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第三章 2話

 「うーん、気持ち良い」

 きらきらと陽光の差し込む中庭で、律花は思い切り伸びをした。

 彰が見立ててくれた男物の着物は、浅葱色と下から覗く白の衣が涼しげで、髪を高く結わいてそれを着ていると、まだ女らしさのあまりない律花は、あどけなさの残る爽やかな少年のような印象が強くなる。

 ―――やっぱり、こうして自由に体を動かせる分、男装の方が良い。

 そう、考えながらジンの繋いである場所へ行く。律花には飛び掛らなくなったし、逃げる事も無くなったが、他の者達にはやはり飛び掛るので結局、繋がざるを得なかった。

 律花が近づくと、ジンは伏せていた体を起こして一声鳴いた。

 ここ数日、毎朝の日課として律花は近くの小山までジンを放しに行く。ジンは、もう、自分で餌を捕れるようになったし、城の中に閉じ込めてばかりではストレスが溜まると思ったからだ。大抵、夕方頃になると、自分で城の門まで帰ってくるのでそうしたらまた、繋げば良い。

 ジンを放しに言って戻ってきてから、井戸に行って水を汲んでくる。

 仕事を始めて数日。

 仕事は主に八尋の身の周りの世話だった。調理場から食事を運んできたり、身支度を整えたり、取次ぎをしたり。

 この仕事をやっていて分かった事がある。

 八尋は、この城の家臣は彰の他は誰一人として信用していないのだ。だから、無駄に家臣を側へ寄せ付けない。

 こうして、律花が側に居る事は実はすごい事なのだと、彰の言葉が今になってようやく分かった。

 「八尋。水だよ」

 律花は桶に水を張った物を持って、八尋の部屋の前まで来ると、障子ごしに声を掛ける。

 「入れ」

 中からの声に、律花は障子を開ける。寝巻きの白い着物のまま、八尋が寝床に半身を起こしていた。

 「そこに置いておいてくれ」

 「はい」

 律花は言われた場所にそれを置くと、退室する。

 これから、まだ朝餉まで時間がある。それまでに律花は彰に護身術を教えてもらうのが日課だった。

 律花は小走りに道場へ急ぐ。

 中庭に面した廊下に差し掛かった時、きょろきょろと周囲を見渡して周りに人がいない事を確認すると、そのまま、廊下から飛び降りて中庭を突っ切った。道場へ行くには長い廊下を迂回するよりも、断然この方が近道なのだ。

 身を低くして素早く走る。こういう事は、全て彰が教えてくれる。ここ数日、毎日やっている事だった。

 そして、いつもは何事もなく通り抜けられたのだ。だが。

 走り抜ける律花の耳に、突然、障子の開く音が聞こえた。丁度、それは律花の進行方向からだ。

 律花は慌てて側の植え込みの陰に身を隠す。

 「姫様、あちらにございます」

 中年女性のような声がして、その後に複数の足音が混じる。どうやら誰かが廊下から中庭に降りてくるようだった。

 ―――まずいなあ。

 そう思うが、見つからない事を祈りながら、ひやひやと身を硬くして静止しているしかない。

 「ほらあそこ」

 中年女性の声がまた言う。

 それに答えた声は、まだ若かった。

 「まぁ、本当。見事に咲いたわね」

 鈴を転がすような、というのはこういうのだろうか。可愛らしい声だった。

 その声が、弾んでいる。

 「一輪手折って殿にお届けしましょう」

 そう言う声と共に、足音もどんどんこちらに近づいてくる。

 律花はハッとして自分の隠れた植え込みの側に植えてある花を見た。葵の花が大きく真っ赤な花弁を広げてすくり、と良い姿勢で立っている。

 ―――これの事かな。

 思ったときだった。

 豪奢な薄桃の着物が律花の目の前に現れたのは。

 ―――見つかった。

 律花は内心で溜息をつくと、覚悟を決めて即座に頭を地面につけて平伏する。ここは、素直に謝るしかないだろう。彰にも「見つかったらとりあえず謝っておいで」と言われている。

 律花の姿を見とめた相手の動作がぴたりと止まったのが分かった。

 「何者です?」

 そう問いかけた声は、僅かに震えていた。

 「無礼をお許しください。私は時柾様にお仕えする律と申します」

 彰に教えられた通りに言うと、相手が可愛らしく「まあ」と呟いた。

 「では、そなたが噂の、殿の小姓ですのね?」

 ―――殿?

