第十二章 5話
律花が怪我をして医者にかかっていると伝えられて、彰や弥一、それに栄といった者達は治療をしている部屋の前でやきもきしていた。そのうちに、桂や柏が朝時に追い出されて訪れ、しばらくしてから朝時と八尋も揃ってしまった。
待っている間、しばらくはみな無言だった。朝時と朝熙はそれぞれが考え込むように押し黙っているし、二人につく忍二人もそんな主人の様子に口出しはできずに黙っているようだった。彰は興味深げにそんなそれぞれの様子を窺っているが、弥一と栄は顔ぶれが顔ぶれなだけに、居心地悪そうにその場に縮こまっていた。
「桂」
沈黙を破って不意に、朝時が静かにその名を呼んだ。桂は怪訝そうに返事をする。
「はい」
「本当は、こんな場で言いたくはない事だが、どうしても問い質したい事がある。先程、時柾に全ての事を教えて貰った。お前は本当に、私の病のために木野から女を……」
その言葉に、桂は大きく目を見開いた。朝時は青い顔をしたまま続ける。
「それに、その事を知った者を全て、消したと」
桂は瞬間、憎しみを込めて八尋を睨みつけたが、それはすぐに朝時の鋭い一声によって遮られた。
「桂、お前は私がそんな事をして喜ぶとでも? 私がどんなに苦しむか、考えなかったかい? そんな事をしてまで病の事を隠して、そうまでして当主の座に居続けたいなどと誰がいつ言った?」
声は悲しみと怒りに震えている。
「私の代わりは二人もいる。どちらが当主になっても良かった。……そんな事のために、代わりの居ない人の命をどれだけ君は損ねたんだい?」
桂の顔色が真っ赤になり、続いて蒼白に変わって行く。体中が細かに震えていた。
「お前は、確かによく働いてくれた。情けない私の代わりに、本当によく尽くしてくれたと思う。だけど、それを差し引いても、私はそれが許せない。自分が許せないと思う同じ分だけお前も許せないと思う」
それは、朝時が発するにはあまりにも冷たい声だった。桂はその次に来る言葉を予測して耳を塞ぐ。
だが、朝時はそれを手で掴んで制して、ゆっくりと首を振った。
「ちゃんと聞きなさい。お前は、もうここにいてはいけない」
桂の瞳が大きく見開かれる。
「……私は、もういらないと仰られるのですか?」
震える声でそう問い直す。見上げる瞳は今までに見たことがない色をしていた。軽蔑と怒り。そこにはそれしか窺えない。
「お前は本当に尽くしてくれた。でも、やり過ぎた」
朝時はそう、繰り返す。
桂はゆるゆると首を振った。この人の為に、この人の為だけに色々な事をやってきたのだ。この人の笑顔が見たくて、この人に褒められたくて、喜ばれたくて。それなのに、何故自分がこんな扱いに?
周囲からの視線を感じて、見ると朝熙と八尋がじっとその光景を見ていた。
「この女がやった事を思えば、放免するだけでは、甘いと思うのは私だけかしら?」
朝熙はわざとらしく八尋に視線を投げかけてそう尋ねる。
「いや、俺も同感だ。何よりも、桂に圧力をかけられて不満を呑んだ臣たちの怒りが収まらないだろう。しっかりと捕らえてきちんと皆の前で処罰を下すべきだ。でないと示しがつかない」
八尋の声は相変らず淡々としている。
彰と柏、二人がそれを合図にしたように立ち上がった。途端、桂はようやく自らの状況を理解して咄嗟に短刀を片手に構えをとった。
「無理だよ、桂。君じゃ俺達の相手にはならない。二対一だしね。今まで好き勝手やってきたんだから、代償だと思って諦めなよ」
彰がそんな事を言う。柏は、ただ無言で桂を見据えている。
桂はしばらくじりじりと迫ってくる二人を睨みつけていたが、突然、弾みをつけて駆け出した。
「愚かな」
彰がかすかに呟く。
だが、桂が取った行動は意外なものだった。戸口側に縮こまって邪魔にならないようにしていた弥一の首筋に短刀を当て、腕を引っ張って立ち上がらせると言う。
「それ以上こちらに来たら、この男を殺すわ」
狼狽したのは刃を突きつけられた当の本人だけで、周囲は冷ややかな目で桂を見た。
「お前、そんなものが人質になると思って?」
言ったのは朝熙だ。彰も笑って言う。
「弥一、少しはお役に立てて良かったじゃないか」
首筋に当っている冷たい感覚に気が気ではないのにそんな事を言う彰を、弥一は恨めしげに睨みつけた。
「やりなさいよ。やった時がお前の最後よ」
朝熙がそう、挑発する。
だが、それに水を差したのは八尋だった。
「いや、止めておこう」
その言葉に、彰も朝熙も驚いたように八尋を見る。
「時柾? 珍しいわね。どういうつもり?」
訝しげに朝熙が尋ねるのに、八尋はこれといって感情を見せずに淡々と言う。
