第九章 3話
「まさか、あの安曇が攻めてくる可能性があるとは思わなかったな」
彰は廊下を歩きながら口を開く。
「人質がいるから、ですか?」
律花の問いかけに、彰は頷いて言う。
「人質をとった所が攻めてくるって事は、こちらにとった人質は殺されても構わない、と言う事だ。差し出してきたのは安曇の当主の娘だったし、当主のお気に入りとも聞いていたからね。……でもまあ、このご時世、よく考えてみればこれも当然のことかもしれないね」
その言葉に引っかかる物を感じて、律花は眉を顰める。
「まさか、もし三太のいう事が本当だったら、篠田にとった人質が殺されるって事はないですよね」
―――篠田の人質は、蘭子様だ。
彰は苦笑して律花を見る。
「まさか? まさかなんて事はないよ。当然でしょう? それはもう、人質として意味を成さないのだから。本人だってそれは、覚悟しているんじゃないのかな?」
律花は愕然として、目の前で笑みさえほのかに浮かべている人物を見る。やはり、時々この人物がわからなくなる。何故、人の生き死にを語るのにこのような表情を出来てしまうのだろう。
「駄目です」
律花は叫ぶように言った。
「蘭子様を殺しちゃ……」
彰は呆れたように苦笑して、諭すように言う。
「しょうがないでしょう。それが、決まりだよ。うん、でも、殺す事にはならないんじゃないかな。本人も、この事が本当で、それを悟っているのなら殺される前に自害でもするんじゃない? あのお方の気性だと、それが一番有りうると思うよ」
穏やかにそんな言葉を連ねる彰を信じられない面持ちで見たのは一瞬。次の瞬間には、律花はもう駆け出していた。蘭子の部屋に向かって。
彰はそんな律花を少し肩を竦めて見送ってから、八尋の部屋へと向かって行った。
「蘭子様っ」
叫んで飛び込んだ欄子の侍女の部屋の中は、きちんと整理されていて、中には誰もいなかった。畳の上にぽつんと置かれた白い紙に、何かが書かれているのが読める。
―――和歌。
律花でも知っている。昔の人は自殺する前に句を読む事があるそうだ。
―――三太の言ってた事は本当だったんだ。
律花は益々慌てて部屋に駆け込み、奥の間、すなわち蘭子の部屋へと続く障子を開けた。そして、息を呑む。
それは、驚くほど静かな光景だった。普段のどちらかと言えば姦しい様子の蘭子からは考え付かないほどに。
蘭子は部屋の真ん中で静かに正座をしている。純白の着物を身に纏い、黒い髪も艶やかに。そして、律花もよく見知った侍女達がずらりとそれを囲むようにして壁際に座っている。
突然の闖入者に驚く様子も見せず、蘭子はいつになく落ち着いた様子で律花に目を向けた。
「誰が知らせに来るかと思ったけど、お前だったのね。……朝熙様でない分には不服だけど、それでも他の者と比べてみれば、お前が一番ましな気がするわ」
そう言って、静かな様子で笑う。その表情に、律花は戦慄した。
―――これは、死を覚悟している顔だ。
直感で、そう思った。
「蘭子様、知っていたんですか?」
律花はからからの喉から搾り出すような掠れた声で問いかける。その言葉に、蘭子は苦笑して頷いた。
「父から自分は篠田を盗る気でいるから覚悟を決めるように、と文があったわ」
律花は頭を殴られたような衝撃を受ける。自分の父親から、暗に自分を見殺しにするというような事を伝えられるのは、どんなに辛い事なのだろう。
律花の思いは表に出ていたらしく、蘭子はさらに苦笑した。
「お前がそんな顔をする事でもないのよ。父が篠田を狙っていると言う事は、輿入れする前から知っていたし、それでも私はここに来ようと思っていたんだから。覚悟の上よ」
そうして、少し寂しそうに言う。
「朝熙様も、誰もきっと本気にしてくれないでしょうけど、本当にそれでも私はあの方の所に来たかったのよ。初めてあの姿をお見かけした時以来、あの方の姿が目に焼きついて離れないわ。どうせ父の道具に使われるのなら、絶対にあの方のお側に行ってやるって思っていた。まさか、輿入れしてから一度も訪ねて来てくださらないとは思っても見なかったけど」
そう言って、少し自嘲するように笑う。
「認めたくないけれど、それは私に思っていたよりも魅力がないからなのかしらね」
いつも勝気で気丈で自信に溢れていた人の初めての弱音を吐く姿を、律花は呆然と見つめていた。
―――こんなの、蘭子様じゃない。
この人はもっと、内から出る激しい感情に任せて怒ったり笑ったりして、それがとても似合う人だ
律花のそんな思いなどおかまいなしに蘭子は続ける。
「前の部屋に辞世の句を残しておいたわ。それは、出来たら朝熙様に届けて頂戴。後はこれといって言い残す事はないわ。この城に来て、思いを残すような人には会わなかったしね。ああ、でも」
蘭子は少し揶揄するように口元に笑みを浮かべて律花を見る。
「お前とは結構楽しくやれたと思うわ。お前は篠田の者では珍しく裏表がないから、気安くて、そばにいて結構心地よかったわ」
そこまで言って、自らに苦笑するようにしてから目を伏せる。
「さあ、そろそろ行きなさい。お前に見せるようなものでもないわ。……出来れば、体は安曇の墓に入れて欲しいわね。ここにわたくしの居場所なんてないのだから」
