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第九章 2話

 声が聞こえる。

 女の声。悪意に満ちた、それでも淡々とした声。

 「何をそんなに偉そうにしているの? 善人になりたい? 人を救いたい? 本当に自分の力でどうにかなる事だと思っている?」

 女の声は、遠くなったり近くなったり、ゆらゆらと不確かな感覚で迫って来る。

 「あなたを見ていると嫌になってくるわ。自分だけ、綺麗であろうと、清廉であろうとする」

 耳を塞ぎたくとも、声は頭の中でゆらゆらと回り続ける。

 「分かっている。あなたの真意なんて。自分がどんなに苦しんでいるか、どれだけ嫌な思いをしてそれに立ち向かうか、そういうことであなたは……」

 聞きたくない言葉を予想して、律花は夢中でその声を追い払う。だが、声はそれを許してくれないようだった。

 遠ざかっていた声が、いきなり耳元の、本当にすぐ側でハッキリと聞こえる。

 「自分の犯してしまった罪を償った気になりたいだけ」


 緊張や不安であまり眠れなかった上に、少し眠れたと思えばあの夢だ。

 律花は大きく溜息をついて、びっしょりと汗をかいた額に手を当てた。心臓の動く早さが早い。

 耳の奥には何かを押し殺したような淡々とした声がまざまざと残っていて、いつまた聞こえてくるのではないか、と思われるほどだった。

 律花はしばらくその場で荒くなっていた息を整え、気持ちを静めてから、起き出して身支度を始める。

 障子の外はまだ暗い。だが、そろそろ用意をしていても早すぎる事はないだろう。


 「律。起きてる? そろそろ用意を始めないと間に合わなくなるよ」

 律花の部屋の様子を見に来た所、部屋の中は静まっていて物音がしない。これはもしかしたらまだ寝ているのかもしれない、と彰は障子越しに声を掛けた。

 「用意、できてます」

 返って来た予想外の落ち着いた声。彰は一度、ぱちくりと目を瞬かせる。

 「入って見ても良い?」

 「どうぞ」

 障子を開けた部屋の真ん中で、律花は正座をしていた。朝熙が見繕った青を基調とした衣装が昇り始めた朝日に照らされ目に眩しい。流石に、見繕った人が人だけに、衣装に着られるという事もなく、見事にそれを着こなしていた。

 ―――これは、化けたなあ。

 彰は内心で舌を巻く。目の前の律花は、普段は表情に溢れている顔が緊張の為に強張っているためか、妙な無機質さを感じさせて人形の様。それが逆に神秘的とも取れる雰囲気を作り出しており、妙に神々しい印象さえ受けた。

 普段は動きに溢れている少女が背筋をピンと伸ばしてこうして座っていると、普段は目が行かなかったが、真っ直ぐな黒髪や細い華奢な体も今の彼女の雰囲気に良く馴染んで、凛とした印象も抱かせる。

 「似合うね、律。別人のようだよ」

 彰の言葉に、律花は少々困ったように目を伏せただけだった。

 緊張で、あまり口が動かないのだ。少し動いただけでも体が震える。

 「ところで、いつから準備していたの? 完璧だね」

 「夜明け前です」

 何かをして気を紛らわせていないと、とてもでないが耐えられそうになかった。準備を全て済ませてしまってからは、北見との稽古の時に教えてもらった気を鎮める方法を思い出して、こうして正座をしていたのだ。

 彰は呆れた顔をして言う。

 「それは、偉い事だね。……まあ、眠れなかったのもしょうがないか。さ、行くよ」

 彰が差し伸べる手に掴まって立ち上がりながら、律花は問う。

 「八尋は?」

 何故、この時に咄嗟にそんな事を聞いてしまったのかはわからなかった。ただ、気が付いた時にはそう聞いていたのだ。

 彰は残念そうな顔を作って言う。

 「桂の嫌がらせにあってね。部屋で大人しくされているよ。……時柾様を安心させるためにも、早くカタをつけてさっさと帰ってきてよ」

 その言葉に、何故だか胸に落胆が広がるのを感じながらも、律花は神妙に頷いた。


 戦の準備で外は騒然としていた。

 砂埃の舞う道を、彰に連れられて立派な山車の所まで歩く。律花が姿を現すと、周囲が一瞬、息を呑んだように沈黙して道をあけるのを、当の本人は気が付く余裕もなかった。

 山車の側に立ち止まって出発の指令が下るのを待っていると、すらりとした男が近づいて来た。その男は、まだ甲冑はつけておらず、見目にも鮮やかな朱の裏地をちらつかせた着物を身に纏い、つい周囲の目を惹かずにはいられない存在感を放っていた。