「こう見殺しにしては、律があとでまた悲しむ。それよりは、ここで桂を逃がしてやるのも良いだろう。どうせ、里へは戻れまいし次の仕事が見付かるかも疑問だ。無駄な犠牲を生む事はない」
言うと、大儀そうに立ち上がって桂に向かう。
「追わぬから放してやれ」
その言葉に、桂は首を振る。
「私が無事、城を出るまでだ」
朝熙があきれ返ったというように肩を竦めた。
だが、八尋はこだわりなく頷く。
「では行け。俺もついて行く」
城門を出たところで桂は弥一の首筋に短刀を当てたまま、八尋に言う。
「もう少し、こちらへ来い」
八尋は黙って言うとおりにする。
気が気ではなかったのは弥一のほうだ。八尋が近づいて来る度に、背後の桂の緊張感が増すのがじんじんと伝わってくる。
―――言わなければ。危ないんだって。狙われてるって。
きっと、桂は充分な場所まで八尋を引きつけて、隙を付いて一気に攻撃をする気だ。
だが、弥一は恐ろしくて震えてしまって声も出ない。瞳で充分訴えようとしているのだが、それも効果はないようだった。
ついに八尋が至近距離まで来てしまった。
―――言わなきゃ、言わなきゃ。
そうでなければ、自分のせいでこの人は命を失ってしまうかも知れない。そんなのは、駄目だ。律花が悲しむとか、そういう理由ではなく、自分のなけなしの矜持が許さない。これ以上、この男に迷惑などかけられないし、情けない姿を晒す事はできない。
―――情けない。
こんなに震えて、首に当てられた短刀一本に怯えるしかない自分が。威勢だけは良く八尋に突っかかって行った事もあるのに、結局このざまだ。
ごくりと唾を飲んで、拳を握り締める。
「それ以上、来ちゃ駄目です」
思い切って大声で言ったつもりなのに、それはとてもか細い弱々しい声だった。だが、八尋が意外そうに弥一に目を向けたのが、なんだか妙に目に残った。
「お前。余計な事を」
次の瞬間には、桂がいらついたように弥一に短刀を振り上げていた。
弥一の目の前で八尋の青い着物が踊る。次の瞬間には、八尋はその腕で、桂の短刀を振り払っていた。一瞬接した刃と皮膚。赤い血がパッと飛び散る。
弥一は呆然としたようにそれを見つめていた。
―――俺を、庇ってくれた。
八尋は、弥一に当らないようにするために、刀を抜けずに自らの腕で短刀を受け止めたのだ。
「逃げずに攻撃をしかけてくるとはな」
八尋は言ってすらりと刀を抜く。
「おおよその所、俺が朝時に話した事を恨んでいるのだろう?」
憎々しげに睨みつける桂を相手に、余裕の態度で八尋は対峙する。
桂はしばらく八尋と睨みあった後、突然背を向けて駆け出した。
―――へ?
見ていた弥一は訳が分からずに呆然とその光景を見る。
―――なんで?
「勝てそうにないと踏んだのだろう。勝てそうもない相手に遭ったら、逃げるのだと教え込まれているらしいからな」
弥一の疑問に答えたのは八尋だった。間抜けな顔をして尻餅をついて腰を抜かしている弥一を見下ろして、八尋は言う。
「あまり迷惑をかけるな」
その言葉に、弥一は項垂れる。確かに、自分の状況を考えれば、お荷物以外の何者でもない。臣というのは主君を守るために居るのに、自分が守られていては本末転倒だ。
八尋はしばしその様子を黙って見ていたが、やがて言う。
「だが、お前があそこで声を出すとは思わなかった。思っていたよりは根性がある」
驚いて顔を上げた弥一が見た物は、既に城に戻り行く後姿だった。
―――格が違う。
栄の言葉が思い出される。それがどういう事なのか、ようやく身に沁みた。
自分があの人に放った言葉がどんなに恥ずかしいものだったのか、今ならばよく分かる。
―――修行しなおしだ。
弥一は項垂れながら、そう、反省した。
律花の治療が終わって目が覚めたと医者が言うので、朝熙と朝時は何となく、二人して部屋に入ってみた。そうしたのは、もしかしたらその場に八尋が居ない事への穴埋めのようなつもりがあったのかもしれない。
律花は存外元気な様子で横になっていた。
「本当に、お前は見るたびに無茶するか臥せっているわね」
朝熙がそんな悪態をつくのに、律花は決まり悪そうに笑った。
それから、おもむろに布団から手を出して、側にあった朝熙の手を両手で包む。
「何するのよ。放しなさい」
朝熙は突然の出来事に少し狼狽してそう言うが、律花は怯まずに、放すどころかますます強くそうした。
「朝熙様、聞いてください」
律花は神妙な面持ちで言う。
「朝熙様は朝時様へ色んな気持ちがあって、お母さんにも色んな気持ちがあってそういう事は私はよく分からないんです。でも、それは朝熙様だってきっと同じで、朝熙様は私の事情も朝時様の事情も、まるでわからない。それに」
言って律花は益々強く朝熙の手を握る。
