第七章 2話
鈍く揺らぐ闇の中でふと、覚醒した。妙にリアルな夢。例の夢と流れる空気は一緒なのに、いつもよりも、もっと、とても身近に感じた。
不意に、見慣れた制服姿の少女が視界に入った。無表情に律花を見下ろす瞳は冷たい。とても、元の自分の顔だとは思えないほどに。
「あなた、朱子さん?」
律花が問いかけるのを無視して、相手は近づいて来て律花の正面に立った。
そして、射抜くように律花を見つめてから微かに口を開いた。
「まだ、死んでもらっては困るわ」
無表情のまま、淡々と吐き出される声。一方的に押し付ける言葉。律花を見る目。どれをとっても好意的とは言えない。
律花は慌てて問いかける。
「どうして? あなたはこの体に戻ってくる気なの?」
それならば、律花には元に戻る望みはあると言うものだ。
だが、律花の問いかけに答えはない。相手は自分の言い分だけしか口にしない。
「命を、救ってあげるわ」
その言葉を聞くと同時に、強い眩暈に襲われて、再び律花は深い闇の中に落ち込んで行った。
目を覚ますと手首や体に妙な圧迫感を感じて律花は顔を上げて周囲を確認する。そうして、自分が置かれている状況に驚愕した。
視点が、高い。周囲の風景をかなり遠くまで見渡せるくらいに。なぜならば、律花の足は地面から離れたところに浮いているからだ。両手と腰を縄で何か柱のようなものに縛り付けられていて、身動きがあまり取れないし、もちろんそれを振り解いて足を地面に着ける事など不可能だ。目の前では少し離れた所に囲いがあり、その向こうでは人だかりが出来ている。これが何なのか、流石の律花も推測できる。
―――はりつけ?
本当に、処刑するつもりなのだと言う事が察せられて律花は顔を青褪めさせる。長い槍を持った人が側に立っており、おそらくそれで刺されるのではないかと思われて身震いした。
ふいに、誰かが律花に向かって石を投げる。当たりはしなかったものの、足元に落ちたそれを見ながらそれに込められた悪意を感じ、益々恐ろしいものを覚えた。一人が投げたのをきっかけとして、次々と石が投げられる。いくつかは実際体に当たり、軽い傷を残していくが、それの痛みよりも遥かに精神的なショックの方が大きい。こういうあからさまな悪意に晒されるのは思った以上に見に応えるものだった。
ふいに、その石がぱったりと止んだ。誰かが止めてくれたのか、と期待して見たものの、それは糠喜びだった事がすぐに分かった。役人と思しき男が刑場の中に入ってきたからだ。入ってきた男が槍を持つ男に何かを指示すると、槍を持った男は頷いて律花の方へ近づいて着て、すぐ脇で足を止めた。それで、準備が出来たのか、入ってきた男が懐から紙を取り出し何か、おそらく律花の罪状だと思われるものを朗々と読み上げ、それが終わると槍を持った男が律花の正面まで歩いてきて槍を構えた。
―――嘘。
律花は青褪めて、もう声も出ない。
空は律花の境遇など我関せずとでも言うような快晴で、尖った槍の先に光を当ててきらりと光らせた。これが先ほどの夢の続きならばどんなに良い事か。
―――やだ、誰か、助けて。
どうにかして抜け出そうと体を精一杯動かしてみるが、どうやっても抜け出せそうに無い。逆に、縄がぐいぐいと体に食い込んで律花の肌に熱い摩擦の痕を残す。
動揺で真っ白になった脳裏に一人の顔が浮かぶ。
―――八尋、助けて。
男が反動をつけるために腕を引き、きらり、と槍がきらめいて律花が思わず目を閉じた時だった。
わ、と周囲の人垣から声が上がった。それに続いて悲鳴や混乱するような怒鳴り声。
しばらくしても何の痛みもないので目を開いてみた律花の瞳には驚くべきものが映った。人垣が散り散りになって逃げ惑っている。その理由は飛び込んできた集団のせいだ。人間ではない、その集団。
