第九章 4話
八尋の部屋の障子の外から声を掛けると、返事をしたのは本人ではなく彰だった。部屋に入っても彰しかいない。
「八尋はどこに行ったんですか?」
怪訝そうに尋ねる律花に、彰は苦笑するように答えた。
「偵察の結果、君が連れて来た男の言っている事が、どうも本当らしいと言う事が分かってね。時柾様は安曇にいる姉上の事が心配で気が気でないから、安曇方面の進軍が決まったら自分を行かせてくれ、と言う事を桂に要請に行ったよ。もっとも俺の見るところ、多分無駄足になりそうだけど。桂のねちっこい性格ったらないからね」
彰はそれより、と言って律花の顔を覗きこむ。
「落ち込んでない所を見ると、蘭子様の自害を止めたね? 本当に、君の影響力には溜息が漏れるばかりだよ……」
あまりにも簡単に表情を読まれてしまった事にばつの悪さを感じて、律花は視線を逸らせた。彰は苦笑して言う。
「それで? 蘭子様達が殺されないような工夫を何か考えついたのかい?」
律花が少し疑わしそうな表情で彰を見るので、彰は苦笑を深めた。
「さては、言ったら俺が殺そうとするんじゃないかって疑ってるな。俺は、時柾様の命令しか聞かないよ? 時柾様には、蘭子様は目に入っていらっしゃらない。律の話をしたら上の空な感じのままだったけど、律のしたいようにする手助けをしてやれっておっしゃってたんだ」
その言葉に、律花は大きく息を吐いた。
「あの、じゃあ、蘭子様達が隠れていても見付からなそうな場所ってありますか?」
その言葉に、彰は首を傾げる。
「うーん、難しいよね。あの侍女を含めると、大人数だしなあ」
考え込むように言ってから、彰はふと思い出したように言う。
「侍女達は志摩様の所に新しく入れた侍女って事で志摩様に預かってもらって、ご本人は君が今隠している場所に居て頂くしかないんじゃないかな。本当は、素性が推測され難いように君のように男装して頂ければもっと良いかも」
―――見透かされている。
蘭子が律花の部屋にいることなど、彰にはとうにお見通しだったのだろう。律花がさらにばつの悪そうな顔をするので、彰は声を立てて笑った。
その時、障子が開いて八尋が戻ってきた。律花の姿に一瞬目を留めて「戻ってきたか」と少々おざなりに言ってから、彰の方を向いて言う。
「すぐ、出軍の用意をしろ」
彰が意外そうな顔をして八尋を見た。
「桂に許して貰えたんですか?」
その言葉に、八尋は首を振る。
「桂は頑なに拒んだが、義巳がそんなに安曇に行きたいのなら自分の軍の中にいてついてくれば良いと言ってくれた。安曇方面の対処は、桂は義巳に任せるつもりだからな」
義巳の名前が出たところで、彰が感心しないとでも言うように眉を顰めた。それには、律花も同感だった。
―――あの人は、何か悪い人のような気がする。
朝時も清丸も、皆あの男を嫌っている。それに、律花自身、以前会った時に不快な思いをした。
「本当に、義巳様の提案に乗るおつもりですか?」
多少の非難を語調に混ぜつつ、彰が言うも、八尋はこだわりなく頷くだけだった。
「それしか方法がない」
それに対して、抗議の声を上げたのは律花だった。
「止めた方が良いよ」
その言葉に、八尋は訝しげに律花を見る。律花は注意深く言葉を続ける。
「上手く言えないけど、あの人はなんだか恐いよ。何か、企んでいる気がする。止めた方が良い」
だが、八尋にその言葉は届かなかった。一瞬の迷う間もなく、八尋は返答する。
「すまないが、今回は律の言葉は聞き入れている余裕はない。これ以外に手はないんだ」
存外に素っ気無い口調で言うと、彰を振り返り、もう一度、重ねて言う。
「準備を」
「……かしこまりました」
彰は言って立ち上がると、一瞬律花を哀れむ様な目で見てから部屋を立ち退いて行った。八尋も色々と準備があるのだろう。律花に言葉をかけることもなく、部屋から出て行ってしまう。