「木野の娘達の事情も」
律花の手はこの夏の暑さの中にひんやりと冷たかった。小さい手なので包み込みきれずに飛び出した朝熙の指先が、律花の手首のところに当っていて、そこから脈の打つ感触が伝わってくる。一定の間隔で、穏やかに、でも、確かに生きている感触。
「でも、木野の娘達も私と同じで、こうして生きていたんです。こうやって、触れば柔らかくて、心臓がちゃんと動いていた」
律花は言いながら、いつぞや自分がジンに与えるために殺したウサギ達の事を考えていた。ウサギ達の心臓はみな、ことことと元気に脈打っていたのだ。
「それで、嬉しくなったり悲しくなったり痛かったり辛かったり、みんなそういう事があったんです」
朝熙はいまや手を振り解くのも忘れて律花の脈の音を無意識に追っていた。それは、とても心地よい感じのするものだ。
「簡単に、殺すとかしないでください。そういうものに、関係ない人達を巻き込まないで。……だって、朝熙様と朝時様のは兄弟喧嘩ですよ? ただの兄弟喧嘩なんだから、口で思っていることやわだかまってる事、全部ぶちまけて、それでも駄目だったら殴り合いでもなんでもすれば良かったんです。それがきっと、健全な兄弟喧嘩なんです。うちの兄達もよくやってました」
―――兄弟喧嘩。
自分たちの持つ確執や因果を兄弟喧嘩の一言で済ませる律花に呆れた目を向けつつ、それでも朝熙は何も言い返すことが出来なかった。律花の言うとおり、当事者の自分たちから見ればそれはとても重大な事で、それにだけに心血を注いでいた事でも、第三者から見ればただの滑稽なものにしか写らないのかもしれない。そうして、自分がもし第三者だったのならば今の自分を見て鼻で笑ったかもしれない事もまた事実なのだ。
いつの間にやら、八尋も戻ってきていてその話を部屋の入り口で聞いていた。
それに気が付いて律花はにっこりと笑みを浮べる。
「八尋もね。刀はご法度で」
その言葉に、朝熙と朝時も八尋が戻ってきたのに気付いて、それを期に部屋を空ける事にしたようだった。
二人して部屋を出て、そうして顔を見合わせる。
「殴り合いをする?」
問いかけた朝熙に、朝時は苦笑して首を振る。
「その前に話し合いだ。それで意見が合わなければ、だな」
その言葉に、朝熙は肩を竦めて頷いた。
律花の騒動のせいですっかり毒気を抜かれてしまった。それが良い事か悪い事か良く分からなかった。
「一つ、教えて欲しいんだけど」
朝熙が言うと、朝時が首を傾げて朝熙を見返す。
朝熙は密かにずっと思っていた事を初めて本人の目の前で問いかけた。
「あんたは私をずっと恨んでいたんじゃないの?」
母を殺されて、その殺した女の息子を、恨まないわけはないと思った。だから、いつもその笑顔の下にはそんな感情が渦巻いているのだろうと思って、勘繰っていたのだ。
だが、朝熙の予想に反して朝時はけろりと言う。
「恨んでないよ。だって、母上を殺したのは桐乃様で、朝熙ではない」
それに、桐乃様だって父上と母上の被害者だ。そう、朝時は続けた。
「父上と母上と私だけが幸せで、お前と時柾と夕にはずっとすまないと思っていたけれど、恨んだ事などなかったよ」
その言葉に、朝熙はしばし息を止めるようにして朝時を見つめた後、大きく溜息をついた。
「あんた、やっぱ長男だわ」
―――母上でさえも、自分でさえも。朝時の母親と朝時を混同して憎んでいたのに、朝時はちゃんと別物として考えていた。
朝熙の言葉に、朝時は怪訝な顔をする。だが、朝熙は首を振ってなんでもない、と言った。
微かに、過去の思い出が蘇ってきた。
母の部屋に閉じ込められるようにしている幼かった頃に、時々、母の寝たのを見計らって部屋を抜け出した事があった。その時に、朝時と言葉を交わした事が一度だけあるのだ。
豪奢な着物で忍んで行った場違いなその場所は剣術の稽古をしている者が多くて、自らが触れる事の許されないそれを憧れを持って見ていた時、声を掛けてくれたのがその時はそれと知らなかったが朝時だったのだ。朝時は、朝熙に声を掛け、憧れていた武具に触らせてくれて、少し剣術を教えてくれもした。部屋に帰った時、母があまりにも騒いだためにもう二度と行けなかったが、その時の少年にとても憧れたものだった。だから後に初めて正式に朝時と対面した時に、自分の兄だったと知ってとても驚いたのを覚えている。
だから、余計に母に対する憎しみも罪悪感も募ったのだろう。それに、朝時に対する憎まなければならない、という屈折した感情も。
だがもう、それもどうでも良い事かもしれない。
「さあ、話し合いに行きましょう。兄上?」
おどけた様に言う朝熙に、朝時は苦笑して見せた。




