第二章 8話
それから3日程で体は大分回復したので、自由に動き回れる程にはなっていた。
かといって、やることもないので、彰に「素質はあるんだけど」と苦笑をされながら弓を教えてもらったり、下男の仕事を手伝ったりしていた。
それが起きたのは、目が覚めてから4日目のことだった。
中庭で聞こえる騒ぎ声とそれに混じる獣の鳴き声に、律花が嫌な予感を胸に駆けつけた時には、ジンは人垣の真っ只中に居た。
―――なんで、ジンは騒ぎを起こすのが得意なんだろう。
律花は内心で溜息をつきながら、諍いの輪の中に小柄な体を滑り込ませる。
諍いの中心に出て、律花は目を見張った。
辺り一面に飛び散らかった茶色い鳥の羽。それに加えて、ジンが何かを口に加えている。ジンの口の隙間からは、優美な茶色い羽がはみ出ていた。
そのジンに向かって喚き散らしているのは、何人かの下男達だ。
―――まずいなぁ。五平さん達か。
下男の中でも仲の良い悪いがあって、律花を可愛がってくれている下男たちと一番仲の悪いのが、この男達だ。必然、律花も目の敵にされている。
「ようやく来たか、小僧」
律花が来たのに目を留めると、五平はここぞとばかりに律花に詰め寄ってきた。
ジンが容赦なく噛む、という噂は下男の間で有名で、それ故、彼らはジンに迂闊に手出しが出来なくて、ただでさえ鬱憤が溜まっている。
「えーと、ジンが何をしたんですか?」
上目遣いに聞いてみると、吐き捨てるように「見ればわかるだろう」と言う。
「今晩の馳走の為にわざわざ仕留めてあった山鳥を、あのクソ犬が食らっちまった」
普段、山鳥などは、食卓に並ばない。それに、『馳走』というからには、誰か偉い客でも来るのだろう。
「どうしてくれるんだ?」
男達は律花に詰め寄る。
「えっと……」
動揺する律花に、男達は強い調子で言う。
「そういえば小僧、最近弓を始めたんだとな。折角だから、同じものを捕ってきて貰おうか」
「えっ?」
弓を習い始めたと言っても、ここ3日の話だ。いまだ、木にかけた的にも当たらない。それが、飛んでいる鳥を射落とすなど絶対に無理なことだ。
だが、男達は僅かに楽しそうに、意地の悪い顔で言う。
「当然だろう?今日の夕餉の支度に間に合わすように早く捕ってきてくれ」
律花はほとほと困り果てて、兎を捕るために何度か通いなれた山道を、形ばかりに弓矢を片手に歩く。ついでに、置いておくとまた何をしでかすか分からないので、ジンも引っ張って連れてきた。
無理難題、とはこの事だ。途方に暮れるがどうしようもない。
始め、彰に頼もうと思ったのだが、どういうわけだか彰は今朝から姿を消している。しかも、下男仲間の可愛がってくれている人達も、今日はなんだか急がしそうで、律花にかまっている暇はなさそうだった。
―――どうしよう。
律花の悩みとは、まるで無関係とでも言うように、ジンがご機嫌に山道を歩き回るのが少し腹立たしい。
もっとも、最近ずっと鎖で繋がれていたからストレスがたまっていたのかもしれない、と思い直した。
しばらくは、ジンの散歩のつもりで山道を歩く。ここの山は木が沢山で鬱蒼としているから、昼でもなんだか不気味だ。
ジンは、すぐ何かに気をとられたようにうろちょろする。そちらに引っ張られながらも、迷わないように印をつけながら、注意して歩いた。
それからかなり長い間、山道を歩き回った。
律花はへとへとになったが、勿論、山鳥など一羽も捕らえようはずがない。何度か試しに見かけた鳥に射掛けてみるも、全く見当外れの方向へ飛んでいく。
律花はため息をつく。
ジンも、そろそろ疲れたようで、元気をなくして、帰りたがっているように見えた。
―――手ぶらで帰ったら、怒られるかな?
それでも、そうするしかないだろう。
そう思って引き返そうとした時、ふと、目の前になる木の実が目に付いた。八尋と一緒に歩いていた時に、それは食べられる、と八尋が教えてくれた実だ。律花は、せめてものお詫びにそれでも採って行こうか、とそちらに手を伸ばす。
だが、木の実に気を取られていて、しかも疲れていた為だろう、律花は注意を怠った。
手を伸ばして、もう少しで木の実に手が届くと言うところになって、急に足元が滑る。あ、と言う間もなかった。気が付いた時には呆然と3メートル程下の地面に腰を打っていた。
「痛……」
見上げてみれば、律花が今まで居た場所からジンが律花を見下ろして吠えている。
幸い、足を痛めたりはしなかったので、登れないかと試してみたが、律花が落ちた場所の断面は内側に反り返っていて、とても登れるものではなかった。
―――どうしよう。
真っ青になる律花を尻目に、先ほどから鳴いていたジンは諦めたようにふい、と頭を返してしまった。そして、そのまま、じゃらじゃらと鎖を鳴らしながらどこかへ行ってしまう。
こういう風に、ジンに見捨てられるのはもう慣れたものだが、それでもやはり、少し傷ついて、律花は恨めしげに誰もいなくなった上空を見上げた。
―――誰かが、通ってくれればいいけど。
そう思いながら溜息をつく。
ヘタに動くと迷う恐れがある。
―――しばらくここにいたら彰さんか誰かが、いないのに気づいて、探しに来てくれるかもしれない。
そう考えて膝を抱えて座り込んだ。
しばらくそうしていると、朝から歩き回ったせいか、いつの間にやら眠ってしまっていたらしい。
頭上からする、がさりがさり、という何かが藪を掻き分ける音で目を覚ました。
律花はハッと身構える。
―――誰かが探しに来てくれたのだろうか?
