第九章 5話
戦場に着く頃、不意に八尋が口を開いた。
「彰、律を連れて離れた場所にいろ」
律花は慌てて抗議しようと口を開きかけるが、それよりも先に八尋の言葉に遮られてしまう。
「戦場での姿はあまり律に見せたいものではない。その上、俺はお前に気遣っている余裕はない。分かってくれ」
有無を言わせないようなその口調。なんと口答えしても絶対に八尋の気持ちは変える事ができないだろう。
律花は渋々頷く。
それを見て、彰は馬の頭を返して軍の隊列から抜け出た。
戦場から離れた場所で、それでも戦場を見渡せる場所に彰は馬を止めた。
本当は、戦場など大嫌いなのに。朝熙の軍について戦場に行く時も、とても恐かったのに、それでも律花は目を逸らせずにその光景をじっと見入る。
旗をたなびかせて、両軍の間が段々と狭まって行く。ついに、火蓋が気って落とされた。
途端に、そこが騒がしくなる。離れたところにいても、様々な音が律花の耳に届いた。耳を塞ぎ、目を閉じて遮ってしまえれば、どんなにか良いだろうと思わずにはいられない光景。それでも、律花は目を離せずにいる。
離れた場所に居るのに、その姿は何故か目を引いて、追わずにはいられない。その痩身に、どうしてそんなに力があるのだろうと不思議になるくらい、八尋は鮮やかに次々と敵を斬り倒して行く。
他の武将を見ていると、どうやら倒した数で褒賞が決まるのか、その証拠として自らの倒した相手の首を取ろうとしている者も、目を背けたくなるようながら多かったが、八尋はそんな事には気にも留めずに、ただただ敵を斬る事だけに専念している。
「義巳様が、なんで安曇に寝返らないかが甚だ不審だな」
不意にぽつりと彰が言うので、律花は驚いて振り返る。彰は渋い顔で眼下に見える戦場を見下ろしていた。
「義巳様は、今は安曇の兵だ。なのに、なんであんなにもあっさりと篠田について安曇をやれる? それに、桂も桂だ。例え兵や武将の殆どが篠田の者で、それが抑止力となるとしても、それでも義巳様を将にするなんて、馬鹿げているとしか思えない。……それに」
彰は更に苦い顔で続けた。
「安曇にしては、弱すぎる。まるで、篠田の力を量っているようだ」
彰がそう言い終わるか終わらないかの内に、安曇の兵が段々と逃走し始めた。
「律、俺はちょっと心配だから行って来るよ」
―――時柾様が無茶をしないように。
言外に含ませたのが伝わったのだろう。律花は今まで青い顔で震えながら戦場を眺めていたのにも関わらず、振り返った時には瞳に意志を漲らせていた。
「私も、連れて行ってください」
彰はしばし、検分するように律花を見てから言っても聞かないだろうと踏んだのか、反対をせずに頷く。
「良いけど、無茶はしないようにね」
言って、一気に馬を駆けさせた。
「時柾様」
彰の声に時柾は振り返り、普段はあまり表情を露にする事のない顔に、多少の不快の色をちらつかせた。
「離れて待っていろ、と言った筈だが」
咎めるようなその言葉に、彰は宥めるような口調で言う。
「戦がそろそろ終息に近づいたと思ったので、そろそろ良いかと思いまして」
それより、と彰は続ける。瞳は今にも馬の手綱を引き、退く安曇の軍を追おうとしている八尋の姿を厳しく見据えていた。
「今回は朝熙様が割いていった分、兵力は少ないですし、なによりも義巳様はきっと深追いはなさらない方針でしょう? これ以上は進まない方が良いですよ」
その言葉に、八尋は首を振った。
「義巳には連れて来て貰った恩はあるが、生憎従う義理はない。あれも、何を企んでいるのか怪しいものがあるしな」
「それがわかっていらっしゃるのなら、尚更深追いは禁物ですよ。深追いして何かあったら、それこそそれが義巳様の罠でしょう」
八尋は賢い。今、自らがしようとしている事がどんなに危険な事かは充分に分かっている。それでも、彰の言葉は八尋には是と言い難いものだった。
「たとえ罠でも、それに掛かるしか手はない。姉上の安否を確かめるのが先決だ」
その言葉に彰が反論を試みようとした時、背後から思わぬ声が掛かった。
「お会いされたがっておられますよ」
八尋も彰も律花も、驚いて声の主を振り返る。
―――義巳。
律花は息を呑んだ。相変らず、抜け目のなさそうな瞳が狡猾そうに光っており、どう見ても信用に足る人物には思えない。少し高めの声が媚びる様な色を含んで八尋に向かう。
「夕姫様は、まだ生きておいでです。今回の篠田出軍に向けて、立場は危うい物とはなっているようですが。あの方も、時柾様のご安否をとてもご案じされておいでで、出来る事なら是非あなたにお会いしたいと。……こちらに忍んで来られると申されておいででした」
―――出来すぎている。
彰は即座にそう思う。罠としか思えない。
だが、それでも自らに八尋の行動を留める事が出来ないのは知っていた。