律花はしばらくの間、呆然とその場に立ち尽くしていた。
律花は急いで志摩の所に行き、侍女達の隠れ蓑にする事の許可を得て、蘭子の侍女を移すと、今度は自らの部屋に戻って蘭子に彰の話したことを説明した。蘭子は自分の置かれた立場を正確に把握しているらしく、嫌そうではあったが文句はいわなかった。律花は一通りその処理を済ませてしまうと、蘭子に事情を説明してジンを残しては行くが、自分は八尋について行きたい旨を伝える。蘭子は何の文句も言わず快諾した。それどころか、後押しさえしてくれた。
―――私も、付いて行く。
これは、八尋にも言っていないし、言ったところで反対されるのがおちだと思っていた。今回、どうも八尋にとっては律花は足手まといでしかないようだ。だが、義巳という男の事を考えると、どうしても不安なのだ。自分が行った所でどうなるものでもないと思うが、かと言って行かないでいる事もできなかった。
律花はふと考え付いて、京まで一緒に行ってくれた、あの足軽の男の所へと向かった。彰に指示されていた下男に聞くと、今は律花を護衛して情報を運んで来たと言う事で、今は食べ物を与えて部屋で休ませている、と言った。
律花が行くと、男は盛大に喜んだ。
「久しぶりだな。さっきの装束では見違えるみたいにべっぴんになっててびっくりしたぞ」
嬉々として言い募る男に、律花は言う。
「あのね、今はすごく急いでるの。それで、急いでるんだけど、あなたにお願いがあるの」
律花の必死の言葉に、男は怪訝そうに首を傾げて言う。
「なんだ?」
「護衛をして欲しい人がいるの」
律花の言葉に、男は訝しげな顔をする。律花は急いでいる事もあって早口に続けた。
「私には、頼れる人があまりいなくて、あなたなら私を無事京に連れてってくれたから信用できると思う。お礼は後でする。お願い、私がいない間、私の部屋にいる人を守って」
「誰?」
その問いかけに、律花は言葉を詰まらせる。
「それは、言えない。でも、本当に素敵な人」
男はしばらく黙って、律花の必死の様子を見ていたが、それから呆れたように大きく息をつく。
「相変らず、人の為に苦労してんだな」
そう呟くように言って、それから笑みを浮かべた。
「いいよ。お前の頼みならなんだってやってやるよ」
その言葉に、律花の顔がぱっと明るく輝く。男は続けた。
「ただし、覚えて置けよ。俺は、お前を追ってきたんだ」
律花が怪訝そうにするのを面白そうに見遣って、男は続ける。
「俺はお前に惚れた。だから、一生懸命頑張って、ようやく篠田の足軽の中でも組頭まで出世したんだ」
意外すぎる言葉に、律花は間の抜けたぽかんとした表情で男を見るしかない。男はくつくつと笑って続ける。
「今は急いでるんだろ? とりあえずは俺の名前を覚えておく事で勘弁してやるから、その護衛の相手の所に案内しろよ」
その言葉に、律花は我に返って急いで男を引き連れて蘭子の待つ自らの部屋まで案内した。
男は名を、弥一と言った。
律花は普段の男物の装束に着替え直し、外で出軍の準備をしている足軽たちの中に混じっていた。この中にいれば、八尋たちにはきっと気が付かずに行く事が出来るだろう。そして、引き返すのに難があると言うところになって名乗り出れば良い。
―――やっぱり、私は自己中心的で汚い。
夢の中で聞いた声。あれはきっと朱子の声なのだろうが、あれは的を射ている。だからこそ、律花は聞きたくなかったのだ。
自分は嫌でも戦場に出て、誰かを救えることになるのならば、それが自分のした事の償いになるかもしれない、と考えていた。誰かを救うため、とか、そんな事よりもずっとそちらの気持ちの方が強かったのだ。それがなかったら、正直、戦場に出てまで誰か見知らぬ大勢の命を救おうなどと思わなかったかもしれない。それくらい、戦場に出るのは、その光景をこの目で見るのは恐くて恐くて、どうしようもない。それなのに。
