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第十二章 4話

 朝熙の母親は朝熙を溺愛していた。自分が夫から与えられない分も自分が子供に与え尽くすとでも言うように、朝から晩まで朝熙を自らの部屋に閉じ込めて、世話を焼いていた。

 母親は公家くげの出だったから、雅な事には一通り通じており、花を生けたり茶を点てたり色目しきもくの合わせを覚えたり、そういう事はひとしきり仕込まれた。だが、武芸などに関しては、朝熙がそれを望んでも決して許される事がなかった。母親は少しの怪我でも大騒ぎをしたし、何よりも一時でも朝熙が自分の元を離れているのに耐えられないという。我が子を独占する、ただそれがなければ生きていかれないような女だった。

 少しでも部屋の外に出れば、母親は取り乱して朝熙を探し回る。そんな窮屈な生活に、重すぎる母の愛に、押しつぶされそうになりながら朝熙は成長して行った。自分が生まれる前は父親にその矛先が向いていたのだと考えれば、父親が朝熙の母親を敬遠するのも当然だと思えた。そう思いながらも、自分に縋る母親を目の前にすると突き放す事は出来なかった。

 朝熙は外を知らずに育った。自由が欲しいと切実に願っていたが、それでも母を置いてその部屋を出る事は出来なかった。時々見かける八尋や夕を考えれば、それでも自分はもしかしたら恵まれているのかもしれない、と考える事もあった。

 だが、そうではなく、自分もやはり逆の意味で八尋たちと同じ分だけ不幸だったのだ。いや、痛みを舐めあう相手が居た分、八尋の方が幸せだったかもしれない。

 それに気付かされたのは、身分のために正妻に据えられていた八尋の母親が病気で死んだ時だった。朝熙の母親は、身分の上からならば次は当然自分が正妻だ、とそれを望んだ。だが望みは叶わず、父親は古くからの寵妃である朝時の母親を正妻の位置につけてしまったのだ。それも当然の事、このご時世では公家などは名ばかりで大した後ろ盾も力もない。大きな実家を持っていた八尋の母親とは訳が違ったのだ。

 正妻が朝時の母親に決まってからというもの、朝熙の母親は気を病んでしまったようになった。毎日毎日、恨み言を延々繰り返す。しっかりと朝熙を抱きかかえて、耳元で延々延々と。それはもう、狂気のようなものだった。薄暗い部屋の中で母の腕の中に居て、狂気に侵食されながら、これでは駄目だ、と思ったのだ。このままでは自分も呑まれてしまう……。

 だから、朝熙は生まれて初めて母の手を振り払った。振り払って逃げて、殆ど戻らない自分の部屋というものに戻って来て、そこに閉じこもった。母が何を言ってきても、決して開けない。そう誓って。

 それから母のいない数日ほど清々しい気分で過ごせた事などなかった。好きな事をして、武具にも手を伸ばしてみて。それ程、楽しい数日はなかった。

 だが、それはほんの数日だった。朝熙は数日後に、母親が朝時の母親を殺して、処刑された事を聞いた。

 それを聞いて、押し寄せてきた感情を知って、初めて朝熙は気づいたのだ。もう手遅れだった事に。

 ―――自分は既に、母親に呑まれてしまっていた。

 母の言葉は呪縛となって朝熙を縛っていた。

 「朝時に負けないで。お前は篠田の当主になるの。跡継ぎはお前よ。あんな女の子供に負けるなんて、みっともない事はないわよね?」

 繰り返し繰り返し、耳元で呟かれた言葉。耳に馴染んで、脳に、体に染み込んでしまった。

 朝熙は母親を憎んだ。そういう呪縛を自分に科した母親を。

 そして、それ故に女を毛嫌いしたのだ。それはもう、本能的なもので、女の持つ独特の、あの媚を含んだ口調や視線、そういう物を感じると自然に母親を思い出されて気分が悪くなり、胸がむかついた。

 だが、それだけ憎んでも、憎んだ女の呪縛は消えてはくれなかった。

 ―――今日で、すべてが終わるかもしれない。

 もうすでに、朝時は充分に傷ついている。あと少し衝撃を加えてやれば、本当の事をすべて知らしめるだけで、きっと生きるには耐えられないと思うだろう。甘く、優しく、弱い自らの兄は、そうしてきっと自らの命を絶つ。そうすれば、亡き母の望みは叶えられ、自分もこの呪縛から抜け出す事ができるだろう。

