第十二章 3話
北見は部屋に戻ってきて少し眉を顰めた。戸が開け放しにしてある。部屋に入ると、微かに違和感を感じた。
―――誰かが、いた?
そう考えながら持ち物を確認するが、なくなっている物はなかった。
不審に思っていると、その時ちょうど廊下から声をかけられた。
「北見さん、ちょっといいですか?」
その声が強張って震えているのを聡くも感じながら、北見静かに返答する。
「何だ?」
「聞きたい事があるんです」
障子を開けると思いつめた顔の律花が立っていた。
律花は北見の顔を見ると、大きく息を吸って開口一番に言う。
「北見さんは、朝時様に何を調合しているんですか?」
思いがけないその言葉に、北見は思わずたじろいて少し目をむいた。その表情が、律花に何かを確信させたのだろう。そうして、それは律花の望むものではなかった。
律花は睨みつけるような視線を北見に向ける。
「分かってるやってんですか? どういう事なんですか? なんで……」
律花は勢い込むように激しくそう言い募る。
北見はすぐに表情を覆って首を振った。
「何をお前がそんなに取り乱しているのか分からないな。あれは薬だ。その他の何でもない」
その言葉に、律花は叫ぶ。
「違う。あれは薬なんかじゃ……」
その言葉を遮って、北見は冷たい目で律花を見た後、これ以上律花と口論を続ける気はないとでも言うように首を振る。
「訳の分からない事を言っていないで仕事に戻れ」
言って、律花が反論しようと口を開きかけたのにも構わずにぴしゃりと戸を閉めた。
律花はしばらくその場に恨めしげに立っていたようだったが、やがて諦めて去って行くのが分かった。
北見は大きく息を吐く。そうして、律花がいた廊下側とは反対の障子を開けて、見るともなく縁側に目を向けた。そこには、先程律花が北見を責め立てた草がある。これは、北見の罪の印だ。
北見は苦い色を顔に浮かべて庭に茂るそれを見る。
『北見、お前は私が貰い受けるわ』
脳内に、かの日の朝熙の言葉が響いた。あの日から、北見は罪に手を染めた。今となっては、もっと違う道があったのではないかと、それがとても悔やまれる。
気付けば、目を伏せて自らの事を顧みていた。
父である沖房の処刑。その時から全てが変わってしまった。まだ一年にも満たないのに、北見にはとても長く感じる。
父が処罰されて、自分は志摩のお陰で刑を免れたと知った時、正直途方に暮れた。それまでは、父の跡を継ぐことしか考えていなかった。刀を扱うのが好きだったし、父には憧れて、また尊敬していたから、それだけを一心に目指して来たのだ。それが、目の前で断ち切られて、命を助けられたものの、何をすれば良いのか分からなかった。
正式に篠田からその通達を持ってきたのは朝熙だった。朝熙は北見にそれを告げると、北見のその気持ちを見透かすような瞳で言った。
「北見、お前は私が貰い受けるわ。どうせ行くところもないのでしょう? 私の役に立ちなさい。今まで一人でやっていたけど、そろそろ手伝いが欲しいと思っていた所なの」
それは、まるで獲物を狙うような鋭い瞳だった。北見を捉えて放すまいとするような、そんな強烈な瞳に射竦められた事を、北見はよく覚えている。
「お前ならば頭も良いし気も利くし、なによりも口が堅いから安心だわ。私の秘密を共有するのにお前ほどの適任者はいない。お前にとっても悪い話ではないはずよ? 剣術を生かせないのは残念だと思うけど、それなりの報酬や生活は保障できるし」
それに、と朝熙は口元に何かを含むような笑みを浮かべて北見を見た。
「この城を離れなくても良くなるわ。筒井筒の幼馴染のお嬢さんの側に、いたいのでしょう? 例えそれが、人の妻だとしても」
その時の気持ちを、北見は忘れられない。背中を何か冷たいものが駆け下りていったような感覚。ずっと秘めていた想いをこのような場面で荒らされた怒りよりも、自らの気持ちを目の前の人が知っていた、という恐怖の方が先だった。
朝熙は確信したような笑みを浮かべて言う。
「お前が以前から志摩に心配りをしていたのは知っているもの。時柾は気が付いていないでしょうけど、知ったならどうなる事でしょうね? 自らの妻に懸想する男を、どう思うのかしら? しかも、その妻はその男の命乞いまでしたのに。……二人の仲を疑わないかしら? 志摩を、あなたを罰しはしないかしら?」
朝時の声はあくまでも穏やかで、語りかけるような、そんな口調だった。だが、瞳は鋭く北見を見据え続けていた。笑みを浮べた唇さえ、どことなく凄んでいるような印象を受ける。
北見はその時、震える声で朝熙に、お仕えすると頭を下げたのだった。
―――もう、あの時に、何もかも受け入れる覚悟はしていた筈だ。
その後、朝熙の望む仕事の話を聞いて、驚愕を、恐怖を感じたけれど引き返すことはできないと思った。自分のせいで、志摩まで巻き込まれてしまう。それに、なによりも自分が志摩をそんな風に思っていた事を、そんな惨めな自分を志摩に知られたくなかった。
自分のしている事が恐ろしい事だと分かっていたから、父を恨む心も強くなった。父があんな事さえしなければ、とそちらを恨む事で、そして父の境遇を思うことでどこか溜飲を下げている節があった。だが、今、父は赦され自分はここに繋ぎとめられている。心底、父が羨ましい。妬ましい。自分が父を恨む一番の理由は自らの行いを悔やんで恥じているせいだとは、自身でよく承知していた。それでも、そうせずには居られなかった。