「ジン」
律花は思わず小さく呟く。いまだ、遠くに居るはずだから聞こえるはずがないと思うのに、ジンがぴくりと顔をこちらに向けた。
ヤマイヌの集団は狙いを定めたようにこちらに向かって駆けてくると、柵を軽く跳び越して刑場の中へ入ってくる。慌てたように罪状を読み上げた男が逃げ回り、男が槍を振り回したが身軽に避けて次々と律花を縛り付けている柱に衝突してくる。そんなに体当たりしては体が痛いのではないかと心配したが、案外柱は脆いのか、それともヤマイヌの力が強いのか、柱は序々に傾いて行って、律花の足が地面に着くほどになった。ジンが鋭い牙で律花を繋ぎとめている縄を噛み切る。手の縄さえ切ってもらえば懐に短刀が隠してある。律花は急いで自分の体の縄をそれで切ると慌てて駆け出す。ヤマイヌ達は皆、それに続いた。
周囲の者達は驚愕と畏怖と恐怖を混ぜ合わせた表情で遠巻きにそれを眺めるしかない。誰も、後を追おうと言う者はいなかった。そんな事は、恐ろしすぎる。
ヤマイヌを従える者など、そんな馬鹿な。流石は、神鳴を操る巫女。
そんな思いとともに、皆が皆、信じられない光景に息を呑んで去って行く娘と獣達を見送っていた。
律花がある程度の場所まで逃げおおせると、ヤマイヌ達は皆、散り散りになってどこかへ行ってしまった。ジンさえも、引き止める隙もなくどこかへ行ってしまったのに寂しい思いをしながら、それでも感謝して見送る。
―――さて、どうしようか。
とりあえず、逃げる事だけを考えて走り続けたので今現在、自分がどこにいるかが全くわからない。途方に暮れて辺りを見渡していた律花は不意に人の声を聞いて体を強張らせた。追いかけてきた人ならばどうしようかと思ったのだ。だが、その声の主は律花の緊張を裏切るかのようにくだけた調子で言う。
「ちょっとあんた、やっぱりあの時の娘よね」
その言葉に振り返れば、粗末な着物を着た若い女が慌てて律花を追ってきた風情で立っていた。以前、確かに見たことがある気がする。
相手に危害を加える気がないのを空気で感じ取って、思い出そうと顔を見ながら首を傾げると女は言う。
「本当に覚えてないの。失礼ね。あんた、あの時、京に行きたいって言ってた娘でしょ?」
その言葉で、ようやく思い至った。
「あの時の」
着物をあげる代わりに縄を解いてもらった女だ。律花が納得した様子を見ると、女は満足そうに頷く。
「刑場に磔られてるのを見て、そうじゃないかと思って追ってきたのよ。あんた、何やったの? 磔をするから周辺の集落の者は見物に集まるようにってふれが来て、見に行ってみれば知ったような顔の者だったんで驚いたよ」
女の言葉に、律花は一瞬言葉に詰まる。何もやっていない、と主張したいところだが、そもそも律花は雷を落として人を殺してしまった事でここまできたのだから、自分の無罪を主張するのはおこがましい気がした。
「色々と誤解があるみたいで」
そんな適当な事を言って誤魔化しながら、相手を観察して、律花は女の変わり様に驚いていた。以前会った時は、貧しいながらも身綺麗にしていて、生き生きとしている印象があった。だが、今目の前に居る姿はどうだろう。 以前よりも更に擦り切れた粗末な着物を着て、髪も乱れ放題で、頬も少しこけてしまっている。とても以前と同じ人物だとは思えない。
そんな律花の心情を察したのか、女はわざと大きく鼻を鳴らして挑戦的に言う。
「何か文句ある?」
「別に。でも……」
確か、あの時この女は領主の妾になりたいのだ、と嬉々として語っていた。それがこの姿を見る限りでどうもその夢が叶ったとは思えなかった。律花のその視線に、女は深く溜息をつく。
「落ちぶれたでしょう?あんな偉そうな事を言っておきながらって思ってるのね?」
「そこまでは……。でも、何でそんなに?」
