つめている。眉は苦悶に歪み、口は一文字に結ばれていた。頭を覆う髪は激しく乱れ、顔中いたるところに泥や擦り傷をつけて見ていてとても、痛々しい。
「三太」
もう一度、律花は叫ぶように言った。
三太の姿は、だが、首から下がなかったのだ。木の台の上に切り取られた首だけが、まるでもののように置かれている。それは、人だかりに囲まれて、周囲には蠅がたかってさえいた。
三太の瞳は、もう、何も映していない。明るく笑っていた顔には、苦悶以外の何も見出せなかった。
「三太、だから木野に帰っちゃだめだって……」
頬に熱いものが伝う。それを気にしている余裕さえなかった。
律花は一心に、首だけの三太を凝視する。
「なんで、どうして行っちゃったの。分かってたんじゃないの?」
問いかけても答えはないけれど、言わずにはいられない。
「三太……」
顔を覆って啜り泣きを始めた律花を、朱子は醒めた目で見て肩を竦める。
「これで、分かったでしょう? あなたも木野を憎めるでしょう?」
言うと、律花はキッと顔を上げて、涙の溢れた瞳で朱子を睨んだ。
「あなたのせいだってあるじゃない」
朱子はその言葉に、眉をしかめて不快そうに言う。
「それだって、元を正せば木野のせいだわ」
そう言って、尚も睨んでいる律花を見下ろす。
「それに、どちらにしろあなたにはこれから起る事を拒否する事はできないわ」
朱子は口を歪めて、笑みの形を作って言う。
「呪いの成就を確認したら、あなたを元の場所に戻してあげる」
その言葉に、律花は大きく目を見開いた。朱子は聞いたことのない程優しい声色を作って、囁くようにもう一度繰り返す。
「帰してあげるわ。恋しい人達の所へ。ずっと、帰りたかったんでしょう?」
朱子を嫌悪する気持ちがないわけではない。だけど、それ以上にその言葉は律花にとって大きな意味を持つ言葉だった。
律花はしばらくの間、探るように朱子を凝視していたが、やがて顔を俯ける。
「一つ、聞いていい?」
「何かしら?」
律花は一度、両手を強く握り締めると言う。
「帰っても、みんなが存在しなきゃ意味がないの」
ずっと聞こうとしていた事。歴史が変わって、家族はどうなってしまったのか。
その言葉を聞くと、朱子は一瞬意外そうな顔をした後、声を立てて愉快そうに笑い始めた。その声には、軽蔑が混じっているようにも聞こえる。
「やっぱりあなたも人間ね。そうよね。……大丈夫よ。それは保障するわ。あなたの大切な人達はみんな無事」
その言葉に、律花は大きく息を吐いた。ずっと気に掛かっていた事が、ようやく安心できた。そんな感覚。
―――ならば、安心だ。
「では、呪いを最後まで見届けてらっしゃい」
そんな声と共に律花は眠りから浮上するのを感じた。
朱子が遠ざかり、誰かが自分の名を呼ぶ声を感じる。
「律花」
―――お母さん?
「律花」
―――お父さん。
「りっか」
―――優兄。
「律花」
―――圭兄。
「りっか」
―――美佳。
「りっか」
―――未央。
「川名」
―――保科。
……。
耳元を過ぎて行くたくさんの自分を呼ぶ声。懐かしくて大切で大好きで、涙が溢れてくる。
律花律花りっかりっか律花律花……。
渦のように近づいたり遠ざかったり、そんな事を繰り返すうちに、不意に 間近で呼ばれた声にハッとした。
「律、律……」
律花は薄っすらと目を見開き、ぼやけた視界に八尋の顔を確認して、思わず手を伸ばした。その手を、八尋は当たり前の様に受け止めてくれて、そうして言う。
「どうした? うなされていたが」
心配そうなその声に、律花は慌てて首を振る。それで、目尻にたまっていたらしい涙が流れ落ちるのが感じられた。
律花は掠れた声で、八尋を見上げて言う。
「ねえ、八尋、お願いがあるの」
「願い?」
怪訝そうな顔を見つめて律花は大きく頷く。
―――やっぱり、どうしても、もう三太や朱子のような人を増やしてはいけない。
それに、そういう人が自分のせいで増えるのは、自分のせいで大勢の命が失われる重みには、自分は絶対に耐えられない。それは、歴史を変えてしまったかもしれないと思い悩んだ事でも記憶に新しかった。強くありたいと思ったけれど、思うけれども、自分はそんなものに耐えられるほど強くはできていないのだ。だとしたら、選べる道は一つしかない。
たとえ、それが自分が帰れないという事であっても。