 朝熙は大きく息を吐くと薄く笑んで口を開いた。


 「そうね」

 朝熙がそう答えると、律花は痛ましげに顔をしかめたものの、残る者達は不審な顔をした。

 律花は噛み締めるように言葉を続けた。

 「朝熙様は、どうしてか知らないけど始めはきっと別の理由をつけて朝時様にあの香を嗅がせたんです。あれははじめの頃は吸うと気持ちよくなるものだから、朝時様は疑いもしなかったんでしょうけど。それはいつも使っているとだんだんと幻を見たり、それがないと辛くなったりする、そういう薬なんです」

 きっと、朝時の発作は禁断症状とよばれるものではないだろうか。律花はそう考えている。

 「朝時様が発作を起こすようになって来たら、今度は薬としてそれを与え続けて……ずっとそうやって朝時様を壊そうとしていたんですか?」

 律花はまばたきもせずにじっと食い入るように朝熙を見つめていた。自分が望んでいる返答が、どんなものか良く分からなかった。ただ、このまま放っては置けないと思ったのだ。

 朝熙は律花の話す様を余裕さえあるような様子で悠然と見ていたが、その言葉に唇を吊り上げて笑みを作る形にした。

 「お前も変な事を良く知っているわね。……言っている事は、当りだわ」

 桂や朝時が驚いた顔をする。それを目の端に捉えながら、朝熙は悪びれもせずに言い放った。

 「私は、朝時は嫌いだもの」

 「貴様っ」

 叫んで朝熙に飛び掛ろうとしたのは桂だ。だが、それは飛び掛る直前に、喉元に素早く確実にあてがわれた刃に阻まれてしまう。柏は、表情を崩す事もなく、言葉を発することもなく、ただそうやって桂を留めた。

 朝熙はちらりとその様子を一瞥した後、話を続ける。

 「朝時、あんたは私に、あの時の夢を見ることがあるって話した事があったわよね。しばらくして、気持ちを落ち着かせる香って言って渡したのを覚えている?」

 その存在を朝熙が知ったのは、母が死んでしばらくしてからの事だった。

 朝熙は茶の湯や買い出しために、しばしば篠田以外の各地へ赴いていた。そこで知り合った者から紹介してもらって、みんから来た商人というのに会い、話を聞いて貿易というものに興味を持ち、しばしばその男と会う様になった。そうして、話のついでに偶然、その草の事を知ったのだ。人を狂わせる草がある事を。その話を詳しく聞いて、朝熙はその男にその草を求め、栽培法を教わった。

 「あれが、あんたの気の病の原因よ」

 朝時は自分の母親を殺した女の子供だというのにも関わらず、朝熙に対して全く警戒心や憎しみを見せなかった。朝熙が渡した香をいとも簡単にありがとう、と受け取った事を良く覚えている。その上、香が切れたのでまた欲しい、としばしば求めてくるようになった。

 「あの香は徐々に気を蝕んでいく草で作っているのよ。朝時、よく幻を見るでしょう?」

 それはきっと、女の幻なのだろう。もっと言うならば朝熙の母親の姿をしているのだろう。

 発作の起きた時の朝時はよく母の名前を呼び、目の前でまるでその時の事が再現されているかのような様子を取る事が多かった。きっと、刀を振り回して女に飛び掛っているのは、母を救うために在りし日の朝熙の母親に斬りかかっているつもりなのだ。

 「この娘の言うとおり、あんたがその発作を起こすようになってから、薬と言って私が調合したのも同じもの。私は薬と称してあんたにずっと気を狂わせる草を与え続けていたのよ」