背筋を伸ばして正座する蘭子の脇には短刀が置かれている。そして、侍女の一人が持っているのは刀だ。
律花は目の前に静かに座る蘭子を凝視する。
暫くの沈黙。
―――私が、ここで止めても、篠田の人は蘭子様を殺そうとするのかもしれない。
彰はそういう口ぶりだった。そして、蘭子がそういう人達の手にかかって死ぬよりは、自ら死を選ぶ、と思っているのも分かる。蘭子が誇り高いのだって充分に承知だ。
それでも。
律花は決意したように、目の前に座る蘭子の手をぐい、と引っ張った。
覚悟を決めたように瞑目していた蘭子が驚いて目を開いた。
「何をするの?」
予想もしなかった律花の行動に少々憤慨したように抗議する蘭子に、律花は逆に怒った様な口調で言う。
「そんなの、蘭子様らしくありません」
「は?」
不審そうな蘭子に、律花は続ける。
「蘭子様は、普段もっと闘争心に溢れてて、勝気で、負けると悔しがって……なのに、なんでそんなにすぐに諦めちゃうんですか?」
「何を言ってるの? お前」
蘭子の口調に不快気な物が混じる。
「お前になにが分かると言うの? わたくしは、自分の幕くらい美しく引く術を心得ているわ」
「そんなの、駄目です」
律花は更に声を大にして言う。
周囲の侍女達が目を見張って息を詰めて、二人のやり取りを見ているのが分かった。
「生きてください。まだ、もしかしたら生きれるかもしれないじゃないですか」
「お前、人質の立場がどのようなものか、全く分かっていないのね」
「分かりたくないです」
律花は怒鳴るように言う。それから、ふと熱しすぎた自分に気が付いて、声の調子を落として続けた。
「そんなもの、分かりたくないですよ。……でも、協力しますから」
訝しげに眉を顰めて見る蘭子に続ける。
「なんとか蘭子様が生きれるように私がなんとか頑張って見ますから、死なないでください」
その言葉に、蘭子は毒気を抜かれたような呆れた顔で大きく息を吐く。
「お前が頑張ってどうなるものでもないでしょう」
律花の感情に触発されたのか、周囲の侍女からいくらかの啜り泣きの声が混じった。
蘭子は続ける。
「お前の気持ちは有難いと思うけど、わたくしは無様な死に方は避けたいの。分かるでしょう?」
その言葉に、律花は首を振る。
「わかんないです。だって、生きてた方が全然良いじゃないですか。絶対、良いですよ」
駄々を捏ねるような律花の言い様に、蘭子は何を言っても無駄だと悟ったように息を吐く。それから、蘭子にしては意外なほどに優しく、自らの手首を掴んだ律花の手を振り解いた。
「じゃあ、お前は分からないままの方が良いわ」
その声は、柔らかいながらも有無を言わせない何かを含んでいた。
―――説得、できない。
決意を変える事はできない。
律花は絶望的な顔で目の前の蘭子を見た。もう、これ以上何を言っても無理だと、そう悟らざるを得なかった。表情、雰囲気、全てが死へと向かっている。
蘭子の方も、律花をこの場から去らせる事は無理だと踏んだのだろう。きちんと座りなおすと、律花の方を見ることもなく短刀に手を伸ばす。すらりとした銀色の刃に自らの顔が映るのを、一瞬魅入られたように見つめたが、その手は小刻みに震えていた。赤い紅をさした唇をきつく噛み締め、顔面を蒼白にして、それでも瞳には決意の色が強い。
律花は目を逸らす事もできずにそれをただ見つめていた。
それは、戦慄するほど美しい光景だったかもしれない。
―――だけど、こんなの嫌だ。
蘭子が刃を自らの胸元に運ぶ。律花は動く事もできないでその行動を凝視しているだけだった。
刃がきらめく。律花は息を呑む。
次の瞬間、刃は宙を舞っていた。蘭子も律花も、侍女達の殆ども、呆然とそれを見る。
短刀を振り払ったのは律花ではない。刀を持った、蘭子の侍女の一人。
「お前……何を?」
蘭子が呆然としたように呟く。途端、侍女はばたりと勢い良く畳みの上に頭をつけるように平伏した。
「お許しください。……わたくしには、出来ません。この娘が言っている事を聞いていたら、とても、そんな」
侍女の声にはすすり泣きが混じっていた。絞り出すような声で更に続ける。
「蘭子様、生きられるならば生きましょう。どこまで出来るか、やってみましょう。だって、悔しいではないですか。せっかくここまで生きて来れたのに、ここで命を絶ってしまっては」
蘭子は当惑したような、途方に暮れたような顔で侍女を見つめる。
「お前、今更そんな事を……」
「申し訳御座いません」
言いながらも、侍女は退かない。そのうちに、周囲の侍女達も少しずつ集まってきた。
皆、同じように賛同して頭を下げる。
しばらく蘭子はその様をじっと見つめていたが、それから大きく息を吐いた。
「まったく、何なの? お前達は。こんな小娘に感化されてしまって……仕様がないわね」
諦めと、安堵が混じったような声色。
その言葉に、侍女達は歓喜と安堵の混じった声を上げた。
律花はとりあえず、蘭子達を自らの部屋に招きいれた。
安曇の事が真実だと知れたら、蘭子は間違いなく命を狙われるだろう。律花の部屋にいる事が隠れ蓑となるかどうかは甚だ不安だったが、それ以外に思いつく場所はなかった。
出入り口付近にジンを置き、何者かが来ればすぐに追い払うようにしてから、律花は改めて八尋の部屋へ急いだ。