―――八尋が行くとすれば、自ら進んで戦場に出ようとする。
自らの親しい人ならば、危険から遠ざけたいと思うし、もしかしたら何か力になる事ができるかもしれないとこうして期待してしまう。
―――これじゃあ、戦をする人達を非難する事はできない。
見知らぬ誰かなら、見殺しにしても心が痛まないというのなら。
落ち込みながらそんな事を考えていると、ざわりと周囲が揺らいだ。見れば、軍の中心に義巳という男が出てくる所だった。その後に、しばらく彼の部下が続き、最後尾に律花の良く知る人物が現れた。馬上にありながら、すらりとした体躯と鋭い瞳は人の目を惹きつけずにはいられない。こうして見ると、なるほど、朝熙と兄弟なのだ、と言う事が頷ける。顔はどちらも母方譲りだと言うだけあって、全くと言って良いほどに似ていないのだが、馬上で人を惹き付ける独特の雰囲気や、ぴんとはった背筋と、気負うことのないような、見ようによっては不遜ともとれる態度が朝熙を彷彿とさせた。
彼らがそれぞれ配置に着いた事で、軍は進み始めた。律かもそれに伴い、歩き出す。だが、律花の企みはすぐに遮られる事となった。
歩き出してしばらく、肩を叩く者があったので振り返れば、そこにはにっこりと笑みを浮かべた彰が立っていた。
「こんな所で何をやっているのかな?律」
その言葉に、律花はぎくりと作り笑いを浮べながら答える。
「彰さんこそ、時柾様の側にいたんじゃないんですか?」
そう、確かに八尋の側で馬を進めていたはずだ。
律花の言葉に、彰はわざとらしく、呆れたように大きな息を吐いて言う。
「時柾様がね、律がこんな時に何も言い出さないほうがおかしい。絶対に無茶をして来ているだろう、ってさ。本当に、律の事を良くわかってるよね」
律花が気まずくなって言葉に詰まると、彰は苦笑して言う。
「でもまあ、そろそろ時柾様も君の行動を阻む事がどんなに骨の折れる事か分かっているみたいで、追い返しはしないそうだよ。今回は自分は側で守ってやることは出来ないから、俺に護衛を頼んだ。……と、言うわけで」
言って彰は律花の手を掴むと、ずんずんと軍の中を歩み始めた。
「もうちょっと時柾様の側に行こう、時柾様は自分の身は自分で守れるから律についててやれ、って言ってたけど、やっぱり不安だからね」
人の波に逆らって、ようやく八尋の馬の側まで来た時には、律花は息切れをしていた。
彰は馬を引かせていた下男に言って一時馬を止めさせると、律花に乗るように言って、それから律花の後ろに自らが座って手綱を取った。
八尋はそんな二人を一瞥したものの、これといって何も言わない。いや、見る限りにおいて、八尋は上の空なのだ。
―――お姉さんの事、考えているんだ。
律花は八尋を見ながらそんな事を考える。本人に話を聞いた事はなかったが、八尋が自らの姉を慕っていた事は周囲から聞く限りで充分に推測できた。
そして、その姉が危機に瀕しているかもしれない今では、その他の事は全てどうでも良い事なのだろう。律花の事も。
そこまで考えて、律花は胸に小さな痛みを感じたのだった。
「それにしても、なんで義巳様かね」
背後で馬を操る彰の呟くような声に、律花は首だけで振り返って怪訝な顔をして見せた。彰は続けて言う。
「今はもう、義巳様は正式な篠田の兵ではない。むしろ、安曇よりの人物なのに、桂はなんで義巳様に任せたのかな、って事。あの堅物、そう言う事は人一倍神経を尖らせていそうなものなのに」
もしかしたら、と彰は意味深な顔を作る。
「桂は何かを企んでいるのかもしれないな」
律花はその言葉に、顔を曇らせた。
普段の冷静な八尋ならば、その事にすぐにでも気が付くのだろうが、今の様子では一向にその様子はない。それが、とても不安だった。