 誰も疑いはしなかった。実際、それを嗅がせれば朝時は大人しくなったのだから。

 「嘘だろう?」

 その言葉は、朝時から発されたものだった。朝時はゆるゆると首を振ってもう一度言う。

 「そんな事、有り得ない。そんな、お前が……。だって、兄弟じゃないか」

 その言葉には、朝熙は呆れたように片眉を上げた。

 「半分だけの兄弟でしょう? もう半分はあんたを憎んでた女の血だわ」

 「しかし……」

 尚も信じられないという風の朝時を差し置いて、横から口を挟んだのは八尋だった。

 「事情は分かった。だが、理由を聞いていない。何故、そんな事をしたんだ? 嫌いだ、なんて理由は薄すぎるな」

 その言葉に、朝熙がぴくりと反応した。だがそれは一瞬で、すぐに、肩を竦めて言う。

 「理由なんて別に、必要ないじゃない」

 「いや、教えてくれ」

 横から強く言ったのは朝時だ。

 「なんでそんな事を?」

 重ねて問うその言葉に、朝熙は鬱陶しそうに首を振る。

 「必要ないって言ってるでしょう?」

 「必要なくなんてない」

 朝時は食い下がって、真剣に朝熙を見据える。

 「私はお前の兄だ。出来るだけお前にも時柾にも好かれたいと思ってやって来た。だけど、お前がした事を考えれば、どう見てもお前は俺を憎んでいるように思える。ならば理由を言え。直せるものならば改善するようにと心がける」

 その言葉は、朝熙の感情を逆撫でした。

 「何を、今更兄ぶろうとしているのかしら? 大体、あんたは全然分かっていないじゃないの。気付かないように目を背けているようだから言ってあげるわ。発作発作って簡単に言うけど、あんたはその度に……」

 律花は朝熙が何を言おうとしているのかを悟って、咄嗟に止めようと足を踏み出しかける。だが、冷然とした朝熙の言葉の方が早かった。

 「女を一人ずつ殺しているのよ」

 さっ、と朝時の顔が蒼白になった。

 「貴様。なんて事を」

 桂が威嚇するように叫ぶ。

 だが、朝熙はそれを気にも留める事無く続ける。

 「あんたは夢だとか幻だとか、周囲がそうやって丸め込んでいるのに乗じて信じ込もうとしているようだけど、そんな事は甘いわ。あんたは人を殺すのが嫌だ、とか人が死ぬのを見たくない、などと言ってあまり戦場に出たがらないけど、その一方で人を斬り続けてるのよ。無意味にね」

 毒を撒き散らすようにそう言って、蒼白の朝時の顔を鼻で笑う。

 「まったく、おめでたい神経してるんじゃないわよ。……私があんたを憎む理由なんて簡単よ。義巳なんかと同じ。当主の座が欲しかったの。いけない? だってあそこはこの城での頂点よ? 欲しくないわけないでしょう?」

 朝時は、ただ顔を青くするばかり。朝熙はどこか勝ち誇ったような口調で言い放つ。

 「分かった? もうこれで、気が済んだ?」

 桂の喚く声が部屋に響いて耳に障る。律花はもう、呆然と目の前で繰り広げられる光景を見ている事しかできなかった。

 そこへ、ふいに静かな口調で言ったのは八尋だった。

 「それは、桐乃殿のためか?」

 その言葉は、部屋の中へすとんと落ちるような、とても印象深いものだった。 

 朝熙は大きく目をむいて八尋を見る。八尋はただ静かに淡々と続けた。

 「桐乃殿が正妻の地位を欲していたから、そして朝熙が次期当主になる事を望んでいたから、朝熙はその望みを叶えようとしているのではないか?」

 八尋の目は見透かすように朝熙に注がれている。朝熙はその視線を受けて、微かに狼狽したように首を振る。

 「そんなお涙頂戴みたいな事、私がすると思って?」

 その言葉に、八尋は迷いもなく頷いた。

 「思うな。桐乃殿のお前への執着は傍目に見ていても異常だった。俺の母親とは全く逆の意味でな。いくらお前でもあそこまで愛情を注いで育て上げられては、逃れられる事はできまい」

 淡々と言う八尋とは対照的に、朝熙は不快そうに顔をしかめて反論する。

 「違うわ。誰があんな女に情けをかけるものですか。私は、あの女を憎んでいるわ。叶えようとしてあげてる、ですって? 有り得ない。あの女のためだなんて。……自分のためだわ。本当に、朝時を憎んでいた。いなくなれば良いと何度も思っていた。私や八尋があんなに苦しんでいる時に、ぬくぬくと両親に慈しまれて、家臣にかしずかれて、憎くない筈がなかった。母じゃない、私自身が朝時を憎んでたのよ」

 ―――そう、これも本心だった。

 健全に、慈しまれて育つ朝時を、遠くから自分がどんな思いで見ていたと思うのだ。八尋や夕はまだ許せる。同じ不幸な者だから。だが、一人だけ幸福そうにしている朝時は朝熙にとって羨望とそれを裏返した憎悪の対象だった筈だ。

 にもかかわらず、その言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。そして、それこそが正に、八尋の言葉を裏づけしているようだった。

