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第九章 6話

 律花が目を覚ました場所は、自らの部屋だった。見慣れた天井を見上げ、一瞬、朝熙に言われて出軍してからの事が本当は夢で、今から自分は出軍するのではないか、と言った妙な錯覚に陥ったが、急速に覚醒するに従って、やはりそれが夢ではなかった事を確信した。

 「あら、起きたの?」

 半身を起こすと、側で手慰みに刺繍をしていた蘭子が気が付いて顔を上げた。

 「蘭子様……」

 律花は寝起きの鈍った頭を必死に動かして、なんとか言葉を探した。

 「留守中、何もありませんでしたか?」

 ようやく出てきた律花の言葉に、蘭子は偉そうに頷く。

 「わたくしの方はお前の残してくれた護衛を使う必要もなく大丈夫だったわ。まさか、気位の高いわたくしがこんな格好をしているとは誰も夢にも思わないようで、下男達の口の端にも上っていないようね」

 くつくつと笑って言う蘭子に、もう以前の様に死を思わせる素振りは見えない。やはり、この人はこうして溌剌としていた方が良い、と再認して、律花は弱々しくであるが微笑みを返した。

 「ところでお前、気分は大丈夫? 彰がお前が気が付いたなら呼べって言っていたけど、もう少し休んでいる?」

 蘭子には珍しく、気遣わしげな口調。律花はそれを有難く思った。傷心の時に、人に労わって貰えるのは嬉しい。だが、それに甘えていてもいけない事は分かっていた。

 「会います」

 律花が短く答えると、蘭子は頷き立ち上がる。それから、部屋の障子の外で控えていたらしい男に声を掛けた。その男こそ、律花が蘭子の護衛にと寄越した男なのだが、蘭子がすっかり下男の代わりにしてあごで使っている様子だった。

 男が立ち去ってしばし、彰からの伝言がもたらされた。話があるので、朝熙の部屋まで来るように、という事だった。


 指定された部屋に行くと、そこには彰と朝熙、柏が揃っていて、無表情の柏はともかく、彰と朝熙は渋い顔をしていた。

 律花が部屋に入ると、彰が「来たね」と言って自らの側に律花を招き寄せた。朝熙は律花の顔を見ると、苦々しい口調で言う。

 「あの男の言った事は本当だったのね」

 その言葉は質問ではなく確認だ。律花が頷くと、朝熙は大きく息を吐く。

 「時柾をとられるとは、大誤算だわ。桂のやつ、あれは義巳と手を結んでいるわね。それで、邪魔な時柾を排除しようとしたのよ。……私達は、手を組んで時柾を取り返すべきだと思うわ」

 「手を組む?」

 律花は訝しげに首を傾げる。朝熙は頷いて畳み掛けるように言った。

 「義巳と手を組んだあいつに対抗するには、少しでも多くの人手が必要だもの。特に、お前はもしかしたら、時柾の餌と成り得るかもしれない」

 「餌?」

 律花は更に怪訝そうに首を傾げるが、朝熙はそのまま続ける。

 「時柾は、敵に回ったらとても厄介な相手だわ」

 その言葉に、律花はようやく自分と朝熙の認識の差に気が付いて愕然とした。つまり朝熙は、八尋がこのまま安曇について安曇の味方になってしまうと思っているのだ。

 「時柾様は、安曇に連れ去られたんじゃないんですか? 敵に回ったら、って……」

 律花が反論するのを見て、朝熙がしばし黙り込んだ後、唐突な質問を律花にした。

 「お前は、時柾がなんで父親に憎まれていたか聞いた事がある?」

 話題が逸れたのを訝しく思いながらも、律花は頷く。

 「時柾様のお父さんが自分は時柾様に殺されるんじゃないかって恐れていて、って聞きました」

 朝熙は続けて質問する。

 「なんで親父がそんなに恐れていたか、までは?」

 「巫女の予言と、時柾様のお母さんの実家が強かった事と、あと自分が優れているからって言ってましたけど」

 最後のほうの条件には、少々素直に言い難いものがあったが、それでも律花が言うと、朝熙は頷いた。

 「そうね。特に最後にお前が言ったことについてが一番大きかったでしょうね」

 「そうなんですか?」

 律花は驚いて聞き返す。確かに、八尋は強いのだろうと思ったが、それが自らの父親を恐怖させてしまうような大それたものなのだとはとても思えなかった。

 律花が解せない顔をしているのを見て、朝熙は言う。

 「いまいち分からないようね。それなら、時柾の初陣の時の話をしてあげるわ」

 朝熙の瞳が思い出すように細められ、そうして語り出す。

 「あの子の初陣は普通よりも、ずっと早かったのよ。何でかって言うと、父親が面倒くさがって朝時と一緒に済ませてしまったからなんだけど。私も本当はその時に済ますはずだったのだけど、母親が反対したために行かなかったわ。だから、時柾の初陣は、私よりも早かった。まだ、あの子はあどけないただのガキのように見えたわ」