「お前を俺は、信用していない」
八尋は冷たい目で義巳を見据えながら言う。
「だが、俺が行かねば姉上の立場は更に危うくなると言いたいのだろう? お前の考えている事は、易々と想像できるが、従うしかあるまい。連れて行け」
その言葉に、義巳はにんまりと笑って頷いた。
八尋は不快な顔をしたが、彰と律花は八尋について行った。義巳は、自らは軍の指揮があるからと言って場所だけを八尋に教えて満足そうに去って行ったので、計三人で馬を走らせた。
随分と馬を飛ばして、目指す場所に着く直前という所で、大きな川が目の前に横たわった。川は並々を水を湛えて、激しく流れている。周囲を見渡しても、それに掛かる橋はどこにも見当たらない。
「馬の背丈以上はありますよ。渡るのは無理だ」
彰が注意するように言ったのは、八尋が馬から下りて手綱を取り、今にもそこを渡ろうとしたからだ。だが、八尋はその言葉にも耳を貸さない。
「いざとなれば、泳げる」
「流れが速いですよ」
彰は諦めを口調に滲ませながらもそう言って抵抗してみるが、結果は見えたものだった。
「渡れない程ではない」
その言葉に、彰は大きく溜息をついて自らも従おうと馬を下りて律花も下ろし、手綱を取って川の方へ向かった。その途中、ふと律花の様子がおかしいのに気が付く。
律花は顔面を蒼白にしてがたがたと震えながら轟々と流れる水面を凝視していた。
「どうしたの? 律」
彰の問いかけに、律花は首を振る。
「なんでもありません」
その言葉に、彰は呆れたように苦笑した。
「なんでもないわけないでしょ? そんなに震えて」
八尋も、あまりにも異常な律花の様子に歩みを止めて振り返って律花を見ている。
律花はがちがちと噛み合わぬ歯を悟られないように賢明に努力しながら出来る限り気丈に聞こえるようになんでもないと繰り返すが、それで誤魔化される二人ではなかった。
「もしかして、律、水が恐いとか?」
彰の図星を指した言葉に、律花が身を硬くした。それが、何よりの証となった。
「そういえば以前溺れていたな。恐怖が染み付いていてもおかしくない」
八尋が納得したように言って、彰に指示を出す。
「彰、ここで律について待っていろ。無理をさせる事はない。……俺も、すぐ戻る」
言って八尋は再び歩き出そうとする。律花は慌てて八尋の袖を掴んだ。
「ダメ」
―――だってこれは、きっと絶対罠だもん。
「行っちゃダメだよ」
嫌な予感が、ひしひしと押し寄せてくる。
八尋は思わぬ律花の行動に少し驚いた様子だったが、しばし迷うように自らの袖を掴んでいる律花の手を眺め、それから息を吐くと言う。
「すまない、律」
言葉と共に、強く袖は引かれ、律花の手は振り払われる形となった。
律花は呆然と八尋を見上げた。だが、八尋はそんな律花を振り返ろうともせずに川の中へと急ぐ。
「八尋」
律花はその背中にもう一度声を掛けるが、八尋は振り返らないでどんどんと水の中へ体を沈めて行く。段々と小さくなって行く背中。
振り払われた手が、とても痛む気がする。八尋にあのように扱われた事は、今まで一度だってなかった。
―――なんだろう? この気持ちは。
胸が強く締め付けられるような、きりきりと痛むようなこの気持ちは。
八尋が対岸に着くと、対岸の木陰から淡い薄桃色の着物が姿を現した。遠目であまり良く見えないが、八尋がその人物に即座に駆け寄るのは分かる。
途端、これ以上に痛むはずがないと思っていた胸が、さらにきりりと痛んだ。
―――行かないで、八尋。
咄嗟に浮かんだこの考えこそ、律花の一番の心境だった。そんな事を考えてしまった自分に驚き、蔑みながらもそれを自覚する。
今までに経験した事のない感情。それを名づける言葉を、律花はまだ、思い当たらずにいた。
遠目に見える八尋の姿が、ゆらりと揺らぐ。そしてそのまま、地面に崩れ落ちた。彰が隣でハッと息を呑むのが分かった。律花も目を見開いてその光景を凝視する。
何が起こったのか分からなかった。ただ、直感的に良くない事が起きたのだと言う事は分かる。
八尋とその姉の周りを、周囲の木陰に潜んでいたらしい安曇の兵と思われる者達が大勢取り囲む。
「八尋」
律花は思わず大声で叫ぶ。
それで、兵の一人がこちらに気が付いて、誰かがこちらを指差すと、数人がこちらに向かって来た。相手が川を渡ろうとした所で、彰がぐい、と律花を引っ張ると抱き上げて馬に乗せた。そうして、自らも馬に飛び乗る。
「彰さん? 八尋が、あそこに……」
律花は叫ぶように抗議するが、彰は迷う事なく馬を駆けさせる。
「今は、とりあえず撤退した方が良い。……時柾様には、きっと危害は加えられない」
妙に確信を持ったようなその言い様。
だが、律花は尚も抗議をして暴れる。彰は大きく溜息をつくと、次の瞬間に律花に手刀をくれて気絶させた。