律花の問いかけに、女は顔を顰めて肩を竦めた。
「簡単な事。あんたを逃がしたのがあたしだって事が集落のヤツラに露見して大目玉食らってね。家族はそのせいで村八分にされるし、そのせいであたしは家族からも憎まれて家追い出されて。あれからどん底の人生歩んできたってわけ」
その言葉に律花が絶句すると、女はやや自嘲的にではあったがからりと笑った。
「あんたの気にする事じゃないわよ。そんな事になるって事さえ予想できずに軽率な事をした幼い自分の責任だって事は分ってるつもり。……それよりあんた、道案内が必要なんじゃない?」
その言葉に、律花は不審そうに女を見る。女は律花のその様子に図星を確認したのかにんまりと笑って言う。
「あん時もあんた、金をたくさん持ってたもんね。今も持ってるなら雇われてやってもいいよ。その交渉するために追いかけてきたんだ」
その言葉に、律花は納得する。この女は、またあの時と同じように自分と契約しようとしているのだ。
「お金は、手元にはないよ。でも、篠田まで連れて行ってくれたら何とか渡せると思う」
たかるみたいで申し訳ないが、八尋か彰に頼んで貸してもらうしかないだろう。とにかく、ここで道案内が出来ると言うのは有難かった。
「篠田?あんた、篠田の人間なの?」
驚いたような素っ頓狂な女の言葉に、律花が曖昧に頷くと、女は言う。
「篠田には鬼がいるって噂だし恐いんだけどね。まあ、あんたみたいのが生きていけるんだから大丈夫なんだろう。いいよ、案内してあげる。ついて来な」
あっさりとそう言って、女は歩き出す。律花もそれに従った。
「あの飾り紐、もうないんだね」
歩きながら、残念そうな口調を隠す事なく女が言うので律花は笑う。
「京に行く途中であげちゃった」
その言葉に、女は思い出したように言う。
「そういえば、あんたが京に行くって言ってた用事はちゃんと果たせたのかい?」
「うん」
律花が頷くと、女は満足そうに笑む。
「そりゃ良かった。なんだかえらく大切な用事だったみたいだからね。ちょっと気になってたんだ」
その言葉に、律花も微笑んだ。
「あの、名前聞いて良い?」
律花の問いかけに女は驚いたように目を見開いて、それから照れ臭そうに言う。
「栄だよ。あんたは?」
「律」
「ふうん、じゃあ今度からそう呼ばせてもらうよ」
その言葉に、律花は微笑んで頷いたのだった。
「律、振り返るんじゃないよ」
万が一追っ手に捕まらないために、と注意して山道を歩いていた中、ふいに厳しい声で栄が言ったので律花は緊張した顔をした。
「誰かに、つけられてる」
その言葉に、律花は更に身を硬くした。追っ手が来たのかもしれない。
「特別に捕まえようってわけではないみたいだけど、さっきからずっと後をつけてるから」
思わず、律花は振り返ってしまった。栄はぽかん、と一つ律花の頭を殴ると、慌てて無理矢理前を向かせる。だが、律花は見てしまった。相手は律花が振り返ると、さ、と側の木に姿を隠したが、確かに見覚えがあった。いや、見覚え以前に律花に影響しているらしい朱子がしっかりと律花の中で反応しているのだ。
―――三太。
朱子の憎しみに触れると気分が悪くなる。自分では受け入れきれないような深い憎悪に、空恐ろしくなる。律花が顔を青くしているのを見ると、栄は気遣わしげに言う。
「不安なら撒くかい?」
「撒けるの?」
驚いて律花が聞き返すと、栄はに、と笑った。
「この辺りは詳しいんだよ。走るからちゃんとついて来なよ」
言うが早いか、栄はたっと駆け出した。律花は慌てて後を追う。目の端に、慌てたような三太の姿を捉えたが、栄は入り組んだ方向にどんどん進んで行く。
―――なんとか、撒けそうだ。
瞬く間に三太の姿が見えなくなった事に、律花は深く安堵の息をつくのだった。