 朝熙は思い浮かべるように苦笑して続ける。

 「私は後から聞いた話なんだけど、その戦は途中まで篠田が押していたらしいわ。それで、味方の士気も盛んで、皆、勢いに乗っていた。それなのにその時、時柾が親父に進言したんですって。兵を呼び戻して、撤退すべきだって。親父は勿論、周囲も何を馬鹿な事を言うのかと鼻で笑ったらしいわ。それで、取り合いもしないで敵を追っていった。だけど、それが向こうの策だったのよね。深追いして行った先から隠された敵方の同盟軍が現れて、戦況は一気に逆転。篠田は大打撃を受けて、兵の統率は乱れ、場は混乱した。周囲を敵に囲まれて、親父も朝時も地獄を見たらしいわ。もう、生きて返れるとは思わなかった。……そこを救ったのが時柾よ。あの子は、親父に鼻で笑って一掃された時にその場から離れて、少人数の先鋭をつれて相手の同盟軍の背後を突いてそこに動揺を生んで、なんとか篠田の脱出口を開いた。そこから親父や朝時がなんとか生きて逃れられたわけ」

 わかった? と言う顔をして律花を見た朝熙に、律花は首を傾げた。今の話は、どう考えても八尋の活躍の話にしか聞こえない。これが、八尋が父親に憎まれるのとどう関係があるのだろう?

 律花の疑問を見て取ったのだろう、朝熙は呆れたように溜息をつく。

 「お前って本当に単純に出来ているのね。こんな事があったら、親父は時柾に感謝こそすれ憎むはずがないって思っている? よくも考えてみなさいよ。まだ自分の半分の年にも満たないヒヨっ子が幾度も戦を経験した自分よりも観察眼、判断力、戦術において優れていたって事になるのよ? 空恐ろしくならない方がおかしいわ。おまけに、その子供は今まで自分が全くないがしろにしていて、可愛がった覚えもない後ろめたさまでついて来る。時柾にその気がなくとも、親父は勘繰るわ。いつか、この子供は自らの地位を脅かす気なんじゃないか、って。その上で、追い討ちをかけるようなあの巫女の言葉だもの。……あんな事をしなければ、時柾は親父に命を狙われる事もなく、単に目障りな、居ても居なくても親父にとってはそう変わらない立場のまま居られたのよ。私と同じにね」

 そこまで言って、朝熙は気を取り直すように首を振る。

 「ああもう、だからそう言う事が言いたいんじゃなくて、とにかく、時柾はそのくらい敵に回したら恐ろしい男って事よ。その事はきっと、義巳から安曇にもれているわ。そして、今回の戦は(ゆう)、時柾の姉なんだけど、夕を餌にしてわざと戦を起こし、時柾の力を量ってそれが本物ならば、時柾を自らの味方に引きずり込もうと、はなっからそれが目的だったんじゃないかって事よ」

 「でも、時柾様がそんなに簡単に寝返ったりは……」

 律花の反論の言葉は、今まで黙って二人の会話を聞いていた彰の静かな声に遮られた。

 「律、時柾様を繋ぎ止めるものは、この篠田にはないんだよ」

 訝しげに振り返る律花を見据えて、彰はもう一度繰り返す。

 「時柾様を繋ぎとめる事が出来る程の物を、篠田は有していない。時柾様はあまりものに執着しないし、待遇ならむしろ、安曇の方が良いくらいだろう。おまけに、安曇には夕姫がいるしね」

 その口調、その様子は、時柾が安曇に寝返っても仕方のない、と諦めた口調だった。

 律花は呆然として、彰を見つめる。彰は穏やかに淡々と続けた。

 「君も大分時柾様のお気に入りだったようだけど、残酷な言い方になるが、まだ篠田にあの人を繋ぎとめるだけの存在にはなれていなかったよね」

 彰の言葉は律花の胸を刺す。彰は律花の手が振り払われた事を見ていたのだ。

 律花の様子を気遣う風もなく、彰は更に続ける。

 「おまけに、俺と律だけに限って言えば、朝熙様の目の前でナンだけど、いざとなったら、自分たちは篠田のではなく時柾様の臣だから、って言ってここを捨てて安曇にいる時柾様の下に走っても充分おかしくないんだよ」