それとも、もしかしたら獣かもしれない。
大人しい、鹿などの動物ならともかく、ヤマイヌに遭遇したとしたら大変だ。それに、この辺りにも、時々賊が出ると聞いたことがある。
律花はそっと懐に手を忍ばせる。彰が「何かと便利だから」と持っているように言った懐刀の柄が手に当たる。
それをぎゅ、と握って息を殺して自分が落ちた場所を見上げていると、段々と近づいてきた藪音ががさり、と途切れ、そこから思いがけない人物が顔を出した。
「八尋っ?」
律花は思わず声を上げる。
それで気づいて八尋は律花の方を向いた。そして、呆れた顔になる。
「久々に会ってみれば、何をやっているんだ。お前は」
「そこの木の実を取ろうとしたら落ちちゃって」
その言葉に、やれやれと八尋は肩を竦める。
律花はそこに来てようやく思い立って首をかしげた。
「それより、八尋は何でこんな所に?」
ああそれは、と八尋が答えようとした時、存在を主張するように鳴く声がした。見ると八尋の足元でジンが律花を見下ろしている。
「用事を済ませて、寛ごうかと思っている矢先、こいつが駆け込んできてひどく騒ぎ立てたのでな。どうやらついて来いと言っているようなので付いてきて見れば」
そこまで言って、八尋はじとりと律花を見る。それから、「ちょっと待ってろ」と言ってしゃがみ込んでジンの首に付けられている鎖に手をかける。あ、と律花が思うよりも早く、それを繋いでいた布を引きちぎってしまった。
「八尋、そんなことしたらジンが逃げちゃうよ」
律花が言うと、八尋が意外そうに律花を見た。
「なんだ、律はジンを飼いならした自覚がないのか?」
え?と見ると、ジンは鎖を取られたのにも関わらず、やはり八尋の足元でじっと律花を見守っている。
「ジンは律を助けるために、わざわざ俺をここまで連れてきたんだぞ?」
その言葉に、律花は目を見開いた。
なんだか意外で、今までのジンの態度を思うと、その言葉はいまいち信じられない。だけど、やはりジンは逃げたりしないでそこにいる。
律花が驚いた顔でジンを見ていると、鎖が上から降りてきた。
「掴まれ。引き上げる」
「ありがとう」
引き上げてもらって、律花がジンにも「ありがとう」というと、ジンは可愛げもなくぷいとそっぽを向いた。だけど、もう、鎖を繋がなくても逃げることもしないで律花の後を付いて来る。
それだけで、今までの労が報われたような気がして律花は知らず笑みが漏れるのだった。
「ところで律はなんでこんな山にいたんだ?」
山道を引き返しながら、八尋が尋ねる。その言葉で、律花はハッと自分がここに居た理由を思い出した。
「そうだ、私、山鳥を捕らなきゃいけなかったんだ。今日、偉いお客さんがみえるらしいんだけど、そのご馳走のための山鳥をジンが食べちゃったの」
「捕る、とは。その弓でか?」
八尋の視線が律花の手にある弓矢に注がれる。
「うん」
「できるのか?」
「全然できない。だから困ってたんだよ」
八尋は呆れたように肩を竦めると「貸してみろ」と言って律花の手から弓矢を奪う。
そして、すこし目を瞑って辺りを探るようにしてから、背筋のぴんと伸びた綺麗な姿勢でそれを構えた。
律花は息を呑む。
ぎりり、と弓が引き絞られ、シュ、と空を切る音が聞こえたと思ったのも一瞬の出来事。次の瞬間には、どさり、と音がしてまるで降って来るように空から鳥が落ちてきた。
呆然とする律花を尻目に、八尋は弓矢を律花に押し付けるようにして返すと、すたすたと歩いてそれを拾いに行く。
「そこまで山鳥が好きだと言うわけでもないのだがな」
などと言いながらそれを担いで、振り返ると「帰るぞ」と言った。
律花は慌てて頷くと、八尋の元へ駆け寄った。
結局、その日来るはずだった『偉い人』とは他でもない八尋の事だった、と律花が気づいたのは、その日の夕餉の宴でのことだった。