 「私の見立てに間違いはなかったな」

 男は律花の前に立つと、自信を溢れさせた口調でそう言う。律花は首を傾げた。

 ―――誰だろう? この人は。

 どこかで見覚えのある整った顔立ち。聞き覚えのある声。だが、どこで見たのか聞いたのか、思い出せない。

 本気で不思議そうに首を捻る律花を見て、男は呆れた顔を作った。

 そして、少し高い声を出して言う。

 「お前、私が誰だかわからないの?」

 その口調、その声に、律花はギョッと目をむいた。

 「朝熙様?」

 彰が背後でくつくつと笑っている。

 朝熙はそんな彰をねめつけると、律花に向かって言った。

 「そう言えば、お前は私の男の装いの姿を見たことがなかったのよね。どちらも似合うでしょう?」

 自信満々に言い放つのも無理はない。この姿なら、蘭子が一目惚れをしたというのも頷ける。そんな姿だった。

 律花が素直に頷くと、朝熙は満足したようで、上機嫌でそろそろ出立する旨を伝えて自らの場所へ戻って行った。

 いよいよ出発。

 律花は気を引き締めて山車に足をかけた。


 律花たちの軍勢は列を組んで、木野の領地への境へと進んでいる。律花はただ、山車に揺られていれば良いだけだったが、すでに恐怖と緊張は臨界点に達して、周囲の風景や様子を見る余裕も失い、ただ蒼白の面持ちのまま座っているしかなかった。

 どれくらい山車に揺られていたか。かなり長い時間だったように思うのだが、ようやく前方に集団が見えてきた。

 だが、見えてきた所で、不意に隊列が歩みを留めた。律花はそれを不審に思う余裕もなかったが、しばらくの後に朝熙に呼ばれて我に返った。朝熙は思いも寄らず隊列を止められたためか、不快気に言う。

 「律、三太という男を知っているか?」

 朝熙は男の格好をしている時は、やはり男の喋り方をする。それに対する違和感をいまいち拭いきれない律花だが、その言葉に我に返って答えた。

 「知ってます」

 律花の返答に、朝熙は少々驚いた様子だった。

 「私達を足止めするための愚かな策かと思ったのだが……」

 呟きながら、側にいた臣に何かを申し付ける。申し付けられた方は、一礼をして隊列の中に消えた。それを目で追いながら、朝熙は説明する。

 「今しがた、木野の領地から三太と言う男が重要な話があるからお前に会わせて欲しいと言ってきた。木野が戦っている方角とは違う方向から出てきたところを見ると、私達が通るのを張って待っていたようだったが……」

 いまいち信用はしていない、という風で朝熙は言った。

 しばし待った後、言われたとおりに三太が臣に捕らえられた形で律花の元へ連れ出された。体にいくつもの傷跡や痣の後がある所を見ると、どうやら兵達に暴行を加えられたのだろう。

 律花は思わず小さく叫んで、山車から飛び降りようとする。山車を運ぶ者達が気づいて、慌てて地面に律花を下ろした。

 「三太、どうしたの?」

 慌てて駆け寄る律花に、臣達が注意を促したが、構わず側による。三太は、切れ切れの息で律花に訴えるように言った。

 「今すぐ、軍を引き返せ」

 その言葉に、律花は怪訝な顔をする。こんな言葉に耳を貸すなどと、と周囲は、呆れたような顔をしていた。

 だが、三太は続ける。

 「これは策略だ。篠田の軍がこちらを向いて気をとられている間に、安曇が背後から篠田を攻めてくる」

 「まさか」

 言ったのは律花ではなく朝熙だ。彼は厳しい顔になって続ける。

 「安曇とは同盟を結んでいる」

 「そんな事は分からないが、俺はそう聞いた」

 三太は怖気もせずに、きっぱりとそう答えた。

 「律、この男は信用に足るのか?」

 朝熙は厳しい顔をして律花を振り返った。律花は迷わず頷く。

 「三太は、信用できます。朝時様とも仲が良いですし」

 その言葉に、周囲は更に不審気な顔をしたが、律花は急速に凍りつかせていた思考を取り戻していた。

 ―――安曇と言うのは、八尋のお姉さんがお嫁に行って、蘭子様が元いた場所だ。

 それを、人質交換だと言っていなかっただろうか。

 朝熙はしばし考える風だったが、やがて厳しい声で口を開いた。

 「律、お前は今から馬を駆けさせて篠田に伝えに行け。この男を連れて。私は、この男が謀っている線を疑っているからこのまま進軍を続けるが、万が一があれば拙い」

 ―――なんで私が?