 ぬけぬけと言う彰に、朝熙が呆れた顔をしたが、彰は涼しい顔だ。

 じっと律花を見つめて言う。

 「律、焦らなくていい。きっと時柾様に害は加えられないから。じっくりと考えてみなよ。これから、どうするか。君は、どうしたいのか」

 朝熙が苦々しい顔をしたが、彰の言葉を今更取り消すことも出来ずにいるようだった。


 律花はのろのろと脱力して部屋に戻る。部屋には蘭子が待っていて、茶などを淹れてくれた。有難く受け取って、しばらく考え込むように黙り込んでそれを啜っている。

 そうしていると、とうとう、耐え切れずに蘭子が口を開いた。

 「で、どうなったのよ?」

 律花は一瞬、意味が分からずに怪訝そうな面持ちで蘭子を見つめた。蘭子はいらいらと続ける。

 「時柾様の事よ。お前、どうする気なの?」

 その言葉に、律花はゆるゆると首を振った。

 「悩んでるんです」

 「悩んで?」

 訝しげに問い返す蘭子に頷いて、律花は続けた。

 「どうしたら良いのか、どうするべきなのか。八尋が、お姉さんと一緒にいるのがいいのなら、それが一番幸せなら、私の口を出す事じゃないし、彰さんの言うとおり、私達は八尋の臣だから、って安曇に行っちゃうのだって手かもしれない。だけど」

 もやもやと心の中が揺れる。

 会った事もない、八尋の姉という人。彰の話だと、美しく、折れてしまいそうな程に儚げな人だと言う。その人と八尋が一緒にいる所を考えると、どうしてもその側に自分が行きたいとも行けるとも思えないのだ。彰は言っていた。あの二人は、二人だけで何か完結しているような所があった、と。他人の入り込めないような深い仲。

 律花がそんな事をぽつぽつと述べて行くと、蘭子はやがて驚いたような顔をして律花をまじまじと見た。そして、言う。

 「お前、一丁前に悋気を焼いているの?」

 律花はその言葉に初めて自分が八尋とその姉に嫉妬していた事を教えられてハッとした。

 ―――恥ずかしい。

 そんな子供っぽい感情、なんで持ってしまったのだろう。八尋は別に、自分のものだと言うわけでもないのに。

 そんな律花の様子を無視して、蘭子は勝手に一人でどことなく満足げな表情さえ浮かべて納得する。それから、言った。

 「それなら、時柾間と一緒にいるべきよ。諦めてしまっては駄目だわ」

 一人でそう結論付けて先走る蘭子を、律花は慌てて押し留める。

 「待ってください。もう少し、考えたいんです」

 そう言う律花を、蘭子はやや不満そうに見たのだった。


 律花は部屋を出て城の中を歩く。もそもそと、後ろからジンがついてきた。

 蘭子が側に居ると、心強い事はあるが、反面あれこれと喧しく言われるので考えがまとまらない。律花はじっくりと、一人で考えてみたかったのだ。

無意識に、足は八尋の部屋へ向かっていた。自身でそれに気が付いたのは、八尋の部屋の目の前に着いてからだった。律花はしばし戸惑った後、障子を開けて中に入る。中には誰もいず、がらんとした部屋が律花の目の前に広がった。

 ―――八尋の、匂いがする。

 普段は別段意識しなかったが、その主がいない部屋で、ふとそんな事を考えた。支えてもらった時、慰めてもらった時、その胸の中で泣いた時。そんな光景が匂いにつられて思い出されて来る。

 ―――八尋はいつも側に居てくれた。

 温もりをくれた。

 律花が知り合いの誰もいないここでこうしてやってこれたのは、きっと八尋のお陰だ。八尋がいなかったら、物理的にもそうだが、精神的にも寂しくて、恐ろしくて、頼れる人も信じられる人も、安心できる人もいなくて追い詰められていたかもしれない。

 ―――八尋の側にいたいな。

 ふと自然に、そんな事を思った。思って、やっとわかった。

 結局、それが最優先の想いだ。例えそれが、安曇に居る事であろうと。律花が八尋にとっての一番ではないとしても。八尋の側にはいつも八尋の姉が居て、律花の入り込む隙間なんてないとしても。

 そう腹を決めると、なんだか頭の中がすっきりとした。もやもやとしていた物が吹き飛んで、ぎしぎしと鈍っていた思考が急に滑らかに滑り出す。

 ―――でも、その前に八尋の気持ちを確かめなくちゃ。

 本当に、八尋が安曇にいたいのか。それが良く分からない。

 安曇の方が待遇が良いだろうから、とか、姉が安曇にいるから、などの理由で彰や朝熙は八尋が安曇を取るものだと決め付けているが、直接八尋にそれを問い質した訳ではない。その上、八尋はあの時、無理矢理連れて行かれたのだ。大勢の兵に囲まれる前、何らかの方法で八尋はきっと気を失わされていた。

 律花の心は決まった。決まればこうしては居られない。

 律花は彰を探しに城内を歩き出す。その足取りは、どこととなく以前よりも軽いものだった。

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