 不審に思ったが尋ねるのは無礼だろう。

 「顔をお上げなさい」

 言われて顔を上げて、律花は息を呑んだ。

 ―――うわあ、可愛い。

 薄桃色の着物が良く似合う、なんとも可憐な少女だった。白い肌と長い黒髪が美しい。年のころは律花と同じくらいだろう。

 少女はふわり、と律花に微笑みかけると言う。

 「そなたの事はよく耳にします。殿のお気に入りだとか。これからも、我が殿をよろしくお願いいたしますね」

 「は、はい」

 言われている意味が分からないが、とりあえず頷いておいた。

 少女は律花の目の前で、白い手をつ、と伸ばして、葵の花を手折ろうとする。彼女の手は華奢で、葵は意外に太いから、それはなかなか折れない。

 律花は見かねて「失礼します」と横から手を差伸べて少女の手を退けると、懐から取り出した懐刀で手ごろな位置で花を切った。

 それを手渡すと、少女は嬉しそうに可愛らしく微笑みを浮かべて言う。

 「早速ですけど、お願いしても宜しいかしら?」

 「はい?」

 少女に向かって、側に心配そうな顔で付いていた中年の細身の女性が、あらかじめ手に持っていた上品な紙と筆を差し出した。少女は少し思案するように上を向くと、軽く目を瞑る。それから、目を開いて何かを紙にさらさらと書き付けた。

 ―――うわ、ミミズ文字。

 律花には読めない文が一文、綴られ終わると、少女はそれが乾くのを待って、丁寧に降り畳んで葵の茎に結ぶ。

 「これを、殿にお届けください」

 にこりと上品に笑って差し出されたそれを、律花は受け取らざるを得ない。「かしこまりました」と言って、礼をしてその場を去った。


 元の廊下に戻ってしばらく歩いた所で見覚えのある姿を見つけた。その人物は、廊下の壁にもたれて、腕を組んで律花を待ち受けている。

 「俺を待たせておきながら、どこで道草をしていたんだい?律」

 彰はわざとらしく、ねめつけるようにして言う。律花はそこでようやく彰に待ちぼうけを食らわせた事に気が付いて、困ってぺこりと頭を下げた。

 「ごめんなさい。彰さん。中庭で、人に見つかってしまって」

 「見つかった?……それは?」

 彰は律花の持っている葵に目を留めたので、律花は説明する。

 「その人に、『殿』に届けてくれって頼まれたんです。『殿』って、ここの当主様のことですか?」

 その人は、たしか八尋と朝熙の兄にあたるという。

 律花の言葉に彰は曖昧な顔で首をかしげる。

 「いや、普通の場合は殿って言ったらそうなんだけど、この場合はちょっと違うかな」

 そう言って、手を差し出して、葵の花を受け取る。

 「これを律に託した人、可愛らしいお姫様じゃなかった?中庭の西側に面したお部屋だよね?」

 「はい」

 律花が頷くと、彰は律花に葵を返しながら言う。

 「それじゃあやっぱり、その人が指している『殿』は時柾様だよ」

 律花は首をかしげた。

 「なんで、時柾様が『殿』なんですか?」

 その言葉に、彰は曖昧な笑みを浮かべたまま、言い難そうにして言う。

 「それはね。あの人が時柾様のご正室だからだよ」

 「正室?」

 律花は驚いて聞き返した。正室、というのはつまり、奥さんのことだ。

 「八尋は結婚してるんですか?」

 あまりにも動揺して、思わず八尋、と言ってしまったのに本人はまるで気づいていない。彰は苦笑して頷く。

 「そうだね。2年前にお輿入れなされたんだ」

 八尋は、確か律花よりも2つ3つ年上なだけだ。それが、もう既婚者。しかも相手はあんなに可愛いお姫様だ。

 そういえば、と律花は少々顔を赤くした。

 この仕事を始めて八尋の側に居る事が多くなったが、八尋は夜は付いてこなくて良い、という事が度々あった。つまりは、そういう事なんだろうか。

 そんな律花の心の動きを見透かしたように、彰が言う。

 「律、時柾様はそこまであの方と仲睦まじくないようなんだ。専ら時柾様が警戒してらっしゃるからなんだけど。時柾様が夜、通われるのは別の場所だよ」

 「別の?」

 意味をつかめないでいる律花に彰は苦笑して言う。

 「時柾様には、ご側室もいらっしゃるんだよ、ってこと。そんなに高貴な方ではないけどね」

 大きく目を見開く律花に彰は続ける。

 「いずれか、そちらの方ともお会いする機会があるだろうから、覚悟しておいた方が良い」

 彰の言葉を吟味する余裕は律花には無かった。

 律花の居た場所でも、時々、噂に聞くけれど、律花の年齢ではまだまだ『そういうこと』は早い。

 なのに八尋といったら結婚している。

 それだけだったら別に良い。だが、八尋は愛人までいるのだ。これは、律花の道徳観念に酷く反するものだった。

 確かに、歴史の授業で昔は一夫多妻制だったという話は聞いた事があるけれど。だけど、実際に知っている人がそれをしている、と言われると抵抗があった。律花はまだ中学2年生なのだ。その上、周囲の子に比べてもどちらかというと、そういう方面に疎い方だったから、そういうものに対して嫌悪感もある。

 顔を顰めた律花に彰は「おやおや」と言う顔で楽しそうに見守っていた。

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