 もっと、最適な人がいるのではないだろうか?

 律花の疑問が表に出ていたのだろう。朝熙は言う。

 「この男からは、詳しい話を聞く必要があるが、ここにいる者は大抵木野の者を憎んでいる。連れて行かせるには適さない。それに、もしこの男が言っている事が本当なら」

 朝熙は一瞬、逡巡するように言葉を途切ったが、それはほんの僅かな間かった。次の瞬間には冷静さを失わない声で言う。

 「安曇に行った八尋の姉がどうなっているかがわからない。律、お前が八尋の側にいてやった方が良い」

 その言葉の意味する所に、律花は慄然とした。

 律花が何も言わないうちに、朝熙は誰かに律花様の馬を引かせるように命じる。それから多少悩むように言った。

 「お前とこの男だけで行かせるにも不安があるな。もう一人くらいつけようか……」

 律花が何か返答をする前に、割って入った男がいた。

 「俺が、行きます」

 律花も朝熙も、周囲の者皆が驚いたようにそちらを振り返る。

 見たところ、その場の面子には相応しくない足軽風情の若者が、きっぱりとこちらを向いて言い放っていた。朝熙が叱責の言葉をかけようとした時、声を上げたのは律花だ。

 「あ、あの時の……」

 その言葉に、朝熙は不審気に律花を見る。律花はただ驚いたように青年を凝視していた。

 ―――京に行く途中で出会った盗賊の人。

 律花を京まで案内した後、どこかへ消えてしまったあの男だった。それが、今足軽として目の前に立っている。

 「知り合いなの?」

 「はい」

 律花が頷くと、朝熙は少々不快気な顔をしたが、知り合いならば、と言って青年に言う。

 「ならば、言い争っている暇も惜しいから、特別にお前を行かせる」

 青年は礼を言って地面に叩頭した。


 きらびやかな着物の袖をたすきがけにした律花を含む三人を乗せた三頭の馬は走る。その後ろを、追い立てるようにジンが続いた。

 青年に問いただしたい事、三太に聞きたい事はたくさんあったがそんな事を言っている暇はない。律花は三太を信用している。だから、きっと安曇が攻めて来るというのは本当なのだろうと思うのだ。

 ならば、一刻も早くそれを知らせなければならない。

 そんな事を考えながらも、馬を走らせながら、戦場から逃れる事が出来た事に密かに安堵している自分にも、律花は気付いていた。


 長い間馬を駆けさせ、ようやく篠田についた頃には夜も更けていた。これでも精一杯の速さで駆けてきたし、実際、距離を思えば早いほうだった。

 律花は篠田の城下町の中まで馬で駆けぬけ、門の前まで馬で乗り入れた。

 奇妙な一団が近づくのを物見が既に発見していたのか、門の前では兵が待ち受けていたが、彰の出迎えによって事なきを得た。ジンの鳴き声で、事態に気が付いたのだと言う。

 その、彰が驚いたような顔で困憊した律花に問いかける。

 「どうしたんだい? そんなに慌てて。まさか、もう戦が終わったわけではないよね? もしかして、朝熙様の所から逃げてきたとか……」

 そんな事を言う彰の言葉を遮って、息も整え終らぬままに律花は言う。

 「安曇が、背後から攻めてきます」

 唐突なそんな言葉に、彰は訝しげな顔をする。律花は重ねて言った。

 「ここにいる三太を、朝時様に会わせてください。木野の三太って言えばわかると思います」

 律花が指す者を見て、彰は少し何かを思い出そうとするように目を眇め、それから頷く。

 「思い出した。確かに、木野の者だね。朝時様とどんな関係があるのかは知れないけど。それで、なんで木野の者がそんな情報を持ってきてくれるんだい?」

 その言葉には、三太が自ら答えた。

 「木野の兵は篠田の巫女によって、相当に士気を落としています。もう、自らの国の巫女の存在では鼓舞する事は出来ないほどに。そのせいで、士気を上げるためか兵の間に噂が流れたんです。しばらく持ちこたえれば、背後から安曇が篠田の本拠地の城を攻め、兵は退いて楽に城は取れる、と」

 「そんなものは、でまと思った方が妥当だと考えるのだけど」

 彰は表情を曇らせてそう言う。

 「でも、用心に越した事はないか。……すぐに朝時様にお会いできるように手配するよ。それから、桂に言って確認に偵察の諜報を何人か送らせる」

 言うが早いか、彰は下男を呼んでジンへ水を与える事や、律花の連れてきた足軽の世話を頼む事、三太を別室で待たせるなどの指示をした後、律花を呼んで着いて来るように言う。

 律花は大人しくそれに従った。

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