 その時、律花はふいに目の端に何か気に掛かる物が映った気がして振り返った。

 振り返った視線の先では、朝時が脇差を鞘から抜いていた。

 「騒ぐ必要はない」

 朝時の声はとても静かなものだった。静かだが、とても印象深いものだった。

 「始めから、こうしていれば早かったんだ。こうしていれば、稲も必要以上に傷つく事もなかったし、お前も簡単に当主になれたのだろう。それにきっと、関係のない娘達が死ぬ事もなかった」

 目は絶望に暗い色を湛えていた。

 律花は息を呑む。朝時が何をしようとしているかは、一目で察せられた。

 「私など、あの時母上と一緒に死んでいたならば、こんな苦しみも味わう事もなかったのに」

 朝時の瞳から、つ、と涙が流れる。銀色の刃は冷たい光を湛えている。

 「次期当主には、朝熙を指名する」

 そう言い置いて、朝時は腕を腹に持っていく。

 律花は一瞬、朝熙の瞳に微かに狼狽の色が浮かんだのを見た気がした。だが、それが目に映ったのも一瞬だ。何故なら律花はその時にはもう、朝時に向かって駆け出していたから。

 「やめて」

 刃が朝時の腹に軽く当った時に、律花は朝時にたどり着いて、とっさにその腕にしがみ付いた。腕を律花に引かれたため、刃はすんでのところで腹から離れた。

 だが、その勢いで、刃は逸れて切っ先はそのまま、律花のほうへ向かって来てしまう。

 ―――しまった。

 向こう側に押し出せば良かったのに。そう思ったのも一瞬だった。

肩から胸にかけて熱い痛みを感じる。切裂かれた着物に赤い血が散った。

 「律っ」

 真っ先に叫んで駆け寄って来たのは八尋だ。八尋は、倒れる律花をその場で受け止めて、そしてその傷を見るや否や顔を蒼白にして、律花をその場に横たえ、立ち上がって刀を抜いた。

 「朝時。律を傷つけるとは何事だ」

 出された声は低いもので、銀色の刃がまっすぐに朝時へと向かっている。

 「死にたいのならば、人に迷惑をかけずに死ね。俺が殺してやる」

 ぴりりとした空気が部屋の中へ立ち込める。

 八尋はゆっくりと朝時を見据えて刀を構える。朝時が静かに目を閉じる。 朝熙は何も言わずに、ただ無表情を顔に貼り付けてそれを眺めていた。

 聞こえる音は、ただ桂の大騒ぎをしてとどめようとする声のみだった。桂は飛び出そうとしたところを柏に捕らえられ、今は両腕を背後に固められて、床に押し付けられてしまっている。

 その中で、律のかぼそい声が聞こえたのは幸いだった。途切れ途切れで、だが必死に言葉を紡ぐ。

 「八尋、やめて」

 その声に、八尋が弾かれたように振り返った。

 傷は浅くはないが、それでも致命傷にはならなかった。血が噴出すのも構わずに律花は痛みに顔を顰めながら半身を起こす。着物についた血の色が、じわりと広がった。

 「なんでそうやって、簡単に斬ろうとするの? 嫌だって、前も言ったのに」

 弱い声ながらも非難するように言って律花は八尋に手を伸ばす。

 朝熙と朝時は信じられない物を見るような目で律花を見る。一見細くて頼りなさそうなこの娘が、このような怪我を受けて尚、自ら起き上がるのが信じられなかった。

 律花は切れ切れの口調で言葉を続ける。

 「ねえ、仲良くしてよ。みんな、兄弟なんだから、きっと、絶対……」

 声はどんどん小さくなり、八尋の袴に触れる寸前で伸ばした手はぱたりと落ちる。

 倒れこみそうになった律花を咄嗟に支えたのは、慌てて駆け寄った八尋ではなく側に居た朝熙だった。

 「大丈夫、気を失っているだけだわ」

 青い顔でそれを見ていた八尋に向かって言うと、朝熙はしばし目を伏せた後、大きく息を吐いて気持ちを切り替えるようにしてから、律花を抱き上げる。

 「水を差されちゃったわ。続きは、後にしましょう。……時柾、それが死なないように見ていて頂戴」

 朝時を示してそう言って、朝熙は律花を抱えて部屋を出て医者を探しに行った。

介抱するより先に復讐するあたり、八尋さんのイイ男レベルもまだまだ…

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