―――自分のしている事も、父のしている事と同じだ。
いや、それ以下で浅ましい。
父は義任を想うあまりにやった事だ。だが、自分は朝熙に脅されて、そうして渋々とやっている事。その差は、とても大きい。自分は、父にはどうやっても及ばない。
―――もうすぐ、こんな生活も終わりかも知れない。
どうしてだか分からないけれど、律花はもう、感づいた筈だ。あの娘は真っ直ぐな性根の持ち主だから、きっとこれを放ってはおかないだろう。自分は、きっと裁かれる。
北見は大きく息を吐く。
律花の真っ直ぐさは、北見にはとても持ち得ないもので、志摩の平和を揺るがす者と思いながらもどこか好ましく思っていた。好ましく、そして妬ましく思っていた。
自分もあのようならば、どこかで状況を変えられたのではないのかと、思わずには居られなかったからだ。
北見はもう一度大きく息を吐くと、おもむろに部屋の中の整頓を始めた。
「八尋、どこに行くの?」
戻ってきても、律花は浮かない顔をしてずっと考え込んでいた。だが、八尋が何かの身支度を整え始めたのに気付いてそう問いかけた。
「今日はこれから朝時と朝熙と話し合いだ。安曇の件をどうするか、とな」
その言葉に、律花が迷ったのは一瞬だった。
「私も行っていい?」
尋ねると、八尋は不審気な顔をして律花を見る。
いつもならば、こういう重要な話し合いの時には律花は連れていかれない。それを承知で、律花は言ったのだ。
「始まる前に、少しで良いから時間が欲しいの。用件が終わったら私は出て行く。だから、お願い」
「困ったなあ、今日は俺は参加できない事になってるのに」
突然、茶化すようなそんな声が聞こえて、振り返るといつからなのか彰が面白そうな顔をして立っていた。
「なんだか面白そうな事をしそうな時に弥一なんかの稽古をしなきゃならないとはついていないよ」
そういう声も、笑い含みだ。
「それはどうでも良いのだが、あそこには桂がいる。少し危険だな」
八尋の迷うような声に、彰は笑う。
「朝時様の目もあるから大丈夫でしょう。なんなら、柏にも頼んでおきましょうか? 同郷のよしみで、って押し切って」
なんだか面白そうだし、許してあげましょうよ、と重ねて彰が言うのを呆れたように溜息をついて、八尋はそれを了承した。
その場所には朝熙や朝時、それに柏や桂がいた。律花の姿を見て、柏は相変らず無表情だったのだが、朝時が怪訝な顔を、桂と朝熙が不快な顔をした。
「でしゃばりは嫌いよ? 何のご用?」
そんな朝熙の皮肉に反応する余裕もなかった。律花はただ、思いつめたような瞳で朝熙を凝視していた。
緊張で、口の中がからからだった。頭がぐらぐらする。だけど、どこか芯の方で落ち着いていた。
「朝熙様にお願いがあるんです。図々しいお願いなんですけど、ほんの少しの間だけでいいから、朝熙様と朝時様と三人だけでお話したい事があります」
言うと、朝熙は更に不快な顔をした。
「本当に図々しいわね」
言ってそれを跳ね除ける言葉を口に出そうとするのを、律花は遮るように即座に言った。
「朝時様の『香』について、聞きたい事があるんです」
その言葉に、朝熙は一瞬目をむいた後、射抜くような瞳で律花を睨みつけた。
律花は、苦い顔をして続ける。
「あれは、大麻なんですね?」
大麻。律花の居た時代では麻薬として知られている植物だ。そのくらいの知識は、律花にもあった。周囲の人は特に驚いた顔をしていなかったから、おそらくこの頃はそんなに有名なものではないのだろう。ただし、朝熙は外国商人と貿易をしている。おそらくそちらの伝手で手に入れたのだ。
朝熙はしばらく射竦めるように律花を見据えていたが、やがて意外にも口元に薄っすらと笑みを浮べた。
「良いわ。ここで話なさい。わざわざ人払いする必要なんて、ありやしない」
その言葉に、逆に狼狽したのは律花の方だった。
「でも」
戸惑うように揺れる律花に、朝熙は有無を言わせぬ口調で言う。
「良いって言ってるでしょう?」
毅然と上げた顔には怯む様子など微塵もない。
「それで? お前は何をしたいの? 私を断罪したいのかしら? それとも、お優しいお前の事だから、ただ、謝らせたいとか?」
挑発的に言う口調は落ち着いていて、瞳は真っ直ぐに律花を見据えていた。
それが、逆に律花を居心地悪くさせている。律花は目を逸らして言う。
「なんで、そんなに潔いんですか?」
本題に入るのを少しでも引き伸ばそうとするような、そんな律花の言葉。朝熙はそれを見透かしたような目で相変らず律花を見据えていた。
「はじめから、誰かに露見するような事があればそれは私の不手際なのだから、そこで全て終わりにしようと思っていたのよ。見苦しく言い逃れするつもりはないわ。それがたとえ、お前の如き小娘でも」
周囲の者は皆、黙って二人の会話を聞いている。それが、律花には更に息苦しかった。
律花がなかなか本題に入ろうとしないのを焦れたように朝熙は言う。
「お前、今更になって迷っているなんて。……ほんとうにお優しいのね。もう、決意は決めているはずなのに」
嫌味な口調に、律花は俯く。そう、もう決めていたのに……。
律花は気持ちを切り替えるように大きく息を吐く。決めたのだから、もう、後戻りはできない。
朝熙の強烈な視線を真っ向から受け止めて、苦い物を噛み潰すような顔で律花はゆっくりと言った。
「朝時様の病は、朝熙様が仕組んだことじゃないんですか?」
微かに、声は震えていた。




